みにくい魔剣の子 《本編完結・アフター開始》   作:えいちゃ

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トロイルート開始します。
期間限定イベントに+‪αな感じの流れになると思います。
良ければお付き合い下さい。


トロイルート『ドキドキ!温泉夏物語』.1

 

 

 第二層、最高中央司令室。

 名称だけを聞けば、もっと閉ざされた場所を想像する者もいるのかもしれない。

 実際には、その空間の大半を占めているのは壁ではなく硝子だった。

 床から遥か高い天井まで伸びる巨大な窓。その向こうには、雲ひとつ遮るもののない青空が広がっている。外界から切り離されたような高度にありながら、陽射しだけは惜しみなく室内へ流れ込み、黒い床材の上へ巨大な構造梁の影を落としていた。

 

 その梁もまた、この部屋を象徴するもののひとつだった。

 天井から斜めに交差するように伸びた黒と灰色の巨大な支柱は、建築物を支えるという役割以上に、ここが通常の執務室とは異なる場所であることを静かに主張している。あまりにも広いため、数人程度が集まったところで、部屋の余白が埋まることはない。

 その中央近くに、今日は三人の騎士が呼び出されていた。

 

 トロイメライ。

 紫亜。

 そして、アンサー。

 

 いずれも専門はまるで異なる。

 だからこそ、三人が同時に呼ばれた時点で、それなりに珍しい案件であることは察せられた。

 

「魔界の海に“異常反応”——」

 

 手元の情報端末へ視線を落としながら、アンサーが口を開いた。

 表示されている数値は何度確認しても変わらない。通常の環境変動と片付けるには大きすぎ、それでいて既知の異常現象へ分類するには足りない。曖昧さだけを保ったまま、高濃度の霊子反応が一定範囲に留まり続けている。

 

「高濃度の霊子感応質量を観測……ってことは、めちゃくちゃ大きな海洋天使がいるみたいな話?」

 

 トロイメライが、表示された資料を横から覗き込んだ。

 難しい言葉を並べている割に、声はいつも通り間延びしている。

 

「なにそれクジラかなー」

 

 先ほどまでの専門的な話を、自分で数秒も保たせる気はないらしい。

 紫亜が小さく鼻で笑った。

 

「ぷーくすくす♥ 楽園聖典が二人も揃ってビビりすぎだしー♪

 その霊子なんとか質量が海にいるなら、お空の上にいるGARDENは超安全&健全だし?」

 

 紫亜は軽く肩を竦める。

 窓の向こうには、言葉通り遥か下方に雲海が広がっている。この場所から見れば、魔界の海など遠い地上の出来事に過ぎない。

 

「だといいんだけど……ね?」

 

 メイズの声には、二人ほどの気楽さはなかった。

 司令室の一角で別の端末を操作していた彼女の隣から、マリアが画面へ視線を向ける。

 

「ええ。少し気になるデータ反応が出ているわ」

 

 マリアが指先を滑らせると、空中へ新しい情報が展開された。

 数値と簡略化された地形、その中心に異常領域を示す色が浮かぶ。

 

「まるで『神域』のような——」

 

「まるで?」

 

 トロイメライが首を傾けた。

 

「ような?」

 

 一拍置いて、もう一度。

 マリアは答えを急がなかった。

 その僅かな間が、かえってトロイの興味を引いたらしい。

 

「歯切れが悪くて草はえちゃう」

 

「神域じゃあないんだし?」

 

 紫亜も画面を覗き込む。

 先ほどまで浮かんでいた笑みは残っていたが、視線そのものはもうデータへ向いていた。

 

「……確定できない、ということね」

 

 アンサーが静かに言う。

 

「ならば考えられるのは、魔剣の反応がない……?」

 

「正解よ、アンサー」

 

 マリアが頷いた。

 

「神域は魔剣があってこそ成り立つもの。場所や使い手までは分からずとも、必ず神域内部には魔剣に類する高エネルギー反応があるものよ」

 

 説明に合わせ、異常領域のデータが切り替わる。

 本来なら存在するはずの反応を示す項目だけが空欄になっていた。

 

「今回はそれが見つかっていないの」

 

 メイズが補足する。

 司令室には空調の低い音だけが流れていた。

 窓から差し込む陽射しは明るく、雪山の稜線も穏やかに見える。にもかかわらず、表示されている海域だけは、既存の理屈からわずかに外れたままそこにあった。

 

「考えられるとしたら、星遺物(アーティファクト)ですね」

 

 アンサーが表示を切り替える。

 

「もし神域級の支配力を持っているなら、緊急の対処が必要……しかし、対象の性能も理論も不明——」

 

 言葉の終わりとともに、アンサーの視線が一度、残る二人へ向いた。

 

「なので、神学と祈り関連に精通するトロイさんに……」

 

「はいはーい」

 

 トロイが気軽に片手を上げる。

 

「呪術のエキスパートである紫亜さん……」

 

「ぷみしー……」

 

 先ほどまで笑っていた紫亜の口元が露骨に下がった。

 

「やっぱり任務発生なんだし……」

 

「そして、ナノマシンの知識のある私が選ばれたと」

 

 アンサーが言い終える。

 トロイは隣の紫亜を見て、楽しそうに笑った。

 

「あははー、だからトロイさんたちが呼ばれたんだー」

 

「嬉しそうに言うことじゃないし……」

 

「まあまあ、そう言わないで?」

 

 メイズが二人を宥めるように声を挟む。

 

「あくまで今回は調査任務だし、空き時間があったら海で好きに遊んできていいから♪」

 

「メイズ!?」

 

 マリアが顔を向ける。

 

「そうだよね、マリア?」

 

「はぁ、メイズ……あなたという人は本当に……」

 

 呆れたような息が落ちた。

 けれど、しばらくするとマリアも肩から力を抜いた。

 

「わかったわ。許可するわよ」

 

 紫亜の顔が上がる。

 

「幸いにして現在の対象地域の季節は『夏』、海水浴にはちょうどいい気候よ」

 

「やったしー♪」

 

「ただし」

 

 マリアが一言加えると、紫亜の動きがぴたりと止まった。

 

「あくまで調査が最優先。……ちゃんと調査さえすれば、後は自由にしなさい」

 

 トロイが小さく笑う。

 

「お仕事終わったら海で遊べるってー。紫亜ちゃんよかったねー」

 

「……最初からちゃんと仕事するつもりだし?」

 

「はいはい」

 

「その返事ムカつくしー」

 

 軽いやり取りが、広い司令室に薄く響いた。

 少し前まで画面に並んでいた不明瞭なデータからすれば、随分とのんびりした空気だった。

 それでも三人とも、任務そのものを軽く考えているわけではない。

 未知の異常に対して、必要な専門家を揃える。

 現時点では、それ以上に出来ることもなかった。

 アンサーが端末の表示を閉じる。

 

「ご配慮に感謝します、マリア楽園聖典一席」

 

「ええ」

 

「つきましては」

 

 アンサーは端末を下ろしたものの、その場を離れなかった。

 マリアが僅かに眉を上げる。

 

「まだ何か?」

 

「本任務に、同行を要請したい人材が二名います」

 

 トロイと紫亜も、そちらへ顔を向けた。

 

「……二人?」

 

「はい」

 

 アンサーは頷く。

 

「一人は、この規模の異常領域で不測の事態が発生した際、現場全体の判断を行える人物」

 

 マリアは、その時点でおおよその見当がついたようだった。

 

「久条運命?」

 

「はい」

 

 アンサーは肯定する。

 そして、少しだけ間を置いた。

 

「もう一人は、異なる専門領域同士の調整と、既存理論で処理できない現象への対応を任せられる人物です」

 

 窓の外を、薄い雲が流れていく。

 陽射しが一度だけ梁の向こうへ隠れ、広い司令室の床に伸びていた影がゆっくり形を変えた。

 

「リンデンくんを同行させたいと考えています」

 

 トロイの目が、ほんの僅かに細くなった。

 

「リンデンちゃんもー?」

 

「ええ。あくまで専門調査そのものではなく、現地での調整役として」

 

 マリアはすぐには答えなかった。

 異常領域を示す表示へ一度視線を戻し、それからアンサーを見る。

 やがて、小さく頷いた。

 

「分かったわ」

 

 その返事は簡潔だった。

 

「二人にはこちらから追って指令を出す」

 

「ありがとうございます」

 

 アンサーが頭を下げる。

 これで、現地へ向かう人員は決まった。

 

 ――その時点ではまだ、誰も知らない。

 魔界の海で待っているものが、既知の神域とも星遺物とも少し違うことも。

 調査任務として始まるはずだった一日が、海水浴とは別の意味で、ひどく奇妙な夏の日になることも。

 窓の向こうでは、何も知らない青空が、ただ上に広がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 視界が開けた瞬間、最初に目へ飛び込んできたのは、雲だった。

 青い空の半分ほどを埋めるように、白い積乱雲が水平線の上へ大きく膨らんでいる。その下には陽光を受けて淡く輝く海があり、波打ち際から続く白砂は、左右のどちらを見ても緩やかな弧を描きながら遠くまで伸びていた。

 

 異常反応検出領域――仮定神域、清涼なる海岸(テルマルインズ)。

 

 その仰々しい呼称とは裏腹に、目に映るものだけならば、ここはひどく平和だった。

 潮風に煽られた椰子の葉が頭上でゆっくりと揺れ、葉擦れの音へ一定の間隔で波音が重なる。砂浜の奥には濃い緑の植生が連なり、その向こうからは夏の虫らしい細かな声まで聞こえていた。陽射しは第二層の司令室とは比較にならないほど強く、肌へ触れた途端に、ここが確かに夏なのだと身体の方から理解させてくる。

 しばらく眺めているだけなら、この場所のどこに異常があるのか分からない。

 

 その静かな海岸へ――

 

「う・み・だーーーーー!!」

 

 プロブレムの声が盛大に突き刺さった。

 砂浜に降り立つなり両腕を大きく広げ、長い金髪を潮風へ靡かせる。桃色の水着へ黒い大きなジャケットを羽織り、頭にはサングラスを乗せ、手にはいつの間に用意したのか小型の水鉄砲まで握っている。

 

「いい天気だし、まさに海水浴日和じゃん? まっじで沸くんだがー!」

 

「ふっふっふ! あーーっはっはっはー!」

 

 今度は少し離れた場所から高笑いが上がった。

 黒を基調にした水着と羽織を纏った久理が、海を背負うようにして胸を張る。すでに気分は夏へ振り切れていた。

 

「この夏は、真の姿となった冥王クウリアンセムがいただいたーー!」

 

「久理ちゃん、ギルティ極まりないですねぇ♪」

 

 すぐ横では、青白いフリルを重ねたメイド風の水着姿でロンドが笑っている。

 

「ぷみっ? 夏を盗んじゃうの? そんなことしていいの?」

 

 さらにその隣で、叢裂が真顔になった。

 白い水着の胸元には『むらさき』の文字。腰には海辺という場所にはあまり似つかわしくない刀まで下がっている。本人だけは久理の宣言を冗談だと受け取らなかったらしい。

 

「えっ」

 

 久理の高笑いが止まる。

 

「いや、盗むというのはそういう有罪(ギルティ)ではなく……」

 

 ロンドが丁寧に補足しようとするが、

 

「にしし♥」

 

 麦わら帽子の影で、紫亜の口元が悪戯っぽく吊り上がった。

 

「誰だしー? 叢裂ちゃんを騙すなんて悪い子だしー♥」

 

「えっ!? 叢裂だまされたぁ!?」

 

「紫亜ちゃん」

 

 カノンの声には早くも窘める響きが混じっていた。

 青と白のボーダーを基調にした水着姿で、先ほどまで上げていた腕を下ろしながら小さく息を吐く。

 その脇では、大きな黄色いタオルを身体へ引っ掛けたシオンが、黒猫の耳を潮風に揺らしながら眠そうに海を眺めている。

 

 騒がしい。

 人数が人数だけに、ひとり喋れば別の誰かが拾い、その横からまた別の声が飛んでくる。到着してからまだほんの僅かな時間しか経っていないのに、静かだった海岸にはすっかりGARDENの騎士たちの声が馴染み始めていた。

 

 少し離れた場所で、運命がその様子を眺めている。

 今日はいつもの黒いロングコートではない。白を基調としたフード付きの上着に、背には黄色い大きな浮き輪。顔を覆うディスプレイだけは変わらず、その表面には今、楽しそうな表示が浮かんでいた。

 

『みんな、すごくかわいいよ!』

 

「でしょー?」

 

 プロブレムが即座に振り返る。

 

「運命ちゃんもかわいくって花ぁ」

 

 続いて聞こえた声に、運命の隣に居たリンデンの視線が動いた。

 トロイメライだった。

 見慣れているはずの薄桃色の髪は、今日も潮風に柔らかく揺れている。

 ただし、その下にある装いだけは普段とは大きく違っていた。

 

 黒紺の修道服も、白い裏地のベールもない。代わりに黒いキャップとサングラスを頭へ乗せ、身体にはゆったりとしたサイズの透けたシャツを黒い水着の上から纏っている。シスターという言葉からは随分と離れた、肩の力の抜けた夏の装いだった。

 リンデンの視線が、ほんの一拍だけ止まる。

 トロイはそれを見逃さなかった。

 

「んー?」

 

 紫の瞳がこちらへ向く。

 

「ねー、リンデンちゃん」

 

「……はい?」

 

「トロイさんの水着、かわいくって見惚れちゃったー?」

 

 間延びした声が、わざとらしく弾んだ。

 リンデンは一瞬だけ黙った。

 それから視線を逸らし、手元で確認していた携行端末へ目を戻す。

 

「……とても似合っていると思いますよ、トロイ姉さん」

 

「あ」

 

 今度はトロイの方が一瞬止まった。

 リンデンはもう端末を操作している。

 

「ただ、今は任務中ですから。そちらも忘れないでくださいね」

 

「……あははー」

 

 トロイの口元がゆっくり笑みを作る。

 

「褒めてから逃げるの、前より上手くなってて草ー、森ー、花ー♪」

 

「逃げていませんよ」

 

「ほんとかなー?」

 

 追及する気はないらしい。

 トロイはそのまま機嫌よく海へ顔を戻した。

 リンデンも小さく息を吐き、端末を閉じる。

 硬さの残る表情の端には、ほんの少しだけ困ったような色があった。

 

「はいはい、みんな落ち着いて」

 

 その空気を切り替えたのはアンサーだった。

 白い水着姿はこの海岸によく映えていたが、本人は浮ついた様子をほとんど見せていない。長い蜂蜜色の髪を背へ流したまま、携行端末を片手に一同を見回す。

 

「海水浴が楽しみなのは分かるけど、今はまずこの領域の調査よ?」

 

「わかってるってー♪」

 

 プロブレムが水鉄砲をくるりと回す。

 

「えっと、この海が神域っぽいのがなんでっての解明っしょ? この天才プロブレムちゃんにばっちり任せてよっ!」

 

 一拍。

 

「あ、データ解析とかはできないから、そういうのはアンサーよろしくっ」

 

「そこまで胸を張って言うことじゃないわよ」

 

 アンサーの目が細くなる。

 

「この中に、お仕事しないで遊んじゃうような悪い子はいないと思うけど……」

「もし、いたら……うふふふー♪」

 

 声が柔らかくなった。

 そのことが、かえって何人かの背筋を伸ばす。

 

「はい! ふざけません!」

 

 プロブレムが即答した。

 

「遊びません! お仕事が終わるまでは!」

 

 カノンも続く。

 

「右に同じ!」

 

 久理も勢いよく手を上げた。

 

「ギルティに誓って!」

 

 ロンドが胸元へ手を当てる。

 

「ぷみ? えっと、叢裂も!」

 

「紫亜もしー♪」

 

「全員さっそくビビってて草ー」

 

 トロイが肩を揺らした。

 

「今までになく仕事に気合はいってて森ー」

 

 そこで周囲を見回し、水着姿の騎士たちを一人ずつ眺める。

 

「なのに、みんなの水着かわいくって花ぁ♥」

 

「姉さん」

 

「はいはいお仕事お仕事ー」

 

 リンデンに名前を呼ばれ、トロイは両手を軽く上げた。

 その横で運命の仮面にも笑顔が浮かぶ。

 

『調査が終わったら、ちゃんと遊ぼうね』

 

「陛下まで」

 

 リンデンが少しだけ困ったように笑った。

 

『リンデンもだよ?』

 

「私も、ですか?」

 

『うん』

 

「私は調整役として来ていますので、皆さんの補助と撤収までが――」

 

『終わったら』

 

 運命が言葉を重ねる。

 リンデンはしばらく仮面を見つめた。

 

「……分かりました」

 

 やがて小さく頷く。

 

「時間が残っていれば」

 

『そこは残すの』

 

「善処します」

 

「リンデンちゃん仕事に気合はいりすぎてて草ー」

 

「トロイ姉さんもですよ」

 

「はいはーい」

 

 潮風が吹き抜け、トロイとリンデンの髪を揺らしていく。

 騒いでいた面々も、少しずつ調査の準備へ移り始めたt。アンサーは端末を展開し、紫亜は砂浜から海の方角へ目を細める。カノンも周囲の気配を読むように静かになり、プロブレムは何を手伝えばいいのかとアンサーの横をうろつき始めている。

 ロンドはいつの間にか飲み物や荷物の置き場所を整え、久理と叢裂もそれぞれ自分なりの準備を始めていた。

 

 夏の海へ遊びに来た集団にしか見えなかったものが、時間を掛けずにひとつの調査隊へ変わっていく。

 その切り替えの速さもまた、長く騎士として生きてきた彼女たちらしいものだった。

 リンデンは全体を一度見回すと、自分の端末へ各員の通信状態を表示した。

 

「通信は問題ありません。調査範囲も共有しました。何か変化があれば、すぐに私へ送ってください」

 

「了解ー」

 

「はーい」

 

「わかったしー」

 

 いくつもの返事が重なる。

 リンデンはその声を聞きながら、わずかに目を細めた。

 青い海。

 白い砂。

 強い陽射し。

 賑やかな家族たち。

 これから調べるものが異常領域だという事実だけが、今の景色にはひどく不釣り合いだった。

 

「それでは」

 

 アンサーが海の方へ向き直る。

 潮風が白い花飾りと長い髪を揺らす。

 

「調査を始めましょう」

 

 その言葉を合図に、一行はそれぞれの方向へ動き始めた。

 誰も気づかなかった。

 ほんの少し離れた波打ち際へ、さっきまで確かにいたはずの黒猫の少女の姿が、いつの間にか消えていることには。

 

 

 

 

 

 

 調査が始まってからしばらくは、拍子抜けするほど何も起こらなかった。

 陽射しは相変わらず強く、砂浜の白さは目に眩しい。沖から届く波は一定の間隔で砕け、引いていくたびに湿った砂へ薄い光を残していく。椰子の葉は風に揺れ、その隙間から落ちる影だけが砂の上でゆっくり形を変えていた。

 

 異常領域。

 そう呼ぶには、あまりにも穏やかだった。

 アンサーは波打ち際に近い場所へ簡易端末を設置し、霊子反応と温度、成分変化を細かく拾っている。少し離れたところでは紫亜がしゃがみ込み、砂へ指先で簡単な術式を描きながら周囲の呪的な流れを確かめていた。

 

 トロイは波打ち際から少し距離を取り、海と空の境目を眺めている。

 いつもの聖槍(リタ)は手元にない。

 キャップからこぼれる薄桃色の髪が、潮風のたびに頬へ触れていた。

 

「んー……」

 

 何度目か分からない声が漏れる。

 

「なんにも見えないねー」

 

「見えないというのは?」

 

 少し離れた場所からリンデンが尋ねた。

 彼は端末を片手に、アンサーたちの調査状況をひとつずつ確認していた。現場全体の霊子値、通信状態、各員の現在位置。そのどれにも今のところ大きな乱れはない。

 

「祈術っぽい何かー」

 

 トロイは海の方を向いたまま答える。

 

「それか、神様とかじゃなくてもいいから、トロイさんが『うわ、これ絶対ヤバいやつじゃん』ってなるようなものー」

 

「随分と曖昧ですね」

 

「神学なんてそんなもんだよー」

 

 半分以上は冗談らしい。

 リンデンは小さく笑い、端末へ視線を戻した。

 

「でも」

 

 トロイが続ける。

 今度の声だけは少し低かった。

 

「“何もない”っていうのも、ちょっと変なんだよねー」

 

 リンデンの指が止まる。

 

「変、ですか?」

 

「うん。神域みたいな反応が出てるのに、信仰も祈りも、神性っぽい圧も感じない。だから逆に、すっごくきれい」

 

 トロイは眩しそうに目を細めた。

 

「きれいすぎて気持ち悪い」

 

 言い終えると、すぐいつもの笑みへ戻る。

 

「とかいってー」

 

「最後で全部台無しですよ」

 

「えー、いいじゃん」

 

 その少し向こうでは、紫亜が砂へ描いた術式を指先で崩していた。

 

「んー、こっちも変化なしー」

 

「何か見つかりました?」

 

 リンデンがそちらへ向く。

 

「全然見つからないしー」

 

 紫亜は麦わら帽子のつばを指で持ち上げた。

 

「呪いの流れも、封じも、変な偏りもほとんどないんだし。もし誰かがここ丸ごと術式で弄ってるなら、もうちょい痕跡くらい残ると思うしー?」

 

「……なるほど」

 

「ねー? だからリンデンちゃん。紫亜、そろそろ海入りたいしー♥」

 

「まだです」

 

「即答ひどいしー!」

 

 抗議する声の向こうで、今度は別の声が上がった。

 

「私は聖剣のことしか分からないですけど、気の流れとかを読むのはできるので!」

 

 カノンだった。

 目を閉じてしばらく風の流れを感じ取るように立っていたが、やがて小さく首を傾げる。

 

「……うーん。少なくとも、すごく大きな敵が近くにいる感じはしないです」

 

「海洋天使説、消えた?」

 

 プロブレムが横から顔を出す。

 

「残念ー。超でかいのいたら沸いたのに」

 

「プロブレム姉さん、そういった意味で敵を期待しないでください」

 

「えー」

 

 リンデンに言われ、プロブレムは頬を膨らませた。

 

「でもさ、何もないと何もないで暇じゃない?」

 

「まだ調査中ですよ」

 

「リンデンくんがモノみたいに冷たーい!」

 

「プロブレム」

 

 アンサーの声が飛ぶ。

 

「……はい! ふざけません!」

 

 返事だけは早かった。

 その場から逃げるようにプロブレムが少し離れていき、近くにいた久理とロンドへ合流する。

 久理は砂浜へしゃがみ込み、何かを探しているらしい。

 

「ふっふっふ……見つけたぞ……!」

 

「何をです?」

 

 ロンドが覗き込む。

 

「魔術的な何かの痕跡……」

 

「ほんとですかぁ?」

 

「貝殻」

 

「……ギルティですねぇ」

 

「違う! 今のは冥王的高度な偵察行動!」

 

「ただの貝殻拾いじゃん」

 

 プロブレムが即座に刺す。

 

「違うってば!」

 

 遠くで久理の抗議が上がる。

 そのさらに向こうでは、叢裂が刀の柄へ手を添えたまま、妙に真剣な顔で海を見ていた。

 

「叢裂ちゃん、何してるしー?」

 

 紫亜が近づく。

 

「敵が出たらすぐ斬れるようにしてる」

 

「偉いしー♥」

 

「えへへ」

 

「でも今のところ敵いないしー」

 

「じゃあ何すればいいの?」

 

「紫亜たちのこと守ってればいいんだしー♪」

 

「わかった!」

 

 素直すぎる。

 その様子を見ていたリンデンの口元が少しだけ緩む。

 任務としては、今のところ平和だった。

 平和すぎるほどに。

 

「リンデンくん」

 

 アンサーに呼ばれ、リンデンがそちらへ戻る。

 

「はい」

 

「各員のデータ、何か差はある?」

 

「大きな差はありません。海岸北側で霊子濃度がわずかに高いですが、誤差の範囲です」

 

「温度は?」

 

「外気、海水ともに——」

 

 そこでリンデンの指が止まった。

 

「……海水?」

 

「どうしたの?」

 

「いえ」

 

 表示を見直す。

 数値そのものは高い。

 ただ、夏の浅瀬としてあり得ないほどではないようにも見える。観測点が海岸付近に集中しているため、日射の影響と考えれば説明もつく。

 

「少し高めですね。ただ、現時点では異常値とまでは」

 

「了解」

 

 アンサーが頷く。

 

「じゃあ、もう少し観測点を増やしましょう」

 

「分かりました」

 

 リンデンは端末へ新しい指示を送り、周囲へ視線を巡らせた。

 その時だった。

 

「……あれ?」

 

 カノンの声が上がる。

 

「どうしました?」

 

「シオンは?」

 

 何人かが同時に振り返った。

 先ほどまで砂浜の端で眠そうに立っていたはずの黒猫の少女がいない。

 

「そういえばさっきからいないけど……」

 

 プロブレムも辺りを見回す。

 

「シオンさん?」

 

「猫だから散歩してるんじゃないんです?」

 

 久理は首を傾げ、ロンドが冗談めかして言う。

 

「あり得るしー」

 

「あり得るの?」

 

 カノンの声が少し強くなる。

 

「シオン! どこー!」

 

 潮風に乗って声が流れていく。

 返事はない。

 リンデンも端末を確認する。

 

「通信反応はあります。距離もそれほど離れていません」

 

「どっち?」

 

「海側です」

 

「海?」

 

 全員の視線が波打ち際へ向く。

 砂浜の先。

 揺れる陽炎と海面の反射、その向こうに小さな影が見えた。

 そして。

 

「フーーーーーーーーッ!!」

 

 鋭い威嚇音が、海岸中へ響き渡った。

 

「この声、シオンです!!」

 

 カノンが真っ先に駆け出す。

 

「んーどこ……あ! あっち!!」

 

 プロブレムも指を差す。

 

「全員、慌てないで!」

 

 アンサーの声が飛ぶ。

 とはいえ、すでに半数が走り始めていた。

 リンデンも端末をしまい、後を追う。

 砂浜は踏み込むたび足を取られる。

 強い陽射しを反射した白砂が眩しく、近づくほど波音も大きくなる。

 その先で、シオンが海へ向かって身体を低くし、猫耳を後ろへ伏せたまま威嚇していた。

 

「ふぅーーー……!」

 

「シオンちゃん、どうしたの?」

 

 アンサーが少し距離を置いて声をかける。

 

「魔剣でも見つけたし? それとも星遺物だし?」

 

 紫亜も覗き込む。

 シオンは海を睨んだまま首を横に振った。

 

「んーん、違う」

 

「それじゃあ、一体何を威嚇して……」

 

 アンサーが言いかける。

 シオンはゆっくり海へ前足——ではなく、手を伸ばした。

 

「この海……!」

 

 指先が水へ触れる。

 次の瞬間。

 

「あっちっち!」

 

 勢いよく手を引っ込めた。

 

「……」

 

 数秒、全員が黙った。

 

「……あっちっち?」

 

 紫亜が繰り返す。

 

「ほらー」

 

 トロイが先にしゃがみ込んだ。

 

「トロイ姉さん、待ってください」

 

「平気平気ー」

 

 リンデンが止めるより早く、トロイは指先を波へ浸した。

 一瞬。

 紫の瞳が少しだけ開く。

 

「……ほんとだ」

 

 もう一度触る。

 

「アンサーちゃん! 紫亜ちゃん! こっち来てー!」

 

 声が弾んだ。

 

「ほら、この海さわってみて……すごくあったかい……!」

 

「そんなに?」

 

 紫亜もしゃがみ込み、手を浸す。

 

「……あ」

 

 ぱっと引っ込める。

 

「ほんとだし!」

 

「どのくらい?」

 

「ぬるいとか、そういうのじゃないし。普通に“あっちっち”だし……!」

 

 今度こそ一同の空気が変わった。

 リンデンも波打ち際へしゃがみ込み、指先だけを水へ触れさせる。

 確かに温かい。

 夏の日差しで温められた海水とは違う。

 指先から掌へ、じわりと熱が伝わってくる。

 

「……これは」

 

 リンデンは少しだけ眉を寄せた。

 

「想定より、ずっと高いですね」

 

「アンサーちゃん、なんか分かったし?」

 

 紫亜に呼ばれ、アンサーが前へ出る。

 しゃがみ込み、手を海へ。

 

「……!」

 

 触れた瞬間、表情が僅かに変わった。

 それから、今度は指先を水面の近くへ持っていく。

 

「……くんくん」

 

 匂いを確かめる。

 もう一度、温度を確かめる。

 海水を指先で軽く擦り、その感触まで見る。

 周囲の全員が、いつの間にかアンサーを囲んでいた。

 

「この温度……」

 

 アンサーが小さく呟く。

 

「この香り、この感触……」

 

「アンサーちゃん?」

 

 トロイが首を傾げる。

 アンサーはゆっくり立ち上がった。

 長い髪が潮風に揺れる。

 少しの沈黙。

 

「間違いないわ……」

 

 全員が息を呑む。

 

「…………」

 

 アンサーは海を見る。

 そして。

 

「この海、温泉になってるわ!」

 

「ええええええええええええええええええ!?」

 

 誰の声とも分からない叫びが、青い海と空の間へ盛大に響き渡った。

 その向こうでは、何も知らないように波が寄せては返している。

 ただし、その波だけは。

 ――確かに、湯気を立てていた。

 







https://syosetu.org/novel/394859/

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