みにくい魔剣の子 《本編完結・アフター開始》   作:えいちゃ

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大筋が焼き増しなのはほんとすみませんという気持ち……。





トロイルート『ドキドキ!温泉夏物語』.2

 

 

 海面から、白い湯気が立っていた。

 沖から寄せてくる波は見慣れた青を保っている。それなのに、砕けた波頭の合間からは細い湯気が絶えず立ち昇り、風に押されて砂浜の上を薄く流れていく。

 頭上には大きく育った夏雲、背後には椰子の葉を揺らす緩い潮風。陽射しは肌を焼くほど強いのに、足元だけを見れば、真冬の露天風呂と大差がなかった。

 

「……ほんとだし。この海、温泉みたいだし!」

 

 紫亜は膝下まで浸かったまま、片足を持ち上げた。水面から抜けた脛を湯が筋になって伝い、つま先から雫が落ちる。もう一度足を沈めると、ぱしゃりと跳ねた湯が隣にいたアンサーの腿へ飛んだ。

 

「紫亜ちゃん、跳ねさせないの」

 

「だってほんとにあったかいしー♪」

 

 注意されても、紫亜は悪びれる様子もない。足の裏で砂を探るように何度か踏み、そのまま少し深い方へ進んでは、今度は両手で湯を掬った。

 

「あははー……海がお湯になってるとか、草も生えないねー……」

 

 トロイもその隣で膝を曲げた。指先を水面へ沈め、左右へ緩く動かす。波とは別に生まれた小さな輪がいくつも重なり、やがて寄せてきた波へ呑まれた。

 

「温度だけなら、もう普通にお風呂だねー」

 

「普通のお風呂に波は来ないし」

 

「そこは海だからねー」

 

「そういう話じゃないし?」

 

 紫亜が振り返る。トロイはもう半分興味を失ったような顔で、指先に絡んだ湯をぱたぱたと落としていた。

 その時、波間を黄色いものが横切った。

 

「……あれー?」

 

 トロイの視線がそれを追う。

 一羽のアヒルだった。もちろん本物ではない。小さな黄色いゴム製のアヒルが、波に持ち上げられては傾き、平然と沖へ向かって流されている。

 

「というか、よく見たらお風呂グッズも浮かんでるし……」

 

「え?」

 

 アンサーも振り向いた。

 アヒルだけではない。少し離れたところには木桶がひっくり返ったまま漂い、その向こうには白い手拭いらしき布まで浮かんでいる。どれも妙に使い込まれた質感で、つい先ほど誰かが置いたようにも見えた。

 紫亜が近くへ流れてきた桶を片手で拾い上げ、裏返した。

 

「……普通の桶だし」

 

「普通じゃ困るのよ」

 

 アンサーはしゃがみ込み、海面へ指先を浸した。手首まで沈め、何度か指を閉じたり開いたりしてから、少量を掌へ掬い上げる。日光の下で見ても液体そのものに妙な色はない。手を鼻先へ近づけると、潮の匂いの奥に、確かに温泉を思わせる香りが混じっていた。

 

「……これが“異常反応”」

 

 掌を傾ける。湯が細い筋になって指の間から落ちた。

 

「まるで神域のような状態とは聞いていたけど……海がまるごと温泉になるなんて、予想外すぎよ」

 

「あー……」

 

 返事をした紫亜の声が、露骨に低くなった。

 拾った桶を水面へ戻すと、今度はその場で少しずつ膝を曲げていく。腿、腰と湯へ沈み、最後には腹の辺りまで浸かったところで、長く息を吐いた。

 

「なんか気持ちよくなってきたし……」

 

「紫亜ちゃん?」

 

「だってあったかいんだしー……」

 

 背中を丸め、両腕を水面へ浮かせる。先ほどまで動き回っていた人物とは思えないほど、早くもくつろぎ始めていた。

 その横ではトロイまで同じように座り込み、肩から力を抜いている。

 

「たしかにー……足湯すごく気持ちいいかもー……」

 

 瞼が半分ほど落ちた。温度を測るために湯へ入ったという建前は、二人ともすでに忘れているようだった。

 

「二人とも、調査中よ?」

 

 アンサーが腰へ手を当てる。

 紫亜は顔だけ上げて、その足元を見た。

 

「アンサーちゃんも普通に入ってるしー?」

 

「これは水質調査」

 

「便利な言葉だし」

 

「便利な言葉で草ー」

 

「トロイさんまで乗らないで」

 

 アンサーが眉尻を上げる。それでも湯から上がる気配はなく、三人とも結局その場に留まった。

 

 少し離れた砂浜では、運命とリンデンが一台の端末を挟んで並んでいた。

 リンデンが画面を指で滑らせるたび、いくつもの波形と数値が切り替わる。運命は少し身を寄せてそれを覗き込み、時折仮面の表示を変えながら、リンデンの指した場所を追っていた。

 

『やっぱり、海水そのものが変わってるんだね』

 

「はい。少なくとも、単純に何かで加熱されている状態ではなさそうです」

 

 リンデンが一つの項目を拡大する。

 

「海水そのものの性質に変化があります。ですが、周囲の霊子濃度だけでは説明がつきません」

 

『じゃあ、もう少しサンプル取ってみようか』

 

「そうですね。海岸線の端でも同じ状態か確認して――」

 

 二人の会話は、波音と距離に削られてこちらまでは断片的にしか届かない。

 紫亜はしばらくそちらを眺めていたが、不意に鼻を小さく鳴らした。

 

「……んー?」

 

「どうしたの?」

 

 アンサーが振り返る。

 紫亜は答えず、じっとアンサーの肩を見る。そこから腕、鎖骨の辺りへ視線を移し、最後にもう一度顔へ戻した。

 

「アンサーちゃんさー」

 

「だから、なに?」

 

「どうしてもう日焼けしてるんだし?」

 

「……ぎく」

 

 あまりにも分かりやすく、アンサーの肩が跳ねた。

 腰へ当てていた手が一度離れ、行き場を失ったように髪の先へ伸びる。濡れてもいない毛先を指へ巻きつけ、それから自分でも不自然だと思ったのか、すぐに放した。

 

「あー」

 

 トロイもようやく目を開けた。

 気の抜けた姿勢のまま、アンサーの腕を眺める。強い陽射しを受けた肌は、普段より明らかに色づいている。

 

「ほんとだー。いまはこんがり小麦色で草だねー」

 

「ちょっと、トロイさん」

 

「司令室でマリアちゃんから指令を受けたときは、いつもみたいな真っ白なお肌だったのにー♪」

 

 トロイは人差し指を顎へ添え、わざとらしく首を傾げた。

 アンサーの視線が右へ逃げる。

 

「ええと、それは……」

 

 今度は左へ逃げた。

 紫亜の口元が、ゆっくり持ち上がる。

 

「この領域の“異常反応”のせいじゃないかしら?」

 

 ようやく理由を見つけたらしいアンサーが、急に声を張った。

 

「ほら、日差しも強いし!」

 

 そう言って空を指す。

 確かに陽射しは強い。強いのだが、それを言うためにわざわざ腕まで伸ばしたせいで、むしろ苦しさが増していた。

 

「ふぅーん」

 

 紫亜はその指先から顔へ目を戻した。

 一歩、湯をかき分ける。

 

「紫亜、てっきり陛下ちゃんに――」

 

「……な、なに?」

 

 もう一歩。

 紫亜は自分の肩口へ手を置き、少し身体を捻った。どこか見せつけるような仕草を作ってから、声まで甘くする。

 

「『ほら、こここんなに焼けちゃった♥』って、やろうとしてるのかと思ったし♪」

 

「…………」

 

 アンサーの口が閉じた。

 視線だけが動く。

 紫亜。

 トロイ。

 少し離れた運命。

 そして、もう一度紫亜。

 

「……そういうことも、できなくは、ないわね……」

 

「できるんだし!?」

 

 紫亜の笑い声が弾けた。

 トロイも堪えきれず、肩を揺らす。

 

「あははー」

 

「ちがっ!」

 

 アンサーが慌てて両手を振る。

 

「これはちゃんと計画の上で……!」

 

「計画してたんだし?」

 

「そういう意味の計画じゃない!」

 

「もしかして、海遊びに向けて一番完璧に準備してきたの、アンサーちゃんなんだしー?」

 

「違うって言ってるでしょう!」

 

 アンサーが湯を蹴った。

 跳ねた雫を紫亜は笑いながら片手で庇い、トロイは顔にかかった数滴を指で拭っただけだった。

 

「あははー、まあまあ」

 

 トロイが間に入る。

 まだ笑いの残った口元を手で隠し、

 

「そういうとこに突っ込むのはヤボだよ、紫亜ちゃん」

 

「トロイさん……!」

 

 アンサーがわずかに救われたような顔をする。

 

「ひとまずは海が温泉になった原因を――」

 

「トロイちゃーん?」

 

 紫亜の声が、妙に甘くなった。

 トロイの口が止まる。

 

「……なにー?」

 

「トロイちゃんも、その上に着てるの何だし?」

 

「……ぎく」

 

 今度はトロイの肩が揺れた。

 ゆっくり自分の胸元を見る。

 水着の上から羽織った薄いシャツは、乾いた状態でも光を通すほど軽い。しかもすでに湯へ触れており、透けて濡れた布が肌へ貼りついていた。

 紫亜がそこを指差す。

 

「スケスケで、もはや着てる意味なくないしー?」

 

「いやー、これはー……」

 

 トロイは濡れた裾を摘み、何となく前へ引っ張った。

 手を離す。

 また肌へ張りつく。

 

「なんでわざわざソレ着てるんだしー?」

 

「これは、海で肌寒かったらアレかなって……」

 

「今めちゃくちゃ暑いし?」

 

「海風って急に冷えたりするからー」

 

 言い訳しながら、トロイはシャツの袖を少し下へ引いた。次いで帽子のつばを直し、最後には何の意味もなく水面を指先で掻く。

 

「それにー、日除けとかにもなるしー」

 

「その生地で?」

 

「多少はー?」

 

 語尾がだんだん頼りなくなる。

 そして、そのまま何気なく顔を上げた。

 視線が、横へ滑る。

 

 砂浜の少し先。

 運命と並び、まだ端末を確認しているリンデン。

 運命が画面の一点を指し示し、リンデンが身を屈めてそれを確認していた。こちらの騒ぎにはまだ気づいていない。

 トロイはほんの一瞬だけ、そこを見た。

 すぐに水面へ視線を落とした。

 

「…………」

 

 紫亜の目が細くなる。

 トロイから、その視線の先へ。

 リンデン。

 再びトロイ。

 

「……へぇー」

 

「なにー?」

 

 トロイは水面を指でなぞったまま顔を上げない。

 

「べっつにー♪」

 

 紫亜は口元へ手を添えた。

 隠すためではない。むしろ笑いが溢れるのを少しでも長く味わっているようだった。

 

「なんか紫亜、いろいろ分かっちゃった気がするしー♪」

 

「気のせいじゃないかなー」

 

「紫亜、誰とは言ってないし?」

 

「トロイさんも誰とも言ってないよー」

 

「にしししし♥」

 

「……うるさいなー」

 

 トロイはようやく顔を上げ、帽子のつばを少し深くした。

 

「なるほど……」

 

 今度はアンサーが腕を組んだ。

 少し距離を取り、トロイの全身を一度上から下まで眺める。

 

「あえて透けさせることで水着に注目させる高等テクニック……」

 

「やめてー」

 

「さすがはブレイドラインね。侮れないわ」

 

「ブレイドラインへの風評被害で草ー……」

 

「にししししし♥」

 

「紫亜ちゃん笑いすぎー」

 

 弄る側へ回った二人を、トロイは半眼で見た。

 しばらく黙っていたが、ふと小さく鼻を動かす。

 一度。

 もう一度。

 

「……あれー?」

 

「ん?」

 

 紫亜が首を傾げる。

 トロイは身体を少し近づけ、紫亜の周囲の空気を確かめるように鼻先を動かした。

 

「そういう紫亜ちゃんだって、今日はいつもと違う香水つけてない?」

 

「……ぎく」

 

 紫亜の笑顔が止まった。

 今度はトロイの口元が持ち上がる。

 

「そういえば、香りを使った呪術があるって聞いたことあるなー?」

 

「な、なんのことだしー……?」

 

 紫亜は露骨に顔を逸らした。

 髪を耳へ掛ける。次に麦わら帽子の位置を直し、それでもトロイの視線が外れないので、最後には肩まで湯へ沈めた。

 

「んふふ」

 

 トロイが身を寄せる。

 

「トロイさんの鼻はごまかせないよー♪」

 

「…………」

 

 紫亜は黙った。

 水面から口元だけを出し、視線を横へ逃がす。

 

「……ちがうし」

 

 一拍。

 

「新しいの買ったから、使ってみただけだし……」

 

「…………」

 

 アンサーが紫亜を見る。

 

「…………」

 

 紫亜がアンサーを見る。

 

「…………」

 

 最後に二人がトロイを見る。

 トロイも笑顔を消した。

 誰も何も言わない。

 そこへ波が一つ寄せてきた。先ほど流れていた木桶がゆっくり近づき、こつん、とアンサーの膝へ当たる。

 

「……いったん休戦にしましょう!」

 

 アンサーが勢いよく片手を上げた。

 

「賛成だし!」

 

 紫亜の手も即座に上がる。

 

「トロイさんも賛成ー!」

 

 三人分の声が、ほとんど重なった。

 アンサーは一度大きく息を吸い、胸の前で両手を合わせた。それから何事もなかったように姿勢を正し、濡れた髪を背中へ払う。

 

「えー、ごほん」

 

 咳払い。

 

「今は海が温泉になってしまった謎が優先です」

 

「そーだねー」

 

「お仕事するしー」

 

 三人揃って、海へ向き直った。

 ほんの数秒前まで互いの夏支度を暴き合っていたとは思えない切り替えの早さだった。

 ちょうどその頃、砂浜ではリンデンが端末から顔を上げた。

 三人の方を見る。

 妙に静かになっている。

 

「……何かありましたか?」

 

『ううん』

 

 運命もそちらを見た。

 仮面の表示が、少しだけ笑う。

 

『たぶん、何もなかったと思うよ』

 

「そうですか」

 

 リンデンは一度だけ首を傾げた。

 それ以上は尋ねず、また運命と一緒に端末へ視線を戻す。

 海の上では、黄色いアヒルが一羽、寄せる波と引く波の間を行ったり来たりしていた。誰にも拾われないまま、少しずつ沖へ遠ざかっていく。

 

「アンサーさーん! みんなー!」

 

 少し離れた浜辺から声が飛んできた。

 湯気の向こうで、カノンが大きく片手を振っている。陽射しを受けた金色の髪が動くたびに光り、その隣では何人かが同じ場所へ集まっていた。先ほどまで海へ散っていた面々まで、いつの間にかそちらへ寄っている。

 

「ちょっとこっちに来てください! すごいことになってます……!!」

 

 声の調子に、アンサーの表情が変わった。

 

「……行きましょう!」

 

「はいはーい」

 

「またなんか見つかったし?」

 

 紫亜が海から上がり、濡れた足で砂を踏む。トロイもその後に続いたが、温かい湯から強い陽射しの下へ出たせいか、しばらくは帽子のつばを押さえたまま目を細めていた。

 砂浜では運命とリンデンもカノンの声に気づいていた。

 

『何かあったみたいだね』

 

「行ってみましょうか」

 

 リンデンが端末の表示を閉じる。運命と並んで歩き始めると、その少し後ろからアンサーたちに合流した。

 潮風は変わらず穏やかだった。

 波打ち際では、海が温泉になっていることを除けば何も変わらない。白い砂には裸足の跡がいくつも残り、寄せた湯がその端から少しずつ崩している。椰子の葉は高いところで風を受け、乾いた音を立てていた。

 だからこそ、カノンたちのいる一角へ近づいた時、そこだけ景色から切り取られたように見えた。

 

「……これは」

 

 リンデンが足を止める。

 砂浜の一角に、洗い場があった。

 それも、水道が一本だけ立っている程度のものではない。

 低い腰掛けが等間隔に並び、それぞれの前には桶と洗面器。身体を洗うためらしい設備まできちんと用意され、脇には石鹸や見慣れた風呂用品がまとめられている。白い泡がいくつか床面へ流れ、そのまま砂へ吸い込まれていた。

 その造りだけを見れば、どこかの大浴場から洗い場だけを切り出して、南国の砂浜へ据え付けたようだった。

 しかも。

 

「……『あわあわ洗い場』?」

 

 アンサーが読み上げた。

 どこから持ち込まれたのか、妙に親しみやすい文字でそう書かれている。

 

「『あわあわ洗い場』ってなんだし!!」

 

 紫亜がすぐに声を上げた。

 看板と設備を交互に見てから、両手を広げる。

 

「そのまますぎるし! もう少しなんかあるし!?」

 

「あははー、そのままで草ーー♪」

 

 トロイは看板を見上げたまま笑った。

 

「分かりやすくていいんじゃないー?」

 

「トロイちゃん雑すぎだし!」

 

「迷わないの大事だよー」

 

 ロンドが設備の前へしゃがみ込み、ひとつの桶を持ち上げた。

 

「んー……見た感じでは、普通のものですねぇ」

 

 裏返す。

 底にも特別な紋様や術式はない。

 

「これ、魔術で作ったのかな?」

 

 久理も横から覗き込んだ。

 

「んー……でも、魔力の痕跡とか、そういうのはあんまり感じないなぁ」

 

 叢裂は少し離れたところから洗い場全体を眺めていたが、やがて腰の武器へ手を掛ける。

 

「その辺、斬ってみる?」

 

「それ普通に迷惑行為(ギルティ)ですねぇ」

 

 ロンドの返答が早かった。

 

「ぷみ……」

 

 叢裂の手が止まる。

 

「斬ったら分かるかなって……」

 

「分かる前に壊れますからねぇ」

 

「そっかぁ」

 

 納得したらしく、叢裂は素直に手を離した。

 その横を、プロブレムがひょいと通り抜ける。

 

「えー、でもこれめっちゃ便利じゃん?」

 

 備え付けの椅子へ腰を下ろし、すぐに立つ。今度は桶を持ち上げ、軽く頭の上へ載せた。

 

「ここで洗って、そのまま温泉ダイブできるってことでしょ?」

 

 椅子。

 桶。

 身体を洗う場所。

 石鹸。

 排水のためらしい溝まである。

 アンサーはひとつひとつに手を触れるでもなく、視線だけを順番に移していく。

 

「たしかに……」

 

 やがて立ち止まった。

 

「ここで身体を洗って、そのまま海に入ることで……温泉を直接楽しめるようになっているのね」

 

「冷静な分析で川ー♪」

 

 トロイが、すぐ後ろから口を挟んだ。

 指折り数えるように手を動かす。

 

「普通の温泉と同じつくりで湖ー♪」

 

 そこで一度、海を見る。

 白い湯気が浮かぶ青い水平線が、ずっと遠くまで続いていた。

 

「天然の露天風呂Lv99で海ー♥」

 

「規模の話をしてるんじゃないのよ」

 

 アンサーは額へ手を当てた。

 それでも、最後の一言だけは否定しづらかったらしい。

 運命は洗い場の端にしゃがみ、砂と設備の境目を覗き込んでいた。

 

『これ、後から置いた感じでもないね』

 

「ええ」

 

 リンデンも傍らへ腰を落とす。

 砂の中へ埋まっている基礎の一部を指でなぞった。

 

「少なくとも、今朝になって誰かが簡単に組み立てたような構造には見えません」

 

 指へついた砂を軽く払う。

 

「かといって、以前からこの場所にあったのであれば、調査記録に残っていてもおかしくないはずです」

 

『うん』

 

 運命の仮面に、小さな考え込みの表示が浮かぶ。

 

『海が温泉になったのと一緒に、これも……かな』

 

「可能性はありますね。ただ――」

 

 リンデンは言葉を切り、もう一度設備を見る。

 洗い場は、あまりにも整っていた。

 異常現象によって偶然生まれた形というより、明確に用途を想定して配置されている。

 

「……目的がはっきりしすぎています」

 

 アンサーが振り返った。

 

「そうなのよ」

 

 その声から、先ほどまで紫亜たちに弄られていた時の調子は消えていた。

 

「海水が何らかの理由で温泉に変質した。それだけなら、まだ現象として考えられる」

 

 近くにあった椅子の背へ指先を置く。

 

「でも、これは違う。誰かが身体を洗うための設備で、使うことを前提に作られている」

 

「となるとー」

 

 トロイは看板を見上げた。

 

「やっぱりここ、神域だったりするー?」

 

「それもまだ断定できないわ」

 

「えー」

 

「『えー』じゃないの」

 

「だってー、海が温泉になって、お風呂セットが浮かんでて、洗い場まで生えてきたんだよー?」

 

 トロイが指を三本立てる。

 

「もう神域ってことにしといた方が話が早くないー?」

 

「調査ってそういうものじゃないから」

 

「あははー」

 

 怒られた本人はまったく気にしていなかった。

 その間に、プロブレムは設備を一通り見終えたらしい。

 

「だーめだ!」

 

 急に両腕を上へ伸ばす。

 

「全然わかんないっ!」

 

 陽射しの下で大きく伸びをしてから、そのまま手を後頭部へ回した。

 

「よく考えたら、考えるのとか苦手だった!」

 

「自信満々に言うことじゃないですよ!」

 

 カノンがまた突っ込む。

 プロブレムは海の方を向いた。

 

「とりま温泉入ってから考えよー?」

 

「さっきまで入ってたじゃないですか!」

 

「調査としてじゃなくて本気で入りたいの!」

 

「余計だめそうに聞こえます!」

 

「えー、いいじゃん。原因考えてる間ヒマじゃん?」

 

 プロブレムはもう海へ向かって歩き出している。

 久理もそちらへ目を向けた。

 

「……まあ、せっかく温泉になってるなら、入らないのはもったいないような……」

 

「久理ちゃんまで!?」

 

「いや、その……調査として?」

 

 その様子を眺めていた紫亜が、ふと首を傾げた。

 

「んー……?」

 

 さっきまで笑っていた口元が少しだけ戻る。

 視線が洗い場へ向く。

 

「どうしたの?」

 

 アンサーが訊いた。

 

「いやー」

 

 紫亜は近くの椅子を足先で軽く押した。

 倒れない。

 次にその隣を見る。

 同じ椅子。

 そのまた隣にも。

 設備はかなりの人数が同時に使える程度の規模がある。

 

「これ作った人、ざこざこだなーって思ったし♪」

 

「……どうして?」

 

「だってー」

 

 紫亜がくるりと振り返る。

 片手で洗い場全体を示した。

 

「こーんな大きな洗い場なのに、誰もお客さんいないしっ♪」

 

「…………」

 

 アンサーの顔から、わずかに表情が消えた。

 

「こんなじゃ大赤字で倒産しちゃうしー」

 

 紫亜はまだ笑っている。

 ところがアンサーは返さなかった。

 

「……」

 

「ん?」

 

「……今、なんて?」

 

「え?」

 

 紫亜が瞬きをする。

 

「だから、お客さんだし」

 

「……」

 

 アンサーはゆっくり海へ目を向けた。

 湯気の上がる海。

 波間に漂う風呂用品。

 身体を洗うための設備。

 そして、妙に明確な名称まで与えられた《あわあわ洗い場》。

 

「だって、ここ海温泉の洗い場だし」

 

 紫亜もアンサーの様子が変わったことに気づき、笑みを少し薄くした。

 

「誰かお客さんが使う用、で合ってるはずし?」

 

 風が吹いた。

 吊るされた手拭いの端が揺れ、設備の脇に重ねられた桶が軽く触れ合う。

 乾いた、からん、という音がした。

 

「……まさか」

 

 アンサーが呟く。

 

「あははー……」

 

 トロイもようやく何かに気づいたらしい。

 笑ってはいるものの、先ほどまでとは少しだけ声が違った。

 

「嫌な予感がするー……」

 

 リンデンは洗い場から海へ視線を移した。

 今まで見ていたものの意味が、ひとつずつ置き換わっていく。

 これは温泉に似た海ではない。

 少なくとも、この設備を前提に考えるなら。

 

「神域……」

 

 アンサーが一つ。

 

「温泉……」

 

 二つ。

 それから、紫亜を見た。

 

「お客さん……!」

 

 その声とほとんど同時に、浜辺から楽しげな笑い声が聞こえた。

 

「温泉、温泉ー♪」

 

 プロブレムだった。

 すでに海の方へかなり進んでいる。

 その後ろには久理と叢裂までついていた。

 

「ちょっと待って」

 

 アンサーの声が低くなる。

 プロブレムは聞こえていない。

 

「先に入ってるねー!」

 

「待って!」

 

 今度は叫んだ。

 アンサーが砂を蹴る。

 

「みんな待って! 温泉に入らないで!」

 

 プロブレムが振り返った。

 

「え?」

 

 久理も足を止める。

 叢裂は片足を海へ入れたまま、きょとんとこちらを見た。

 アンサーは走りながら息を吸う。

 

「この温泉は――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 その先を、別の声が遮った。

 

「ちょっとーー! あなたたちーーーー!!」

 

 海岸へ響いた声は、アンサーのものでも、カノンのものでもなかった。

 プロブレムが足を止める。

 

「……ん?」

 

 片足だけ海へ入れていた叢裂も、ゆっくり顔を上げた。久理は反射的に一歩下がり、まだ何も起きていないうちから周囲を見回している。

 湯気が流れた。

 白く薄い幕の向こう側。先ほどまでは誰もいなかったはずの海面に、いくつもの人影が浮かんでいた。

 

 最初に見えたのは頭だった。

 正確には、その上に載せられた白い手拭い。

 その下から、見覚えのある異質な輪郭が一つ、また一つと現れる。

 人の姿へ近い。

 けれど人ではない。

 神域で幾度となく相対してきた、GARDENにとって敵対存在である天使。

 それらが今は肩まで湯へ浸かり、頭へ手拭いを載せ、何とも満足そうに温泉を楽しんでいた。

 

「……え」

 

 カノンの声が小さく落ちる。

 その横で、久理が目を見開いた。

 

「もしかして、この温泉って……」

 

 プロブレムもようやく状況を理解したらしく、海へ入れた足をそっと戻す。

 

「天使が入る温泉なの?!」

 

 久理の声が裏返った。

 遠くで波が砕ける。

 返事の代わりに、海面の天使たちは一斉にこちらを睨んだ。

 

「あなたたち!」

 

 そのうちの一体が、湯から腕を出す。

 人差し指が、真っ直ぐプロブレムたちへ向いた。

 

「《あわあわ洗い場》で身を清めていないわね?」

 

「……は?」

 

 プロブレムが間の抜けた顔をする。

 天使は構わず続けた。

 

「温泉に入る前には身体を洗う!」

 

 隣の天使も立ち上がる。

 

「これは温泉海岸(テルマルインズ)の常識よ!」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

 誰も、すぐには返せなかった。

 寄せた波だけが、砂浜を濡らして戻っていく。

 

「……言ってることは」

 

 リンデンが小さく口を開いた。

 全員の視線が一斉に集まる。

 リンデンは天使と《あわあわ洗い場》を交互に見た。

 

「正しいですね」

 

「リンデンくん!?」

 

 プロブレムが素っ頓狂な声を上げる。

 

「いやいやいや、なんでそっち側につくの!?」

 

「そちら側についているわけではありませんよ」

 

 リンデンは端末を下ろした。

 

「入浴前に身体を洗うという一点については、一般的な温泉の利用方法として妥当だと言っているだけです」

 

「今それ言う!?」

 

「事実ですので」

 

「真面目か!」

 

 運命の仮面には、困ったような笑顔の表示が浮かんでいた。

 

『まあ……リンデンの言ってることも分かるけど』

 

「運命くんまで!?」

 

 紫亜が少し後ろで肩を震わせる。

 

「にしし……プロブレムちゃん、温泉マナーで怒られてるしー♪」

 

 一方、叢裂は天使たちをじっと見つめていた。

 

「ぷみ?」

 

 首を傾げる。

 

「この天使……斬ってもいいの?」

 

 その一言で、空気が変わった。

 

「……斬る?」

 

 温泉客の一体が、低い声を返す。

 別の天使がゆっくり立ち上がった。

 

「自分たちでマナーを破っておいて!」

 

 また一体。

 

「先に入浴していた我々を斬るですって!?」

 

 湯面がざわつく。

 

「許せないわ!」

 

「温泉マナー違反よ!」

 

「えっ」

 

 叢裂が僅かに身を引いた。

 

「まだ斬ってないよ?」

 

「そういう問題ではありません!」

 

「ぷみ……」

 

 怒られた。

 叢裂は少しだけしょんぼりしたように肩を落としたが、腰の武器から手は離していなかった。

 

「いやでもさ」

 

 プロブレムが恐る恐る片手を上げる。

 

「そもそもあんたら天使っしょ?」

 

 湯へ浸かっている一体を指差す。

 

「てか、普通に喋ってない?」

 

「……たしかに」

 

 久理が小声で続けた。

 

「対話可能な天使って、結構上位種だった気がするんだけど……」

 

 しばらく考えたあと、何か別の可能性に思い至ったらしい。

 

「こいつら本当に天使? ゾンビとかじゃないよねぇ!?」

 

「久理ちゃん、落ち着いてくださいねぇ」

 

 ロンドが背中を軽く撫でる。

 その間にも、天使たちはこちらへの敵意を隠そうともしなかった。

 

「温泉の客を攻撃してはいけない!」

 

「温泉を汚してはいけない!」

 

「身体を洗わず入浴してはいけない!」

 

 一体ずつ、規則を読み上げるように声を重ねていく。

 

「これは温泉海岸(テルマルインズ)の常識!」

 

「よって!」

 

 湯が弾けた。

 何体かの天使が、同時に立ち上がる。

 

「罰を与えます!!」

 

「えっ、そこまで!?」

 

 カノンが反射的に聖剣へ手を伸ばす。

 アンサーもすぐに前へ出た。

 

「しまった、遅かったわね……!」

 

 紫亜の表情から笑みが少しだけ引く。

 

「お客さんって、そういう意味だったしー?」

 

「あははー……」

 

 トロイは困ったように眉を下げた。

 先ほどまで海へ浸かっていた時の気の抜けた様子はもう残っていない。帽子のつばを指先で上げ、立ち位置を一歩変える。

 

「悪いのはマナー破ったウチの子たちだけどー」

 

 聖槍へ手を伸ばす。

 

「相手が暴力振るってくるなら、話は別かなー!」

 

 声はいつもの間延びしたまま。

 ただし、その足元だけは完全に戦闘のそれへ切り替わっていた。

 

「天使かどうかも分からないけど、相手になるよー!」

 

「待ったし!」

 

 紫亜がその横から一歩出る。

 片手を腰へ置き、天使たちへ指を突きつける。

 

「にしし♪ 紫亜たちも温泉のお客様だし♪」

 

「……何?」

 

 天使たちが僅かに止まる。

 

「温泉の客を攻撃してはいけない――」

 

 紫亜が先ほど聞いた言葉を、そのまま返す。

 

「だったら、紫亜たちを攻撃するのも温泉マナー違反だし!」

 

「……」

 

 一瞬だけ。

 天使側が黙った。

 

「お」

 

 プロブレムが目を輝かせる。

 

「いける?」

 

「紫亜ちゃん、そこ攻めるんだー」

 

 トロイが感心したように言う。

 

「にしし♪ 言ったもん勝ちだしー♪」

 

「言ったもん勝ちで温泉マナーを決めないで」

 

 アンサーが冷静に突っ込む。

 しかし、向こうも負けてはいなかった。

 

「……温泉の客同士で」

 

 天使の一体が口を開く。

 

「ケンカになったら!」

 

 隣が続ける。

 

「勝ったもん勝ち!」

 

「これは温泉海岸(テルマルインズ)の常識よ!」

 

「ルール追加された!?」

 

 プロブレムが叫ぶ。

 

「後出しだし!」

 

 紫亜まで声を上げた。

 

「あははー、なんでもアリになってきて草ー」

 

 トロイは笑っている。

 だが、その手の中では既に聖槍(リタ)が構えられていた。

 カノンも一歩前へ出る。

 

「これ、もう普通に戦うしかないですよね?」

 

「そういうことになりそうね」

 

 アンサーは髪を背へ払い、天使たちの配置を一度で見渡した。

 久理はロンドの後ろから恐る恐る顔を出し、

 

「え、これ温泉で戦うの……?」

 

「温泉ですけど戦場ですよぉ」

 

「いやだぁ!」

 

「大丈夫ですってぇ♪」

 

「その慰め方ぜんぜん大丈夫じゃない!」

 

 その横で、叢裂だけは少し嬉しそうだった。

 

「ぷみっ」

 

 腰の武器を引き抜く。

 

「今度は斬っていい?」

 

 天使の一体が腕を広げた。

 

「温泉マナーにのっとり!」

 

 湯面に波紋が広がる。

 

「温泉を汚した者たちを排除するわっ!」

 

「だそうです」

 

 リンデンが端末を運命へ渡した。

 

『うん』

 

 運命が受け取る。

 リンデンは袖口を軽く整えながら、一歩前へ出た。

 

「では」

 

 先ほどまでの穏やかな声と変わらない。

 

「話は別ですね」

 

「切り替え早っ!」

 

 プロブレムの声が飛ぶ。

 

「入浴前に身体を洗うことと、こちらへ攻撃してくることは別問題ですので」

 

「そこだけ妙に筋通してくるじゃん!」

 

「大事なところですよ」

 

「今じゃないって!」

 

 白い湯気の向こうでは、何体もの天使が既に臨戦態勢へ移っていた。

 陽射しを受けた海面は相変わらず青く、温泉らしい湯気も絶えず立っている。波間には黄色いアヒルが一羽、何も知らないまま上下していた。

 そのすぐ脇を、天使の攻撃が掠める。

 水柱が上がった。

 

「うわっ!?」

 

 プロブレムが飛び退く。

 

「ちょ、アヒルまで吹っ飛んだんだけど!?」

 

「温泉を汚してるのそっちじゃないしーーーー!!」

 

 紫亜の叫びが海岸へ響いた。

 その瞬間、もう誰にも、この状況を穏便に収める余地は残っていなかった。

 

 









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