みにくい魔剣の子 《本編完結・アフター開始》   作:えいちゃ

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トロイルート『ドキドキ!温泉夏物語』.3

 

 

 最後の天使が湯煙の向こうへ退いてから、海岸に静けさが戻るまでには、それほど時間は掛からなかった。

 飛び散った湯が砂へ染み込み、戦闘で乱れた水面も、幾度か波を重ねるうちに元の緩やかな起伏へ戻っていく。少し前まで声を荒らげていた温泉客たちの姿はなく、沖へ流された黄色いアヒルだけが、何事もなかったように波間を上下していた。

 

 結局のところ。

 温泉は、温泉のままだった。

 

「ふぅーーー……」

 

 アンサーが長く息を吐きながら、肩まで湯へ沈んだ。

 

「一時はどうなることかと思ったけれど、なんとか対処できてよかったわ」

 

「あったかしーー……」

 

 少し離れたところでは、紫亜が水面へ両腕を広げている。戦闘の前には腰ほどだった位置からさらに深い場所へ移り、今では首の付け根近くまで湯に浸かっていた。

 

「戦いの疲れが癒やされるしーーーー……」

 

 語尾がだんだん低くなり、最後には波音へ混ざった。

 その隣では、トロイがさらにひどかった。

 

「戦闘後、すぐにお風呂に入れるところは、この神域のいいところだねー……」

 

 両腕を水面へ投げ出し、身体の大半を湯へ預けている。帽子だけは被ったままだが、その下の目は半分ほど閉じていた。

 

「気持ち良すぎて花ーー……」

 

「さっきまで戦ってた人の顔じゃないし」

 

「もう終わったからねー……」

 

「切り替え早いし」

 

「切り替え、大事だよー……」

 

 返事にも少し間がある。

 頭はまだ動いているらしいが、身体の方は完全に休憩へ入っていた。

 

 海岸の別の場所でも、似たような光景が広がっている。

 プロブレムは先ほどまでの騒ぎなど忘れたように久理へ湯を掛け、掛け返された分だけ大袈裟に悲鳴を上げていた。ロンドは少し離れた位置で、誰かが脱ぎ散らかした上着やタオルを拾ってまとめている。

 叢裂は海へ肩まで沈みながら、手のひらで水面を何度も叩いては飛沫を作り、そのたびにカノンから「人に掛けないでくださいね!」と注意されていた。

 

 シオンはもう何もしていない。

 浅瀬で仰向けに身体を預け、耳だけを時折動かしている。そのまま流されていきそうになるたび、カノンが慌てて腕を引いて元の場所へ戻していた。

 夏の海というより、大きすぎる共同浴場だった。

 

 そんな中、波打ち際よりさらに上、濡れた砂が乾いた白へ変わる辺りに、リンデンだけが残っていた。

 制服姿のまま、折り畳み式の簡易机へ端末を置いている。

 机と呼んでも、現地で広げた金属板に脚を取り付けただけのものだった。その上には番号を振られた小型容器が十数本。海水、砂、海底から拾われた小石、先ほど《あわあわ洗い場》から採取した付着物まで、それぞれが透明なケースへ収められている。

 

「リンデンくーん! これ追加ー!」

 

 海から上がってきたプロブレムが、濡れたまま何かを差し出した。

 リンデンは端末から顔を上げる。

 

「何ですか、これは」

 

「わからん!」

 

「……そうですか」

 

 受け取ったのは、海底から拾ったらしい白っぽい欠片だった。

 

「どの辺りにありました?」

 

「んー……あそこ!」

 

 プロブレムが腕を伸ばす。

 かなり雑な指示だった。

 

「岩あるじゃん? その右くらい!」

 

「右というのは、こちらから見てですか。それとも海側から見てですか」

 

「……どっちだろ」

 

「プロブレム姉さん」

 

「たぶんこっちから!」

 

「たぶん、では記録に使えませんよ」

 

「細かーい!」

 

「調査ですから」

 

 リンデンは苦笑しながら、新しい容器へ欠片を入れた。

 

「後で一緒に場所を確認しましょう」

 

「りょーかい♪」

 

 プロブレムは言うだけ言うと、また海へ駆け戻っていった。

 その足跡から落ちた水滴が、乾いた砂へ濃い点を残していく。

 リンデンは一度それを見送り、容器の側面へ新しい番号を入力した。

 その横には、運命が置いていった端末もある。

 戦闘前後で観測された霊子量の推移、水温の変化、天使出現時の反応。別々に取られた情報を一つずつ重ね、時間ごとに整理していく。

 誰かがサンプルを持ってくれば受け取る。

 濡れた観測機器が戻ってくれば、乾いた布で水気を取り、次に使える状態へ戻す。

 海へ入る必要のある作業だけは、自然と誰か別の手を経由していた。

 それを不自然に思う者はいなかった。

 

『リンデン』

 

 運命が海側から声を掛けた。

 腰ほどまで湯へ入り、黄色い浮き輪を脇へ寄せている。

 

『ちゃんと休んでる?』

 

「休んでいますよ」

 

『今ずっと仕事してるように見えるけど』

 

「立っているだけですので」

 

『それ、休んでる人の言い方じゃないよ』

 

 仮面に少し困ったような表示が浮かぶ。

 リンデンは端末へ視線を戻した。

 

「では、この整理が終わったら少し休みますよ」

 

『ほんと?』

 

「はい」

 

『約束ね』

 

「分かりました」

 

 返事を聞いた運命は、ひとまず納得したらしい。

 また海の方へ戻っていく。

 そのやり取りを、トロイは湯の中からぼんやり眺めていた。

 

「リンデンちゃん、相変わらずだねー……」

 

「トロイちゃんも相変わらず気抜けすぎだし」

 

「これはこれで真面目に休んでるんだよー……」

 

 トロイは目を閉じたまま答える。

 紫亜は鼻まで湯へ沈め、ぶくぶくと息を吐いた。

 しばらく、三人とも何も言わなかった。

 波が寄せる。

 湯気が流れる。

 遠くでは、またプロブレムの笑い声が上がっていた。

 

「……そういえばさー」

 

 唐突に、トロイが口を開いた。

 

「んー?」

 

 紫亜が顔だけ向ける。

 

「さっきのアイツら、ほんとに天使だったのかなー……」

 

「たぶん天使じゃないかしー……?」

 

「だよねー……」

 

 そこで会話が終わりそうになる。

 アンサーが待った。

 

「……それだけ?」

 

「え?」

 

「自分から話題を振ったんだから、もう少し考えて」

 

「あー……」

 

 トロイはゆっくり目を開けた。

 空を見る。

 それから、まだ何か考えているような顔で、また少し身体を沈めた。

 

「下級天使っぽい見た目なのに、人語しゃべってたよねー……」

 

「そう、それ」

 

 アンサーが頷く。

 

「対話能力を持つ天使自体はいる。でも、さっきの個体は外見や反応だけを見るなら、それほど高位には見えなかった」

 

「温泉入りすぎて賢くなったとかー?」

 

「雑すぎるわよ」

 

「あははー……」

 

 笑う声にも力がない。

 紫亜が水面を指で掻きながら、

 

「でも、なんか変なのは天使だけじゃないしー」

 

 と続けた。

 

「何が?」

 

「その辺の生き物」

 

 紫亜が浜の端を顎で示す。

 椰子の根元を、小型の生物が走り抜けていく。種類としてはこの辺りで珍しくないものだが、動きが妙に活発だった。

 

「こっち来てから何匹か見たけど、ほかの場所にいるのより元気すぎる感じするし」

 

「元気?」

 

「なんていうかー……動きがいいし。でかいヤツもいるし」

 

「個体差じゃないの?」

 

「それにしては多いんだし」

 

 アンサーが少し考える。

 トロイはその横で、湯へ頬の半分近くまで沈んでいた。

 

「温泉の効能でー……」

 

 一拍。

 

「進化とかしてたりしてー……」

 

 また一拍。

 

「そしたら草だねー……」

 

「……」

 

「……」

 

 アンサーと紫亜が同時にトロイを見る。

 本人はもう目を閉じている。

 

「適当に言ってるし?」

 

「けっこう適当に言ってるー……」

 

「自分で言うんだし」

 

「でも、ないとも言い切れないよー……」

 

「そこだけ急に専門家っぽくなるのやめるし」

 

「あははー……」

 

 トロイは笑い、そのまままた黙った。

 紫亜もそれ以上は追及せず、両腕を水面へ浮かせる。

 ただ一人、アンサーだけは少し前から黙っていた。

 視線が海面へ落ちている。

 

 天使。

 言語能力。

 原生生物。

 海そのものの変質。

 

 それらを頭の中で並べ直しているらしく、周囲の緩んだ空気とは少し違うところにいた。

 紫亜がそれに気づいた。

 

「……ん?」

 

 横顔を覗き込む。

 

「アンサーちゃん?」

 

「……」

 

「おーい?」

 

「え?」

 

 ようやくアンサーが顔を上げた。

 

「どうしたし?」

 

「ちょっと考え事」

 

「ふぅーん」

 

 紫亜の目が細くなった。

 何か別のことを思いついた時の顔だった。

 

「もしかしてー」

 

 少し近づく。

 

「日焼けしたお肌が、まだピリピリするんだしー?」

 

「違うわよ」

 

「ほんとしー?」

 

「本当」

 

「でもさっき痛いって言ってたし」

 

「それは日焼けしてるからで――」

 

 そこまで言ったところで、紫亜がさらに距離を詰めた。

 

「ちょっと紫亜ちゃん?」

 

 アンサーが身体を引く。

 背中側には海しかない。

 紫亜は気にせず、アンサーの肩口へ鼻先を寄せた。

 

「くんくん……」

 

「何してるの!?」

 

「んー」

 

 もう一度。

 

「くんくん……」

 

 アンサーが両肩を縮める。

 

「紫亜ちゃん、近いって!」

 

「この匂い……」

 

 紫亜は鼻先を離した。

 目だけが笑っている。

 

「アンサーちゃん、日焼け止めじゃなくてサンオイル塗ってるし?」

 

「……」

 

 アンサーが固まった。

 ほんの一瞬。

 しかし十分だった。

 

「にしし♪」

 

「違――」

 

「今の間、完全に当たりだし♪」

 

「違うとは言ってないけど!」

 

「言ってないし?」

 

 紫亜が嬉しそうに笑う。

 トロイは隣で目を閉じたまま、

 

「元気だねー……」

 

 とだけ呟いた。

 

「トロイさん、助けて!」

 

「いま休憩中だからー……」

 

「役に立たない!」

 

「あははー……」

 

 紫亜はもう止まらない。

 アンサーの周りを半歩だけ回り、背中側へ目を向ける。

 

「もしかしてアンサーちゃんさー」

 

「なによ」

 

「『背中に届かないからオイル塗ってくれる?』」

 

 そこで声色を変える。

 わざとらしく少し甘くして、

 

「……を、やろうとしてるんだし♪」

 

「か、勘のいい子はお静かにっ!」

 

 アンサーが即座に紫亜の口を塞ごうとした。

 

「むぐっ♪」

 

「ほんとにもう!」

 

 紫亜は逃げる。

 湯を蹴り、少し離れたところから顔だけ振り返った。

 

「当たってるしー♪」

 

「当たってない!」

 

「じゃあなんでサンオイルなんだしー?」

 

「それは……!」

 

 アンサーが言葉に詰まる。

 肩へ掛かった髪を直す。

 次に、意味もなく水面を掬う。

 それから視線を横へ向けた。

 

「……んもう。こんなところ陛下に見られたら……」

 

「陛下ちゃん?」

 

 紫亜の声が妙に落ち着いた。

 

「……なに?」

 

「目の前にいるし」

 

「……え?」

 

 アンサーがゆっくり振り返った。

 湯煙の向こう。

 それほど離れていない場所に、運命がいた。

 

『……』

 

 仮面の表示が、ほんの少し笑っている。

 

「…………」

 

 アンサーの顔から音が消えた。

 

「いつから……?」

 

『けっこう前からかな』

 

「…………」

 

「にしししし♥」

 

「紫亜ちゃん!」

 

 アンサーが振り向いた時には、紫亜はもう両手で口元を覆って笑っていた。

 

「知ってたでしょ!?」

 

「湯けむりがモクモクしてて見えなかっただけだしー♪」

 

「絶対知ってた!」

 

「知らないしー♪」

 

「その顔で言わないで!」

 

 運命の仮面へ、今度は少し困ったような表示が浮かぶ。

 

『アンサー、日焼けすごく似合ってるよ』

 

「陛下ぁ!?」

 

「ほら褒められたし♥」

 

「今その援護はいらないです!」

 

 紫亜は肩を震わせながら、さらにアンサーへ近づいた。

 

「じゃあもっと見てもらうしー♪」

 

「何を――」

 

「ビーチバレーするし!」

 

「……はい?」

 

 紫亜は両手を構えた。

 

「ボールはアンサーちゃんし♪」

 

「どういう意味――ひゃあんっ!?」

 

 水面が大きく跳ねた。

 

「そーれ、ぽよーんし♥」

 

「ちょっ……紫亜ちゃん!」

 

 アンサーが慌てて身を守るように腕を寄せる。

 

「どこ触ってるの!」

 

「ビーチバレーだし♪」

 

「ボールじゃない!」

 

「でも陛下ちゃんガン見してるしー♪」

 

「見なくていいですから!」

 

『えっ』

 

「陛下も困らないで!」

 

 今度はトロイまで薄く目を開けた。

 

「騒がしいねー……」

 

「トロイさんも何とかして!」

 

「仲良さそうでいいんじゃないー……?」

 

「どこを見たらそうなるの!」

 

「そーれ、もう一回し♥」

 

「やめなさいってば!」

 

 また湯が跳ねる。

 紫亜が笑う。

 アンサーが追いかける。

 その周囲だけ波とは別の水音が続き、少し離れた場所にいた何人かまで何事かとこちらを振り返った。

 砂浜では、リンデンがその騒ぎへ一度だけ顔を上げた。

 

「……」

 

 何が起きているのか、少し考える。

 運命が近くにいる。

 トロイもいる。

 危険な様子ではない。

 ならば問題はないだろうと判断したらしく、視線はすぐ端末へ戻った。

 その手元では、先ほど記録した天使出現時の数値が、新しいグラフへまとめられていく。

 

 海では、アンサーの抗議と紫亜の笑い声がまだ続いていた。

 トロイはそのすぐそばで肩まで湯へ沈み、とうとう帽子のつばを目元まで下ろしている。

 

「……平和だねー……」

 

  誰に向けたのでもないトロイの声が、湯気の向こうへ溶けていく。

 そのすぐ前では、平和という言葉からは少し離れた騒ぎがまだ続いていた。

 

「紫亜ちゃん、いい加減に――」

 

「そーれ、もう一回し♥」

 

「やめなさいってば!」

 

 ばしゃり、と大きな水音が上がった。

 アンサーが両腕で身体を庇いながら距離を取り、その分だけ紫亜が楽しそうに詰める。逃げるたびに湯が波立ち、近くを漂っていた桶が二人の間をくるくる回った。

 

「にしし♪ 陛下ちゃん、もっと近くで――」

 

「はいはい、そこまでよ『アンサー』♪」

 

 知らない声がした。

 紫亜の手が止まる。

 アンサーも、そのままの姿勢で動きを止めた。

 声は大きくなかった。

 それでも妙にはっきりと届いたのは、騒ぎの間へ入る間合いがあまりにも自然だったからかもしれない。

 

「お姉さんなんだから、もっとしっかりしないと……ね♪」

 

 アンサーの顔から、先ほどまでの怒りが消えた。

 

「……」

 

 すぐには振り向かなかった。

 聞き間違いを疑うように、ほんの少しだけ眉が寄る。次に肩が動き、最後にゆっくりと顔だけが声のした方へ向いた。

 白い湯気が、海面を横切っていた。

 その向こうから一人の女が歩いてくる。

 

 長い黒髪が、陽射しを受けてもほとんど色を変えないまま背中へ落ちている。顔の周囲にも長い髪が掛かり、その一部は細く編み込まれていた。周囲の水着姿に比べれば、黒を基調とした装いにはどこか機械的な硬さがあり、青緑の細い光が装具の一部を走っている。

 右腕側には、海遊びのためとは思えない機構も見えた。

 けれど、その本人はそんな外見とは似つかわしくないほど柔らかく笑っていた。

 アンサーの唇が、僅かに開く。

 

「……『ファティマ』?」

 

 女は立ち止まった。

 

「『ファティマ』なの……?」

 

「うん♪」

 

 躊躇いのない返事だった。

 

「久しぶり、『アンサー』!」

 

「……」

 

 アンサーはまだ動かない。

 紫亜がその横から顔を覗き込む。

 

「アンサーちゃん?」

 

 返事はない。

 視線だけが、目の前の女へ貼り付いていた。

 

「うそ……」

 

 ようやく出た声は、さっきまでよりずっと小さい。

 

「どうして、こんなところで……!」

 

 ファティマは少しだけ首を傾けた。

 問いの重さなど最初から知らないような顔で、口元を緩める。

 

「えへへ」

 

 一拍。

 

「生き返っちゃった♪」

 

「…………」

 

 今度は、紫亜まで黙った。

 湯へ肩まで沈んでいたトロイが、帽子のつばを少し上げる。

 

「おー……」

 

 それだけ言って、ファティマを眺めた。

 海岸のどこかでは、まだプロブレムたちの笑い声が続いている。波も変わらず寄せていた。陽射しも、湯気も、椰子の葉を揺らす風も、先ほどから何一つ変わっていない。

 だからこそ、ファティマの言葉だけが妙にその場へ残った。

 

『アンサーの知り合い?』

 

 運命が少し近くまで来ていた。

 仮面の表示が問い掛けるように変わる。

 

「知り合い、というか……」

 

 アンサーは何度か瞬きをした。

 目の前にいる人物を、まだ完全には現実として受け止めきれていないらしい。

 それでもやがて息を整えると、ファティマへ一度視線を送り、ほんの少し笑った。

 

「……親友、です」

 

「えへへ♪」

 

 今度はファティマの方が嬉しそうに笑う。

 

『なるほど』

 

 運命の仮面に、小さな笑顔が浮かんだ。

 

『二人は「親友」なんだね』

 

「改めて言われると恥ずかしいわね」

 

 アンサーは片手で髪を耳へ掛けた。

 さっきまで紫亜に弄られていた時とは違う、少しだけ照れた仕草だった。

 

「でも、うん」

 

 ファティマへ顔を向ける。

 

「今の私があるのは、『ファティマ』のおかげ」

 

「もう、アンサーったら」

 

 ファティマが頬へ指を当てる。

 

「嬉しいこと言ってくれるなぁ」

 

「本当のことよ」

 

 二人の間には、再会したばかりとは思えない距離があった。

 言葉にしなくても互いの表情を読むことに慣れている。久しぶりのはずなのに、視線が合うまでの時間も、それを外すタイミングも妙に自然だった。

 

「ええと」

 

 ファティマがそこで運命へ向き直った。

 

「久条運命さん、だっけ?」

 

『うん。久条運命だよ』

 

「やっぱり♪」

 

 ファティマは胸元へ片手を当てる。

 

「改めて、I.Z.I.所属の武装エンジニア。コードネームは――」

 

 少しだけ間を置く。

 

「『予言』と書いて『ファティマ』」

 

 笑顔のまま、軽く頭を下げた。

 

「以後お見知りおきを♪」

 

『こちらこそ、よろしく』

 

「『予言』?」

 

 紫亜がすぐに食いついた。

 もう先ほどまでの静けさは薄れ、いつもの好奇心が戻り始めている。

 

「ってことは、未来予知とかできるんだし?」

 

「んーん」

 

 ファティマは人差し指を振った。

 

「そんなミラクルはできないかなー」

 

「じゃあなんで『予言』なんだし?」

 

「私が生きてた当時に書いたナノマシン関連の論文がね」

 

 そこまで言って、少し楽しそうに両手を広げる。

 

「後から見たら、近い未来をかなり正確に予測してたみたいなの」

 

「へぇー?」

 

「それで周りから『まるで予言者だー!』なんて言われちゃって」

 

 自分でも少し可笑しいらしく、肩を揺らす。

 

「そのままコードネームになっちゃった♪」

 

「ノリ軽いし」

 

「そういう時代だったのよ、たぶん♪」

 

「あははー」

 

 トロイが湯の中で笑った。

 そのまま、もう一度ファティマを見る。

 先ほどまで半分閉じていた目が、ほんの少しだけ開いていた。

 

「生きてた当時、かー」

 

「ん?」

 

「自分が再現体だってこと、自覚してるんだねー」

 

 ファティマは特に驚かなかった。

 

「ああ、そこ?」

 

 むしろ確認されると思っていたように頷く。

 

「私みたいなパターンは珍しいのかな」

 

 自分の右腕の装具へ視線を落とす。

 

「でも、アンサーに会って確信しちゃったの」

 

「私に?」

 

「うん」

 

 ファティマがアンサーを見る。

 

「アンサーはちゃんと時間を生きてる。私の知ってるアンサーよりずっと先にいる」

 

 言い方は明るいままだった。

 深刻さを足そうとはしない。

 

「だったら、論理的に考えればそれしかないなーって」

 

「……」

 

「私自身は、とっくに死んでる」

 

 その一言だけは、妙に簡単だった。

 

「だから今の私は、何かが生前の私を再現した存在。たぶん、そういうこと」

 

 ファティマは足元の湯を見た。

 

「それがこの温泉の作用なのか、ぜんぜん別の何かなのかは、まだ分かってないけどね♪」

 

 最後に付け足された軽い語尾が、少しだけ場の重さを戻した。

 紫亜はファティマを見つめている。

 警戒を完全に解いたわけではない。

 その視線に気づいたのか、ファティマがふっと笑う。

 

「大丈夫よ」

 

「……ん?」

 

「武器とか持ってないし、あなたたちと戦う気はゼロ♪」

 

 紫亜の眉が上がった。

 

「今の、紫亜の目線だけで考え読んだし?」

 

「何となくね」

 

「さすがアンサーちゃんの親友、こわこわしーー」

 

「お褒めに預かり光栄ですっ♪」

 

「褒めてないし?」

 

「でもありがと♪」

 

 ファティマは気にした様子もない。

 その少し後ろ、乾いた砂の上では、リンデンが端末から顔を上げていた。

 今までこちらを見ていなかったわけではない。

 アンサーの声が変わった時点で、会話の一部は耳へ入っていた。

 ただ、ファティマが自分を再現体だと口にしたところで、視線が少し長く止まった。

 

「……」

 

 黒い髪。

 機械的な装具。

 笑いながら、自分はすでに死んでいると言った女。

 端末の画面には、まだ先ほどの天使戦で得た観測値が表示されている。

 リンデンは一度だけそれへ目を落とし、再びファティマを見た。

 何かを確認するような視線だった。

 しかし、口にはしない。

 

『リンデン?』

 

 運命が気づいて振り返る。

 

「いえ」

 

 リンデンは端末を閉じなかった。

 

「少し気になっただけです」

 

『ファティマが?』

 

「……はい」

 

 そこへ本人が気づいた。

 

「ん?」

 

 ファティマがこちらを見る。

 

「あなたもアンサーの仲間?」

 

 リンデンは端末を持ったまま立ち上がった。

 制服の裾についた砂を軽く払い、ファティマへ向き直る。

 

「はい。リンデンと申します。今回は、調査全体の補助と情報整理を担当しています」

 

「リンデンくんね」

 

「はい」

 

「あ、この子はね」

 

 横からアンサーが声を挟んだ。

 まだ再会の余韻が残っていた顔が、リンデンへ向いた時には少しだけ普段の柔らかさへ戻る。

 

「私たちの弟みたいな子」

 

「……弟?」

 

 ファティマがリンデンとアンサーを見比べる。

 

「血が繋がってるとかじゃないの」

 

 アンサーは小さく笑った。

 

「みんなで育ててきた子だから。気づいたら、そういう感じになってたの」

 

「アンサー姉さん」

 

 リンデンが僅かに困ったような顔をする。

 

「間違ってないでしょ?」

 

「……間違ってはいませんが」

 

「でしょ?」

 

 アンサーは少し得意そうに笑った。

 ファティマはそのやり取りを眺めてから、ふっと目元を緩める。

 

「へえ」

 

 今度は先ほどより少しだけ親しげにリンデンを見る。

 

「じゃあ、アンサーの弟くんでもあるんだ?」

 

「まあ、そういうことになるわね」

 

「なるほど♪」

 

 ファティマは片手を軽く上げた。

 

「よろしくね、リンデンくん」

 

「こちらこそ。よろしくお願いします、ファティマさん」

 

 リンデンも小さく頭を下げた。

 それだけのやり取りだった。

 リンデンはすぐに元の場所へ戻る。

 ファティマも、それ以上は追わない。

 ただ、運命だけが二人の間を一度だけ見た。

 何かがあったと断定できるほどではない。

 けれどリンデンが、初対面の相手をあれほど長く見ていたことだけは覚えていた。

 

「……ねえ」

 

 ファティマが再びアンサーへ向き直る。

 

「もしかして、私みたいなのを消すのが今のアンサーのお仕事だったりする?」

 

「ファティマ」

 

 アンサーの顔が曇った。

 

「やっぱり」

 

「違う、そういう意味じゃ――」

 

「分かってるって」

 

 ファティマは笑ったまま、アンサーの言葉を止める。

 

「何年の付き合いだと思ってるの?」

 

「……」

 

「ずっと一緒にいたもんね」

 

 ほんの少しだけ、笑い方が柔らかくなる。

 

「だから分かるよ」

 

「何が?」

 

「アンサー、さっきからちょっと元気ない」

 

「……」

 

「せっかく再会できたんだから、昔みたいに笑ってよ」

 

 ファティマが一歩近づく。

 

「そうじゃないと、運命さんに嫌われちゃうよ?」

 

「ちょ!」

 

 アンサーが急に声を上げた。

 

「そういうのじゃないって!!」

 

「にしし♥」

 

 すぐ隣で紫亜が笑う。

 

「やっぱりそこなんだしー♪」

 

「紫亜ちゃんは黙ってて!」

 

「あははー、元気戻ってて草ー」

 

 トロイの声まで混じった。

 

「もう!」

 

 アンサーが顔を背ける。

 けれど先ほどより、表情はずっと普段に近かった。

 ファティマはそれを見て満足したらしい。

 

「よし」

 

 ぱん、と軽く手を叩く。

 

「決めた!」

 

「……何を?」

 

「私、アンサーたちをサポートするわね!」

 

「え?」

 

 アンサーだけではなく、紫亜も目を丸くした。

 

「……いいんだし?」

 

「もちろん♪」

 

 ファティマはあっさり頷く。

 

「生き返れたのもラッキーだし」

 

 自分の胸元を指で軽く示す。

 

「本当の私はずっと前に亡くなってるわけだし?」

 

 それを言う声に、迷いはなかった。

 

「せっかく今こうして動けるなら、今を生きる人の邪魔なんてしたくないもの」

 

 紫亜は少しだけ黙った。

 

「……変わってるし」

 

「そう?」

 

「もっとこう、自分は生きたいー、とか言うと思ったし」

 

「生きられるなら生きたいよ?」

 

 ファティマは笑う。

 

「でも、それと人の邪魔をするのは別でしょ?」

 

「……」

 

「だから、できることがあるなら手伝う。それだけ♪」

 

 紫亜の警戒が、ほんの少しだけ薄くなった。

 

「ええと……紫亜ちゃん、だっけ?」

 

「あってるし♪」

 

「よろしくね、紫亜ちゃん」

 

「にしし♪ よろしくしー」

 

「それじゃあ」

 

 ファティマが海の方を向く。

 

「陸側はアンサーたちに任せていい?」

 

「陸側?」

 

「うん。私は海洋側を調べてみる」

 

 黒髪を片手で後ろへ払う。

 

「海の中なら、陸からじゃ分からないこともあるでしょ?」

 

「……もちろん」

 

 アンサーが頷く。

 そこで、ふっと表情が緩んだ。

 

「前にもあったね。こういう作戦」

 

「あったあった♪」

 

「私が陸を調べて」

 

「私が海に潜って」

 

 二人の言葉が自然に続く。

 

「あの時はファティマが海底で不発弾を見つけちゃって」

 

「そうそう!」

 

 ファティマが笑った。

 

「しかも触っちゃいけないタイプのやつ!」

 

「それで私がナノマシンを送って、なんとか助けたのよね」

 

「危なかったなー」

 

「笑い事じゃなかったわよ」

 

「でもアンサーがいたから助かったし♪」

 

「……懐かしいな」

 

 アンサーが小さく笑う。

 ファティマも同じように笑った。

 

「あの時の貸し」

 

「え?」

 

「まだ返してなかったなーって」

 

 ファティマが一歩、海へ向かう。

 

「だから今度は、私がアンサーを助ける番かな?」

 

「……」

 

 アンサーはその背中を見た。

 ほんの短い間だけ、何かを言おうとするように唇が動く。

 それから、

 

「うん」

 

 素直に頷いた。

 

「ありがとう♪」

 

「任せて♪」

 

 ファティマは笑い、海へ歩いていく。

 足元へ湯が寄せる。

 黒い装具へ水滴が散り、長い髪の先が風に持ち上がった。

 少し離れたところでは、プロブレムたちがまだ温泉を楽しんでいる。カノンの声も、久理の悲鳴も、ロンドの笑い声も聞こえる。

 誰も、この再会を悲劇として扱ってはいなかった。

 ファティマ自身が、そうさせなかった。

 

 乾いた砂の上。

 リンデンは新しいサンプル容器へ番号を振り終え、端末へ記録を入力した。

 指が一度止まる。

 顔を上げる。

 海へ向かっていくファティマの背中は、もう少し遠くなっていた。

 

「……」

 

 何かを見ている。

 ただ人物そのものを眺める時とは、わずかに違う視線だった。

 ほんの数秒。

 ファティマが波間へ入っていくと、リンデンは何も言わず端末へ戻った。

 傍らに置かれた海水の容器を一本取り、記録された数値を確認する。

 その靴先には、乾いた砂が薄く積もっていた。

 寄せる波は、その少し手前で止まっていた。

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