みにくい魔剣の子 《本編完結・アフター開始》   作:えいちゃ

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トロイルート『ドキドキ!温泉夏物語』.5

 

 

「そんな物騒なもん温泉に持ち込むなーーーっ!!」

 

「武器持ち込み禁止だーー!」

 

「温泉マナー違反ーーー!!」

 

 海岸には、まだ好き勝手な声が飛び交っていた。

 ヘイロリウムを正面へ据えたリンデンは、その向こう側に押し寄せる温泉客たちを反力場ひとつで押し留めている。頭に載せた手拭いはとうにずれ、桶を振り回している者まで混ざっていたが、口にするのは温泉の作法ばかりだった。

 言っていることだけを聞けば、ひどく真っ当な温泉利用者にも思える。

 もっとも、その手から飛んでくる攻撃まで真っ当というわけではなかった。

 

「ですから、こちらはまだ砂浜で――」

 

「温泉海岸も温泉だーーー!」

 

「……そうですか」

 

 何度目かになる説明を諦め、リンデンは僅かに息を吐いた。

 反力場へ衝撃が走る。

 透明な壁が低く震え、ヘイロリウムの内部構造を通じて重い反動が腕へ返ってきた。下端を深く砂へ噛ませているため位置そのものは動かないが、その周囲だけは徐々に砂が沈み、靴底の近くへ浅い窪みが出来始めている。

 

 まだ耐えられる。

 出力にも余裕はある。

 問題は、数だった。

 最初はひとつの群れとして押し返せば済んだ。だが時間が経つほど海岸の別方向からも天使が集まり、反力場の幅を広げるたび、その端を回り込もうとする者も増えていった。

 

 リンデンは一度、腰へ固定した端末へ視線を落とした。

 プロブレムたち。ロンドたち。運命たちはすでにシドウとリーノを追って、この場所から離れつつある。

 それぞれの位置を示す表示が、同じ画面の上で僅かずつ動いている。通信を繋ぎ、必要な情報だけを送り返しながら、正面の群れをここへ留める。それが今の役割だった。

 もう一度、反力場へ衝撃。

 リンデンは肩を少し落とし、ヘイロリウムへ体重を預ける。

 

「……少し、増えすぎましたね」

 

 その声は騒ぎの中へ溶けた。

 直後。今度はヘイロリウム越しではない振動が、足元から伝わってきた。

 最初は、押し寄せる天使たちの足音に混ざる程度だった。

 だが二度目は明確だった。

 乾いた砂の下で、硬いもの同士が押し合い、地面を内側から持ち上げるような音がする。

 

 リンデンの視線が下がった。

 少し離れた場所で、砂へ一本の亀裂が走る。

 細い線はゆっくりと広がり、その奥から乳白色の光が覗いた。砂粒がさらさらと裂け目へ落ち、次の瞬間、その下から巨大な結晶の先端が押し上がる。

 

 鉱石の白。

 その周囲へ、黒い棘状の組織が絡みついていた。

 棘は結晶を抱くように地面を押し広げ、幾つもの節を擦り合わせながら地表へ隆起していく。

 一つ。

 その向こうに、もう一つ。

 さらに離れた砂地でも、大地の表面が盛り上がった。

 花が咲くような穏やかなものではない。

 地面そのものが裂け、その傷口から白い鉱石と黒い骨格が噴き上がってくる。

 

 魔剣種子体。

 白い結晶核を中心に据えた異形の構造体が、次々と地表へ姿を現していった。

 その根元で霊子反応が急激に膨らむ。

 見覚えのある反応だった。

 天使を生み出すための機構。

 

「……なるほど」

 

 リンデンの目が僅かに細くなる。

 今ここへ押し寄せている天使だけなら、時間を掛ければ反力場だけでも捌ける。

 けれど、その背後に召喚機構そのものが増え始めた。

 地表へ露出した種子体の黒い外殻が開き、内部へ光が集まっていく。白い結晶核の奥で何かが脈打ち、周囲の霊子を吸い寄せていた。

 このまま維持戦へ付き合えば、こちらが減らすより先に増援が補充される。

 

 反力場。

 残存数。

 種子体の展開速度。

 周囲の地形。

 通信中継を継続したまま抑え込める限界。

 必要な条件が、頭の中で静かに並んだ。

 リンデンの右手がヘイロリウムの操作部へ移る。

 守るための出力から、壊すための出力へ。

 

「……仕方ありませんね」

 

 呟いた言葉と共に、指が操作部に重なったその瞬間。

 ――赫い光が走った。

 続いて、蒼。

 二色の一閃が、温泉客の群れの背後から鋭く交差した。

 

「――御無礼」

 

 ひどく静かな声だった。

 その言葉が届いた時には、すでに斬撃は終わっている。

 最前列にいた天使たちの身体へ、遅れて細い線が浮かんだ。

 

 赫と蒼。

 交差した斬線を境に身体がずれ、霊子の粒子となって崩れていく。飛び散った光が陽を受け、白い湯気の中へ細かな火花のように溶けた。

 リンデンが顔を上げる。

 群れの向こう側。

 叢裂が立っていた。

 小柄な身体の左右に、二振りの刀。

 振り抜いた姿勢のまま一拍だけ止まり、その後ろで長い髪が遅れて揺れた。

 すぐに次の一歩。

 砂を踏む音は軽い。

 刀が返る。

 赫と蒼が再び弧を描き、進路上の天使をまとめて切り裂いた。

 

「ぷみ」

 

 息をひとつ漏らす。

 それだけで、二振りの刃はもう次の標的へ向いている。

 同時に。

 別方向から、低い風切り音が響いた。

 

「よいしょぉっ♪」

 

 巨大な影が横薙ぎに振り抜かれる。

 ビーチパラソルだった。

 白い布を大きく広げたそれは、本来なら砂浜へ影を落とすためのものだ。だが今は、柄から骨組み、布地の縁まで淡い聖光に包まれている。

 

 ロンドの聖式。

 彼女が手にした物は、用途も材質も関係なく聖武器へ変わる。

 光を纏ったパラソルが、地表へ隆起したばかりの魔剣種子体へ横から叩き込まれた。

 硬いものが潰れる音がした。

 白い結晶核に無数の亀裂が走り、周囲を包む黒い外殻ごと地面から引き剥がされる。その巨体が砂地を滑り、数メートル先でようやく止まった。

 

「もーいっちょ♪」

 

 ロンドが身体を返す。

 パラソルの先端が低く砂を掠め、そのまま大きな円を描いた。

 次の種子体へ直撃し、黒い外殻が砕ける。

 内部で膨らみかけていた霊子反応が一瞬で乱れ、白い結晶片が陽光を反射しながら砂の上へ降り注いだ。

 一連の動きを終えると、ロンドはパラソルを肩へ担ぐ。

 水着のフリルを揺らす潮風の中で、いつもの悪戯気な笑顔を浮かべた。

 

「殿下ぁー!」

 

 戦場には似つかわしくないほど明るい声だった。

 

「スーパーお姉ちゃんメイド、ロンドが助けに来ましたよ♡」

 

 空いている手で、小さくハートまで作る。

 リンデンは、ヘイロリウム越しに二人を見た。

 正面。

 温泉客。

 その向こうで隆起を続ける魔剣種子体。

 左側には、二刀を構え直した叢裂。

 右側には、聖武器となったビーチパラソルを肩へ載せたロンド。

 さきほどまで一点へ集中していた戦線が、三方向へ開いている。

 

「……助かります、ロンド姉さん」

 

 少しだけ声を上げる。

 それから視線を左へ移した。

 

「叢裂姉さんも」

 

「うん」

 

 叢裂は短く答えただけだった。

 その目はもう、リンデンではなく次の天使を追っている。

 ロンドもパラソルを肩から外し、柄を両手で握り直した。

 

「さぁてぇ」

 

 笑ったまま、足を一歩開く。

 

「お話は、全部片づけてからにしましょうか!」

 

 それに応じるように、また地面の奥で白い光が灯った。

 新たな種子体が、砂を押し上げている。

 リンデンの手がヘイロリウムの制御部へ戻る。

 もう、反力場だけで受け続ける必要はない。

 

 ヘイロリウムの内部から、低い駆動音が響き始めた。

 盾の上部に組み込まれた刃輪が、ゆっくりと回転を始める。もともと重厚な盾面から半ば突出するように備わっているその円環は、回転数が上がるにつれて輪郭を曖昧にし、やがて空気そのものへ細かな震えを撒き散らした。

 刃が空を切るというより、その周囲だけ空間の密度が変わったように見える。砂の表面には小さな波紋が走り、足元に散っていた白い結晶片がかすかに跳ねた。

 

 リンデンは反力場を解いた。先ほどまで温泉客たちを押し留めていた透明な壁が消えたことで、正面の群れが一瞬だけ戸惑うように足を止める。

 けれどそれも長くは続かない。行く手が開いたと見るや、何体もの天使がいっせいに前へ出た。

 

「壁が消えたぞーー!」

 

「いまだーーー!」

 

 リンデンも同時に一歩踏み込んだ。

 先頭の一体が腕を振り上げるより早く、盾上部の刃輪がその身体へ触れる。接触した瞬間、天使の輪郭がその箇所から崩れた。

 金属で斬るような感触ではない。霊子の結合そのものへ高周波の振動が食い込み、構造を維持するための結びつきを細かく解いていく。肩口から胸部へ、胸部から胴へ。押し退けられることすらなく、触れた部分から光の粒へとほどけていった。

 

 別の一体が横合いから回り込む。リンデンは盾を返し、刃輪の外縁をその胴へ当てた。振動は表面だけで終わらず、内部へ一息に走り抜ける。霊子構造が崩壊し、天使の身体は何かに耐える余地すら与えられないまま砕けた。

 その横を抜けようとした一体へ、赫い線が走る。

 続けて蒼。

 叢裂は砂を軽く蹴り、小柄な身体を天使の懐へ滑り込ませていた。右の刃が斜めに走り、左がそれを追う。二本の斬線が交差したあと、遅れて天使の身体が左右へずれ、そのまま霊子の残滓へ崩れていった。

 

「――斬ります」

 

 声は小さかった。けれど刃は止まらない。

 一体を斬った勢いのまま身体を返し、次へ踏み込む。赫と蒼の光は細く、鋭く、余分な軌道を残さずに天使の列を切り分けていく。

 そのさらに奥では、ロンドが新たな種子体を叩き潰していた。

 

「そぉいっ!」

 

 聖光を纏ったビーチパラソルが大きく振り下ろされる。白い結晶核に直撃した瞬間、鈍い音とともに表面へ無数の亀裂が走った。周囲を覆っていた黒い外殻もまとめて歪み、内部へ集められていた霊子が行き場を失った。

 ロンドはそのまま柄を返し、次の種子体を横から薙ぐ。パラソルの布地は風を受けて大きく膨らんでいるのに、その一撃だけは冗談のような重さを持っていた。黒い外殻ごと結晶核が砕け、白い破片が砂の上へ降り注ぐ。

 

 三方向へ開いた戦線は、そのまま一気に押し返された。

 叢裂がすでに出ている天使を切り崩し、ロンドが増援元となる種子体を潰す。その中央を、リンデンがヘイロリウムを前へ押し出しながら進んでいく。守勢に回っていた時とは、戦線の速度がまるで違った。

 

 刃輪は止まらない。

 一体。さらにもう一体。

 盾上部をわずかに傾けるだけで、触れた天使の身体がその場から削り取られるように崩れていく。霊子の残滓は粉塵のように細かく、陽射しを受けて一瞬だけきらめいたあと、潮風へさらわれた。

 やがて地面から新たな結晶が現れなくなった。ロンドが最後の種子体を砕き、叢裂も二刀を振り抜いた姿勢からゆっくり刃を下ろす。

 残った温泉客は、あと一体だけだった。

 

「くっ……!」

 

 その一体は後退しながらも拳を構えている。頭の手拭いは半分ほどずれ、先ほどまで持っていた桶もどこかへ失くしている。それでも妙な気迫だけは残っていて、リンデンが近づくほどに声を張った。

 

「来るな!」

 

 リンデンは歩みを止めない。

 

「私がやられても――」

 

 刃輪の駆動音が低く重なる。

 

「第二、第三の私が――!」

 

 その言葉の途中で、刃輪が身体へ触れた。

 霊子の輪郭が一瞬だけ揺れ、そのまま内側から崩れる。最後に残った声も、光の粒子と一緒に散っていった。

 リンデンはしばらくその場を見ていた。刃輪はなおも回転を続けている。やがて出力を落とすと、甲高かった駆動音が少しずつ低くなり、周囲を震わせていた微細な振動も消えていった。

 

「……その言葉を残したのは、あなたで十三体目なのですが」

 

 返事は当然なかった。

 風だけが、白い砂の上を抜けていく。

 

「律儀に数えてたんですねぇ……」

 

 少し離れたところで、ロンドが瞬きをした。

 

「同じ発言が続きましたので」

 

「そこ、気になっちゃったんです?」

 

「途中から」

 

「殿下、そういうところありますよねぇ」

 

 戦闘が終わると、海岸は急に広く感じられた。

 さきほどまで何体もの天使が押し寄せていた場所には、足跡と抉れた砂だけが残っている。種子体のあった辺りには砕けた白い結晶が散らばり、陽を受けた破片がところどころで細く光っていた。遠くからは波音が戻り、湯気を含んだ風が、さきほどまで戦っていた場所を何事もなかったように撫でていく。

 リンデンはヘイロリウムの駆動を完全に止め、盾を背へ戻した。

 

「リンデン」

 

 声に振り返ると、叢裂がこちらへ歩いてきていた。

 二振りの刀はすでに収められている。先ほどまで天使の間を駆けていた時とは違い、今度は砂を踏む足取りも少しだけゆっくりだった。けれどリンデンの前まで来ると、そのまま真っ直ぐ顔を見上げる。

 

「大丈夫?」

 

「はい。問題ありませんよ」

 

「ほんと?」

 

「本当です」

 

 叢裂はしばらくリンデンの顔を見ていた。

 それから、両手を伸ばす。

 身長差のせいで、そのままでは少し届かない。リンデンは何をしようとしているのか察して、叢裂の方へ身体を傾けた。

 両頬を、叢裂の手がそっと挟む。

 

「ここは?」

 

 右頬を親指で確かめる。

 

「大丈夫です」

 

「こっちは?」

 

 反対側へ顔を向けられる。

 

「そちらも問題ありません」

 

「おでこ」

 

 前髪を少し持ち上げられた。

 

「傷はありませんよ」

 

「首」

 

「そこも大丈夫です」

 

 リンデンは訊かれるたびに律儀に答えた。

 それでも叢裂は納得しない。

 頬を挟んだまま、眉間へ少し力を入れる。

 

「……ダメ」

 

「はい?」

 

「もっとお顔見せて」

 

 ふんす、と小さく鼻息を鳴らす。

 そのまま背伸びするように顔を近づけてきた。

 リンデンは一瞬だけ困ったように瞬きをしたものの、抵抗はしなかった。むしろ叢裂が見やすいように、もう少しだけ腰を落とす。

 叢裂の視線が、右から左へゆっくり動く。

 額。

 目元。

 頬。

 鼻筋。

 顎。

 傷らしいものがないか、一つずつ確かめていく。

 

「赤くない?」

 

「はい」

 

「切れてない?」

 

「切れていませんね」

 

「痛くない?」

 

「痛くありません」

 

「ほんと?」

 

「本当です」

 

 何度確認されても、リンデンは同じ調子で答える。

 ようやく叢裂の眉間から少しだけ力が抜けた。

 その様子を、ロンドは閉じたビーチパラソルを肩へ担ぎながら眺めていた。

 

「うーん……」

 

 一度首を傾げる。

 もう一度見る。

 小柄な叢裂が、背伸びするようにリンデンへ顔を寄せながら頬を両手で挟んでいる。リンデンの方も、されるがまま身体を屈めている。

 

「傍から見ると、なかなかの事案(ギルティ)なんですよねぇ……」

 

「……ロンド姉さん」

 

 頬を挟まれたまま、リンデンが視線だけを向ける。

 

「私は負傷確認を受けているだけなのですが」

 

「分かってますよぉ。分かってるから余計に面白いんですって♪」

 

「ぷみ?」

 

 叢裂だけがよく分かっていない顔をした。

 

「叢裂、ぎるてぃなの?」

 

「叢裂ちゃんは訴える側(ノットギルティ)なので大丈夫ですよ♡」

 

「じゃあよかった♪」

 

「よくはない気がするのですが……」

 

 リンデンが小さく息を吐く。

 それでようやく、叢裂の手が頬から離れた。

 リンデンも姿勢を戻し、周囲へ一度視線を巡らせる。戦闘中には気にする余裕がなかったが、二人がここへ来たということは、先ほどまで一緒に動いていたはずのもう一人が見当たらない。

 

「そういえば、久理姉さんはどうされたのですか?」

 

「ああ、久理ちゃんですか?」

 

 ロンドはパラソルを閉じ、聖光の消えた柄を肩へ掛け直した。

 

「久理ちゃんには、カノンちゃん達を呼びに行ってもらいました!」

 

「カノン姉さん達を?」

 

「はい♪ シドウさん達を追いかけて、みなさんかなり広く散っちゃいましたからねぇ。これ以上バラバラになる前に、一回連絡を繋ぎ直した方がいいかなーって」

 

 リンデンは端末を取り出した。

 画面には、各班の位置がいくつかの点として表示されている。さきほどまで離れていたそれらは少しずつ動き、まだ完全ではないものの、互いに近づき始めていた。

 

「なるほど。では、こちらからも状況を共有しましょう」

 

「お願いします、殿下♪」

 

 叢裂も横から端末を覗き込む。

 

「みんな来るの?」

 

「おそらくは。ただ、すぐに全員が合流する必要はないでしょう。陛下達には陛下達の調査がありますから、こちらはこちらで今分かっていることをまとめておきます」

 

 海側から風が吹いた。

 戦闘で熱を持った金属を撫で、散らばった結晶片の間を抜けていく。

 叢裂とロンドが来たことで、さきほどまで一人で抱えていた戦線は終わった。

 その代わり、海岸の各所へ散っていた情報をもう一度繋ぎ直す必要があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それからしばらくして、海岸の一角には散っていた面々がひとまず集まり直していた。

 波打ち際から少し離れた、砂の乾いている場所だった。近くには使われなくなったビーチチェアが二脚、畳まれたパラソルが一本。さらに先では、砕かれた魔剣種子体の白い欠片がゆっくりと霊子に還っている。戦闘の跡はそこかしこに残っていたが、海から吹く風は変わらず暖かく、湯気を含んだ波がゆっくりと岸へ寄せていた。

 

 リンデンはパラソルの影に端末を置き、その周囲へ集まった姉たちを順に見回した。

 叢裂とロンド。久理。カノンとシオン。それからプロブレム。

 運命、アンサー、紫亜、トロイはまだ別行動の最中で、シドウとリーノを追っている。久理が呼びに回ったことで、それ以外の班だけが一度ここへ戻ってきた形だった。

 

「では、現状分かっている範囲だけ整理しておきましょう」

 

 端末の上へ、この海岸一帯の簡易地図が開く。

 リンデンは指先で一点を示した。

 

「プロブレム姉さん達が件の二人に最初に接触したのがこちら。その後、ロンド姉さん達が再度遭遇したのが、この辺りですね」

 

「そーそー。急に出てきて、急に逃げてった」

 

 プロブレムは砂の上へ腰を下ろし、両腕を後ろについて画面を覗き込んでいる。まだ濡れている金髪の先から、ときどき水滴が落ちて砂へ小さな染みを作った。

 

「で、運命くんたちが今そいつら追いかけてる」

 

「はい。シドウという方は過去に魔剣使いだったそうですし、少なくともこの異常について何か知っている可能性は高いでしょう」

 

「重要参考人、って感じ?」

 

「現状では、その認識でいいと思います。ただし、その方達がこの異常そのものを引き起こしたと断定できる材料はありません」

 

 リンデンは地図の表示を少し縮小し、別の地点へ指を滑らせた。

 

「陛下達がすでに追っていますから、こちらまで同じ対象を追う必要もないでしょう。何か分かれば、アンサー姉さん達から共有が来るはずです」

 

「じゃあ、私たちは別のところを見てみましょうか」

 

 カノンが、皆の顔を見ながら柔らかく言った。

 

「シドウ達の方は運命くんたちに任せて、こっちはこっちで調べた方が良さそうですね。同じ場所にみんなで集まっちゃっても仕方ないですし」

 

「はい。その方がいいと思います」

 

 リンデンが頷くと、カノンも「うん」と明るく返した。

 端末上には、これまで確認された反応がいくつも重ねられていく。

 温泉化した海。

 天使。

 魔剣種子体。

 途中から現れた、どう考えても自然発生とは思えない洗い場や備品。

 ひとつひとつを切り離して見れば、奇妙な温泉地の騒ぎで済ませられなくもない。けれど、こうして同じ地図の上へ並べると、その異常さはずっと分かりやすくなった。

 土地の在り方を書き換え、一定の法則を定着させ、その法則に沿った存在まで生み出している。

 

「問題はやっぱり、魔剣の反応がないことですかぁ?」

 

 ロンドが、閉じたパラソルを肩へ預けながら訊いた。

 

「はい」

 

 リンデンは頷く。

 

「現象だけを見るなら神域と非常によく似ています。ですが、発生源となる魔剣の反応が今のところ確認できていません」

 

「じゃあ、星遺物?」

 

 叢裂がリンデンの隣から画面を覗き込む。

 

「その可能性もあります」

 

「決まりじゃないの?」

 

「ええ。魔剣由来でありながら、何らかの方法で反応だけが隠されている可能性も切れません。それに、星遺物(アーティファクト)由来だとしても、ここまで神域に近い現象を継続して成立させている理由がまだ分かりません」

 

「んー……」

 

 久理が顎へ指を添える。

 

「要するに、魔剣がないのに神域っぽい。だから星遺物が怪しい。でも星遺物なら星遺物で、なんでこんなに神域っぽいのか分かんない、だよね」

 

「大まかには、そういうことになります」

 

「それじゃあさ」

 

 プロブレムが顔を上げた。

 

「結局、何がこの場所のルール決めてんの?」

 

 何気なく投げられた言葉に、リンデンは端末から視線を上げた。

 久理は顎に指を添えたまま考え、ロンドは肩に預けたパラソルを揺らしている。カノンは皆の話を聞きながら、時折海の方へ目を向けていた。叢裂は変わらずリンデンの隣にいて、シオンだけが少し離れた砂の上で、流れ着いた貝殻を指先で転がしている。

 リンデンは話を聞きながら、その姿のさらに先へも視線を置いていた。

 

 それは瞳に映る景色とは、少し性質が違う。

 魔剣リンデン――現次元より一段上に在る高次元構造が、三次元の世界へ投影された存在。その性質ゆえに彼が捉えるものは、目の前にある位置や形だけでは終わらない。今という一点から続く時間、選択によって分かれていく因果、その存在がこの先どのような形で世界へ残っていくのか。通常なら順番に通過するほかないものが、リンデンには幾重にも重なった構造として知覚されることがあった。

 

 その中でも、これから先へ伸びていく可能性の連なりを、彼は便宜上“枝”として捉えていた。

 未来そのものが見えているわけではない。

 誰が何時何分に何を言い、何を選ぶのかまで分かるものでもなかった。ただ、現在の条件から先へ伸びる可能性がどの程度分かれ、どちらへ傾き、どこで細くなっているか。その輪郭だけが、時折視界の奥へ重なる。

 

 今もそうだった。

 プロブレムの先には幾つもの細い分岐があり、久理にも、カノンにも、それぞれ異なる広がりがある。ロンドと叢裂、少し離れたシオンにも同じように、現在から先へ伸びる細かな可能性があった。

 それは会話のたびに僅かずつ揺れている。

 

「たしかに、不思議ですよね」

 

 カノンが皆を見ながら言った。

 

「魔剣の反応はないのに、ここまで神域みたいになってるなんて」

 

「温泉だけならともかく、天使も種子体も出てるし」

 

 久理が続ける。

 

「しかも、あの温泉客さん達って妙にここのルールに従ってるでしょ? あれもこの場所の法則に組み込まれてるってことなのかな」

 

 その言葉に応じるように、久理の先で一本の細い枝が僅かに伸びた。プロブレムの側でも別の可能性が生まれ、カノンの先では幾つかの分岐が緩く位置を変える。

 珍しいことではない。

 言葉を交わせば、人は何かを知る。

 何かを知れば、次に取れる選択も変わる。

 リンデンはその小さな変化を視界の片隅で拾いながら、端末へ目を戻した。

 

「もしそうなら、これは――」

 

 そこで、一度だけ瞬きをした。

 瞼を閉じ、開く。

 ほんの一瞬。

 海は同じ場所で光っていた。風も変わらず暖かく、プロブレムは砂の上に座ったまま、久理は顎へ指を添えている。ロンドも叢裂も、カノンもシオンも、立っている場所は少しも変わっていなかった。

 それなのに。

 

「……」

 

 リンデンの言葉が止まった。

 さきほどまで見えていた枝が、違っている。

 久理の先。

 プロブレムの先。

 カノン、ロンド、叢裂、シオン。

 大きな分岐が失われたわけではない。何か決定的な未来が消えたわけでもない。ただ、瞬きをする前まで別々の方向へ伸びていた細い可能性の幾つかが、ほんの僅かに位置を変えていた。

 

 それ自体なら、まだ珍しくはない。

 異様なのは、全員が同時だったことだった。

 別々の思考を持ち、別々の位置に立つ人間の枝が、何の契機も見えないまま、ほとんど同じ瞬間に同じような傾きを見せている。

 その変化を生んだはずの出来事だけが、どこにもなかった。

 

「……リンデン?」

 

 隣から叢裂が見上げてくる。

 

「どうしたの?」

 

「……いえ」

 

 答えながら、リンデンは先ほどまでの会話を辿った。

 この場所の法則。

 魔剣。

 星遺物。

 そこまでは覚えている。

 自分も何かを続けて言おうとしていたはずだった。

 けれど、その次に何を考えていたのかだけが曖昧だった。

 

「まあでも」

 

 プロブレムが両手についた砂を払った。

 

「シドウたちが何か知ってるなら、そっちは運命くんたちに任せとけばよくない? アンサーもトロイちゃんもいるし」

 

「……そうですね」

 

 リンデンは反射的に答えた。

 言っていることは間違っていない。

 それはつい先ほど、自分自身が確認した方針でもある。

 シドウ達については、運命達の報告を待つ。

 何もおかしくない。

 なのに、何かひとつだけが抜けている。

 その感覚だけが残った。

 

「じゃあ私たちは、もう少し別の場所を見てみましょうか」

 

 カノンが場を整えるように言った。

 

「まだ見てないところもありますし、何か見つかるかもしれません。焦って同じところを調べるより、手分けした方がきっと早いですよ」

 

「そうですねぇ」

 

 ロンドが頷く。

 

「それに、せっかくこんなに広い海岸なんですから、見落としがあったらもったいないですし♪」

 

 久理もいつの間にか別の方向へ視線を移していた。

 少し前まで、全員が同じ問いの周囲へ集まっていたはずだった。

 今は、その問いだけが場の中央から薄く抜け落ちたように見える。

 

「リンデン」

 

 もう一度、叢裂が呼ぶ。

 今度はリンデンもすぐにそちらを見た。

 

「さっきから、変だよ?」

 

「……そう見えますか?」

 

「うん」

 

 叢裂は迷わず頷いた。

 

「何かあった?」

 

 その声に、カノンも少し心配そうにリンデンを見る。

 

「リンデンくん、具合悪いですか?」

 

「いえ。身体の方は大丈夫です」

 

「ならいいんですけど……」

 

 カノンはそこで言葉を止めた。無理に聞き出そうとはせず、ただ少しだけ様子を見るように待っている。

 リンデンは姉達をもう一度見た。

 枝は、まだ変わったままだった。

 未来は本来、静止しているものではない。言葉ひとつ、視線ひとつ、わずかな判断で細かな形はいくらでも変わる。

 だから、枝が動くこと自体は珍しくない。

 けれど、これは違う。

 何人もの枝が同じ瞬間に、ほとんど同じ方向へ僅かに動いている。

 その理由だけが見えない。

 

「……少し、気になることがありまして」

 

「ぷみ?」

 

 叢裂が首を傾げる。

 リンデンは答えようとして、一度言葉を探した。

 けれど、適切な名前が見つからなかった。

 

「……それが、分からないんです」

 

 叢裂がさらに首を傾げる。

 ロンドもこちらへ顔を向けた。

 カノンは何も急かさず、少しだけ笑った。

 

「分からないなら、今はそれでいいですよ」

 

 柔らかな声だった。

 

「リンデンくんが気になったなら、きっと何か理由があるんでしょうし……思い出したり、分かったりした時に教えてください」

 

「……ありがとうございます、カノン姉さん」

 

「はい!」

 

 リンデンは端末へ視線を戻した。

 

「ひとまず、調査は続けましょう。シドウさん達については陛下達の報告を待ちます。私達は魔剣種子体の発生地点と、まだ確認していない海岸線を見ておきましょう。星遺物由来だとすれば、どこかに現象を維持している構造が残っている可能性があります」

 

「りょー!」

 

「ロンドさんもお供しますねぇ♪」

 

「叢裂も行く」

 

「じゃあ私も手伝いますよ」

 

 カノンが明るく言う。

 

「人手は多い方がいいですから」

 

 それぞれが動き始める。

 リンデンは地図を閉じる前に、もう一度だけ顔を上げた。

 姉達の姿は何も変わらない。

 声も、表情も、立っている場所も。

 ただ、その先だけが。

 ほんの少し前までとは、違う場所へ伸びていた。

 

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