みにくい魔剣の子 《本編完結・アフター開始》   作:えいちゃ

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トロイルート『ドキドキ!温泉夏物語』.6

 

 

 端末の隅で、小さな通知灯が二度明滅した。

 リンデンは表示していた海岸線の地図から目を離し、届いた通信へ指を滑らせる。乾いた砂の上では、先ほどまで確認していた魔剣種子体の発生地点がいくつか赤い点で残っていた。波打ち際からは湯気を含んだ風が流れ、広げた採取袋の端を絶えず持ち上げている。

 少し離れたところでは、プロブレムがしゃがみ込んだまま拾った何かを眺め、シオンは砂の上に座って尻尾の先で浅い溝を描いていた。

 

『リンデン。助っ人が来てくれたよ』

 

 運命からだった。

 

「助っ人、ですか」

 

『うん。アズライト。海の調査なら、きっと力になってくれると思う』

 

 名前を聞いて、リンデンは一度だけ周囲へ視線を巡らせた。

 つい先ほどまで話し合っていた内容は端末へ残してある。シドウとリーノについては運命達が追跡中。こちらでは魔剣種子体の発生地点と海岸の未調査区域を見ていたが、現状、原因へ直結するものは拾えていない。

 

 もっとも、調査そのものが無意味だったわけではなかった。

 視線の先で、砕けた白い結晶片が日差しを反している。

 数十分前まで、そこには魔剣種子体があった。

 

「カノン姉さん、ロンド姉さん」

 

「はい?」

 

「なんでしょう?」

 

 二人がこちらを向く。カノンは濡れた髪を肩の後ろへ払い、ロンドは先ほどまで聖武器として振り回していたビーチパラソルを、今は何事もなかったように肩へ担いでいた。

 

「お二人は先に陛下達のところへ向かっていただけますか。こちらで集めた情報も共有をお願いします」

 

「リンデンくんたちは?」

 

「もう少しだけ、この辺りを確認してから戻ります。調査範囲が重なってしまうのも勿体ないですから」

 

 カノンは端末の地図を一度覗き込み、それから素直に頷いた。

 

「分かりました。じゃあ運命くんたちには、こっちで分かったことをちゃんと伝えておきますね」

 

「お願いします」

 

「殿下も無理はしちゃ駄目ですよぉ? ロンドさんが戻ってきた時に傷が増えていたら、メイドとして大変遺憾ですので」

 

「善処します」

 

「善処じゃなくて約束がよかったんですけどねぇ」

 

 ロンドは少しだけ頬を膨らませたが、すぐにカノンと並んで歩き始めた。白い砂へ二人分の足跡が伸び、やがてビーチパラソルの先が遠くの椰子の陰へ消える。

 

 その背中を見送ってから、リンデンは再び端末へ目を落とした。

 画面には、現在までに確認された種子体の出現時刻が並んでいる。

 一つ目。

 二つ目。

 三つ目。

 指先で記録を送り、直近のものへ近づくほど、リンデンの視線がゆっくりと止まった。

 

「……やはり」

 

「なに?」

 

 隣から叢裂が覗き込む。

 

「発生の間隔が短くなっています」

 

「種子体?」

 

「はい」

 

 リンデンは直近の三件を並べ直した。

 

「最初に確認した時よりも、隆起から次の隆起までの時間が明らかに縮んでいます。それと、破壊時に観測した霊子量も僅かですが増えています」

 

「じゃあ、強くなってる?」

 

「可能性はあります。ただ――」

 

 そこで言葉を区切る。

 

「今はまだ、それ以上は分かりません」

 

「ふーん」

 

 プロブレムがいつの間にか背後へ来ていた。腰を折って画面を覗き込み、数値を見ているのかいないのか分からない顔で頷く。

 

「でもさぁ、増えるわ強くなるわって普通にめんどくない?」

 

「めんどい」

 

 砂の上に座ったまま、シオンが即答した。

 

「そろそろ帰りたい」

 

「調査が終わったらですよ」

 

「ねこだから、ちょうさわからぬ」

 

「それで通るの、たぶんシオンさんくらいだよね」

 

 久理が笑い、シオンは聞こえなかったことにしたらしい。尻尾の先だけが砂を払った。

 海は変わらず穏やかだった。

 沖には白い湯気が薄く漂い、その向こうで陽光が水面を細かく砕いている。視界のどこにも、世界が少しずつおかしくなっているような切迫感はない。それでも地面の下では何かが育ち、先ほどより短い間隔で白い結晶が押し上がってくる。

 リンデンはその海と、端末の数値を交互に見た。

 原因はまだ遠い。

 ただ、進行している。

 それだけは確かだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「天知る、地知る、人が知る……」

 

 海岸の向こうから、妙に抑揚の薄い声が聞こえてきた。

 声だけなら、眠気を堪えて読み上げているような平坦さだった。けれど、続く言葉だけは妙に勢いがある。

 

「知る汁ずずず、スープ飲み干し……」

 

 波打ち際にいた何人かが、揃ってそちらを振り返る。

 白い砂の上を歩いてきたのは、短い白髪の少女だった。額には包帯が巻かれ、そこから覗く薄い色の瞳は静かなまま。青い水着は明らかに本人の雰囲気より華やかで、肌に沿う細い紐や結び目が、借り物らしい違和感を余計に目立たせている。片手には赤い飲み物の入ったグラス。背後には輸液バッグを思わせる赤い液体が吊られ、細い管が風に揺れていた。

 

「呼ばれて飛び出て、どもどもどーも。アズライトさん現着です」

 

 言い切っても、表情はほとんど変わらない。

 そのちぐはぐさに、先に到着していた運命が嬉しそうに一歩前へ出た。

 

『わざわざ現地までありがとう! 来てくれると思ったよ、アズライト!』

 

「ふふん。異常事態ゆえの特別待遇です」

 

 胸を張ったつもりなのか、肩がほんの少しだけ上がる。

 ただし顔には得意げな色がほとんど出ていない。その横で、アンサーだけが明らかに別の理由で落ち着きを失っていた。

 

「はぁ、はぁ……」

 

 浜辺へ駆けてきたらしく、肩で息をしている。水着の肩紐を直しながら、何度か深く呼吸を整えた。

 

「なんとか陛下に会う前に着替えが間に合ったわ……」

 

「間一髪でした……」

 

 カノンが本気で安堵したように胸へ手を置く。

 

「危うく包帯オンリーで登場してしまうところでしたね……」

 

「ほんとびっくりしましたよっ!」

 

 ロンドも隣で大きく頷いた。どうやら運命に頼まれて迎えへ行った時の光景が、まだかなり鮮烈に残っているらしい。

 

「浜辺まで迎えに行ったら、包帯ぐるぐるの痴女が転がっているなんて……!」

 

「私物の貸し出しに感謝します、アンサー」

 

 アズライトは自分の水着へ視線を落とした。青い生地を一度確認し、縫い目か何かを確かめるように指先で軽く触れる。

 

「きちんと洗って返しますのでご安心を」

 

「そこは別に心配してないけど……」

 

 アンサーは複雑そうに眉を下げた。

 借りた側があまりにも堂々としているので、貸した側だけが妙に気恥ずかしそうに見える。

 ロンドは、アズライトに貸し出された青い水着と、現在アンサーが身につけている白い水着とを何度か見比べた。夏の日差しの下ではどちらもよく目立ち、普段の戦闘装束を知っている身からすれば、思った以上に大胆な選択に見える。

 

「んー……アズアズさんに貸した水着といい、いま着てる白いのといい……アンサーお姉さんって、意外と攻めた水着もってますよね」

 

「えっ、そ、そうかな……?」

 

 アンサーの肩がわずかに揺れた。自分でも何となく心当たりがあるのか、視線が一度だけ泳ぐ。

 

「そんなつもりはないんだけど、動きやすいし! 予備もたくさんある方が安心だし!」

 

 そう言ってから、今度は自身の白い水着の端を摘まんだ。

 

「ほら! 白い水着って汚れやすいでしょ? だから、ね!」

 

「なるほど、常に万全を……!」

 

 カノンは疑う様子もなく、素直に感心していた。胸元で両手を合わせ、教わったことをひとつ覚えた時のように目を輝かせる。

 

「完璧な準備こそ『正解(アンサー)』を冠する理由、ですね!」

 

「ありがとうございます! 勉強になりました!」

 

 あまりにも綺麗に納得されてしまい、アンサーの方が少し困った顔になる。

 ロンドはそんなカノンを横から眺め、数秒ばかり何とも言えない沈黙を置いた。

 

「カノンちゃん、あなたはそのまま純粋(ノット・ギルティ)でいてください……」

 

 その間も、当のアズライトは周囲の会話に頓着した様子を見せなかった。借りた青い水着の脇を指で軽く引き、自分の身体との寸法を確かめる。表情は変わらない。

 

「……しかしながら、アンサー。この水着は少しサイズがキツいですね」

 

「え?」

 

「さながら縛りプレイ?」

 

 アズライトは平坦な声のまま、もう一度水着を見下ろした。

 

「色々とまるびでかねないデザインです」

 

「そこまで!?」

 

 アンサーが思わず声を上げる横で、ロンドは腕を組んだ。先ほど浜辺で発見したアズライトの姿を思い返したらしく、すぐに首を横へ振る。

 

「包帯オンリーよりは、かなり超安全&超健全だと思いますけどねっ♪」

 

 そこだけは妙に自信がある。

 

「というか、あの格好で海水浴は普通に事件(ギルティ)ですよぉ」

 

 ロンドは頬へ手を添え、わざとらしく肩を震わせた。

 

「GARDENに痴女がいる! って軌道修正内で噂になったらどうするんです?」

 

 さらに一拍。

 

「ロンドさん、恥ずかしくてもう神々と戦えませんっ!」

 

「水着メイドさんに言われても、かなぁー?」

 

 アンサーが冷静に返した。

 

「ですね♪」

 

 カノンまで即座に同意する。

 

「なぬーっ!?」

 

 ロンドの声が砂浜へ高く響いた。

 その騒ぎへ重なるように、少し離れた場所から砂を踏む足音が近づいてくる。透明な採取容器を両腕へ抱えた紫亜と、その後ろをのんびり歩くトロイだった。容器の中では、場所ごとに採取された海水が陽光を揺らし、底に溜まった砂が歩調に合わせて傾いている。

 

「にししー♪ アズライトちゃんの依頼通り、色んなところの海水とか砂とか持ってきたしー♪」

 

「途中でまた温泉客に絡まれて大変だったー」

 

 トロイは帽子のつばを少し持ち上げながら、気の抜けた息を吐いた。

 

「すこーし温泉を汲んだだけでマナーとか言われてさー」

 

「それはそれはご迷惑を」

 

 アズライトは紫亜から容器を受け取った。

 ひとつずつ透かし、底に沈んだ砂の量や海水の色を確認していく。さっきまでの飛び抜けた発言内容とは裏腹に、調査対象を見る目だけは急に静かで細かい。

 容器を傾ける角度を変え、瓶の表面についた水滴を指で拭う。

 

「ふむ、早速調べる人をやりますアズライトです」

 

「あー……」

 

 紫亜の声が、少しだけ低くなった。

 何か嫌な予感を覚えたらしい。

 アズライトは最初の採取瓶を持ち上げた。

 蓋を外し、鼻先へ近づける。温泉らしい匂いを確かめるように一度だけ静かに息を吸った。

 それから、迷いなく口へ運んだ。

 

「ごっくん」

 

「の、飲んだし……!」

 

 紫亜の目が丸くなる。

 

「あははー……」

 

 トロイも、さすがに半歩だけ距離を取った。

 アズライトはそんな反応を気にせず、舌の上で成分を確かめるように少し黙った。そのまま二口目も飲む。

 青い空の下、波音だけが一度大きく聞こえた。

 

「……ふむ」

 

 やがて、アズライトが顔を上げる。

 皆の視線が自然に集まった。

 

「何かわかったし?」

 

「この温泉は……」

 

 一拍。

 

「美肌効果がすごい!」

 

「…………」

 

 紫亜とトロイが揃って黙った。

 アズライトはその沈黙を疑問にも思わず、調査結果を続ける。

 

「霊子浸透ナトリウム成分のほか、重炭晶干渉因子、塩化霊子ミネラルも豊富……」

 

 言葉だけを聞けば大発見の報告なのに、声色はひどく平坦だった。

 

「お肌はつるつる、保湿でぷるぷる、肉質まで改善し、デトックス効果もあるので内臓もキレイになります」

 

「肉質……?」

 

「発汗作用もありますので、フェロモンとか百倍くらいでちゃってるんじゃないですかね」

 

 再び、浜辺に微妙な沈黙が落ちる。

 少し離れたところでは波が崩れ、湯気を含んだ風が水着の紐を揺らしていた。

 

「ええと、温泉の原因とかはー?」

 

 トロイが訊いた。

 

「何もわからないです」

 

「そっかー……」

 

 横で紫亜も少し肩を落とす。せっかく各所を回って集めてきたサンプルだったが、最初に判明したのは温泉として妙に優秀だということだけらしい。

 

「安心してください。『まだ』です」

 

 声色は変わらない。

 アズライトは空になりかけた採取瓶を目の高さまで持ち上げ、底に残った僅かな水を眺めた。

 

「もうちょっと飲めば何かわかる気配も……」

 

 そこで、視線だけが横へ動いた。

 瓶から、その先へ。

 白い砂浜の向こうには、水平線まで続く海がある。調査対象そのものが、陽光を細かく反射しながら際限なく広がっていた。

 紫亜が嫌な予感を覚えたらしく、アズライトと海を交互に見る。

 

「……アズライトちゃん?」

 

 返事はなかった。

 アズライトは手元の採取瓶を紫亜へ返すと、海の方へ身体を向けた。

 

「というわけで」

 

 青い水着の背中が、するりとこちらへ向く。

 

「海温泉スーパーがぶ飲みタイム、スタートです」

 

 言い終わるのと、走り出すのはほとんど同時だった。

 

「ちょっ! えええ!?」

 

 トロイの声を置き去りにして、アズライトが砂浜を駆けていく。

 無表情のまま。

 足だけはやたらと速い。

 

「アズライトちゃん!? 待つし! 待つしーー!」

 

 紫亜も慌てて追いかけた。

 波打ち際へ辿り着いたアズライトは、そのまま浅瀬へ入り込む。膝まで水に浸かったところで躊躇なくしゃがみ込み、顔を海面へ近づけ――そのまま、ざぶりと温泉へ突っ込んだ。

 

「いや直接いくのー!?」

 

 追いついたトロイが、さすがに間延びした声を崩した。

 アズライトは答えない。

 水面へ顔をつけたまま、ごく、ごく、と本当に海温泉を飲んでいるらしい。時折息継ぎのために顔を上げては、また何事もなかったように沈んでいく。

 

「ちなみに」

 

 ひと息ついたアズライトが、濡れた前髪を額へ貼りつかせたまま振り返った。

 

「たぶんアズライトさんはぶっ倒れるので、その間の護衛をお願いします」

 

「そこまで分かっててやってるー!?」

 

「相変わらず滅茶苦茶なんだしー!」

 

 紫亜が浅瀬を蹴りながら追いつき、その横でトロイも裾を濡らしながら後を追う。

 当の本人は頼むだけ頼むと、また海へ顔を突っ込んだ。

 

「あーもう、仕方ないなぁ……!」

 

 トロイは帽子を押さえながら振り返り、砂浜に残っていた二人へ大きく手を振る。

 

「ロンドちゃん、カノンちゃん手伝ってくれるー?」

 

「ああ! 待って下さい!」

 

 カノンがすぐに反応した。

 

「もちろん手伝いますっ♪」

 

「まったく、お騒がせですねぇ!」

 

 ロンドもビーチパラソルを抱え直して走り出す。

 カノンがその後を追い、二人分の足が乾いた砂を蹴り上げた。

 その先では、紫亜とトロイが海へ突っ込んでいったアズライトを追いかけている。

 真夏の空の下、ひどく穏やかな海岸を、五人の声と足音だけが遠ざかっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し離れた海岸では、リンデンが砕けた魔剣種子体の傍らへ膝をついていた。

 白い結晶質の身体は、つい先ほどまで砂を立てながらこちらへ襲っていたものだ。完全に距離を詰められるより早く、叢裂の二刀が根元からその身体を断ち、残った結晶片が浅く砂へ突き刺さっている。断面にはまだ淡い霊子光が残り、細かな粒となって風へほどけていた。

 

「リンデン」

 

「はい」

 

 すぐ傍にしゃがみ込んだ叢裂が、折れた結晶のひとつを指差した。

 

「さっきのより、大きいよ」

 

「……そうですね」

 

 リンデンは手袋越しに破片を拾い上げた。

 掌へ乗せた感触そのものに大きな違いはない。ただ、表層の結晶は先ほど相手にした個体より厚く、刃を受けた断面にも細かな亀裂が少ない。内部を巡っていた霊子の残滓も濃く、計測器を近づければ数値がすぐに立ち上がった。

 端末へ測定値を送り、それまでに記録した個体と重ねる。

 

「……こちらも上がっていますね」

 

「なにが上がってるの?」

 

「保有していた霊子量です。構造そのものも、少しずつ強固になっています」

 

 指先で記録を遡る。

 最初にこの一帯へ来てから、彼らが種子体や温泉客の襲撃を受けた回数はすでに片手では足りない。しかも、間隔は徐々に短くなっていた。

 

「十分二十八秒」

 

 リンデンが呟く。

 

「ぷみ?」

 

「前回の襲撃が終わってから、今回の個体が接触してくるまでの時間です」

 

 その一つ前は十二分を越えていた。さらに遡れば、もう少し長い。

 偶然と片付けるには、変化の向きが揃いすぎている。

 襲ってくるまでの間隔は短くなり、現れる個体は僅かずつ強くなり、その内部に抱える霊子量まで増えている。ひとつひとつの差はまだ小さい。それでも、時間を追うごとに同じ方向へ積み重なっていた。

 

「増えてるってこと?」

 

 プロブレムが訊く。

 

「少なくとも、襲撃を受ける頻度は上がっています。それに、個体そのものも強くなっているようです」

 

「げー」

 

「げー」

 

 シオンまで同じ声を出した。

 リンデンは思わずそちらを見る。シオンは特に気にした様子もなく、日陰へ逃げるように腰を下ろしていた。

 

「だからって今すぐどうこうできる感じでもないよね?」

 

 久理が、砕けた種子体をつま先で避ける。白い欠片が砂の上を転がり、陽を受けて一度だけ鈍く光った。

 

「海ぜんぶ調べるの、冥王でも普通にめんどくさいよ?」

 

「はい。ですから、原因の特定は専門の方(姉さん達)に任せた方が早いでしょう」

 

 リンデンは立ち上がり、手袋についた白い粉を軽く払った。

 何かが変化している。それだけは、数値を並べれば明らかだった。

 けれど、その理由まではまだ繋がらない。

 海そのものは相変わらず青く、沖では薄い湯気が風に崩されている。少し離れれば、ここが調査対象であることさえ忘れそうなほど穏やかな景色だった。

 

 その時、再び端末が震えた。

 運命側からの共有だった。

 アズライトによる水質調査が始まったこと。向こうでも天使や種子体との接触が増えていること。そして調査の進行に合わせ、そろそろ人員を一度まとめたいという連絡。

 リンデンは短く目を通し、周囲へ顔を上げる。

 

「そろそろ皆さんも陛下達の方へ戻ってください」

 

「リンデンは?」

 

 叢裂がすぐに訊いた。

 

「私はここまでの観測記録をまとめてから向かいます」

 

「ひとり?」

 

「それほど時間はかかりませんよ」

 

「でも」

 

 叢裂の眉が少し寄る。

 リンデンは足元の採取ケースを閉じ、留め具を確認した。計測器具を順番に収め、最後に先ほど採取した結晶片だけを小さな保存容器へ移す。

 

「危険を感じたらすぐに離脱します。それに、今のところこの周辺に大きな反応はありません」

 

 叢裂はまだ何か言いたそうだった。

 けれど、プロブレムがその肩へ軽く手を置く。

 

「まー、リンデンなら大丈夫っしょ。なんかあったらすぐ呼んでよ?」

 

「はい」

 

「かえる」

 

 シオンはもう歩き始めていた。

 

「早いなぁ」

 

「ねこだから」

 

「やっぱり便利だよね、その言葉」

 

 久理の笑い声が、波音に混じりながら遠ざかっていく。

 叢裂だけはなかなか動かなかった。数歩進んでは振り返り、リンデンの顔を見て、また歩く。三度目に振り向いたところでリンデンが小さく頷くと、ようやく前を向いて皆のあとを追った。

 人の声が少しずつ薄くなる。

 砂の上へ残った足跡も、海から吹く暖かな風に縁を崩されていった。

 それまで会話の向こうへ退いていた波音が、不意に近く感じられる。

 

 リンデンは一人になった海岸で、開いたままの端末へ視線を落とした。

 短くなっている襲撃間隔。

 増している個体強度と、保有霊子量。

 そこに、運命達の側から届いた接触数の増加を重ねる。

 何かが進んでいる。

 その形はまだ見えないまま、結果だけが少しずつ海岸へ押し出されているようだった。

 

 沖から風が吹き、傍らに置いた採取袋の口をぱたぱたと鳴らす。

 リンデンはそれを片手で押さえた。

 そのまま、何とはなしに顔を上げる。

 湯気の向こう。

 少し離れた海の中に、人影があった。

 水面へ長い黒髪を漂わせながら、ひとり、そこにいる。

 

 ファティマだった。

 

 リンデンがそちらへ顔を向けると、向こうも気づいていたらしい。湯気の薄いところで、長い黒髪の奥から穏やかな笑みが返ってきた。

 

「あら、リンデンくん。ひとり?」

 

「はい。皆さんには先に陛下のところへ向かっていただきました。私はここまでの観測記録を整理してから合流する予定です」

 

「ふぅん」

 

 ファティマは水面へ肩まで浸かったまま、少しだけ首を傾けた。波が寄るたび、黒髪の先が水の上へ広がっては、またゆっくりと形を変える。

 

「真面目ねぇ」

 

「そうでしょうか」

 

「そうよ。真面目で、きっちりしてて、自分のやることは最後までちゃんとやる」

 

 そこで、ふふ、と小さく笑う。

 

「そういうところ、鎖凪ちゃんにちょっと似てるかも」

 

「アンサー姉さんに、ですか」

 

「うん。あの子も昔からそんな感じだったの。自分のことはあと、自分はまだ大丈夫、って顔して、気づいたら誰より働いてるのよ」

 

 懐かしいものを眺める声だった。

 リンデンは一度だけ目を伏せ、手元の端末へ視線を落とした。

 

「私には、アンサー姉さんほどの才覚はありませんが」

 

「あらあら」

 

 ファティマの笑みが少し深くなる。

 

「そこまで含めて似てるって言ったら怒る?」

 

「……困ります」

 

「ふふ。やっぱり似てるかも♪」

 

 海から吹く風が、リンデンの前髪を僅かに持ち上げた。

 そのまま、何気なくファティマを見る。

 そして――視界の奥に、別のものが重なった。

 

 ファティマの背後に見える未来(枝)。

 ――人の未来は、本来ひとつではない。

 高次元構造魔剣としてのリンデンには、それを言葉通りの未来予知としてではなく、現在から先へ伸びる可能性の構造として捉えることができる。選択ひとつで形を変え、誰かと出会えば枝を増やし、何かを失えば細くなる。普段なら、それらは先へ行くほど複雑に重なっていく。

 

 だが、ファティマの枝(それ)だけはおかしかった。

 先へ行くほど、減っている。

 一つの選択をするたびに、何本かの枝が閉じている。誰かに切り落とされているというより、自ら残すものを選び、それ以外を静かに手放しているように見えた。

 その先に何があるのかまでは分からない。

 ただ、収束の仕方だけが異様だった。

 リンデンはしばらく黙って、それを見ていた。

 

「……ファティマさん」

 

「なぁに?」

 

「ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」

 

「どうぞ?」

 

 海は穏やかだった。

 遠くで砕けた波が白くほどけ、しばらく遅れて小さな音が届く。

 リンデンはファティマから視線を逸らさなかった。

 

「……私に、なにか出来ることはありますか?」

 

 返事は、すぐには来なかった。

 ファティマの笑みが、そのまま止まる。

 普段は柔らかく細められていた目が、静かに開いた。

 黒髪の隙間から現れた紅い瞳が、まっすぐリンデンを見る。

 リンデンも視線を外さない。

 

 数秒。

 波が一度だけ、二人の間を横切った。

 ファティマは何も言わず、ただ彼を見ていた。何を見られたのかを探るようでもあり、それとは別の何かを確かめているようでもあった。

 やがて、その目がわずかに和らぐ。

 

「……じゃあ、ひとつだけお願いしてもいい?」

 

「はい」

 

「今まで通りでいてくれる?」

 

 リンデンの眉が、ごく僅かに動いた。

 

「今まで通り、ですか」

 

「うん」

 

 ファティマは再び、いつもの穏やかな笑みへ戻った。

 

「みんなと一緒に調査して、困ってる人がいたら力を貸してあげて」

 

 水面へ指先を落とす。小さな波紋が広がり、足元の光を揺らした。

 

「何か気づいても、今は無理に答えにしなくていいの」

 

「……」

 

「それが一番、私には助かるかな♪」

 

 リンデンは返事をせず、もう一度だけ彼女の“先”を見る。

 枝は変わらなかった。

 問いを投げたことで広がることも、狭まることもない。

 最初から決めていたものを、そのまま抱えているようだった。

 

「……それだけで、よろしいのですか」

 

「うん。それだけで十分」

 

 ファティマは笑った。

 

「リンデンくんも真面目だから、何か見つけたら全部自分で何とかしようとしそうだし」

 

「そのつもりはありませんが」

 

「ふふ、鎖凪ちゃんも似たようなこと言うのよねぇ」

 

「……そうですか」

 

「そうなの♪」

 

 少しだけ、いつもの調子が戻る。

 それからファティマは、海の奥へ視線を向けた。

 

「じゃあ、私はもう少しこっちを見てくるわね」

 

「はい」

 

「またあとで、リンデンくん」

 

「……はい。ファティマさん」

 

 黒髪が風に持ち上がり、水面へ落ちる。

 次の波が来た時には、ファティマの姿は湯気と水の向こうへ少し遠ざかっていた。もう一度だけ黒い髪が波間に見え、それもやがて青い水面の中へ溶けていく。

 リンデンは、その場所をしばらく見ていた。

 端末の画面では、先ほどまで整理していた数値が変わらず並んでいる。

 襲撃間隔。個体強度。霊子量。

 そして、そのどれともまだ繋がらない、ひとりの女性の未来。

 

「……今まで通り、ですか」

 

 小さく呟く。

 答えはない。

 ただ、本人がそう望んだ。

 今は、それで充分だった。

 リンデンは採取ケースを持ち上げ、肩へ掛ける。最後に一度だけ海を振り返ってから、運命達のいる方角へ歩き始めた。

 白い砂の上へ、新しい足跡がひとつずつ続いていった。

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