ファティマの黒髪が波間へ溶けて見えなくなってからも、リンデンはしばらくその場所を見ていた。
海は相変わらず穏やかだった。白い湯気を薄く纏った水面は、陽を受けるたびに細かな銀の鱗を返し、何事もなかったような顔で寄せては返している。人を呑み込むほどの悪意も、世界を歪めるほどの兆しも、見た目だけならどこにもない。ただ、その静けさの裏で何かが進んでいることだけは、砂浜を歩いてきたここまでの観測が、もう充分に示していた。
リンデンは採取ケースの肩紐を掛け直し、端末の表示を軽く払うように閉じた。
「……今まで通り、ですか」
小さく零した声は、すぐに波音へ紛れた。
答えを求めて出た言葉ではない。あの女性がそう望み、自分はそれに頷いた。その事実だけを、一度きちんと自分の中へ置き直したかっただけだった。
踵を返し、運命たちのいる方角へ向かって歩き出す。乾いた白砂は陽を吸って熱く、靴底越しにもじわりと温度が上がってくる。海側から吹く風は湿っているのに、どこか心地よく、湯気の匂いと塩気を一緒に運んでいた。遠くには椰子の影が細く伸び、その向こうに他の調査班が歩いたらしい足跡が、風に半ば崩されながら残っている。
最初の異変は、その足跡の途切れた辺りで起きた。
砂の下で、乾いたひび割れにも似た音が鳴る。
リンデンは足を止めるより早くヘイロリウムを前へ引き寄せていた。重厚な盾型兵装の上部で、常時露出している刃輪が低い駆動音を上げる。次の瞬間、少し前方の砂浜が内側から盛り上がり、白い結晶質の柱が地を押し破って姿を現した。
魔剣種子体だった。黒ずんだ棘状の外殻を絡ませながら、まだ成長途上の核が陽へ晒されていく。
直後、その周囲に薄い霊子の円環が幾つも灯った。
「……来ますか」
円環が裂けるように開き、温泉客――白い肢体に光を纏った天使たちが、次々と砂浜へ降り立つ。数は四。いや、後ろからもう二。生まれたばかりのそれらは、整然とした足取りでリンデンへ向きを揃えると、躊躇なく間合いを詰めてきた。
リンデンは半歩だけ斜めへ踏み出し、最初の一体の進路へ盾を差し込んだ。
反力場が乾いた破裂音と共に広がり、真正面から突っ込んできた天使の身体が弾き返される。宙へ浮いたその白い輪郭へ、今度は上部の刃輪が触れた。高速回転する振動刃は肉も骨格も持たぬ霊子的な構成体すら細かく崩し、触れた箇所から白い粒子へ変えていく。
砕けた光が砂へ散る。
横合いから二体目。こちらは槍のように伸ばした腕を突き込んできた。リンデンは盾を傾け、その一撃を面で逸らす。流れた軌道のまま大きく踏み込み、柄を短く持ち替えたヘイロリウムの側面で胴を打つ。鈍い衝撃と共に姿勢を崩した天使へ、返す刃輪が唸りを上げた。
正面、左、右。
召喚された天使達は数こそ多いが、連携はまだ浅い。背後へ回ろうとする個体へは、リンデンが足を止めぬまま小さく反力場を切るだけで充分だった。
見えない壁へ叩きつけられた身体が砂を跳ね、そこへ前進しながら刃輪を滑らせる。削れた霊子は夏の光の中で粉雪のように散った。
ただ、終わらない。
最初の集団を捌き切る頃には、先ほど隆起した種子体の周囲で、また新しい円環が点っている。さらに少し離れた場所でも、別の隆起音がした。砂の下で何かが押し上がり、白い結晶核が二本目、三本目と顔を出す。
「……先ほどまでより、早いですね」
独りごちるように言いながら、リンデンは一度大きくヘイロリウムを振るった。反力場が扇状に広がり、新たに出現した天使たちをまとめて後退させる。その隙に最初の種子体へ接近し、盾上部の刃輪を核へ押し当てた。
耳に障る高い摩擦音が響き、白い結晶の表層から放射状に亀裂が走る。次いで内部構造ごと霊子崩壊が連鎖し、種子体は根元から崩れた。
その瞬間、斜め後方から閃光が走る。
リンデンは反射的に身を捻った。二本目の種子体だ。こちらはある程度まで成長していたらしく、固定されたその場から、魔術砲撃に似た霊子弾を放っていた。海水を思わせる青白い光弾が、熱を帯びた筋となって砂浜を抉る。
最初の一発は盾で受けた。反力場とぶつかった光弾は爆ぜ、白砂を大きく巻き上げる。二発目は足元を払うように低く来る。リンデンは後ろへ退くのではなく前へ踏み込み、盾の縁でその軌道を跳ね上げた。逸れた砲撃が空で散り、遅れて熱風が頬を撫でる。
召喚された天使たちは、その砲撃の合間を縫って間合いを詰めてくる。固定砲台と近接戦力。単純だが、砂浜の見通しのよさと噛み合えば、鬱陶しさは充分だった。
リンデンは肩へ掛けたケースが邪魔にならぬよう身体の角度を調整しつつ、三体目の天使を盾で受け流した。
左手で機材を庇い、右の操作で反力場の出力を細かく切り替える。近い相手は刃輪で削り、遠い相手には面で押し返す。
成長した種子体の砲撃だけは厄介だが、逆に言えば発射位置が固定されている以上、射線さえ切れば恐れるほどではない。
問題は、その数だった。
少し進むたびに砂浜のどこかが盛り上がり、新しい種子体が姿を見せる。全てが砲撃してくるわけではないが、召喚される天使の数は確実に増えていた。先ほどまでなら一群れ捌けば数分の静寂があったのに、今は息を整える間もなく次が来る。
そして、三度目の砲撃を凌いだ直後だった。
天使の一体を刃輪で断ち切ったその残光の向こうから、種子体の砲撃がもう一筋飛ぶ。
リンデンは盾を返し、受けられる角度へ半身を切った。受け止めるつもりだった。だが同時に、右側面から別の天使が飛び込んでくる。
わずかに判断が遅れる。
盾で天使を弾いた、その一拍の隙を縫うように、砲撃の軌道が肩口の外を抜けた。
直撃したのはリンデンではなく、肩掛けしていた調査ケースだった。
乾いた破砕音。固定具が弾け、外装の一部が割れる。中に収めていた測定器具の一つが飛び出し、砂の上を滑って止まった。
「……っ」
リンデンは足を止めない。ケースを庇うように半身を引き、目前へ迫った天使の喉元へ刃輪を叩き込む。そのまま一回転するように身体を返し、反力場で周囲を押し広げた。空いた空間へ踏み込み、砲撃を放った種子体へ一直線に接近する。上部の刃輪が白い結晶核へ食い込み、激しい駆動音と共に内部構造を崩していく。遅れて、背後から来た二体も反力場の余波で転がった。
ようやく一呼吸ぶんの間隙ができる。
リンデンは壊れたケースへ目をやった。割れた外装の間から、サンプル管の一本が斜めに覗いている。致命的ではない。まだ持ち運びも可能だろう。だが、先ほどの一撃は、ただの流れ弾にしては妙な角度だった。
もっとも――
「偶然、でしょうか」
そう口にした直後、次の隆起音が鳴っていた。
白砂がまた膨らみ、別の場所で新たな種子体が姿を現す。海風は相変わらず温かいままなのに、戦いの密度だけがじわじわと上がっていた。
リンデンは割れたケースを拾い上げ、肩紐を掛け直す。
その指先が、ほんの僅かに思案のために止まった。
けれど、次の瞬間にはヘイロリウムを持ち直している。
偶然である可能性はまだ残っていた。戦闘中に飛来した砲撃が、たまたま身体の脇を抜け、肩へ掛けていた調査ケースへ直撃した。それだけなら、取り立てて意味を与える必要もない。
リンデンは割れた外装を片手で押さえ、内部から覗いていたサンプル管を奥へ戻した。留め具の一つは完全に壊れていたが、肩紐はまだ生きている。計測器も一基を除けば使用可能。端末に残した記録も失われていなかった。
頭上で、青白い光が膨らむ。
視線を上げるより早く、リンデンは盾を傾けた。
少し離れた砂地には、新たな魔剣種子体が隆起している。白い結晶核を黒い外殻が抱えたまま、その場から動くことなく霊子を収束させていた。充分に成長した個体らしく、結晶の表面には魔術式にも似た幾何学的な光が走っている。
砲撃。
ヘイロリウムの反力場へ青白い光が衝突し、海岸の空気が大きく震えた。
爆ぜた光の向こうから、さらに天使が二体飛び込んでくる。
リンデンは反力場の角度をわずかにずらし、最初の一体を斜め後方へ流した。二体目へは盾面を正面からぶつける。白い身体が大きく仰け反ったところへ上部の刃輪を滑らせると、回転振動が霊子構造へ食い込み、輪郭を光の粒へ崩した。
後方へ流した一体が起き上がる。
その視線が、リンデンへ向く。
次いで――肩へ掛かったケースへ落ちた。
「……」
ほんの一瞬だった。
天使はすぐに踏み込み、リンデンへ向かって腕を振り上げる。今度は正面から受け止めず、身体だけを半歩ずらした。伸びた腕を盾の縁で外へ払い、空いた胴へ刃輪を押し当てる。
白い身体が崩れる。
その間にも、別の種子体の周囲では召喚用の円環が開いていた。
リンデンは小さく息を吐く。
静かになった時間は、ほとんどなかった。
ファティマと別れてから、ここまで何度戦闘になっただろう。先ほど記録した襲撃間隔よりも、体感ではさらに縮んでいる。それに、現れる天使の数も一度に増えていた。
新たに召喚された一体が前へ出る。
リンデンは《ヘイロリウム》を低く構え、その突進を受けた。反力場を一瞬だけ強く展開すると、天使の身体が浮く。その足元を潜るように盾を押し込み、刃輪で腹部を削り取る。
左側から二体目。
正面へ三体目。
後方の種子体では、また砲撃光が収束している。
砂浜を吹く風が、急に熱を帯びた。
リンデンは身体を回し、正面の天使を盾で押し退けた。その反動で左から来た一体との距離を詰め、刃輪を肩口へ当てる。砕けた霊子が頬の横を流れていく中、三体目だけは敢えて追わず、射線から外れるように数歩移動した。
青白い砲撃が放たれる。
今度はヘイロリウムへ来なかった。
「……?」
リンデンの身体から僅かに外れた軌道。
その先には、さきほど破損した調査ケースがあった。
反力場を後方へ展開する。
見えない壁へ砲撃が触れ、ケースへ届く直前で弾けた。爆風に煽られた肩が揺れ、外装の割れ目から白い煙が細く上がる。
リンデンは何も言わず、すぐ正面へ向き直った。
見れば、先ほど追わなかった天使もこちらへ来ている。
――いや。
こちらではない。
進路が僅かに外れている。
リンデンはあえて動かなかった。
天使が横を抜ける。
攻撃できる距離だった。腕を伸ばせばリンデンへ届く。それでも白い身体は一瞬だけ彼の脇を通り抜け、その先――肩から下げられたケースへ手を伸ばした。
刃輪が横から入った。
天使の腕が、肩から先ごと霊子へ崩れる。
そのままヘイロリウムを押し込み、胴体まで振動へ巻き込む。形を失った光が足元へ散り、それを潮風がさらっていった。
「……二度目」
小さく呟く。
一度なら偶然。二度なら、疑う理由になる。
リンデンは残った一体の攻撃を盾で受けながら、周囲を見た。
種子体は二基。
一基は召喚を続け、もう一基もそれに続く。
天使は現在四体。遠方にも霊子反応がある。
対して自分にはヘイロリウム。肩の調査ケース。腰へ固定した端末。採取した結晶片と温泉水。破損した測定器。
何を狙っているのか。
確かめる手段は簡単だった。
リンデンは天使の攻撃を弾くと、その勢いを利用して距離を取った。
足元へ下ろした調査ケースの肩紐を外す。
砂の上へ置いた。
それから、自分だけが数歩離れる。
戦闘の最中に荷物を置くという行為に、天使達が意味を理解した様子はない。白い身体はそれぞれ短く姿勢を整え、種子体の召喚円も変わらず明滅している。
リンデンはヘイロリウムを構えたまま、待った。
一体が動く。
その向きはリンデン。
二体目も続く。
だが、三体目だけが違った。
「……」
明確に、調査ケースへ向かった。
リンデンは動かない。距離だけを測る。
天使はケースへ近づき、そこへ腕を振り下ろそうとする。
それと同時に、種子体が霊子を収束させた。
青白い発光。
狙いも同じ。
「――確認しました」
リンデンの背後で、淡い光が開いた。
量子展開。
霊子の粒子が幾何学的な線を描き、その中央から
リンデン自身は振り返らない。
短い術式起動音。
直後、書面から展開された幾本もの霊子線が天使へ収束した。
白い身体の周囲へ光の式が組み上がり、一拍遅れて内側へ圧壊する。ケースへ腕を伸ばしていた天使が姿勢を崩し、その身体を光弾が次々と貫いた。
同時にリンデンがヘイロリウムを返す。
反力場を一点へ絞り、飛来した種子体の砲撃を上空へ逸らした。青白い光が頭上を抜け、雲の端を一瞬だけ照らす。
それで充分だった。
検証は終わった。
リンデンは砂を蹴った。
自分へ向かっていた二体の間へ正面から入り、最初の一体を盾面で弾く。二体目の腕を下から跳ね上げ、がら空きになった胸部へ刃輪を押し込んだ。振動によって霊子が崩れ始めた身体を横へ払い、そのまま一体目へぶつける。
反力場。
短く、強く。
二体がまとめて宙へ浮く。
グラフロジカのページ上で別のコードが走り、空中へ固定された二つの術式が同時に発火した。
光が散る。
視界が開いた時には、残る脅威は二基の種子体だけだった。
召喚型から新しい天使が現れる前に距離を詰める。ヘイロリウム上部の刃輪を白い核へ食い込ませ、黒い外殻ごと構造を崩す。固定された巨体がその場で亀裂を広げ、支えを失った結晶が砂の上へ崩落した。
背後から、砲撃型。
発射音。
リンデンは振り向きざまに盾を構え、反力場で軌道を外へ流す。着弾した砂が大きく噴き上がる中、そのまま射線の外側を走った。
種子体は動かない。
ならば、砲撃角度さえ外してしまえば距離を詰めること自体は難しくなかった。
最後の数歩を一息に詰める。
刃輪が核へ触れた。駆動音が跳ね上がる。
表層から内部へ細かな亀裂が走り、収束しかけていた次弾の霊子が内側で乱れた。光が膨張しきる前に構造そのものが崩壊し、白と黒の破片が周囲へ散る。
しばらく、砂の落ちる音だけが残った。
リンデンはヘイロリウムを下ろす。
量子展開されたグラフロジカも、追撃対象がなくなったことを確認すると、開いていた頁から順に光へほどけていった。
静かになった砂浜で、リンデンは先ほど囮にしたケースへ歩み寄る。
外装はすでに一度壊されている。
けれど、今の検証では一撃も受けていない。
しゃがみ込み、砂を払う。
「……私を排除することが、第一目的ではない」
独り言は、海風の中へ落ちた。
自分を狙う個体もいた。
戦闘能力を持つ者を無視しているわけではない。
それでも、明らかに調査機材へ向かう個体が混じっていた。それも、単なる拾得物や装備ではなく、観測記録や採取物を収めたものへ。
リンデンは割れた外装へ指先を沿わせる。
「調べられること自体を、止めようとしている……?」
誰が。
何を。
何のために。
そこまではまだ分からない。
ただ、温泉客も魔剣種子体も、これまで意味もなく配置されていたわけではない。その行動には少なくとも、何かを守ろうとする方向性がある。
そして調査が進むほど、妨害は強くなっている。
リンデンはケースを持ち上げ、残った肩紐を掛け直した。
歩みを再開する。
今度は先ほどまでより少し速く。
白い海岸を進む間にも、遠くでは何度か霊子反応が灯った。けれど、すべてへ付き合う必要はなかった。進路を塞ぐ個体だけを排除し、固定された種子体の射線から外れ、運命達の反応へ最短距離で向かう。
やがて、人の声が聞こえ始めた。
最初に届いたのは、いつもの騒がしい温泉客ではなかった。
「それも――『予言』ですか、ファティマさん」
リンデンの足が、僅かに緩む。
アズライトの声だった。
普段と変わらず抑揚は薄い。けれど、その言葉が向けられている先だけは明確だった。
椰子の影を抜ける。
視界が開く。
海辺には運命、アンサー、紫亜、トロイ、アズライト。先に戻していた姉達も、その周囲へ集まっている。
そして、その中心にファティマがいた。
「……どういうこと?」
ファティマは笑っている。
けれど、アズライトは視線を逸らさなかった。
「先ほどから、おかしいのです」
濡れた白髪を額へ貼りつかせたまま、彼女は淡々と言葉を続ける。
「聞きたいことは確かにあったはずなのに、あなたへ聞こうとすると忘れてしまう。もう一度思い出しても、同じところでまた抜け落ちる」
アンサーの表情が僅かに動いた。
「アズライト、もういいかな?」
いつもより少し早い声だった。
「私、ファティマともう少しお話がしたくて――」
アズライトが、今度はアンサーを見る。
海からの風が二人の間を抜け、濡れた髪を揺らした。
「では、お聞きします」
表情は変わらない。
「今のあなたは、第八騎士団ORANGEのFORTRESS――『
ひと呼吸。
「それとも、鎖凪=イージスグラフですか」
アンサーが黙った。
その沈黙の外側で、リンデンは皆のところまで歩いていく。
『リンデン』
運命が気づいた。
リンデンは小さく頭を下げる。
「遅くなりました、陛下」
肩から下げたケースの割れ目を見て、運命の仮面表示が一瞬変わる。
『それ……』
「私は無傷です。調査機材を少し破損しただけですので」
そう答えながら、リンデンはファティマを見た。
少し前、静かな海の中で交わした会話と同じ笑顔が、そこにある。
ただし今は、彼女へ向けられている視線の数が違っていた。
アズライトが口を開く。
「つまり、こういうことです」
そこで一度、波が砕けた。
「あなたは――」
リンデンは肩のケースへ手を添えた。
自分にも、一つだけ持ち帰った答えがある。
温泉客と魔剣種子体。
調査そのものを妨害し始めた、海の側にある何か。
そして目の前では、ファティマへ核心を問おうとしたアズライトの認識が、繰り返し同じ場所で途切れている。
まだ、すべては繋がっていない。
けれど。
ばらばらだった違和感は、ようやく同じ場所へ集まり始めていた。
アズライトはファティマから視線を外さない。
濡れた白髪から雫が落ち、肩を伝ってt青い水着の上へ消えていく。先ほどまで海温泉を直接飲み続けていた人物と同じとは思えないほど、その立ち姿は静かだった。
「あなたへ聞こうとすると、聞こうとしていたことそのものが抜け落ちる。温泉から上がれば思い出せるのに、また浸かれば同じところで忘れてしまう」
アズライトは淡々と続けた。
「これは偶然ではありません。この温泉そのものが、ここにある“何か”へ近づく認識を逸らしている」
誰もすぐには言葉を挟まなかった。
少し離れたところでは、波が砂を濡らしては戻っていく。その向こうに立つファティマは、追及されているというのにいつもの柔らかな笑みを崩していない。
リンデンは肩から破損した調査ケースを下ろした。
「陛下。こちらでも一つ、確認できたことがあります」
『うん』
「途中から、温泉客と魔剣種子体の攻撃対象が変わりました。私への攻撃そのものは継続していましたが、それとは別に、調査機材や採取物を優先して狙う個体が混じっています」
ケースの割れた外装を指で示す。
「偶然か確認するため、機材だけを離して置きました。その状態でも、天使と砲撃型の種子体はそちらを攻撃対象に選びました」
運命の仮面に浮かんでいた表示が、僅かに変わる。
「少なくとも彼らは、人を襲うためだけに存在しているわけではありません。調べられること自体を妨害しています」
「なるほどー……」
トロイが海を眺めながら、間延びした声を落とした。
「頭の中から答えを隠してー、隠しきれなかったら今度は調べる手段を壊しに来る、と」
濡れた帽子のつばを指で少し上げる。
「いやー、随分と手厚い警備だねー。草ー、森ー、防衛設備ー」
ふざけた語尾とは裏腹に、その紫の瞳は笑っていなかった。
「でも変なんだし」
紫亜が腕を組む。
「本当にヤバいもの隠したいだけなら、もっと最初から殺しに来ればよくないし?」
「そうですね」
アズライトが答える。
「認識を奪う。温泉から遠ざける。調査機材を破壊する。いずれも侵入者を排除するには、妙に穏当です」
リンデンも、来る途中で戦った天使達を思い返す。
攻撃そのものに手加減があったわけではない。
それでも、彼らの行動には一貫して“外へ追い出す”方向があった。
殺すことが目的ではない。
見せないこと。
知られないこと。
そして、この場所から帰すこと。
アズライトの視線が、再びファティマへ戻った。
薄い湯煙が、その間を横切る。
「ファティマさん」
「なぁに?」
「あなたですね」
夏の風が止んだように感じられた。
「この温泉と、ここに存在する防衛機構。その中心にいるのは」
ファティマは数秒だけ黙っていた。
やがて。
「……バレちゃったか」
困ったように、けれどどこか楽しそうに笑った。
「じゃあ、この海の海底の大半が私に繋がってるってことまで暴かれちゃうのも、時間の問題かな」
その言葉に、空気が変わる。
「でもまあ、犯人ってバレるまでは『予言』どおりだし。特に驚きはないんだけど」
ファティマは頬の横へ指を添えた。
「……ね♪」
「だめっ!」
アンサーの声が鋭く割り込んだ。
それまで抑えていたものが、急に外へ溢れたような声だった。
ファティマは少し目を丸くして、それから柔らかく笑う。
「うふふ、心配してくれてありがとう♪」
水面が小さく揺れた。
「まさか最後に会えると思ってなかったから……」
その声だけが、先ほどまでより僅かに静かだった。
「会えて嬉しかったよ、鎖凪ちゃん」
「澪音っ……! でも!」
「だめよ、鎖凪ちゃん」
いつもの調子で、ファティマは人差し指を立てる。
「『がんばる禁止』♪」
アンサーの唇が止まった。
その横で紫亜が目を細める。
「湯けむりで霞がかってた気配が、はっきりしたし」
ファティマを見る。
「ファティマちゃんは、天使だし……!」
「……というより」
トロイも続いた。
「限りなく天使に近い者って感じかな」
いつもの笑みが、少しだけ薄くなる。
「いずれにせよ、人類の敵であることに変わりはなくて草だね……!」
「ファティマこそ海温泉の原因であると判明しましたが、ここは彼女のテリトリー……」
アズライトは周囲を一度見渡した。
「不利ではありますが、この場で仕留めることを推奨します」
「あらあら、うふふ」
ファティマは肩を揺らした。
「まったく物騒な子たちだなぁ」
波がひとつ、彼女の腰元で崩れる。
「そうよ。私は『予言』……」
笑みはそのままだった。
「あなたたち人類の敵よ♪」
「違う……! 澪音、あなたは――!!」
アンサーが一歩踏み出す。
「ううっ!」
途端に身体が揺れる。
熱を孕んだ湯気が這い上がるように纏わりつき、強張っていた肩がほんの僅かに落ちた。
気持ちが緩む。
焦りが遠のく。
何を言おうとしていたのか、その輪郭さえ柔らかな湯の中へ溶けていく。
「イヤッ!! 気持ちよくなんてなりたくないのにッ!!」
アンサーは歯を食いしばった。
ファティマはその姿を見て、困った子供を見るように目を細めた。
「もう、鎖凪ちゃんたらがんばりすぎよ?」
そして、ほんの少し首を傾ける。
「仕方ないから、ひとつ予言しましょうか」
指先が上がった。
「『お客様がお帰りよ』♪」
直後。
海岸が鳴った。
ひとつではない。
遠く、近く、左右、背後。
白砂の下から無数の亀裂音が重なり、砂浜そのものが内側から持ち上がっていく。
「――!」
リンデンがヘイロリウムを構える。
視界の端から端まで、白い結晶核が次々と地表へ突き出した。
魔剣種子体。
数える意味を失うほど、一斉に。
黒い外殻を纏った種子体はその場へ固定されたまま成長し、その周囲へ幾重もの霊子円環を展開する。円環が開くたび、白い身体を持つ天使が砂浜へ降り立った。
「なんて数だし!」
紫亜の声が響く。
さらに海側からも温泉客が現れる。
浅瀬から起き上がる者。湯煙の中から姿を現す者。
一部の種子体では、すでに結晶表面へ魔術式めいた光が走り始めていた。
「意地でも温泉から追い出すつもりですね」
アズライトが淡々と告げる。
「あははー、流石に危険すぎるかな……」
トロイは聖槍リタへ手を掛けながら周囲を確認した。
「とりあえず逃げながら戦っていーい?」
『うん。ここでは戦わない』
運命が即座に応じる。
仮面の青い表示が切り替わった。
『みんな、撤退するよ!』
その声と同時に、最初の砲撃が飛んだ。
リンデンはヘイロリウムを前へ出す。
反力場。
青白い霊子砲撃が正面で弾け、熱と砂が左右へ流れた。
「陛下。先に皆さんを」
『リンデン』
「すぐに追います」
短く答え、もう一発を受ける。
その間に叢裂が走り、久理が続く。プロブレムとシオンも後方へ下がり、カノンとロンドがそれぞれ左右から近づく天使を押し返しながら退路へ入った。
紫亜も数歩下がったところで振り返る。
「リンデンちゃんも、ちゃんとすぐ来るんだし!」
「はい」
「絶対だし!」
「分かっています」
返事を聞いて、紫亜も走る。
トロイは最後まで少しだけ残った。
聖槍リタを一度振るい、リンデンの側面へ迫っていた天使を光壁で押し返す。
「リンデンちゃん」
「大丈夫です、トロイ姉さん」
その言葉に、トロイは一瞬だけ目を細めた。
「……そっか」
それ以上は言わない。
「じゃ、あとでねー」
「はい」
薄桃の髪が風に翻り、トロイも皆の後を追った。
残るのは運命とアンサーだった。
『力を貸して、アンサー』
「……えっ」
アンサーが振り返る。
その目が、もう一度だけファティマへ向いた。
「澪音……」
ファティマはいつもの笑顔だった。
「次に会うときは、敵同士かなー?」
波が寄る。
「ばいばい、鎖凪ちゃん」
「…………!!」
アンサーの顔が歪む。
「澪音――!」
その声を引きずるように、運命とともに退いていく。
リンデンは追わなかった。
ヘイロリウムを盾のまま構え、最後の二人が充分に離れるまで、その場に残った。
天使達が前へ出る。
種子体の砲撃光が幾つも膨らむ。
反力場を広く展開する。
連続した衝撃が盾面を叩き、砂の上へ細かな亀裂が走った。それでもリンデンは一歩だけ後退し、次の砲撃を斜め上へ流す。接近した天使を刃輪で削り、開いた空間へ別の天使が入り込めば、今度は盾そのもので押し返した。
勝つための戦いではない。
全員が離れるまでの時間だけでいい。
リンデンは背後の気配を測る。
遠ざかっていく仲間達。
もう充分だった。
その時ふと、視線を感じた。
リンデンが顔を上げる。
天使達の向こう。幾本もの種子体と、薄い湯煙。そのさらに奥で、ファティマがこちらを見ていた。
目が合う。
先ほど二人だけで話した時と同じ瞳だった。
リンデンの視界の奥では、彼女から先へ伸びるものが見える。
枝、可能性。
先ほどよりも、さらに少ない。
幾重にも広がるはずだったものが、一つの場所へ向かって静かに細くなっている。
リンデンは何も言わなかった。
ファティマも何も言わない。
数秒。
その間にも砲撃光は膨らみ、天使達は距離を詰めてくる。
それでも二人の視線だけは、しばらく外れなかった。
――今まで通りでいてくれる?
海の中で聞いた声が、ふと残る。
リンデンの瞼がゆっくりと下がった。
先に目を伏せたのは、彼の方だった。
それだけだった。
顔を上げる頃には、もうファティマを見ていない。
ヘイロリウムを握り直す。重い機械音が鳴った。
盾下部の固定機構が解除され、ジョイントが開き左右へ展開する。金属部材が滑り、噛み合い、長柄として固定された。重厚な盾はその輪郭が開き、巨大な斧身へと組み替わる。
刃輪の回転数が跳ね上がる。
低い音は瞬く間に耳で追えない高さへ昇り、やがて音そのものが消えた。
周囲には天使。
そのさらに外側には、放射状に隆起した魔剣種子体。
複数の結晶核で砲撃光が収束する。
リンデンは長柄を両手で握った。
一歩。
軸足が砂へ沈む。
腰を落とす。
そして――横薙ぎ。
ヘイロリウムが一閃した。
巨大な斧身が空気を切った瞬間、刃そのものが触れていない遥か先まで、振動だけが扇状に走った。
風とも衝撃波とも異なる。
空間を伝播した微細な震えが、触れたものの構造へ直接入り込む。
最前列の天使が消えた。
砕けたのではない。身体の輪郭が一瞬だけ揺らぎ、そのまま薄い霧へ変わるように消失した。
次の一体。
その後ろ。
振動の波が通り抜けるたびに存在の輪郭だけがほどけ、光の粒子さえ残さず消えていく。
さらに外側の固定された魔剣種子体へ波が届く。
白い結晶に亀裂は入らなかった。砕けもしない。結晶核も黒い外殻も、接触した端から淡く霞み――次の瞬間には、そこにあったという痕跡ごと失われていた。
放射状に並んでいた種子体が、波紋の広がりに合わせて次々と消失する。
収束していた砲撃光まで、その発生源ごと消えた。
通常なら残るはずの霊子光もなかった。
舞い上がる粒子もない。
残滓もない。
振動の波が通り過ぎた場所には、白い砂と、そこへ寄せる波だけが残った。
遅れて、横薙ぎに押し出された風が海面を大きく撫でる。
湯煙が一斉に散った。
リンデンは振り抜いた姿勢からゆっくりとヘイロリウムを戻す。
正面に、短い空白が生まれていた。
それで充分だった。
「……失礼します」
誰へ向けたともなく、小さく告げる。
踵を返す。
今度こそ振り返らなかった。
斧形態のヘイロリウムを携えたまま、リンデンは仲間達の後を追って白い砂浜を走り出した。
その背後では、空白になった海岸へ再び波が寄せている。
そして湯煙の向こうには、ただ一人。
ファティマだけが残っていた。