海岸線を外れてからも、しばらく誰も足を止めなかった。
背後では、ときおり霊子砲撃の光が空へ伸びている。先ほどまでいた浜辺は岩壁と椰子の向こうへ隠れ、温泉客の声も、魔剣種子体が隆起する低い振動も、次第に波音の奥へ薄れていった。
最初に立ち止まったのはプロブレムだった。
岩場の影へ入り、後方を一度確認する。追撃の反応はない。少し遅れてアズライトもその横へ辿り着き、濡れた白髪を額へ貼りつかせたまま足を止めた。
まだ他の者達の姿は見えない。
砂を踏む足音だけが、遠くから幾つか近づいている。
「……いつから気付いていたんですか、プロブレムさん」
息を整えるより先に、アズライトが訊いた。
プロブレムの顔が、僅かにそちらへ向く。
「……」
「この海温泉にはナノマシンが含まれていました」
アズライトは視線を逸らさない。
「アズライトさんに気付ける程度のものを、あなたとアンサーさんが気付かないわけがないです」
風が岩肌を抜けた。
プロブレムはすぐには答えず、海のある方角を振り返った。ここからはもう水面の一部しか見えない。その青の向こうに、つい先ほどまで立っていたファティマがいる。
「……うん、だよね」
やがて、肩を少し落とした。
「やっぱり最初から――」
「うん、そうだよ」
アズライトの言葉を遮るように、あっさりと認める。
「この海に来たとき。はじめに温泉に触れたときに気付いた」
足元の砂を軽く蹴る。
「きっとこの神域は第八軌道人類史の再現で、ナノマシン技術が関係してるんだろうなって」
「でも、私はバカだから。詳しいこととか分かんなくて」
「では、アンサーさんは」
「アンサーは……」
そこでプロブレムの言葉が一度止まった。
ほんの少し前のことだった。
「アンサー、この海ってナノマシンが……」
「しい――……」
プロブレムが言い切るより早く、アンサーは人差し指を唇の前へ立てた。
「アンサー?」
「……ごめんね、プロブレム。このことは誰にも言わないでもらえるかしら」
いつもの柔らかな笑みは残っていた。
それでも、声だけは少し低かった。
「少し気になることがあって――……」
一拍。
「この海のことは、私に任せてほしいの」
「――アンサーが言うなっていうから、言わなかった」
短い記憶を閉じるように、プロブレムは言った。
アズライトの眉がごく僅かに動く。
「プロブレムさん、あなたそれでもGARDENの騎士です?」
「そうだよ」
返事に迷いはなかった。
「第八軌道人類史ORANGEのKING、プロブレムだよ」
「だったらなぜ……」
アズライトが一歩近づく。
「ファティマがアンサーさんの旧友だと分かった時点で、せめて陛下には相談しておくべきでは」
プロブレムは首を振った。
「大丈夫っしょ」
口調だけを聞けば、いつもの軽さだった。
「アンサー、なにかに気付いてるっぽかったし、任せておけばオールオッケー」
「根拠になっていません」
「そうかな?」
「そうです」
「でもさ」
プロブレムは少し笑った。
「アンサーが『任せて』って言ったんだよ」
後方から、砂を踏む音が近づいてくる。
最初に姿を見せたのは紫亜とトロイだった。二人とも会話が続いていることに気づいたらしく、近づきながらも口を挟まずにいる。
「だから、私はKINGとしてアンサーに任せたんだ」
その後ろからカノン、ロンド、久理達も続く。
運命の白いパーカーも見えた。
ただ、アズライトは振り返らなかった。
「もし」
淡い瞳が、まっすぐプロブレムを見る。
「アンサーさんがファティマに与していて、我々を欺こうとしているとしたら……?」
集まりかけていた者達の足が、わずかに緩んだ。
プロブレムはしばらく黙っていた。
風に煽られた椰子の葉が、乾いた音を立てる。
「それでもアンサーを信じるよ」
「……」
「それがKINGだから」
アズライトは瞬きをした。
「……天才の勘、ですか」
「信頼だよ」
プロブレムは笑った。
「助けてほしいときはちゃんと言ってくれるし、私らはどんと構えて待ってればよし♪」
少しだけ、いつもの調子が戻る。
「アンサーが自分で『任せて』って言ったなら、私は任せる」
そして一度だけ、海の方を見る。
「で、本当に困ったら助ける」
「そういうものですか……?」
「そういうもん♪」
プロブレムは即答した。
そこへ、少し遅れてアンサーも姿を見せた。
会話の最後だけは聞こえていたのだろう。
プロブレムと目が合う。
けれど、どちらからも何も言わなかった。
アンサーは僅かに目を伏せ、そのまま皆のところへ歩いてくる。海辺でファティマへ向けていた表情が、まだ完全には消えていなかった。
最後に戻ってきたのはリンデンだった。
岩場の向こうから、重い機械音が近づく。
斧形態だったヘイロリウムを盾形態へ戻しながら姿を現し、肩には側面の割れた調査ケースを掛けている。
『リンデン!』
運命が真っ先にそちらへ向いた。
「遅くなりました、陛下」
『大丈夫?』
「はい。無傷です」
リンデンは皆のそばまで来ると、破損したケースを砂の上へ下ろした。
「調査機材の一部は損傷していますが、記録は残っています」
『機材じゃなくて、リンデンの方』
「……はい。そちらも問題ありません」
仮面の表示が、ようやく少しだけ緩んだ。
リンデンはそのまま皆の輪へ入る。
話のすべてを聞いたわけではなかった。
けれど、最後に交わされていた言葉だけは耳に届いていた。
――任せる。
――本当に困ったら助ける。
つい先ほど、自分もまた誰かから願いを受け取ったばかりだった。
波間に立っていたファティマの声が、記憶の中で蘇る。
彼女は助けを求めなかった。
止めてほしいとも言わなかった。
だからリンデンは、その意思を受け取った。
プロブレムもまた、アンサーの言葉を受け取っていた。
似ているように思えた。
けれど。
「……」
リンデンは何も言わず、プロブレムを見る。
任せる。
信じる。
必要になれば、助ける。
その三つがひと続きに語られていたことだけが、妙に耳へ残った。
答えを出すより早く、沖の方角から低い音が届いた。
雷に似ていた。
けれど空はまだ明るく、雲の向こうにも稲光は見えない。
何人かが同時に顔を上げる。
次の瞬間。
海面の遥か向こうで、白い光がひとつ、脈打った。
雷光ほど鋭くもなく、爆発ほど眩くもない。ただ海そのものが内側から一度だけ呼吸したように、淡い光が水の底から浮かび上がり、すぐに消えた。
誰かが声を上げるより早く、二度目の明滅が来る。
今度は一つではなかった。沖合の複数箇所で白い光が同時に走り、細い筋となって海面の下を横切っていく。
「……なんだし、あれ」
紫亜が目を細める。
返事はなかった。
海の中央に近い場所で、ファティマはひとり立っていた。
空はまだ昼の明るさを残しているものの、水平線の上では雲が重なり始めていた。先ほどまで透明に近かった青は少しずつ鈍くなり、遠くの海ほど暗い色へ沈んでいる。
水面の下では、無数の光が走っていた。
一本。また一本。
細い光の筋が海底から海面近くまで伸び、そのたびに、もっと深いところで何か巨大なものが目を覚ましていくような低い振動が、足元から水を伝って上がってくる。
ファティマはその様子を見下ろし、静かに笑った。
「『そうして薬剤師は、予言者に立ち向かうよう進言する』……」
風が長い黒髪を持ち上げる。
「うふふ。予言どおり♪」
独り言にしては、どこか誰かへ語りかけるような声だった。
浮かぶのは、つい先ほどまでそこにいた少女の顔。
鎖凪。
海に触れたその瞬間から、あの子は気づいていた。
それでも黙っていた。
誰にも伝えず、こちらの意図を探りながら、自分なりのやり方で時間を稼いでくれた。
「……ありがとう、鎖凪ちゃん」
ファティマは目を閉じる。
笑みは崩れない。
「あなたが私の予想どおりに動いてくれたから……たくさん時間を稼げたわ」
その足元で、また白い光が走った。
今度は長い。
海底そのものをなぞるように遠くまで伸び、見えない場所で幾つもの光と繋がっていく。
「全部……『予言』どおり」
声は静かなままだったが、次の言葉だけは少し強くなった。
「そして――」
風が一度止まる。
「全てが間に合ったわ」
一拍。
「『OW-III』――!!」
海が鳴った。
水面ではない。
もっと深い場所。
海底そのものが巨大な金属構造の内側から共鳴したような、鈍く低い音が広がる。
ファティマの周囲で幾重もの白い光が立ち上がり、水面へ大きな円を描いた。
その中心で、彼女はただ穏やかに笑っていた。
リンデンは、最初に空を見た。
次に海。
そして、運命の方角へ視線を移す。
何かが起きた。
それだけは、誰に言われるより先に分かった。
音より早く、光より早く、自分の内側にある別の感覚が、それを告げていた。
普段なら、人の先にはいくつもの可能性が広がっている。
誰かと出会い、何かを選び、思いがけない出来事に触れるたびに形を変えながら、遠くへ行くほど複雑に枝分かれしていく。
ファティマだけが、違っていた。
彼女の先は、進むほどに細くなっていた。
誰かに削られているというより、自ら残すものを選び、それ以外を静かに閉じているように見えていた。
けれど、今、リンデンの視界の奥で起きていることは、それとも違った。
運命の先にあったものが、途中で途切れる。
一本。
また一本。
選ばれなかった未来が消えるのではない。
枝分かれする前に、その先の場所そのものがなくなっていく。
その変化は運命だけではなかった。
トロイも。
アンサーも。
プロブレムも。
紫亜達も。
この場にいる誰も彼も、その先にあったはずの可能性が次々と失われていく。
リンデンは息を止めた。
何か一つの未来へ収束しているのなら理解できる。
誰かの決断によって選択肢が減ったのなら、それも見慣れている。
だがこれは違う。
選ばれていないのではない。
そもそも、そこまで辿り着けない。
未来そのものが成立しなくなっている。
「リンデンちゃん?」
トロイの声が聞こえた。
リンデンは返事をしなかった。
視界の奥に広がるものを確かめるように、ただ黙って海を見つめていた。
「……リンデンちゃん」
今度は少しだけ近い。
そこでようやく、リンデンは顔を向ける。
「……すみません」
「んー?」
「少し……考え事をしていました」
それ以上は言わなかった。
言葉にしたところで、何をどう説明すればよいのか、自分でもまだ整理できていなかった。
沖から大きな波が立ち、風向きが変わる。
雲が急速に広がって陽光を遮り、明るかった海岸がひと息に薄暗くなる。岩場へ打ちつけた波が高く砕け、温泉の湯気と海水の飛沫が入り混じって空へ巻き上がった。
「うわっ……!」
カノンが髪を押さえる。
アズライトはすぐに端末を開いた。
「……海中のナノマシン反応が急増しています」
「急増?」
紫亜が訊く。
「というより」
アズライトは表示を追う。
「同期しています」
プロブレムの表情が変わる。
「ううっ……!」
「どしたし?」
「ナノマシンが、共鳴してる……?」
岩場の向こうで、また白い光が走った。
今度は肉眼でもはっきり見える。
海中のあちこちで無数の白い点が浮かび上がり、それぞれが規則正しく明滅していた。
ひとつひとつは小さい。
けれど、それが海全体へ広がっている。
目の前にある青い水そのものが、ひとつの巨大な機構へ変わっていくようだった。
その時、運命の端末が激しく振動した。
『……緊急共有?』
仮面の表示が切り替わる。
通常の報告とは違う。GARDENの基幹予測系から、優先度の高い警告が直接上がってきている。
運命が内容を開いた。
数秒。
『……みんな』
声の調子が変わる。
『ちょっと、聞いて』
自然と全員の視線が集まった。
画面に表示されていたのは、短い一行だった。
世界終焉確率――98.7633%。
風だけが吹いた。
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
「……は?」
最初に声を漏らしたのは久理だった。
「何、その数字」
返事はない。
リンデンもただ、その数値を見ていた。
98.7633。
ほとんど全て。
先ほど視界の奥から消えていった無数の可能性と、その数字が静かに重なる。
錯覚ではなかった。
自分の認識だけがおかしくなったわけでもない。
今この瞬間から先にあったはずのものが、それだけの割合で失われた。
リンデンはその事実だけを、言葉にせず受け止めた。
「……第八軌道人類史由来の大規模兵器反応と一致」
アズライトが端末の表示を追いながら、低い声で言う。
その言葉に、アンサーの肩が僅かに揺れた。
「該当する記録は極めて少ないですが……」
アズライトは画面から顔を上げる。
「名称だけは残っています」
風がさらに強くなる。
海の奥で、また一つ。
巨大な白い光が脈打った。
「『OW-III』」
その名前が落ちた瞬間、リンデンの中で、先ほどまで見えていたファティマの姿が浮かんだ。
細く、少なく、自ら閉じていくように減っていた未来。
そして今、世界そのものの先がほとんど失われている。
まだ二つを繋ぐには材料が足りない。
ただ、あの時ファティマが何を見て、何を選んでいたのか。その輪郭だけが、少しずつ重くなり始めていた。
沖の海面が、大きく持ち上がる。
遠雷のような低音が続き、空はさらに暗くなる。
世界はまだ終わっていない。
けれど、その先に残された余地は、もうほとんどなかった。
世界終焉確率――98.7633%。
その数値を受け取ったあとも、誰かが撤退を提案することはなかった。
むしろ、行く先はひとつしか残されていなかった。海の奥から膨れ続ける霊子反応を追い、一行は再び海岸線へ戻っていく。
先ほどまで澄んだ青を湛えていた空は厚い雲に覆われ、波は短い間隔で白く砕けていた。海中を走る光も、もはや遠目に数えられるようなものではない。幾重もの白い筋が水面の下で明滅し、ときおり海そのものを透かすほど強く輝いている。
その中心に、ファティマはいた。
荒れ始めた海の中で、長い髪を風と波に弄ばせながら、それでも彼女はいつものように笑っていた。待っていたというより、いずれここへ戻ってくることを最初から知っていた者の顔だった。
「もう、遅いよ鎖凪ちゃん」
アンサーは立ち止まらなかった。
足元へ押し寄せた波を踏み越え、ファティマの方へ歩いていく。つい先ほど別れた時には届かなかった声を、今度は手放さないようにするようだった。
「ごめんね澪音、待たせちゃった」
「……ありがとう」
「なんのありがとう?」
アンサーの問いに、ファティマは少しだけ首を傾けた。
「温泉の原因が『OW-III』だって気付いてくれたこと」
風で頬へ張りついた髪を、指先で払う。
「そして、私が今『OW-III』の一部になっているって予想してくれたこと、かな」
アンサーの目が揺れた。
「澪音が巻き込まれたナノマシン兵器の駆動実験……表向きには隠されていたけど、あれは『OW-III』のことだったんでしょ?」
ファティマは答えず、ただ笑った。
その沈黙だけで十分だったらしい。
アンサーはファティマの身体へ視線を落とす。そこに繋がる機械的な構造。海中へ続くもの。人ひとりへ収まるには、あまりにも大きな系統の末端。
「その冠、その体……」
喉を一度鳴らす。
「澪音の本体は、海の底にあるんだよね」
「そうとも言えるかな」
ファティマは荒れた水面を見下ろした。
「正確に言うなら、海底全部が『OW-III』であり――『私』」
誰も口を挟まなかった。
沖合で巨大な波が崩れ、その音が遅れて届く。足元を通り抜ける海水の下では、相変わらず無数の白い光が脈を打っていた。
「『OW-III』は、人類が扱うには強力すぎたから」
ファティマは続ける。
「なにせ、あの『
声音は軽い。
話している内容だけが、あまりにも重い。
「でも、その動作には永続的な冷却と、膨大な霊子計算機構が必要だった――……」
「だから、海に沈めて」
アンサーが引き継ぐように言った。
「海全体を量子計算機にした……」
「そのとおり♪」
ファティマは嬉しそうに頷いた。
「で、その結果。『OW-III』を冷却するはずの海が、排熱で沸騰して温泉になっちゃった!」
冗談めかした締め方に、誰も笑えなかった。
「滅茶苦茶だよねー」
ファティマ自身だけが、困ったように笑っている。
「当時のI.Z.I.は焦ってたからね。その作戦に乗っちゃった私も私なんだけど」
「……澪音」
「なぁに?」
アンサーは一度、言葉を飲み込んだ。
「ごめん……」
「なんのごめん?」
しばらく答えられずにいたアンサーが、やがて視線を上げる。
「澪音が『OW-III』の生体部品になったのは……私の代わりなんでしょう?」
ファティマの笑顔が、一瞬だけ止まった。
「……んー、どうだったかな」
わざとらしく首を傾げる。
「昔のこと過ぎて忘れちゃった♪」
「澪音」
「でも結局、鎖凪ちゃんも『OW』使えたじゃない」
返答を許さないように、ファティマは続けた。
「私みたいな、海を使った冷却システムなんてなしに。その手で、人間のままで」
「澪音も人間だよ」
アンサーの声が強くなる。
「ちゃんと、ここにいる」
「私は機械だよ。ただの部品」
「澪音!」
ファティマはその声にも笑った。
「私の『OW-III』は『超越』を討てなかった。起動する前に壊れちゃったから」
波が膝元へぶつかる。
「けど、鎖凪ちゃんの『OW』は神々を討ち倒した」
その言葉だけは、どこか誇らしげだった。
「すごいよ、鎖凪ちゃんは」
「すごくない……すごくないよ!」
「ううん、すごいよ」
穏やかな否定だった。
「裏切りを疑われたり……真相や作戦を話せない状況に陥っても……どんな絶望の真っ只中にあっても……」
ファティマの目が、アンサーをまっすぐ見る。
「鎖凪ちゃんは勝つことを諦めていない」
アンサーは何も返せなかった。
リンデンは少し離れた場所から、二人のやり取りを見ていた。
目の前で波が過ぎるたび、海中の白い光が位置を変えて見える。けれど、本当に動いているのは光ではない。海の底に横たわる何かが、その巨大な身体の至るところで目を覚まし始めている。
ファティマは視線を海へ落とした。
「海底に沈んでいた『OW-III』が、魔剣を手にしたのは偶然だった」
その声から、先ほどまでの軽さが少しずつ消えていく。
「神域を展開できるようになったのも、生体部品として私が内部に組み込まれていたから」
風が強く吹き抜けた。
「生き返ったと思ったら、今度は魔剣の力を得た『OW-III』が言うの」
ファティマは目を細める。
「『人類を滅ぼせ』」
「『世界を滅亡させろ』って……」
アンサーの顔色が変わった。
「『超越』が仕込んだプログラムまで、しっかり復活しててさ」
「……じゃあ」
声が掠れる。
「駆動実験の事故って……」
「アイツは、『OW-III』を使って人類を同士討ちさせるつもりだったんだよ」
ファティマは簡単なことのように言った。
「だから……自ら事故を起こして、世界を救ったの……?」
「鎖凪ちゃんが近づいてきたとき、本当に嬉しかったんだ」
問いには直接答えなかった。
けれど、その笑顔が答えだった。
「ああ、私は人類を救えたんだなーって」
「澪音……!」
「だって、生き残ってた」
ファティマはアンサーを見る。
「諦めなかった人が、ちゃんとここまで来てくれた」
「澪音の方がすごいよ……ずっと、ずっと!」
「ううん」
小さく首を振る。
「鎖凪ちゃんがいたから、私はがんばれたんだよ」
その言葉に、アンサーの表情が崩れかける。
ファティマはそれを見ながら、海へ視線を戻した。
「ずっとずっと考えてた」
先ほどよりも静かな声だった。
「海の底で、どうやったら起動した『OW-III』を止められるか……人類を攻撃せずに済むか、誰かに倒してもらえるか……」
波の音に紛れそうな声が、それでも途切れることなく続く。
「もし、この世界に生き残っている人類がいるなら。神々に打ち勝てた人たちがいるなら――」
一度だけ、ファティマは目を閉じた。
「きっと、鎖凪ちゃんみたいに諦めない人たちが生き残ってくれているはずって……!」
「……『予言』どおり、だね」
アンサーがようやく言った。
ファティマは目を開く。
「うふふ。私の予言はよく当たるから♪」
そして、ほんの少しだけ笑みを深くした。
「……ありがとう、鎖凪ちゃん」
「……」
「海に触れた瞬間に『OW-III』のことに気付いたでしょ?」
アンサーは否定しなかった。
「なのに仲間のみなさんに、それを言わないでいてくれて」
ファティマの足元で、白い光が一段強くなる。
「おかげで『OW-III』に気付かれずに、ここまで来れた……」
海の底から低い振動が響いた。
「『OW-III』の管理権限を、全て私が掌握するところまで――!!」
アンサーが息を呑んだ。
周囲でも、誰かが僅かに身じろぎする。
リンデンだけは動かなかった。
ただ、目の前の女性を見ている。
ファティマは穏やかに笑った。
「さあ、あとは私を殺すだけだよ、鎖凪ちゃん」
「……澪音!」
「海底の底にある『OW-III』本体は、いま生体部品である私に全権限を移譲したわ!」
声が少しずつ大きくなる。
「私が死ねば、『OW-III』も死ぬ……!!」
その瞬間。
リンデンの中で、海辺に立っていたファティマの姿が重なった。
先へ行くほど減っていた枝。
広がるのではなく、自ら選び、自ら閉じていくように細くなっていた可能性。
『今まで通りでいてくれる?』
あの時の声が、ようやく違う意味を持って響いた。
彼女は助けを求めなかったのではない。
自分が辿り着く場所を、すでに決めていた。
そして、その場所へ到達するために、誰にも止めてほしくなかった。
リンデンは何も言えなかった。
正しかったのか、間違っていたのか。
あの時、自分が頷いたことにどんな意味があったのか。
今ここで答えを決めるには、まだ何もかもが遠すぎた。
「お願いッ!」
ファティマの声が、荒れた海へ響く。
笑顔は消えていた。
まっすぐに。
ただ一人へ向けて。
「私を殺して、鎖凪ちゃんッ!!」
波が大きく砕けた。
誰も、すぐには動けなかった。
ファティマの叫びが、荒れ始めた海の上を裂いた、その直後だった。
海面の下で脈打っていた無数の白光が、一斉にひとつの位相へ揃う。ばらばらに明滅していたはずの光が、ある瞬間から明確な意志を持った信号のように規則正しく点滅しはじめ、海そのものがひとつの巨大な演算装置へ変わっていく様が、目で見えるかたちで立ち現れた。
波はすでに自然のうねりではなく、下層で稼働を始めた何かの振動に引かれて異様な周期を刻み、白く泡立つ水際からは、霊子ではない、もっと無機質で冷たい“コード”の気配があふれ出していた。
ファティマは、はっとしたように目を見開く。
自分の中へ戻ってくるはずだった権限の流れ。その途中で、何か別の手が、もっと深く、もっと根元から掴み返してくる気配を、おそらく彼女自身が最初に理解したのだろう。
「……澪音!」
アンサーの声に、ファティマが顔を上げる。
しかし返事より先に、海から響いたのは人のものではない音声だった。高くも低くもない、感情を持たぬ機械的な声が、波音にも雷鳴にも埋もれず、場の全員の頭の内側へ直接流れ込んでくる。
《予言定数ファティマの地上上陸を確認》
《これより人類殲滅を開始する》
《接続対象:最終権限所有者ファティマ》
《――CONNECT》
言葉が終わると同時に、ファティマの身体が大きく跳ねた。
「ぁ、ああああああああ!!」
水面が爆ぜる。彼女の背後で海がせり上がり、その中から現れたのは、兵器とも天使ともつかない白い端末群だった。細く長い接続肢が何本も空中へ伸び、その先端に付いた環状の器具や機械手が、生き物めいたためらいもなくファティマの身体へ向かう。
さらに、その頭上には、小型の白い天使端末がひとつ、ぬるりと浮上していた。幼い天使を模したようなその端末は、無垢を模した顔のまま、まるで当然の処理を行うだけのような静けさで、真下のファティマを見下ろしている。
次の瞬間、その小型端末から垂れた細線が、彼女の髪のあいだへ潜り込んだ。
こめかみの脇、うなじ、耳の裏、首筋。もともと海と繋がっていた配線群の奥へ、さらに細く、鋭く、侵食するように入り込んでいく。背から伸びた接続肢は腕と脇腹、胸元の装備、腰の結節部を次々に抑え込み、白い端末肢のいくつかは彼女の身を支えるというより、逃がさないための拘束としてはっきり機能していた。
ファティマは苦痛に身体を折りながらも、なお喉の奥から声を押し出す。
「くっ、そんな、どうして……まさか……『超越』あああ!! あなた、こうなることまで見越して……!!」
白い光が彼女の足元から一気に立ちのぼった。海の底で演算されている膨大な何かが、彼女という一点へ収束しているのが分かる。瞳の色も、声の震えも、今この場にいるファティマのものだ。それでも、その内部へ別の意志が食い込み、輪郭を塗り替えようとしていることは、誰の目にも明らかだった。
「澪音――ッ!!」
アンサーが一歩踏み出す。だが、ファティマは苦悶に顔を歪めながらも、ほんのわずかに口端を上げた。
「うう……っ、はあ、は……」
荒い息の合間に、それでも笑おうとする声音が混じる。
「あなたに、意識は奪わせないわ、『OW-III』……!!」
頭上の小型端末が微かに回転した。応じるように、さらに冷徹な機械音声が重なる。
《予言定数ファティマの精神抵抗を確認》
《強制CONNECT、思考崩壊シークエンスを開始》
《権限再掌握まであと――》
その宣告に、ファティマは唇を噛みしめた。頬を伝ったものが雨なのか汗なのか、それとも別のものなのかは、もう見分けがつかない。けれど、彼女はそこで折れなかった。首元へ巻きついた黒いケーブルを片手で掴み、震える指先に力を込め、無理やりでも自分の顔をアンサーの方へ向ける。
壊れかけた息のあいだで、それでも彼女は相手を見ていた。
アンサーは、足を止めなかった。
波を踏み、濡れた砂を蹴って、拘束されるファティマの前まで進み出る。周囲では紫亜が息を呑み、トロイメライが事態の輪郭を掴みきれぬまま目を細め、リンデンはただ沈黙してその推移を見据えていた。
誰も軽々しく割り込める場ではなかった。ここで起きているのは単なる暴走ではない。もっと個人的で、もっと取り返しのつかない、ふたりだけのところまで降りていった問答だった。
「澪音……!」
アンサーの声は掠れていた。それでも、そこで目を逸らさない。
「私は、私は……!!」
雨粒が落ち始める。最初はぽつぽつと、しかしすぐに数を増し、海面を細かく叩いていく。
「あなたに憧れてた……ずっと!」
その告白は、あまりに剥き出しで、だからこそ一切の嘘がなかった。
「澪音みたいになりたいと思ってた……! だから、今日、私はあなたを倒して、あなたを超える……!」
ファティマの喉が、小さく鳴る。
苦しげな息のあいだから零れた笑いは、泣き声に近かった。
「――あらあら、鎖凪ちゃんは泣き虫だなぁ」
けれどその目は、静かに細められる。
「『心優しき純白の魔王、黒き邪悪なる人類の敵を討ち倒さん』」
雷光が空を裂いた。青白い閃光に照らされて、頭上の小型天使端末の輪郭が、刹那、はっきり露わになる。
「これが私の……最後の予言」
ファティマは、拘束された身のまま、まるで儀式のようにその言葉を告げた。
「うふふ。私の予言は当たるんだから」
そこで彼女は一度、視線を落とす。海から這い上がってくるコードの光が、もう彼女の腹部、胸元、喉元まで侵食し、皮膚の下へ光る文字列のようなものを走らせていた。
「……私が『OW-III』を抑えていられるのも、あと少しかな」
その一言で、場の空気がさらに重く沈む。
「このままだと、きっと私はこの世界を終わらせてしまう……」
ファティマは再び顔を上げる。そこには恐怖もあった。痛みもあった。けれど、それ以上に、ここで終わらせるという決意があった。
「だから、お願い。私を殺して」
雨脚が強くなる。
「私が世界を終わらせてしまう前に……!」
そして彼女は、拘束の只中にありながら、それでも矜持を失わぬまま、自らの名を告げた。
「I.Z.I.最高機密『OW-III』生体管理アカウント」
頭上の小型端末が微かに羽を震わせる。白い機械肢がきしむ音と、ファティマの声だけが、その瞬間にはっきり響いた。
「"確実に発生する未来予測"」
「"神さえ焼き払う灼熱なる槍"」
「――証明不要の未踏推定」
そこで、彼女は笑った。
「コードネーム“予言”」
か細い声ではなかった。苦痛の中にあっても、はっきりと自分を名乗る声だった。
「ちゃんと準備してきたんでしょ、鎖凪ちゃん」
アンサーは、頷く代わりに一歩近づいた。
「さあ、神々を倒したその力を、私に見せて……!」
アンサーの肩が震える。けれど、その震えは迷いではなかった。泣きそうな顔のまま、それでも彼女は崩れずに息を整え、濡れた前髪の下から真っ直ぐにファティマを見返した。
「うん、ありがとう澪音」
声は細い。しかし、その芯は折れていない。
「本当に……本当にありがとう!」
雨音の中で、アンサーがゆっくりと胸を張る。彼女自身にとって、それはおそらくただの名乗りではない。ここまで辿ってきた自分を、いまこの場で選び取るための確認だった。
「GARDENランヴィリズマ」
「第八騎士団、天才集団ORANGEがFORTRESS――」
海風に煽られ、髪が揺れる。その姿は華奢で、今にも泣き崩れそうで、それでもなお前へ立つ者のものだった。
「"正解を識らせる体現者"」
「"存在をもって証明される正答"」
アンサーは一度、強く息を吸う。
そして、泣き顔のまま笑った。
「魔王アンサー。これが私の"答え"――!!」
その宣言が落ちた瞬間、海が応じるように大きく唸った。
頭上の雷雲がさらに低く垂れ込み、白い端末群が一斉に駆動音を上げる。ファティマを拘束する機械肢はぎちりと締まり、その頭上の小型天使端末は、まるでここから先の戦いを開始する合図であるかのように、無機質な顔を微かに傾けた。
それでも、もう十分だった。
誰が敵で、誰が何を託したのか。どこまでが救いで、どこからが戦いなのか。その境界は、いま、ようやく定まった。
リンデンは静かに息を吐く。
打ち付ける雨の向こうで、アンサーとファティマが見つめ合っていた。ひとりは奪われかけながら、なお自分の終わりを選び取ろうとする者。ひとりは泣きながら、それでも答えを持って前へ出る者。
海はなお唸り、空は裂け、温泉の熱を孕んだ風が荒れ狂っている。
だが、その中心に立つふたりだけは、不思議なほどもう揺れていなかった。