風鈴の音。
縁側から入ってくる夜風。
ガラスの器に入ったそうめん。
過ぎた夏の記憶が蘇る。
「よしなりくんは、一人でおるすばん、さびしくない?」
見下ろして優しく早苗さんが、そうめんを頬張る
「んとね、おかあちゃんは、よるのおいしゃさん」
フォークをくわえて答え始める幼き由成。
「おとうちゃんは、みんなのにもつを、とどけるひと!」
次に無邪気な笑顔で由成は続ける。
「おれはしれーかんだから、おうちをまもってる! とうちゃんもかあちゃんも、ふぇざーまんみたいにたたかってるから、だから⋯⋯」
黒髪を垂れ下げてめんつゆを眺めて、悲しそうにした後元気な表情で答えた。
「おれ! さびしくない!」
由成が健気に笑った途端、早苗さんがどこか物悲しそうな顔で返していた。
「よしなりくんはいい子ね⋯⋯いい子⋯⋯」
早苗さんの様子に気づいた由成は、とてとてと小さな足を使って、近寄って見上げてくる。
「どうしたの、さなえおねーさん。どこかいたいの?」
すると早苗さんは優しく体を寄せて、抱かれていた。
ずるいーわたしもと、幼き幸恵の声が聞こえた。
「いたいよ。けど、おねーさんよりもよしなりくんもいたかったでしょ?」
黒髪を撫でられて由成を見下ろしていた。
五月三〇日──
放課後。
コルサコフが独りぼっちにならないでという言葉で、七歳の記憶を呼び覚ましていた由成。
「⋯⋯」
小さい頃、早苗さんも言っていた。
両親がいない時は寂しいのかと。
(⋯⋯オレは今も寂しくない。つるむ相手いるし、ちゃんと友達もいる)
二人の言葉に反抗するが、
(オレは使い勝手のいい人間じゃ⋯⋯やべ! 判定分からねえけど、保てオレ!)
首をぶんぶんと邪心を払うと、隣で廊下を歩くコルサコフがびっくりしていた。
「ごめん、驚かせた?」
こくりこくりと、コルサコフは無言で頷いていた。
「にしても、オレを庇うために付き合う羽目にさせちゃって、すまんな」
林間学習の蹴り飛ばしの件で、指導室に呼ばれ反省文を書かされる事になった。
それを林間学習のメンバーに伝えると、コルサコフが証人として一緒に指導室で過ごし、現在に至る。
「このぐらいはいいよ⋯⋯僕、由成君をはたいちゃったから⋯⋯」
相変わらず視線を合わさず後ろめたいを背負っている男だなと、由成は思っていた。
「確かに、あん時はショックだったなー、嫌われたって思った」
じとりと湿っぽい視線を、コルサコフに向ける。
「君って⋯⋯根に持つタイプ?」
コルサコフの静かなツッコミが終わり、夕日が二人っきりの、廊下を染める。
(⋯⋯早苗さんあん時、なんでオレをいい子って、言ってくれたんだろう⋯⋯)
よく分からない。
あの時は子どもだったので、なんで自分が痛かったでしょうと言われなきゃいけなかったんだと、不思議に思っていた。
(オレは絶対ない! アイツに狙わない! オレはアイツから見逃されるから頼られた男だから!)
むしろ、不安定そうなコルサコフの方が狙わるのではと、もんもんと悩んでいると誰かに見られた気がして、バッと後ろを向く。
誰もいない、けれども誰もいない筈なのに、誰かに追い詰められている感覚はなんだ。
由成は緊迫した表情で立ち止まっていると、コルサコフがどう対応していいのか分からない態度を取られた。
「⋯⋯大丈夫?」
心配させられる。
「大丈夫! 平気だよ平気!」
由成は笑って返すとコルサコフが申し訳なさそうな、目でこちらを見ていた。
「ひょっとして士狼くんの事、まだ気にしてる?」
その言葉に一旦、思考が停止すると由成の笑顔が続いた。
「もう忘れた!」
と由成が返してずんずんと先導して歩いていると、チャイムが鳴り始める。
すると、素朴で可愛らしい曲調のピアノが教室から聞こえ、由成は驚いて飛び上がった。
そして、ズボンのポケットに入っていたスマートフォンが震えていた。
「あっ、い、今何時だ」
液晶画面の時計盤は十七時。
(やっべ! アイツがやってくる!)
由成の思考は泥沼に堕ちていく。
まずい───
誰狙いだと由成はぐるぐると思考を巡らせていると、コルサコフが、教室を興味深く見つめていた。
「⋯⋯なんの曲だろ」
コルサコフが首を傾げて呟く。
(ちょっと待て待て、連れて行かれてたまるか!!)
コルサコフがあれを見たら失神するし、シャドウに抵抗できず殺されると由成は焦りと不安に支配された。
「なーコルサコフ、せっかく二人いる事だしさ」
由成はコルサコフの前に立って、怪しまれない自然な振る舞いで笑う。
地獄にいるような反応するやつに、事件だけは絶対関わらせるか!
由成はそう思いながら言葉を紡いだ。
「二人でファミレ──」
刹那、何か入ったような感覚が体に伝わった。
コルサコフは顔を青ざめて声にならない悲鳴をあげて、こちらを見ている。
視線を落とすと、白い槍が腹を貫いていた。
力が抜け始め、スマートフォンを落とすと意識が朦朧としだす。
コルサコフはへたりと座り込んで、目を大きく開いて動揺している。
後ろを振り向くと、顔らしきものを覆い隠す対称の羽飾りを持つ異形が佇んでいた。
「おかしいな⋯⋯オレの人生は順風満帆な筈⋯⋯」
突然の出来事に錯乱しているコルサコフを見て、宥めようと力を振り絞って笑顔を作る。
「⋯⋯大丈夫、アイツらなら助けてくれる⋯⋯」
コルサコフはガタガタと恐怖に打ちひしがれて、動けなくなっていた。
「だから⋯⋯お前だけでも⋯⋯逃げろ」
瀧も言ってたな、こうなるのかも知れないと。
十七時の旧校舎の扉の向こう側。
夏休みの宿題が一日で終わらせられると、はしゃいじゃったバチなんじゃないか。
そう思い出し、持ちさらわれていく中、息絶え絶えになりながらもこう言った。
「オレは近衛由成だぞ⋯⋯なんとも⋯⋯ないやい」
そこで意識が失ってしまった。
※
「あああああ────────っ!!」
近衛が連れていかれたショックで、錯乱し叫ぶコルサコフ。
近衛のスマートフォンが鳴り響いたと思えば、留守番サービスの録音する声が聞きこえる。
「近衛くん、大丈夫か!? 芥川さんが君に用事があるから、いる場所を教えてくれ!」
知らない男子の声が虚しく鳴り響くも、和也は出る気がしなかった。
脳裏に流れる走馬灯。
いじめている国の子とは遊ばない、なんでお前だけ許されているんだよ、と浴びせられた罵声。
私の故郷はどうなってしまうんだと、嘆く父親。
三本足の青目の黒猫、帽子を被った豪華な指輪をした女の人、匂いのきつい崩壊寸前の一軒家の前で、叫びながら泣き崩れる自分。
そして、出会いは最悪だったが、両親とおじさん以外で、初めて庇ってくれた人の喪失。
初めて、自分のようになって欲しくないと思えるようになった人の出会いは、無慈悲にも刈り取っていった。
どうして、自分は奪われなくちゃいけないんだ。
どうして、自分にありふれた願いすら何も残してくれないんだ。
ルナの鳴き声が聞こえて、後ろを振り向いた。
(⋯⋯ルナ)
この世界はあらゆるものを蹂躙していく、生まれも、国も、立場も、何もかも強大な力に踏みにじられていくんだ。
次の番が回って来た。
ただそれだけの事、だったら───
白い翼を持つ、無機質な異形がドアから、再び現れる。
近衛のように連れ去ってくれるのかと、期待したが。
こちらをただ見下ろして、漂うだけであった。
どうしてなんだろうと和也は不思議に思い、泣きながら縋った。
「⋯⋯白鳥さん⋯⋯僕も連れてって⋯⋯」
連れて行かないのであれば、異形に心情を吐露する和也。
「⋯⋯もう⋯⋯疲れたよ⋯⋯」
僕にとっての死神様、どうか向こう側へ連れ去ってください。
この世界からいなくなっても、支障は無いだろうから。
ピアノ曲は変わる。
それは警鐘のような旋律であった。
何かが蠢く音色のワルツを和也は聞きながら、異形を見上げていた。
ごめんなさい、お父さんとお母さん。
静かに異形は佇んだあと、和也の胸には白い槍が貫いた。
「⋯⋯どうでも⋯⋯いいや⋯⋯」
涙を流しながら、安堵しきった穏やかな表情を浮かべる。
これでようやく、全てから開放される。
濡れた青い瞳は夕焼けの光に染まって、黄金色に輝いていた。
「ああ⋯⋯こわく⋯⋯ないや⋯⋯」
よかった、由成が先にいなくなって。
彼ならきっと、助けに行くのだろうから──
※
「ゆきえちゃん」
近衛の母親が迎えに来た後、早苗さんは
「なーに?」
幸恵は見上げて顔を覗き込む。
「よしなりくんね。ひとりぼっちが、きらいみたいなの」
早苗さんは切なそうに話しだす。
「わたしたちが、いるのに?」
早苗さんはにこやかに笑って黒い頭を撫でてくる。
「いても、ひとりぼっちがきらいだから、なるべくはなれないであげてね、やくそくよ」
幸恵はよく分からない表情で首を傾げ、隣にいる要も同じ仕草をした。
「うん! やくそくする!」
「こんな時に!」
近衛のクラスに行き、探していると聞きに行ったのだが、
指導室に行ったのだが、もう反省文を書き終えて帰ったらし
く、
十七時のチャイムが鳴ったというに、見つからない。
なので瀧に連絡してもらって、その場に待機してもらう事にした。
間に合うといいんだけどと、急いで指導室から玄関に通ずる道順を辿る。
(よしりー!)
早苗さんに顔を合わせられないと、幸恵は焦り鍛え上げられた足で走っていると、見覚えのある、派手なスマートフォンケースを見かけた。
「よしりー!?」
教室のドア前にはサーフボードのキーホルダーがついた鞄が置かれており、近衛の物だとわかる。
「ねえ、ウソでしょ⋯⋯由成!」
鞄を開けると昼休みよく見かけていた、近衛由成の弁当箱が入っていた。
(アンタ。何を悩んでいたのよ!)
頭がクラクラする。
九年もの家族ぐるみで付き合いのある人間だ、ショックはとても大きかった。
顔を青ざめて、荷物を確認したあと、もうひとつの見慣れない鞄があった。
「っ!」
幸恵は息を詰まらせて、最悪の事態を考えてしまった。
まさかもう一人、連れて行かれた?
幸恵は恐怖に顔を歪ませると、生真面目そうな持ち主であろう鞄を開ける。
「コルサコフ⋯⋯和也⋯⋯」
名前が書かれた教科書を手に取り読み上げると、鞄の奥のポケットに、チェーンがついた革製の写真入れが、ぶら下げているのを見た。
年月が立っているらしく、色褪せていた。
その写真は、はやせ動物病院と書かれた建物を背にして、痣だらけの顔に絆創膏が貼られた大事そうに抱えるの鞄の持ち主と、前脚が一本欠けている黒猫の写真だった。
(⋯⋯この子もだ!)
暴力を受けていた痕跡を持つコルサコフ、恐らく可愛くないから、捨てられた欠損している黒猫。
見れば文字通り、不安材料の経歴を持っていそうだった。
鞄のチャックを閉めると、自分のスマートフォンで、旧校舎の扉にいる瀧達に連絡した。
「ちかりん!!」
幸恵は立ちすくんで地べたに座り込んでしまう。
「芥川さん! こっちも扉の色が黒くなった⋯⋯」
深刻そうな口調で瀧は報告すると、幸恵は涙声で話す。
「お願い⋯⋯よしりーと、和也を助けてあげて!」
パニックになりながら、山田、瀧、三善に幸恵は助けを要求した。
「もちろん。芥川さんは落ち着いてその場で、待機して欲しい」
「うん、分かった⋯⋯」
瀧の言葉に頷くと、そこで電話が切れた。