Sin and Punishment:Accelerando 作:アイダカズキ
「〈へファイストス〉は……沈んだか」
救命艇の上で〈金剛杵〉部隊長ユースフは呟く。船内の戦闘が相良龍一とその一味にほぼ制圧された段階で、彼は目先の勝利ではなく戦力の温存と〈へファイストス〉脱出に力を注いだ。そのおかげで部隊は〈へファイストス〉と運命を共にすることも、〈ヤマンタカ〉による殺戮も、その後のギリシャ海軍による検挙も免れることができた。
だがどこまでも広がる海原の中、救助される気配もなく波に揺られ続ける救命艇は、そのまま彼らの寄る辺なさの象徴でもあった。
「殺戮に狂ったオーナーも、そのオーナーを駒として使い捨てたヨハネスも、所詮は主人の器ではなかったということだ」
「部隊長……我々は、これからどうすれば……」
ユースフは生き残った部下たち一人ひとりの顔を見回す。多くの戦場で戦ってきた、修羅場などとうに見飽きたはずの男たちの顔が、今では迷子の子供より心細そうに見えた。
「さあな。だが今となっては〈王国〉には帰れない。それだけはわかる」
オーナーのラーヘシュ亡き今、〈へファイストス〉沈没の罪科は必然的に、生存者にしてセキュリティ部門責任者のユースフたちへと集中するだろう。それがわからないほどユースフは──不幸にも──愚かでも無骨者でもなかった。
あれだけ〈王国〉の発展に尽くしたラーヘシュでさえ使い捨てられたのだ。その部下のユースフたちが厚遇されるはずもない。冷や飯を食わされるくらいならまだ良い方で、下手をすれば裁判抜きでの極刑だろう。犯罪業界には裁判官と死刑執行人を兼ねている手合いなど腐るほどいるのだ。
だからと言って、自分を放逐した軍に戻るなど論外だった。ユースフを追い出した上官は今頃どこかの側溝で乳首を鼠に齧られている頃合いだろうから、彼一人なら今までの功績で何とかならないこともないだろうが、部下たちまで救うのは不可能だ(ユースフの部下たちも皆、彼と似たり寄ったりの過去を持つ者ばかりだった)。
さしものユースフも眉間の皺を深くした時。
「雇い主がいないのであれば、私に雇われるのはいかがですか?」
「誰だ!?」
ユースフの怒声には驚愕や怒りだけでなく、明確に恐怖が含まれていた──何の前触れもなく、
──黒く艶やかな黒髪と、瀟洒なドレスの繊細なレース飾りが、潮風で静かに揺れていた。
彼の部下たちも、一様に白茶けた顔色になっている。無理もない──見渡す限り何もない大海原の中、自らの血と返り血に塗れた戦闘装具の男たちが居並ぶ前に、たおやかな麗人が忽然と現れたのだ。まともな感性の持ち主なら幻覚か、さもなければ悪魔妖魔の類だと思うだろう。
「私が誰か、などと自己紹介する必要はありませんね?
その台詞が全く嫌味に聞こえない世界的大物女優〈黒き白鳥〉オデットは、それこそ世界中の人間にとって聞き覚えのある低く深みのある声でそう言った。月並みな『鈴を転がすような声』よりよほど印象的な彼女の声だ。
「ヨハネスの愛人が、俺たちを雇うだと? 〈王国〉の意向に背いてまで?」
不信の塊のようなユースフの無遠慮な言葉に、オデットは気を悪くした様子すら見せない。
「あなたには二つ誤解があります。一つ、私は〈犯罪者たちの王〉の愛人ではありません──勘繰るのは勝手ですが。二つ、〈犯罪者たちの王〉の意向に反しない限り、あの人は私の行動に口など挟みません」
「些事だから俺たちを助けたとでもいうのか」
「些事だからあなた方を助けたのです。もちろん、私の好意をあなた方が跳ねつけるのは自由です」
「命が惜しくないとまでは言わない。だが、好意とやらを犬の餌のように投げつけられるのは御免だ。それとも、俺たちが失ったもの全てを取り戻してくれるとでも?」
「あなた方が失ったもの全てを。ええ、場合によってはそれ以上のものすら」
ユースフは確かに逡巡したが、その逡巡はごく短かった。「……いいだろう」
「部隊長、こんな怪しげな女の言うことを信じるのですか!?」
「信じてはいない。雇われるだけだ」改めてユースフはオデットを見据えた──女性どころか男性まで卒倒しそうな恐ろしい視線だが、〈黒き白鳥〉は小揺るぎもしない。「それに、謀ったらその場で殺すまでの話だ」
「話が早くて助かります」オデットは老若男女誰もを魅了しそうな百万ドルの笑みを浮かべたが、返ってくるのは困惑か恐怖の視線でしかなかった。「では〈へファイストス〉が沈み、〈ヤマンタカ〉も沈み、
彼女が掌を上に向けると、そこに現れた拳大の光が皆の目を射た。彼女の掌上で回転しながら、静かに明滅する
「それは……まさか〈ヤマンタカ〉の……」
「一目でわかったのはさすがですね。そう、これは〈竜〉を〈竜〉たらしめる〈心臓〉。これがなければどれだけ忠実に外見を模倣しようと〈竜〉はただの模型に過ぎません。逆に言えば、これを保有しているものは何で構成されていようと、どのような異様な姿形をしていようと〈竜〉です」
完璧な曲線を描く唇の両端が吊り上がる。彼女自身にしかわからない理由で。
「
「……ああ、もう、馬鹿兄! 〈ヤマンタカ〉は手に入れ損ねるわ、〈王国〉には完全に目をつけられるわ、踏んだり蹴ったりだよ! ただでさえこのところ大赤字だってのに! 赤字解消どころか、明日の朝日を拝めるかも怪しくなってきたじゃん! どうすんのさ!?」
「怒りたもうな、妹よ。収穫なら充分にあったではないか」
「収穫だって!? いつの間にそんなもの生やしたのか教えてよ! 吸った酸素を二酸化炭素に換えて現実逃避する以外にさ!」
「思い出せ、妹よ。あわよくば〈ヤマンタカ〉を強奪しようと企んでいた者たちは、我らだけではあるまい」
「……相良龍一とその一味のこと? あいつらはあいつらでヤバいでしょ。〈王国〉に喧嘩売るなんてイカれた奴らが、馬鹿兄以外にいるとは思わなかったよ。まったく……」
「興味深い者たちだと思わぬか?」
「……は?」
「あの者たちは紛れもなく〈竜〉。思い出すがよい、我らが出会った〈竜〉は出会った途端に殺し合いを始めるような短慮な者たちばかりであった。ところがあの者たちは手を組むどころか、互いの弱みをカバーすらしている。破壊衝動に突き動かされ、最後には破滅するしかない〈竜〉がだ。面白くなってきたではないか。あの者たちを放っておく手はないぞ……!」
「はぁ!? 〈王国〉とガチやり合ってる連中にわざわざ接触するつもり!? それって本気で〈王国〉を敵に回すってことでしょ!? 命がいくつあっても足りやしないよ!」
「よし、では荷物をただちにまとめるのだ、妹よ!」
「話聞けって! ……ああもう! 明日の朝日どころか、今日の夕日さえ怪しくなってきたよ!」
「……陛下がオークション開催直前に出された指令通り、〈へファイストス〉を経由していた資金・物資・人員のネットワークは各拠点に分散管理させております。無論、〈へファイストス〉がハブとして果たしていた機能は相当に大きいものであり、それを喪失した影響は皆無ではありませんが……損害は最小限と言ってよいでしょう」
金髪の女性秘書──アンジェリカの報告に、ヨハネスは頷いてみせる。「〈へファイストス〉のような一大拠点は必要だ。ないと困る。だがむきになってこだわるほどの代物ではない。……〈茨の冠〉計画への影響は無視できる程度なのだな?」
「はい」
「ならばそれでいい。仮に彼ら彼女らが計画の一端に触れ得たとしても、もう二、三ほど対策は用意してある」
「御意。……〈黒き白鳥〉に関してはいかがなさいますか?」
「彼女は〈へファイストス〉所属の一兵器を破壊しただけに過ぎず、〈茨の冠〉に重大な支障をもたらしたわけでもない。現時点でミルカ・ステヴァノヴィチの排除は必須事項ではないからな。……だが、示しはつけておくべきだろう。用意しておいた偽情報《カバーストーリー》を各報道機関に送付。同時に、彼女の資産を一部凍結させろ。この程度では痛くも痒くもないだろうが、警告にはなる」
「……御意」
一礼こそしたものの、アンジェリカの表情は釈然としてはいない。ヨハネスの対応は淀みないものではあったが、その淀みのなさにこそ不自然を感じさせたのだ。
「〈四騎士〉の
「順調です。HWの全個体が収集した戦闘記録を基に、適宜バージョンアップを遂行しています。当面の目標は稼働時間の増大です。
「充分だ。最大でも6時間が限度だった稼働時間を24時間に増やせるだけでも意味がある。現状では〈竜〉との本格的な戦闘に投入するにはまだ不安は多い」
「はい」
「他には?」
「例の〈連盟〉なる反〈王国〉組織にはいかがなさいますか? 今までの下部組織の不満分子とは比較にならない規模で動いています。相良龍一の一味と合流されると厄介かも知れません」
返ってきたのは憫笑だった。「〈連合〉の亡霊か。
ヨハネスはそこで一度言葉を切った。何かが身をもたげるような気配を、アンジェリカは感じ取る。
「彼らが今さら足掻こうと、もう手遅れだ」
「では……」
ヨハネスは少しだけ息を吸い、そして改めて命令を発する。
「〈犯罪者たちの王〉の名において命ずる。ブリギッテ・キャラダインを〈星の冠〉計画の最有力候補者として確保せよ。以降の計画は、それを前提として立案するものとせよ」
「……かしこまりました。そのようにいたします……〈犯罪者たちの王〉の御心のままに」
アンジェリカは極めて機械的に一礼した。そうしなければ、葛藤と憤懣に満ちた顔をヨハネスに見られてしまうからだ。
アンジェリカが退室した後、ヨハネスは疲れたように目を閉じた──だがすぐに目を見開いた。
「……君か」
椅子の背後で、白づくめの青年が微笑んでいた。やや古風な、瀟洒な仕立てのスーツから靴に至るまで何もかも白。ただ髪と目だけが茶色い。
「いつになく
「そのものではないにせよ、勝算は見出した。後は、その確度を高めるだけだ」
「結構。だけど忘れちゃいけないよ。相手は〈悪竜〉だ」座ったままのヨハネスの耳元に、桜色の唇が近づく。「どれほど裏を掻いたと思っていても、相手は着実に裏の、裏の、そのまた裏を掻いてくる。なぜなら
面白くない冗談だ、と言わんばかりにヨハネスは青年の顔を睨みつける。
「君こそ、一体どういう気まぐれの産物なのだ? 君にわざわざ司会役を頼むほど〈王国〉の人材は払底してはいないぞ」
「それは、君」青年はおどけたように両手を広げてみせる。「我が子の晴れ舞台だからじゃないか」
「相良龍一のか?」
「まさか。君のだよ」
ヨハネスはもう一度青年の顔を睨みつけたが、そこにあるのは一物あるどころか、一物足りない微笑みだけだった。「私の
今はモーリッツと名乗っている青年が悲しげに首を振る。「血の繋がりだけが親と子だと思っていないかい? 生まれた時から傍らにいて、手を取って立たせ、教え、導く存在が一対あれば、それは親子と言っていいんじゃないのかな?」
「悪い冗談だ。私には地球外生命体の親などいない。今はモーリッツとか名乗っているのだったな? 〈
懐かしい名で呼んでくれるね、とモーリッツは微笑む。「僕のその名を知って、なおも僕を拒む者は数えるほどしかいない」
「君には感謝しているが、這いつくばるほどではない。私が真に恐れるのは、為すべきことを為せずに死ぬことだけだからだ」
「では、僕はこう言えばいいのかな? ……今、行きてアマレクを討ち、その持ち物全てを滅ぼし尽くせ」
旧約聖書サムエル記上、第15章1-23節──青年が口にする一節を、ヨハネスは受けて口にする。
「男も女も、老いも若きも、幼子も乳飲み子も、牛も羊も、駱駝も驢馬も、皆殺せ……」
だが、ヨハネスは静かに首を振った。「生憎だが、私は幼子も乳飲み子も、牛や羊も殺したいわけではない。またその必要もない。私が世界の果てまで追い詰めて殺したい相手は、相良龍一ただ一人だからだ」
ひび割れた仮面のごとき顔の中で、色鮮やかなアイスブルーの一対の瞳のみが狂熱を放っている。
「そして私はそれを成し得るまで、何もかも忘れてくつろぐことも、誰かと共に笑うことも、そして誰かを愛することもないだろう」
モーリッツが唇の両端を釣り上げる。
「素晴らしい。それでこそ君だ。人類の罪の象徴、原罪たる〈悪竜〉を滅ぼすために、くつろぐことも笑うことも、そして誰かを愛することもなく……彼の者を殺すために
これにて『Sin and Punishment:Accelerando』完結となります。半年間のお付き合い、ありがとうございました!
本編より少しだけ未来の時間軸なので、本編未登場の新キャラ設定は後日公開します。
(2025.09.17追記)読み返して納得のいかなかった部分を修正しました。修正前に読んでくれた方には申し訳ありません。でもヨハネスの人となりを考えると、ラストの台詞はこちらの方がふさわしいと思ったので。