穢れた祈りの聖女 ~偽りの救世主と蔑まれた私が、滅びゆく王国で唯一真実の奇跡を紡ぐ~ 作:うどん小町
部屋の中は静かだった。
けれど、エリアーナの心の中は、嵐のように荒れていた。
窓の外から聞こえてくるような気がする遠い喧騒。
先ほど感じた、肌を刺すような不穏な気配。
そして、何もできずにただここにいる自分への、どうしようもない無力感。
(このままじゃだめ……)
カイウス様の「ここを動かないでください」という言葉が、頭の中で繰り返される。
彼の真意は分からないけれど、わたくしの安全を思ってのことかもしれない。
けれど。
(カイウス様だって、人々を助けるために行ったんだわ。わたくしだけが、こうして安全な場所にいていいはずがない……!)
それに、あの嫌な感じ。
祈りの最中に感じた、いつもの力の代償とは違う、異質な気配。
あれは、一体何だったのだろう?
(もしかしたら……わたくしの力が、何か関係している……?)
『穢れた祈り』。
そう呼ばれ、自分でもそう信じてきた力。
けれど、本当にただの穢れなのだろうか?
あの不穏な気配に反応したのだとしたら……もしかしたら、この力は……。
(分からない……でも、だからこそ!)
エリアーナはベッドから勢いよく立ち上がった。
迷いはもうなかった。
(確かめなければ。自分の目で)
じっとしているだけでは、何も分からない。
何も変わらない。
カイウス様に言いつけを破ることは申し訳ないけれど、それでも、行かなければならない気がした。
(もしかしたら、ほんの少しでも、わたくしに出来ることがあるかもしれないから……!)
エリアーナは震える手で、私室の扉に手をかけた。
耳を澄ませ、廊下に人の気配がないことを確認する。
幸い、今は誰もいないようだった。
そっと、音を立てないように、扉を開ける。
ひやりとした廊下の空気が、エリアーナの頬を撫でた。
(怖い……)
一人で行動することへの恐怖。
誰かに見つかってしまうかもしれない恐怖。
そして、自分の力が、また何か良くないことを引き起こしてしまうかもしれない恐怖。
それでも、エリアーナの足は、一歩、また一歩と前に進んだ。
どこへ向かうべきか、明確な考えがあったわけではない。
ただ、下町の状況が知りたい。
そして、あの不穏な気配がした方角へ、無意識のうちに足が向いていた。
カイウス様の言いつけを破った罪悪感を胸に抱きながら。
それでも、エリアーナは、自分の意志で、初めて扉の外の世界へと踏み出したのだった。
監視者のいない、未知の世界へ。
そっと私室の扉を閉め、エリアーナは廊下に一人立った。
心臓が、早鐘のようにドクドクと音を立てているのが分かる。
まるで、悪いことをしている子供のような気分だった。
いや、実際にカイウス様の言いつけを破っているのだから、悪いことをしているのかもしれない。
(でも、行かないと……)
エリアーナは自分に言い聞かせ、周囲を素早く見回した。
幸い、この古い礼拝堂の周辺は、普段から人通りが少ない。
それでも油断はできない。
壁伝いに、物陰を選びながら、エリアーナは慎重に歩き出した。
どこへ行けば下町に出られるのか、正確な道順は知らない。
いつもは決められた場所しか移動しないからだ。
(確か……あの嫌な感じがしたのは、こっちの方角だったはず……)
確信はないけれど、先ほど祈りの最中に感じた不穏な気配が、微かに残っているような気がする方へ、エリアーナは足を向けた。
それは、神殿の奥へと続く、普段はあまり使われていない薄暗い通路だった。
ひんやりとした石の壁に沿って進む。
自分の足音だけが、やけに大きく響くように感じられた。
(誰か来ないで……お願い……)
角を曲がるたびに、息を殺して様子を窺う。
心臓が喉までせり上がってくるような緊張感に、何度も立ち止まりそうになった。
しばらく進むと、遠くで人の声や慌ただしい足音が聞こえてきた。
そっと柱の影から覗くと、神殿騎士と思われる数人が、険しい顔で駆け抜けていくのが見えた。
別の場所では、神官たちが不安そうに集まって、何かを囁き合っている。
(やっぱり、下町は大変なことになっているんだわ……)
その光景に、エリアーナの焦りはさらに募った。
早くしなければ。
でも、見つかるわけにはいかない。
さらに奥へと進むと、エリアーナは一つの小さな扉を見つけた。
古びた木製の通用門のようだ。
普段は固く閉ざされているけれど、今はわずかに隙間が開いている。
おそらく、緊急事態のため、誰かが使った後なのだろう。
(ここからなら、外に出られるかもしれない……!)
エリアーナは扉に駆け寄り、そっと隙間から外を覗いた。
そこは神殿の裏手にあたる場所らしく、小さな雑木林が広がっていた。
そして、その向こう……下町があるはずの方角の空が、気のせいか少しだけ黒ずんで見えた。
微かに、煙が上がっているようにも見える。
(行かないと……!)
エリアーナは意を決した。
ぎ、と音を立てないように慎重に扉を押し開け、外へと体を滑り込ませる。
そして、すぐに扉を閉めた。
神殿の外の空気は、中のそれとは違って、ざわめきと、焦げ臭いような匂いを微かに含んでいた。
エリアーナは、初めて一人で、聖域である神殿の敷地から、外の世界へと足を踏み出した。
未知と、おそらくは危険が待つ世界へ。
背徳感と、わずかな高揚感、そして大きな不安を抱えながら。