穢れた祈りの聖女 ~偽りの救世主と蔑まれた私が、滅びゆく王国で唯一真実の奇跡を紡ぐ~ 作:うどん小町
エリアーナが右手を突き出した、まさにその瞬間だった。
彼女の手のひらから迸ったのは、人々が聖女に期待するような暖かく清らかな光ではなかった。
それは、まるで闇そのものが凝縮されたかのような、黒い靄――いや、影のような不定形のエネルギーだった。
脈打つように揺らめきながら、それは明確な意志を持った生き物のように、蜘蛛の魔物に向かって一直線に伸びた。
「キシャアアアア!?」
黒いエネルギーは、子供に振り下ろされようとしていた魔物の巨大な前脚に、音もなく絡みついた。
次の瞬間、魔物は甲高い、耳を찢くような悲鳴を上げた。
黒いエネルギーに触れた部分が、急速に色を失い、まるで炭のように黒く変じていく。
そして、ボロボロと音を立てて崩れ始めた。
それは浄化とは程遠い、明らかに破壊と、蝕むような苦痛を与える現象だった。
魔物は残りの脚をばたつかせ、苦悶にのたうち回る。
子供のことなど、もう目に入っていないようだった。
「うっ……ぁ……!」
だが、その異様な光景を引き起こしたエリアーナ自身も、無事では済まなかった。
黒いエネルギーを放った右腕から、全身へと、経験したことのないような激しい虚脱感が襲いかかったのだ。
目の前がぐにゃりと歪み、激しい目眩と吐き気がこみ上げてくる。
立っていることすらできず、エリアーナはその場に膝から崩れ落ちた。
「はぁ……っ、はぁ……っ……!」
荒い息をつきながら、霞む視界で目の前の光景を見つめる。
苦しみ続ける巨大な魔物。
そして、その手前で尻餅をついたまま、こちらと魔物を交互に見比べ、恐怖に引きつった顔で呆然としている小さな女の子。
(……助かった……の? あの子は……)
わずかな安堵が胸をよぎる。
けれど、すぐに別の感情がそれを塗り潰した。
自分の手を見る。
あの黒いエネルギーは、確かにこの手から放たれたのだ。
魔物をあんなにも苦しめる、おぞましい力が。
(ああ……やっぱり……!)
エリアーナの全身を、冷たい絶望が貫いた。
(わたくしの力は……穢れている……!)
人を癒やすどころか、醜い魔物と同じように、苦痛を与え、破壊する力。
聖女にあるまじき、呪われた力。
それが、自分の本質なのだと、改めて思い知らされた気がした。
「う……ぅ……」
込み上げてくる自己嫌悪と恐怖に、エリアーナはただ蹲るしかなかった。
助かったはずの子供の存在すら、今の彼女にとっては、自身の「穢れ」を証明する証のように思えてならなかった。
エリアーナが自分の力の禍々しさに打ちひしがれていた、その時だった。
苦しみ悶えていた巨大な蜘蛛の魔物は、黒い靄に蝕まれた部分から急速に崩壊を進め、やがてピクリとも動かなくなった。
まるで、生命力そのものを吸い取られてしまったかのように。
「――聖女様っ!」
切羽詰まったような、鋭い声が響いた。
エリアーナがはっと顔を上げると、そこには息を切らせたカイウスが立っていた。
その手には剣が握られ、鎧のあちこちには戦闘の痕跡が見える。
どうやら、近くの魔物を片付けて駆けつけたらしい。
カイウスは、目の前の光景に一瞬、言葉を失ったようだった。
異様な姿で動かなくなった巨大な魔物。
その傍らで呆然と座り込む小さな女の子。
そして、地面に倒れ伏し、か細い息をしているエリアーナ。
「……これは、一体……」
だが、カイウスの思考はすぐにエリアーナへと集中した。
彼は魔物の残骸には目もくれず、エリアーナの元へと駆け寄った。
「聖女様! しっかりなさってください! ご無事ですか!?」
カイウスはエリアーナの肩に手を置き、軽く揺さぶった。
その声には、隠しようのない心配の色が滲んでいた。
「あ……カイウス、さま……」
エリアーナはカイウスの顔を見て、恐怖と罪悪感で心がぐちゃぐちゃになった。
見られた。
きっと、見られてしまったのだ。
わたくしの、この穢れた、恐ろしい力を。
「ごめんなさ……わたくし……言いつけを、破って……でも、あの子が……」
混乱し、まともな言葉にならない。
涙がぼろぼろと溢れ出す。
カイウスはエリアーナの尋常でない消耗ぶりと、その混乱した様子、そしてすぐ傍らにある魔物の異様な亡骸を見て、瞬時に何が起こったのかを悟った。
(まさか……本当に、彼女が……? この魔物を、倒したというのか? あの、黒い力で……)
信じられない思いと同時に、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
報告でしか知らなかった「穢れた祈り」。
その一端を、今、目の当たりにしたのだ。
それは、聖女の奇跡と呼ぶにはあまりにも禍々しく、危険な力だった。
その時、近くで呆然としていた女の子が、カイウスの姿に気づいたのか、わっと声を上げて泣き出した。
カイウスは鋭くそちらに視線を向けたが、すぐにエリアーナへと意識を戻した。
(子供の保護も必要だ。だが、今は……!)
エリアーナの状態は、明らかに普通ではない。
このままここに置いておくのは危険すぎる。
それに、この力のことが他の者に知られれば、どうなるか……。
「聖女様。今は何も話さなくていい」
カイウスは決断すると、エリアーナの身体を慎重に、しかし力強く抱え上げた。
エリアーナは抵抗する力もなく、カイウスの腕の中に収まった。
「とにかく、ここを離れます。神殿へ戻りましょう」
カイウスはエリアーナを抱えたまま立ち上がると、泣き続ける子供に一瞥をくれた。
(必ず後で迎えに来る、それまで無事でいてくれ)
心の中でそう念じると、彼は足早に、多くの疑問と、エリアーナに対する新たな感情――それは心配か、畏怖か、あるいは、まだ名付けられない何かか――を抱えながら、神殿へと続く道を急いだ。
残された魔物の亡骸と、泣きじゃくる子供の声を背にして。