穢れた祈りの聖女 ~偽りの救世主と蔑まれた私が、滅びゆく王国で唯一真実の奇跡を紡ぐ~ 作:うどん小町
第1話「暁の決意、新たな侍女」
重い瞼を押し上げると、見慣れた自室の天井が目に映った。
身体が鉛のように重く、昨日の出来事が悪夢のように蘇ってくる。
下町の惨状。巨大な蜘蛛の魔物。そして……自分の手から放たれた、あの黒い力。
(……穢れた、力)
エリアーナはぎゅっと目を閉じた。
思い出そうとしなくても、魔物が苦しみ、崩れていく光景が鮮明に浮かび上がる。
人を傷つけ、破壊する力。それが自分の中に眠っているという事実が、冷たい恐怖となってエリアーナの心を締め付けた。
あの後、カイウス様に抱えられて戻ってきた記憶は断片的だが、彼が自分の力を見てしまったかもしれないという恐怖は、はっきりと残っている。
(わたくしは、どうなってしまうのだろう……)
教会に知られれば、今度こそ本当に「異端」として断罪されるかもしれない。
考えただけで身が竦む。
しかし――。
恐怖と同じくらい、いや、それ以上に強く、エリアーナの心には別の感情が湧き上がっていた。
(知らなければ……)
この力の正体は何なのか。
なぜ、自分だけがこんな力を持っているのか。
そして、あの祈りの最中に感じた、不穏な異変は何だったのか。
自分の力が、下町の魔物騒ぎと何か関係があるのだろうか?
(分からないことだらけだわ……でも、このまま何も知らずに怯えているだけなんて、もう嫌……!)
昨日の出来事は恐ろしかった。けれど、同時に、ほんの少しだけ、何かが変わったような気もしていた。
無力感に苛まれるだけでなく、自分の意志で行動を起こすきっかけになったのかもしれない。
カイウス様の言いつけを破って外に出たこと。そして、図らずも力を発動させてしまったこと。
それは、エリアーナにとって初めての「逸脱」であり、未知への扉を叩く行為だった。
(怖い……でも、進まないと)
エリアーナはゆっくりと身体を起こした。
まだ倦怠感は残っているが、昨日よりは随分とましだった。
恐怖も罪悪感も消えない。けれど、それを抱えたまま、自分は進まなければならない。
真実を知るために。そして、いつかこの力を……。
(制御、できる日が来るかは分からないけれど……)
少なくとも、理解はしなければならない。
そのために、行動を起こすのだ。
エリアーナは固く決意を固め、ベッドから降りた。
身支度を整え、いつものように扉を開ける。
そこにはやはり、カイウスが壁に背を預けて立っていた。
彼はエリアーナの姿を認めると、背を離し、軽く一礼した。
「おはようございます、聖女様。お加減はいかがですかな?」
その声は、いつも通りの落ち着いたものだった。
昨日の出来事について、何か特別な感情が込められているようには聞こえない。
けれど、彼の鳶色の瞳は、静かにエリアーナの顔色や様子を窺っていた。
(……何も、言わないのね)
エリアーナは内心で少しだけ驚きながらも、平静を装って答えた。
「おはようございます、カイウス様。……もう、大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「それはようございました。ですが、まだご無理はなさらないように」
当たり障りのない会話。
けれど、その裏で互いが相手の真意を探り合っているような、奇妙な緊張感が漂っていた。
カイウス様は、昨日のことをどう報告したのだろうか。そして、これからわたくしをどうするつもりなのだろうか。
エリアーナの心は警戒心でいっぱいだった。
その時、廊下の向こうから、別の足音が近づいてきた。
神官に連れられた、エリアーナとさほど年の変わらないくらいの、明るい茶色の髪をした少女だった。
彼女はエリアーナの前に進み出ると、快活な笑顔で溌剌と挨拶した。
「はじめまして、エリアーナ様! わたくし、今日からエリアーナ様付きの侍女になりました、リズと申します! どうぞ、よろしくお願いいたしますっ!」
太陽のような、屈託のない笑顔。
そのあまりの明るさに、エリアーナは一瞬、戸惑いを覚えた。
神殿の中で、自分にこんな風に接してくる人間は、今までいなかったからだ。
「……え? あ、はい……わたくしは、エリアーナです。よろしく、お願いします……リズさん」
戸惑いながらも、エリアーナは挨拶を返した。
隣に立つカイウスを見ると、彼もまた、無表情ながらリズを一瞥し、その様子を観察しているようだった。
(新しい侍女……? なぜ、このタイミングで……?)
エリアーナの胸に、新たな警戒心が芽生える。
この少女は、本当にただの侍女なのだろうか?
それとも……。
リズはそんなエリアーナやカイウスの内心には気づかない(あるいは気づかないふりをしている)様子で、にこやかに言葉を続けた。
「エリアーナ様のお世話ができるなんて、光栄です! 何かご入用の際は、いつでもお申し付けくださいね!」
「は、はい……ありがとうございます……」
(まずは、信用してもらわないとね!)
リズは内心で舌を出した。
大神官様から直々に言い渡された任務だ。絶対に失敗はできない。
この大人しそうな聖女様と、隣にいる目つきの鋭い騎士様。一筋縄ではいかなそうだけど、うまく取り入って、情報を引き出して見せる。リズは内心で意気込んだ。
紹介を終えた神官とリズが下がっていくと、再びエリアーナとカイウスの間に静寂が戻った。
カイウスは何も言わなかったが、彼の纏う空気が先ほどよりも少しだけ鋭くなったような気がした。
(あの侍女……おそらく、誰かの差し金だろうな)
カイウスは内心で分析していた。
このタイミングでの新しい専属侍女。偶然とは考えにくい。
ゼノンか、あるいは別の誰かか。いずれにせよ、エリアーナへの監視の目が、また一つ増えたということだ。
(ますます、慎重に動かねばならんな……)
カイウスがそう考えているとは露知らず、エリアーナもまた、一人になった後、自室で思考を巡らせていた。
(リズさん……気をつけないといけないわね。でも、それよりも今は……)
エリアーナは窓の外を見た。
空は青く、平和な朝に見える。
けれど、昨日の出来事が、そして自分の内に眠る力が、それを許してはくれない。
(動かないと)
エリアーナは決意を固めた。
まずは情報収集だ。
目標は二つ。
一つは、神殿の禁書庫。
そこには、古代の魔法や奇跡に関する、教会が秘匿してきた文献が眠っているという。
自分の力の秘密に繋がる何かが、見つかるかもしれない。
問題は、禁書庫は厳重に管理されており、入るためには特別な許可が必要なことだ。そして、カイウス様の監視をどう掻い潜るか。
もう一つは、エルダー司祭様への接触。
あの方は、古代文献の研究者であり、教会の「正統性」に疑問を持っていると噂で聞いたことがある。
もしかしたら、わたくしの力のことを何かご存知かもしれない。
あるいは、少なくとも、話を聞いてくれるかもしれない。
だが、彼もまた、教会内では異端視されている可能性がある。接触すること自体にリスクが伴うだろう。
(どうすれば……?)
エリアーナは机に向かい、羽根ペンを手に取った。
白紙の羊皮紙に、思考を整理していく。
禁書庫への経路、見取り図は手に入るか?
エルダー司祭様は、普段どこにおられるのか?
カイウス様の監視のパターンは?
新しく来たリズさんは、信用できるのか、それとも利用できるのか……?
恐怖も不安もある。
けれど、それ以上に、真実を知りたいという渇望が、エリアーナを突き動かしていた。
偽りの聖女は、自らの意志で、動き出すための準備を始めた。
その小さな一歩が、やがて大きな運命の歯車を回し始めることを、まだ誰も知らない。