穢れた祈りの聖女 ~偽りの救世主と蔑まれた私が、滅びゆく王国で唯一真実の奇跡を紡ぐ~ 作:うどん小町
エリアーナが眠りに落ちたのを確認した後も、カイウスはしばらく扉の前から動かなかった。
彼女の無防備な寝顔と、昨日の力の暴発。その二つが脳裏で交錯し、重い問いとなってカイウスにのしかかる。
だが、ただここで待っているだけでは何も解決しない。
(動かねば……)
カイウスは決意を固め、静かにその場を離れた。
エリアーナの部屋には最低限の結界術(気休め程度だが)を施し、万が一に備える。
向かう先は、神殿の奥深くにある古文書保管室――通称、書庫だ。
エルダー司祭がいるとすれば、おそらくあそこだろう。
神殿の廊下は、昨日とは打って変わって落ち着きを取り戻しているように見えた。
下町の魔物騒ぎは、騎士団の奮闘により、ひとまず鎮圧されたと聞いている。
だが、カイウスの心は晴れなかった。根本的な解決には至っていない。災厄の根は、もっと深いところにあるはずだ。
人目を避け、カイウスは普段あまり使われない回廊を選んで進んだ。
壁に掛けられたタペストリーの模様、床の石畳の継ぎ目、窓から差し込む光の角度。あらゆるものに注意を払い、誰かに後をつけられていないか警戒する。
(あの侍女、リズ……やはり気になる)
先ほどのエリアーナとの会話。あの馴れ馴れしさと、探るような質問。
偶然現れたとは考えにくい。
彼女もまた、この神殿に渦巻く何らかの思惑の一部なのだとしたら……。
ふと、前方の角を曲がったところで、見慣れた侍女服の後ろ姿が一瞬見えた気がした。
リズか?
カイウスは咄嗟に柱の影に身を隠した。
侍女はカイウスには気づかず、別の通路へと消えていく。
(……気のせいか? いや……)
偶然かもしれない。だが、疑念は深まる。
この神殿では、壁にも耳があると思った方がいい。
カイウスはさらに警戒レベルを引き上げ、書庫へと足を速めた。
古文書保管室の重厚な扉の前にたどり着く。
扉を開けると、むわりとした古紙と埃の匂いが鼻をついた。
高い天井まで届く書架が迷路のように立ち並び、その隙間から差し込む光の筋が、空気中の塵をキラキラと照らしている。
迷宮のような書庫の奥深く、カイウスは目的の人物を見つけた。
(……おられたか)
白く長い髭を蓄え、背を丸めて巨大な書物に見入っている老人がいた。
エルダー司祭だ。
その周囲には、解読中なのか、羊皮紙の巻物がいくつも広げられている。
カイウスは音を立てないように近づき、声をかけた。
「エルダー司祭様、ご多忙の折とは存じますが、少々お時間を頂いてもよろしいでしょうか」
エルダー司祭はゆっくりと顔を上げた。
その穏やかな瞳が、カイウスを捉える。
「おお……これは、カイウス騎士殿。儂に何か用かな?」
その口調は穏やかだったが、瞳の奥には鋭い探求の色が宿っていた。
カイウスの突然の訪問の意図を、既に見抜いているかのようだ。
(やはり、ただの老司祭ではないな)
カイウスは内心で気を引き締めながら、用意していた口実を述べた。
「は。実は、先日の下町での魔物騒ぎについて、少し気になることがありまして。過去の記録に、今回のような特徴を持つ魔物や、それによる災厄の記述がないか、お知恵を拝借したく参上いたしました」
「ほう……下町の件か。騎士団も大変じゃったのう」
エルダー司祭は顎鬚を撫でながら、相槌を打つ。
「して、どのような特徴が気になったのかな?」
「……出現した魔物の種類もさることながら、その……被害の状況や、鎮圧後の魔物の亡骸の状態に、いくつか不可解な点が見られたと聞き及んでおります」
カイウスは慎重に言葉を選んだ。エリアーナの力に直接言及することは避ける。
「ふむ……不可解な点、か。災厄というものは、常に我々の理解を超える形で現れるものじゃよ、騎士殿。過去の記録が、必ずしも現在の事象を説明できるとは限らん」
エルダー司祭は、諭すような口調で言った。
だが、カイウスはその言葉の裏に、何か別の意味が隠されているような気がした。
「しかし、エルダー司祭様。古代の文献には、我々の知らない知識が記されているとも聞きます。例えば……その、通常とは異なる力を持つ聖女様の記録や、あるいは、我々が『奇跡』と呼ぶものとは別の……力の側面に関する記述などは?」
カイウスは、さらに踏み込んでみた。
エルダー司祭の目が、わずかに細められた。
「……力、とな? ほう、騎士殿はなかなかに探求心が旺盛じゃな」
エルダー司祭は、くつくつと喉の奥で笑った。
「力とは、光もあれば影もある。太陽があれば月もあるようにな。その両面を見なければ、本質は見えてこんよ。我々が普段目にしているのは、都合の良い片面だけかもしれんのじゃ」
光と、影。
その言葉に、カイウスは心の中で反芻した。
エリアーナの力は、まさに「影」の側面そのものではないか?
「では、その『影』の力については……?」
「さあて、どうじゃろうな」
エルダー司祭は肩をすくめた。
「真実というものは、時に埃をかぶった書物の片隅に、あるいは……最も厳重に閉ざされた扉の向こうに眠っているものじゃよ」
閉ざされた扉――それは、禁書庫のことを示唆しているのだろうか?
「急いては事を仕損じるぞ、若き騎士よ。真実への道は、時に暗く、険しい。足元をよく見て進むことじゃな」
エルダー司祭はそれだけ言うと、再び手元の書物に視線を落とした。
これ以上話すつもりはない、という意思表示のようだ。
(……やはり、何かをご存知だ。そして、俺を試しておられる)
カイウスはエルダー司祭に深く一礼した。
「……貴重なお言葉、感謝いたします。失礼いたしました」
多くは語られなかった。だが、カイウスは確かな手応えを感じていた。
『光と影』『閉ざされた扉』。そして、エルダー司祭自身の、エリアーナに対する暗黙の関心。
これらは、今後の調査の重要な指針となるだろう。
カイウスは書庫を出ようと、背を向けた。
その時、高い書架の陰に、一瞬だけ、ひらりと動く影が見えたような気がした。
(……!)
カイウスは鋭く振り返ったが、そこには誰もいなかった。
ただ、埃っぽい空気と、無数の書物が静かに並んでいるだけだ。
(気のせいか……? いや……)
先ほど見かけたリズの姿が脳裏をよぎる。
もし、今の会話を聞かれていたとしたら……。
カイウスは表情には出さなかったが、内心で強く警戒心を抱いた。
この神殿では、秘密裏に行動することの難しさと危険性を、改めて認識させられた。
それでも、彼はもう止まるつもりはなかった。
真実へと続く、暗く険しい道を、進むしかないのだ。
エリアーナのためにも、そして、自分自身のためにも。
カイウスは静かに書庫の扉を閉め、次なる一手を考えながら、廊下を歩き出した。