穢れた祈りの聖女 ~偽りの救世主と蔑まれた私が、滅びゆく王国で唯一真実の奇跡を紡ぐ~ 作:うどん小町
エルダー司祭との意味深な会話を終え、カイウスはエリアーナの私室へと戻った。
書庫で感じた監視の気配は、気のせいだったと思いたいが、油断はできない。
扉の前で静かに中の様子を窺うと、物音一つしない。眠っているのか、あるいは静かに何かをしているのか。
カイウスは軽くノックし、返事を待たずに静かに扉を開けた。
エリアーナは部屋の奥にある小さな机に向かい、書物を広げていた。
カイウスの入室に気づき、彼女は少し驚いたように顔を上げる。
その顔色は、朝よりは幾分か回復しているように見えたが、空色の瞳の奥には、深い思考と、そして消えない警戒の色が宿っていた。
「……カイウス様。何か」
「いえ、聖女様のご様子を拝見しに。お加減はよろしいようですな」
カイウスは部屋に入り、扉を閉めると、エリアーナの机に近づいた。
広げられているのは、分厚い聖典のようだったが、その隣には白紙の羊皮紙と羽根ペンが置かれている。何かを書き留めようとしていたのだろうか。
「ええ、おかげさまで」
エリアーナは短く答えると、再び書物に視線を落とした。
だが、その指先がページの端を固く握っているのを、カイウスは見逃さなかった。
(やはり、何かを考えているな。あの出来事の後だ、当然かもしれんが)
カイウスは、エリアーナの机の上にさりげなく視線を走らせた。
特別なものは何もない。だが、彼女の纏う空気が、以前とは明らかに違う。
ただ怯え、塞ぎ込んでいた少女ではない。何かを探し、見つけようとしている者の気配。
カイウスは、エルダー司祭の言葉を思い出しながら、探りを入れることにした。
「聖女様は、熱心に何かを調べておられるご様子。古い文献にご興味がおありとか」
エリアーナの肩が、ほんのわずかに強張った。
「……ええ。少し、気になることがありましたので」
「さようでございますか。この神殿の書庫にも多くの書物がありますが、さらに貴重な知識を求めるのであれば……神殿の禁書庫には、外部には決して出ることのない、古代からの秘伝や記録が眠っているそうですが。聖女様は、ご存知でしたか?」
『禁書庫』――その言葉が出た瞬間、エリアーナの瞳が大きく揺れたのを、カイウスは確かに捉えた。
彼女は動揺を隠そうと、慌てて視線を伏せたが、もう遅い。
「……名前だけは、聞いたことがあります。ですが……」
エリアーナの声が、わずかに上ずる。
「わたくしのような者には、入る資格もございませんし……縁のない場所ですわ」
そう言って、彼女は再び書物を握る手に力を込めた。
否定しながらも、その全身が『禁書庫』という言葉に強く反応している。
(やはり、関心はある、か。それも、強い関心だ)
カイウスは確信した。
エルダー司祭の言った『閉ざされた扉』は、やはり禁書庫のことを指している可能性が高い。そして、エリアーナもまた、そこにある何かを求めているのだ。
(目的は同じかもしれんな。だが……)
カイウスが次の言葉を探していると、まさにその時、部屋の扉が軽快なノックと共に開かれた。
「失礼しまーす! エリアーナ様、カイウス様、お話し中でしたか? お昼の準備ができましたので、お知らせに上がりました!」
満面の笑みを浮かべたリズが、盆を手に立っていた。
その登場は、あまりにもタイミングが良すぎるようにカイウスには思えた。
「あらあら、エリアーナ様、また難しいお顔をされて。何かお悩み事ですか?」
リズは部屋に入ってくると、テーブルに昼食の準備をしながら、親しげにエリアーナに話しかける。
「もし何かお探し物とかあるんでしたら、私に言ってくださいね! こう見えても、神殿の中のことは結構あちこち知ってるんですよ! 例えば、普通の人は入れないような図書室とか、古い品物がたくさん置いてある倉庫とか……そういう場所のことも、ちょーっとだけ、詳しいかもしれません!」
リズは悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
その言葉は、明らかにエリアーナとカイウスを試している。
『禁書庫』という言葉を直接出さずに、それとなく匂わせ、二人の反応を探っているのだ。
(この侍女……!)
エリアーナはリズのあからさまな揺さぶりに、背筋が冷たくなるのを感じた。
彼女はどこまで知っている? ただのカマかけ? それとも、本当に何かを知っていて、わたくしを誘い込もうとしている?
「……ありがとう、リズさん。でも、今は特に探しているものはありませんから、大丈夫ですわ」
エリアーナは努めて冷静に、しかしきっぱりと答えた。
この侍女に乗せられてはいけない。
カイウスもまた、リズの言動を鋭い視線で観察していた。
(図書室、古い倉庫……か。禁書庫のことを指しているのは明白だな。そして、それをエリアーナ様の前で口にするとは……。やはり、ただの侍女ではない)
カイウスは、リズという存在の危険性を改めて認識した。
彼女は、エリアーナの秘密を探るために送り込まれた、明確な敵意を持つ存在だ。
「リズ」
カイウスは、低い声で侍女の名を呼んだ。
「昼食の準備は済んだのだろう。ならば、聖女様のお食事の邪魔になる。下がりなさい」
「あら、つれないですねぇ、カイウス様は。少しくらいお話してもいいじゃないですかー」
リズはカイウスの言葉にも怯まず、わざとらしく唇を尖らせてみせた。
だが、カイウスの冷たい視線を受けると、さすがにそれ以上は粘らなかった。
「はーい、分かりましたよー。では、エリアーナ様、ごゆっくりどうぞ! 何かありましたら、いつでも呼んでくださいね!」
リズは最後にエリアーナにだけ愛想の良い笑顔を見せると、軽い足取りで部屋を出て行った。
嵐のような侍女が去った後、部屋には再び重い沈黙が訪れた。
エリアーナは、リズが出て行った扉を睨むように見つめている。
カイウスは、窓の外に視線を向け、何かを深く考えているようだった。
言葉を交わさずとも、二人の間には共通の認識が生まれていた。
あの侍女は油断ならない。
そして、自分たちが求める『禁書庫』への道は、決して容易ではないだろう、と。
エリアーナは、先ほどリズに邪魔された羊皮紙を、再び手元に引き寄せた。
決意は揺るがない。むしろ、リズの登場によって、さらに強まった。
(必ず、行ってみせるわ。禁書庫へ。そして、わたくしの力の真実を……)
カイウスもまた、エルダー司祭の言葉とリズの存在を反芻しながら、思考を巡らせていた。
(禁書庫……か。正規の方法では無理だろう。ならば、別の道を探すしかない。そして、あの侍女の妨害も考慮に入れねばならん……)
それぞれの胸に、禁書庫への強い意志と、具体的な計画への模索が始まっていた。
動き出した意志は、もはや止まることはない。
たとえ、その先にどんな困難が待ち受けていようとも。