穢れた祈りの聖女 ~偽りの救世主と蔑まれた私が、滅びゆく王国で唯一真実の奇跡を紡ぐ~ 作:うどん小町
エリアーナが自室に戻り、扉が閉ざされた後も、カイウスはその場からしばらく動けなかった。
先ほどの彼女の様子、そしてエルダー司祭との会話が、彼の頭の中でぐるぐると回っていた。
(やはり、昨夜……動いたな)
確証はない。だが、カイウスの騎士としての勘が、強くそう告げていた。
エリアーナが部屋に戻ってきた時、彼女の纏う空気はわずかに夜の冷たさを帯びていたように感じた。そして、エルダー司祭との会話の後、彼女が見せたあの強い決意の表情。
あれは、ただ書物を読んでいただけの者の顔ではない。
(まさか、一人で禁書庫へ行こうとでも…?)
その可能性に行き着き、カイウスは背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
無謀すぎる。
禁書庫がどのような場所か、カイウス自身も詳しくは知らない。だが、神殿の最重要機密が保管され、厳重な警備と、おそらくは何らかの魔法的な防御が施されているであろうことは想像に難くない。
そんな場所に、何の力も持たない(と本人は思っている)少女が一人で忍び込もうなど、自殺行為に等しい。
(止めなければ……!)
強い衝動に駆られる。
だが、どうやって?
四六時中見張っていても、彼女が諦めるとは思えない。あの瞳は、本気だった。
それに、力ずくで止めれば、彼女はさらに心を閉ざしてしまうだろう。
それでは、彼女の力の秘密にも、教会が隠す真実にも近づけない。
(監視だけでは足りん……俺自身が、彼女よりも先に動かねば!)
カイウスは固く拳を握りしめた。
エルダー司祭との再接触。今度はもっと踏み込んで、禁書庫の場所、そして「鍵」について聞き出す必要がある。
神殿の古い設計図も手に入れなければ。警備体制も徹底的に洗い直す。
そして、あの侍女リズ。彼女の監視も強化し、できればその背後関係を探り出したい。
(バルガス隊長に、もう一度相談してみるか……? いや、危険すぎるか……)
隊長がどこまで信用できるか、まだ分からない。下手に動けば、ゼノンに察知される可能性もある。
今はまだ、単独で動くべきだろう。
カイウスの中で焦燥感が募っていく。
エリアーナの行動を止めなければならないという思いと、真実を知りたいという自身の探求心。そして、彼女を危険から守りたいという、任務を超えた感情。
それらが複雑に絡み合い、彼を突き動かしていた。
*
その頃、神殿の最も豪華で、最も影の濃い一室――大神官ゼノンの執務室では、主が窓の外に広がる王都の景色を眺めながら、静かに報告を聞いていた。
報告者は、影のように控えるゼノンの腹心の一人だ。
「……以上が、カイウス騎士とエルダー司祭の接触、及び、聖女エリアーナの昨夜の不審な行動に関する報告となります」
報告を終えた腹心が、恭しく頭を下げる。
ゼノンはしばらく無言だったが、やがて、ふ、と冷たい笑みを口元に浮かべた。
「ほう……あの忌まわしき血筋の娘も、愚直な騎士も、ようやく鼠のように嗅ぎ回り始めたか。思ったよりも、鼻が利くようだな」
その声には、侮蔑と、そしてどこか愉悦の色が混じっていた。
「エルダーの爺まで絡んできたとは……あの老いぼれ、まだ諦めておらんかったか。まあ良い」
ゼノンは窓から視線を外し、ゆっくりと椅子に腰掛けた。指先で肘掛けを規則的に叩きながら、彼は思考を巡らせる。
「禁書庫、か。あの娘が、あの場所を目指すのは必然かもしれんな。血は争えん、ということか……」
彼の灰色の瞳が、冷たく光る。
「面白い。どこまで辿り着けるか、見物としようではないか」
ゼノンは傍らに控える腹心――それはリズへと繋がる指示系統の者だった――に向き直った。
「リズには伝えよ。監視は続けさせろ。だが、下手に手出しはするな。むしろ……」
ゼノンは口の端を歪め、悪意に満ちた笑みを深めた。
「彼らが『禁書庫』へ近づくのを、それとなく『手助け』してやるのも一興かもしれんぞ。例えば、偶然、古い地図の断片が見つかるようにするとか、警備の手薄な時間帯を『うっかり』漏らす、とかな」
腹心は驚きに目を見開いたが、すぐに表情を引き締め、深く頭を下げた。
「……はっ。承知いたしました」
「ただし、決して我々の影は見せるな。あくまで、彼らが自力で辿り着いたように見せかけるのだ。あの場所は、相応の『資格』を持つ者しか受け入れん。その『資格』があるかどうか、試させてもらおうではないか」
ゼノンの言葉には、冷たい計算と、底知れない悪意が満ちていた。
エリアーナやカイウスを利用し、禁書庫に眠る何かを、あるいはエリアーナ自身の力を、自らの目的のために使おうとしているのか。
その真意は、まだ誰にも分からない。
「下がれ」
ゼノンの短い言葉に、腹心は音もなく退室した。
一人残された執務室で、ゼノンは再び窓の外に目を向けた。
彼の視線の先には、エリアーナがいるであろう旧礼拝堂の方角があった。
「せいぜい足掻くがいい、小娘……そして騎士よ。お前たちの運命は、既にこの私の掌の内にあるのだからな……」
静かな部屋に、ゼノンの低い笑い声が、不気味に響き渡った。
禁書庫を目指すエリアーナとカイウス。
それを監視し、利用しようと企むゼノン。
そして、鍵を握るかもしれないエルダー司祭。
それぞれの思惑が、神殿という名の舞台の上で、静かに、しかし確実に動き始めていた。
物語は、新たな局面へと向かおうとしていた。