穢れた祈りの聖女 ~偽りの救世主と蔑まれた私が、滅びゆく王国で唯一真実の奇跡を紡ぐ~ 作:うどん小町
一歩、また一歩。
エリアーナは、闇に溶け込むように神殿の廊下を進んでいた。
月明かりは頼りなく、懐から取り出した小さな蝋燭の灯りが、足元とすぐ前の壁をぼんやりと照らすだけだ。
心臓の音が、やけに大きく耳に響く。
自分の息遣いさえ、誰かに聞かれてしまうのではないかと恐ろしかった。
(大丈夫……まだ誰にも気づかれていないはず……)
昼間とは全く違う、夜の神殿。
静寂が支配しているようでいて、注意深く耳を澄ませば、様々な音が聞こえてくる。
遠くで響く、規則正しい警備の兵士の靴音。
建物のどこかが、風を受けて軋む音。
そして、自分のすぐ後ろをついてくるような、気のせいかもしれない衣擦れの音。
(落ち着かないと……)
エリアーナは壁に背をつけ、一度立ち止まって呼吸を整えた。
恐怖で感覚が過敏になっているのかもしれない。
けれど、同時に、昼間には感じなかった何かも感じ取っている気がした。
空気の淀み、微かな魔力の残滓、そして……あの不穏な気配がした方角へと、自分を導く何か。
(エルダー司祭様の言っていた、「光の当たらぬ場所」……)
昼間に確認した案内図の記憶と、この奇妙な感覚を頼りに、エリアーナは神殿のより深く、古く、そして普段は人の立ち入らない区画へと進んでいった。
空気は次第に埃っぽくなり、壁に掛けられたタペストリーの色も褪せている。
ここは、長い間、忘れられていた場所なのだ。
*
そのエリアーナの姿を、カイウスは少し離れた場所から、音もなく追っていた。
騎士としての訓練で培われた隠密行動は、彼の存在を完全に闇に溶け込ませていた。
(やはり、この区画か……)
カイウスはエリアーナが進む方角を見て、眉をひそめた。
ここは神殿の最奥部。古文書保管室よりもさらに奥。
言い伝えによれば、禁書庫はこの区画のどこかにあるとされている。
(本当に一人で行くつもりか、あの方は……!)
その無謀さに、カイウスは苛立ちに近い感情を覚えた。
だが、同時に、彼女を突き動かすものの強さも感じていた。
あの力の謎、自身の運命……それを知りたいという渇望が、恐怖を上回っているのだろう。
(どこまで行かせるか……。禁書庫の前には、何らかの防御機構があるはずだ。それに触れる前に介入すべきか……?)
カイウスは慎重に距離を詰めながら、介入のタイミングを計っていた。
エリアーナの安全確保が最優先だ。しかし、彼女が何をしようとしているのか、可能な限り見極めたいという思いもある。
ふと、カイウスは背後に微かな気配を感じて、動きを止めた。
気のせいか?
いや、違う。
明らかに、自分たちの他に、もう一つ……あるいは複数か?……何者かの気配がする。
(……リズか? それとも、ゼノンの手の者か?)
カイウスは内心で舌打ちした。
やはり、見られていたか。
状況は、カイウスが考えていたよりもさらに複雑で、危険かもしれない。
今はエリアーナから目を離せないが、背後の気配にも最大限の警戒を払わなければならない。
*
一方、エリアーナは、自分が目的地に近づいていることを、肌で感じていた。
空気が変わったのだ。
古びた書物の匂いに混じって、濃密な、古い魔力の気配が漂い始めている。
それは、少しだけ、自分の内にある力と共鳴するような、不思議な感覚だった。
(この先……!)
長い廊下の突き当たりに、エリアーナは一つの扉を見つけた。
周囲の壁とは明らかに違う、黒曜石のような、あるいは未知の金属でできたような、重厚で巨大な扉。
月明かりも蝋燭の灯りも、その表面に吸い込まれるようで、装飾らしい装飾もないのに、圧倒的な存在感を放っている。
扉には、鍵穴らしきものも見当たらない。
(ここが……禁書庫……?)
エルダー司祭の言った「閉ざされた扉」は、きっとこれだ。
エリアーナは、ごくりと唾を飲み込んだ。
どうすれば、この扉を開けられるのだろうか。「鍵」とは一体……?
夢中で扉に近づこうとした、その瞬間だった。
ぞくり、と。
エリアーナの背筋を、悪寒が駆け上った。
すぐ後ろに、あるいはすぐ近くの物陰に、誰かがいる。
それは、カイウス様の気配ではない。もっと冷たく、粘りつくような……。
(誰……!?)
エリアーナは息を呑み、その場で凍りついた。
振り返ることも、声を上げることもできない。
心臓が、張り裂けそうなほど激しく脈打つ。
闇の中で、エリアーナは一人ではなかった。
真実への扉を前にして、彼女は未知の脅威と対峙しようとしていた。
張り詰めた静寂の中、何かが起ころうとしている。
その予感が、夜の神殿の空気を震わせていた。