穢れた祈りの聖女 ~偽りの救世主と蔑まれた私が、滅びゆく王国で唯一真実の奇跡を紡ぐ~ 作:うどん小町
エリアーナが禁書庫と思われる重厚な扉を前に、未知の気配に凍りついていた、その時。
すぐ近くの柱の影から、ゆらり、と人影が姿を現した。
月明かりに照らし出されたのは、見慣れた侍女服。しかし、その顔に浮かぶ表情は、エリアーナが知る快活なそれとは似ても似つかないものだった。
「あらあら、エリアーナ様」
リズだった。
しかし、その声は昼間とは打って変わって、どこか粘りつくような、嘲りを含んだ響きを帯びていた。
瞳には、猫が鼠をいたぶるような、冷たく計算高い光が宿っている。
「こんな夜更けに、このような場所で……一体、何をされているんですかぁ?」
その問いかけは、純粋な疑問などではない。
エリアーナの動揺を見て楽しんでいる、悪意に満ちたものだった。
(リズさん……!? やっぱり、つけて……!)
エリアーナは恐怖で全身が強張るのを感じた。
やはり、この侍女は普通ではなかったのだ。
昼間の親切そうな態度は、全て演技だったのだ。
「もしかしてぇ」と、リズはわざとらしく首を傾げた。
「禁書庫に忍び込もうなんて、悪いことを考えてらっしゃったとか? ふふ、ダメですよぉ、聖女様でも許されないんですから」
その言葉は、エリアーナの心臓を鷲掴みにした。
禁書庫のことを、やはり知っていたのだ。
「見つかったら、どうなるか分かりませんよぉ? 大神官様にお仕置きされちゃうかも。ねぇ?」
リズはくすくすと笑いながら、一歩、エリアーナに近づいた。
その笑顔は、蛇のように冷たく、エリアーナを絡め取ろうとしているように見えた。
「リズさんこそ……!」
エリアーナは恐怖を振り絞り、声を上げた。
「どうして、こんな時間に、こんな場所にいるのですか!? わたくしをつけていたのでしょう!?」
「あら、怖い顔。だから、人聞きが悪いですよぉ」
リズは肩をすくめてみせたが、その瞳は笑っていない。
「私はただ、エリアーナ様が心配で、夜中にこっそりお部屋を抜け出されたものですから、様子を見に来ただけじゃないですか。でも、まさかこんな神殿の奥深くでお会いするなんて……本当に、奇遇ですねぇ?」
白々しい嘘。
その言葉の端々から、エリアーナを嘲笑う響きが感じ取れた。
この侍女は、自分を弄んでいるのだ。
「さあ、エリアーナ様。こんなところにいないで、お部屋に戻りましょう? ね?」
リズがさらに一歩近づき、エリアーナの腕に手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
「――そこまでだ、侍女リズ」
凛とした、低い声が闇に響いた。
声の主は、音もなくリズとエリアーナの間に割って入るように姿を現した。
カイウスだった。
その手は腰の剣の柄に添えられ、全身から放たれる気配は、昼間の彼とは比較にならないほど鋭く、そして冷徹だった。
「……!」
リズはカイウスの突然の登場に、一瞬だけ、素の驚きを見せた。
しかし、すぐに余裕のある、あるいは挑戦的とも言える笑みを顔に貼り付けた。
「あらあら、騎士様まで。こんな時間に聖女様とご一緒だなんて……もしかしてお忍びですかぁ?」
「……」
「それとも、騎士様もこの『閉ざされた扉』にご興味がおありで?」
リズはちらりと背後の巨大な扉に視線を送り、カイウスを挑発した。
エリアーナは、カイウスの登場に一瞬安堵したが、すぐに状況の異常さに気づき、混乱していた。
カイウス様も、なぜここに? わたくしを追ってきたの? それとも……。
そして、リズさんのこの態度……。
禁書庫の重厚な扉の前。
月明かりの下、エリアーナ、カイウス、そして本性を現したリズの三者が、それぞれの思惑を秘めて睨み合っていた。
張り詰めた空気が、肌を刺す。
カイウスはリズの挑発には乗らなかった。
ただ、冷徹な視線で彼女を射抜き、低い声で告げた。
「貴様の任務は、聖女様の身の回りの世話のはずだ。持ち場へ戻れ。……これは、命令だ」
その言葉には、騎士としての階級と、個人的な怒りが込められていた。
リズは、カイウスの威圧感にも怯むことなく、肩をすくめてみせた。
その瞳の奥の、冷たい光は消えていない。
「あら怖い。でも、命令される筋合いはないんですけどねぇ、騎士様には」
リズは、明らかにカイウスの命令を拒否した。
一触即発。
深夜の神殿の奥深く、禁書庫の扉の前で、三者の対立は、もはや避けられないものとなっていた。
闇の中で、それぞれの意志と陰謀が、火花を散らそうとしていた。