穢れた祈りの聖女 ~偽りの救世主と蔑まれた私が、滅びゆく王国で唯一真実の奇跡を紡ぐ~ 作:うどん小町
「持ち場へ戻れ。これは命令だ」
カイウスの低く、威圧感を込めた声に、しかしリズは臆するどころか、楽しそうに肩をすくめてみせた。
まるで、怖いもの知らずの子供のように。
いや、その瞳の奥に宿る冷たい光は、決して子供のものではなかった。
「あら怖い。でも、騎士様に命令される覚えはありませんけど?」
リズはくすくすと笑い、カイウスの言葉を真っ向から拒絶した。
その不遜な態度に、カイウスの纏う空気がさらに冷たく、鋭利なものへと変わっていく。
剣の柄に置かれた彼の手に、力が込められるのがエリアーナにも分かった。
一触即発。
二人の間に、見えない火花が散っているかのようだ。
エリアーナは、ただ息を詰めて二人を見守ることしかできなかった。
カイウス様が怒っている。自分のために? それとも、任務を妨害されたから?
そして、リズさんは一体何を考えているの?
カイウスは、ゆっくりと口を開いた。その声は、先ほどよりもさらに低く、静かだったが、込められた怒りと警告は明らかだった。
「……ならば、聞き方を改めよう。聖女エリアーナ様に、これ以上近づくな。害意ありと見なせば、実力をもって排除する。それが聖女付き騎士としての、私の権限であり、任務だ」
それは、最後通告だった。
騎士としての覚悟を乗せた、重い言葉。
普通の侍女ならば、震え上がってその場に崩れ落ちてもおかしくないほどの気迫が、カイウスから放たれていた。
しかし、リズは――笑った。
楽しそうに、声を立てて。
「まぁ怖い! 騎士様ったら、本気なんですねぇ」
彼女は芝居がかった仕草で胸に手を当てると、くるりとエリアーナに向き直った。
「でも、騎士様、勘違いなさらないで? 私はエリアーナ様の『味方』ですよぉ?」
その言葉に、エリアーナはびくりとした。味方? この人が?
「ねぇ、エリアーナ様」
リズは甘えるような声で続けた。
「こんな怖い騎士様より、私の方がずっとお役に立てると思いません? だってエリアーナ様……この扉を開けたいんでしょう?」
核心を突く言葉。
エリアーナは息を呑んだ。なぜ、わたくしの目的を……!?
リズは、エリアーナの動揺を見て、満足そうに笑みを深めた。
「実はね」
彼女は声を潜め、悪魔が囁くように続けた。
「この、いかめしい扉を開ける『鍵』のこと……私、少しだけ、知ってるんですよぉ」
「……鍵……!?」
エリアーナの心臓が、大きく跳ねた。
エルダー司祭様も言っていた「鍵」。
それを、このリズさんが知っているというのか?
(罠よ……罠に決まっているわ……!)
頭の中では、警鐘が鳴り響いている。
これは、大神官ゼノンが仕掛けた罠だ。
この甘い言葉に乗ってはいけない。
(でも……もし……もし本当なら……?)
他に手がかりは何もないのだ。
禁書庫へ入るための、唯一の道が、今、目の前に示されているのかもしれない。
エリアーナの心は、恐怖と期待の間で激しく揺れ動いた。
リズは、そんなエリアーナの葛藤を見透かすように、さらに畳みかけた。
「どうです? この扉を開ける秘密、知りたくないですか? もし知りたかったら、私と『協力』しませんこと?」
リズはエリアーナに手を差し伸べるような仕草をする。
「もちろん、大神官様には内緒の、私たちだけの秘密ですよ?」
協力――その言葉の響きは、あまりにも甘美で、そして危険だった。
エリアーナが答えに窮し、リズの誘惑に心が傾きかけた、その時だった。
「戯言はそこまでにしろ、毒蜘蛛め」
カイウスが、エリアーナの前に立ちはだかるように進み出て、リズの言葉を鋭く遮った。
その瞳には、燃えるような怒りと、エリアーナを守ろうとする強い意志が宿っていた。
「聖女様が、貴様のような者と協力することなど、万が一にもありえん」
きっぱりとした、拒絶の言葉。
カイウスはリズを睨みつけながら、動揺しているエリアーナの手を掴んだ。
その手は、驚くほど温かかった。
「聖女様、行きますぞ」
カイウスはエリアーナの手を引き、あるいは腕を支え、この危険な場所から彼女を連れ出そうとした。
彼の行動は、迷いがなく、エリアーナを守るという明確な意志に貫かれていた。
リズは、カイウスのその行動に一瞬だけ目を細めた。
計画通りではなかったのかもしれない。
だが、すぐにいつもの、しかし今はどこか不気味に見える笑顔を浮かべた。
「あらあら、残念」
彼女はあっさりと道を開け、二人を見送る体勢をとった。
「せっかく『手助け』して差し上げようと思ったのに。……まあ、いいですわ」
リズは肩をすくめ、まるで舞台女優のように芝居がかった口調で言った。
「気が変わったら、いつでもどうぞ? 鍵のことで、何か思い出したら、またお教えしますから」
その言葉を残し、リズは不気味な笑顔を浮かべたまま、闇の中へと溶けるように姿を消した。
カイウスはリズが完全にいなくなったことを確認すると、改めてエリアーナに向き直った。
彼女はまだ動揺から立ち直れず、カイウスの腕に僅かに体重を預けていた。
「……大丈夫ですか、聖女様」
「は、はい……ありがとう、ございます……カイウス様……」
エリアーナはか細い声で礼を言った。
カイウスに守られたことへの安堵と、リズの言葉がもたらした混乱と、そして禁書庫への道が再び閉ざされた(あるいは、より危険になった)ことへの複雑な思いが、彼女の中で渦巻いていた。
カイウスはエリアーナを支えながら、禁書庫の重々しい扉を振り返った。
あの扉の向こうに、真実がある。
そして、それを手に入れようとする者を阻む、深い闇と陰謀がある。
リズの囁いた「鍵」という言葉が、重くカイウスの心にも響いていた。
「……戻りましょう。ここは危険です」
カイウスはエリアーナを促し、警戒を解かぬまま、静かにその場を後にした。
禁書庫の扉は、固く閉ざされたまま、二人の背後で沈黙を守っていた。
動き出した意志は、しかし、ここで止まるわけにはいかない。
新たな決意と、深まる謎を抱えて、二人は闇の中へと戻っていった。