穢れた祈りの聖女 ~偽りの救世主と蔑まれた私が、滅びゆく王国で唯一真実の奇跡を紡ぐ~ 作:うどん小町
第1話「新たな道」
禁書庫の前での、あの息詰まるような対峙から一夜が明けた。
エリアーナは自室のベッドの上で身を起こしたが、身体の芯に残る疲労感と共に、昨夜の出来事が鮮明な記憶となって心を重くしていた。
侍女リズの、あの冷たい笑顔と挑発的な言葉。
そして、「鍵」という甘い囁き。
あれは間違いなく、大神官ゼノンが仕掛けた罠だろう。分かっている。けれど……。
(禁書庫……どうしても諦めきれない……)
同時に、エリアーナの脳裏には、リズと対峙した自分の前に立ちはだかった、カイウスの後ろ姿が焼き付いていた。
「戯言はそこまでにしろ、毒蜘蛛め」
静かだが、絶対的な拒絶と、自分を守ろうとする強い意志が込められた声。
あの瞬間、彼は確かに、ただの監視役ではなかった。
(カイウス様……)
彼に対する感情は、複雑だった。
監視されていることへの不信感や恐怖は消えない。彼自身も、エルダー司祭様と会ったり、禁書庫に関心を持ったりと、何かを探っているのは明らかだ。信用しきっていい相手ではない。
けれど、昨夜、リズの悪意から守ってくれたのも事実だった。あの時の彼の背中は、不思議と頼もしく思えたのだ。
(わたくしは、これからどうすれば……)
禁書庫への道は、リズの出現によってさらに危険になった。かといって、他に真実に近づく術もない。
エリアーナが深い溜息をついた、その時だった。
控えめなノックの音と共に、扉が開いた。
カイウスだった。
「おはようございます、聖女様」
彼はいつも通り、冷静な表情で一礼した。
しかし、エリアーナを見るその鳶色の瞳には、昨日までとは違う種類の光が宿っているように、エリアーナには感じられた。それは分析するような鋭さだけでなく、どこか真剣で、案じるような色合いも含まれているような……いや、気のせいかもしれない。
「……おはようございます、カイウス様」
「お加減はいかがですか。昨夜は……少々、込み入った事がありましたので」
カイウスは慎重に言葉を選びながら尋ねた。禁書庫前の出来事には直接触れないが、エリアーナの心身を気遣う響きがあった。
「……ええ、もう大丈夫です。ありがとうございます」
エリアーナはそう答えたものの、カイウスが昨夜のことをどう認識し、どう報告したのか気になって仕方がなかった。
しばらくの沈黙の後、カイウスが切り出した。
「聖女様、少しお伺いしたいのですが……」
「はい、なんでしょう」
「気分転換も兼ねて、神殿の外へ出てみませんか?」
「……え?」
予期せぬ言葉に、エリアーナは思わず聞き返した。
神殿の外へ? このわたくしが?
カイウスは続けた。
「王都から少し離れた西の森に、『沈黙の碑』と呼ばれる古い遺跡があるそうです。神殿の者でも知る者は少ない、忘れられた場所だと」
「沈黙の、碑……?」
「ええ。そこには、今では解読不能とされる古代文字が刻まれた石碑がいくつも残っているとか。あるいは……」
カイウスは少し間を置き、エリアーナの目を見て言った。
「聖女様がご興味をお持ちの、古い知識に関する何らかの手がかりが、そこにあるやもしれません」
その言葉は、エリアーナの心を強く打った。
古い知識の手がかり。それはまさに、今の彼女が渇望しているものだった。
(神殿の外の、古代遺跡……)
危険ではないだろうか?
神殿から出ること自体、大神官様やリズさんが許すとは思えない。
それに、カイウス様の真意は何なのだろう?
なぜ、急にこんな提案を? わたくしを試している? それとも……。
様々な疑念が頭をよぎる。
けれど、それ以上に、エリアーナの心は動かされていた。
禁書庫への道が閉ざされたように感じていた今、示された新たな可能性。
そして、カイウス様が、自分を危険な場所へ連れて行こうとしているとは思えなかった。昨夜の彼の行動が、わずかながら信頼の根拠となっていた。
(このまま、ここにいても何も変わらない……)
エリアーナは迷いを振り切るように、顔を上げた。
そして、カイウスの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「……カイウス様」
彼女は、震えそうになる声を抑え、はっきりとした口調で言った。
「その遺跡……『沈黙の碑』へ、行ってみたい、です」
一瞬の沈黙。
そして、エリアーナは言葉を続けた。
「もし……カイウス様が、ご一緒してくださるのなら」
それは、エリアーナにとって、勇気のいる言葉だった。
監視者である彼に、自らの意志で同行を願う。
それは、彼への警戒を解いたわけではないけれど、それでも、彼を信じてみようという、小さな一歩だった。
カイウスの表情が、ほんのわずかに和らいだように見えた。
すぐにいつもの冷静な表情に戻ったが、その瞳の奥には、確かな安堵の色が浮かんでいた。
「もちろんです、聖女様」
カイウスは力強く頷いた。
「私が必ず、貴女をお守りします」
その言葉には、揺るぎない響きがあった。
まだ互いに多くの秘密を抱え、警戒心を解いたわけではない。
けれど、この瞬間、聖女と騎士は、初めて同じ目的のために手を取り合い、未知の道へと歩み出すことを決めたのだ。
「準備を整えましょう。明日の早朝、人目につかぬように出発します」
カイウスはテキパキと指示を出し始めた。
エリアーナは、彼の言葉に静かに頷いた。
不安がないわけではない。けれど、それ以上に、閉ざされた世界から踏み出すことへの、そして真実に近づけるかもしれないという期待が、彼女の心を静かに満たし始めていた。
神殿の外にあるという、沈黙の碑。
そこには、一体何が待っているのだろうか。