穢れた祈りの聖女 ~偽りの救世主と蔑まれた私が、滅びゆく王国で唯一真実の奇跡を紡ぐ~ 作:うどん小町
まだ深い闇が支配する、夜明け前の時間。
エリアーナは、ほとんど眠れぬまま朝を迎えた。
興奮と、それ以上に大きな不安が、彼女の心を支配していたからだ。
今日、わたくしは神殿の外へ出る。カイウス様と共に、あの「沈黙の碑」へ。
(大丈夫……きっと大丈夫……)
そう何度も自分に言い聞かせながら、エリアーナはカイウスの指示通り、出発の準備を始めた。
聖女の装束ではなく、侍女が普段着るような、地味な灰色の麻のローブと、顔を深く隠せるフード。
これならば、街中で人目につくことも少ないだろう。
小さな革袋には、わずかな水と干し肉、灯り、そして護身用の小さなナイフを詰めた。
準備を終え、鏡に映る自分の姿を見る。そこにいるのは、聖女エリアーナではなく、どこにでもいるような、ただの地味な娘だった。それが少しだけ、エリアーナの心を軽くした。
(よし……行こう)
意を決し、部屋の扉に手をかけた、まさにその時だった。
「あら、エリアーナ様。おはようございます! こんなに早くからどうされたんですか?」
扉の外から、能天気なほど明るい声が聞こえた。リズさんだ。
エリアーナは心臓が跳ねるのを感じ、咄嗟に扉から手を離した。
(なぜ、この時間に……!?)
まさか、もう気づかれたのだろうか?
エリアーナが動揺していると、リズは遠慮なく扉を開けて部屋に入ってきた。
そして、旅支度のようなエリアーナの姿を見て、ぱちくりと目を瞬かせた。
「まあ! そのお召し物は? どちらかへお出かけですか?」
その問いかけは無邪気なようでいて、明らかに探るような響きを帯びていた。
エリアーナは必死に平静を装い、カイウス様と打ち合わせておいた(というより、エリアーナが咄嗟に考えた)言い訳を口にした。
「……おはようございます、リズさん。実は、少し体調が優れなくて……。カイウス様にお願いして、朝の清浄な空気の中で、少し祈りを捧げようかと思いまして……。人目につかないように、この格好をしているだけですわ」
我ながら、苦しい言い訳だと思った。
だが、リズは「へぇー、そうなんですかぁ」と、妙に納得したような、していないような、曖昧な相槌を打った。
「カイウス様も大変ですねぇ、聖女様のお世話は。でも、お祈りで気分が良くなられるといいですね!」
「……ええ、ありがとうございます」
リズの笑顔は完璧だった。けれど、その瞳の奥は笑っていない。
エリアーナにはそれが分かった。彼女は疑っている。絶対に。
「では、わたくしはお邪魔にならないように、これで失礼しますね。お大事になさってください!」
リズはそう言うと、意味ありげな視線をちらりとエリアーナに残し、部屋を出て行った。
その足音が遠ざかるのを聞きながら、エリアーナは大きく息を吐いた。
(……行かれたわ。でも、きっと大神官様に報告に行くに違いない……急がないと!)
エリアーナは急いで扉を開け、廊下へ出た。
そこには、既にカイウスが待っていた。
彼もまた、目立たない濃い色の外套を羽織り、フードを目深にかぶっていた。腰の剣だけが、彼の身分を物語っている。
扉越しに、先ほどのリズとのやり取りを聞いていたのだろう。彼の表情は硬く、引き締まっていた。
「……行くぞ」
カイウスは短くそれだけ言うと、エリアーナを促し、歩き出した。
二人は言葉を交わさず、息を潜めて夜明け前の神殿を進む。
目指すは、昨夜エリアーナが一人でたどり着いた、裏手の通用門だ。
カイウスは先導しながらも、常に周囲の気配を探っていた。
角を曲がる前、長い廊下に出る前には必ず立ち止まり、安全を確認する。
その慎重で無駄のない動きは、熟練した騎士そのものだった。
エリアーナは、彼の背中を必死で追いながら、その頼もしさに少しだけ不安を忘れかけていた。
時折、遠くで警備の騎士の足音が聞こえたり、早起きの神官の咳払いが聞こえたりするたびに、二人は物陰に身を潜め、息を殺した。
心臓が早鐘のように打ち、冷や汗が背中を伝う。
まるで、罪人のように神殿から逃げ出そうとしている自分たちが、エリアーナにはおかしくも、そして悲しくも思えた。
長い時間が経ったように感じられたが、ようやく二人は目的の通用門にたどり着いた。
カイウスは周囲に人の気配がないことを再度確認すると、音を立てずに門の閂を外し、扉をわずかに開けた。
外には、ひんやりとした朝靄が立ち込めていた。
木々の梢が白み始め、鳥たちのさえずりが聞こえ始める。
神殿の中とは全く違う、生命の息吹に満ちた空気が、エリアーナの頬を撫でた。
「……行きます」
カイウスはエリアーナに短く告げると、先に門の外へ出た。
エリアーナも、ごくりと唾を飲み込み、意を決して彼の後に続いた。
神殿の敷地から、一歩外へ。
足元には、柔らかな土の感触。
鼻腔をくすぐる、湿った草と土の匂い。
遠くで聞こえる、王都の目覚めの音。
エリアーナにとって、それは生まれて初めて触れる、本当の意味での「外の世界」だった。
不安はある。恐怖もある。
けれど、それ以上に、未知への期待と、閉ざされた鳥籠から飛び出したような、微かな解放感が、彼女の胸を満たしていた。
「こちらです」
カイウスは振り返ることなく、西の森へと続く道を示した。
彼の背中は大きく、頼もしく見えた。
しかし、カイウス自身は、森の入り口に視線を向けながら、内心で警戒を怠っていなかった。
(追手は……まだ来ていないか。だが、時間の問題だろう)
リズの報告を受けたゼノンが、黙って二人を行かせるとは思えない。
この森の中で、何かが待ち受けている可能性は高い。
カイウスはエリアーナを庇うように半歩前に立ち、腰の剣の柄を握りしめた。
聖女と騎士の、危険な旅が、今、始まった。
朝靄の立ち込める静かな森は、これから起こるであろう波乱を予感させるように、深く、そして不気味に広がっていた。