最初に感じたのは、土の匂いだった。
鼻を突くほどの生々しい土と草の匂いが、肺にまで染み込んでくる。目を開けると、そこは見渡す限りの森林だった。高く伸びた木々が陽を遮り、湿った空気が肌にまとわりつく。
私は地面に寝そべっていた。頬には小石が食い込み、服は泥と葉にまみれている。あまりに鮮明な現実感に、ここがどこなのか、なぜこんな場所にいるのかも一瞬では理解できなかった。
いつもの癖でタバコを探すが、伸ばした手はむなしく空を切る。
時間が経つにつれて、思考が加速する。
部屋が暗転し、あの声が響いた。選ばれたと言われて、気がつけばこの場所にいた。
信じがたいが、目の前の光景はそれを否応なく現実だと突きつけてくる。
「……マジかよ」
呟きながら、私は立ち上がった。膝が震えている。自分の心臓の音が耳に鳴り響く。
スマホも、タバコも、なにもない。
この世界には、助けてくれる仲間も、セーブポイントも存在しない。死ねば、終わり。
生き延びなければ。
そう思った直後だった。
背後の茂みが、不自然に揺れた。
小動物かと思った。けれどその音は、明らかに重かった。枝を折り、地を踏み抜くような低い音。そして――咆哮。
鼓膜が破れるほどの轟音に、全身が痺れた。振り返る。
視界の奥から、ティガレックスが現れた。
怒りに満ちた獣の咆哮が、空気を裂いた。
あれは、ゲームの中で何度も見たモンスターだった。だが現実のそれは、比較にならないほど巨大で、禍々しく、そして――恐ろしい。
皮膚が泡立つ。喉がひゅっと締まり、心臓が止まりそうになる。
この距離、今すぐ逃げなければ殺される。
私は声にならない叫びを上げて、反射的に走り出した。
草をかき分け、木々をすり抜け、足元の根に躓きながら、ただひたすらに逃げる。背後からは土煙と共に地響きが追ってくる。振り返る余裕はない。けれど、確かに感じる。奴の視線が、息が、殺意が背中を焼いてくる。
「来るな来るな来るな来るなッ!!」
息が続かない。視界の端が暗くなる。走っても走っても、振り切れる気がしない。ゲームでは見慣れていたティガレックスが、現実では“死”そのものに見えた。
咆哮。風圧だけで身体が浮きそうになる。木の幹に肩をぶつけながらも走る。呼吸が苦しい。肺が焼ける。だが止まれない。止まったら死ぬ。そんな単純なルールだけが、今の私を支配していた。
そのとき、正面から声が飛んできた。
「伏せろ!!」
言われるがままに倒れ込む。直後、風を切る音と共に、巨大な影が私の頭上を通り過ぎた。
ズガァンッ!!
地面に激突する轟音。
振り返ると、そこには一人の男がいた。
肩幅の広い体格、革と金属で編まれた防具、大剣を片手に構えるその姿――まさに、狩人だった。
「立て!ここは俺が引き受ける!」
「む、無理だってあんなの……ッ!」
「いいから行け!!」
男は吠えた。
ティガレックスが大剣の男に向き直る。狩人はその巨体を真正面から受け止めるように、大剣を両手で構えた。衝突の瞬間、火花が散る。
狩人はまるで鉄壁のようにそこに立ち続けていた。
ティガレックスの頭部に剣が打ち込まれ、咆哮が炸裂する。だが傷一つつけられずに押し返される。その巨体が振るう一撃は、地面ごと大剣の男を跳ね飛ばした。
「ぐッ……!」
大剣が地面に突き刺さる。その重みが骨まで響いたのか、男の肩が大きく揺れる。だが彼は膝をつかない。反撃に転じ、ティガレックスの脇腹へ渾身の斬撃を叩き込む。
金属と肉がぶつかる鈍い音。
それでもティガレックスは止まらない。狂ったように尾を振り回し、地面を引き裂きながら突進してくる。木が折れ、石が砕ける。
狩人の一撃一撃は重く、研ぎ澄まされていた。それでも、ティガレックスの圧倒的な攻撃力の前では、徐々に押し込まれていく。
「くそっ……!」
狩人は叫びながら、私の腕を掴んで引っ張った。
「逃げるぞ!」
「でも――!」
「死にたくねぇだろ!?行けッ!!」
強く背中を押された。
私は歯を食いしばり、森の奥へと再び走り出す。もう限界だった。脚も心も、ずっと前に折れていた。
けれど、あの男が生きている。私のために戦ってくれた。
それが、唯一の支えだった。
―――
村の門が見えたとき、私は泣きそうになった。
小さな木の柵に囲まれた集落。簡素な作りではあるが、人の生活の匂いがする。
門番がこちらを見て叫んだ。
「怪我人か!?何があった!」
「ティガレックスと遭遇した。こいつが森で倒れててな」
男は息を切らしながら応える。彼の肩は深く裂け、血が滲んでいる。
「中へ入れ!急げ!」
村人たちが集まり、応急処置が施される。私はベンチに座らされ、水を手渡された。
呼吸が整ってくると、現実が急に重くのしかかってきた。
私は死にかけた。本当に、死ぬかと思った。
震える指で水を飲み干す。恐怖は、まだ体の芯に根を張っていた。
その後、私は村の小さな宿舎に通された。古びた木の扉を開けると、粗末なベッドが一つと、小さな机と椅子があるだけの部屋だった。けれど、そこには安心があった。安全な屋根の下で、誰かが守ってくれる場所。
ベッドに身体を沈めた瞬間、重力が何倍にも増したように感じた。足が痺れ、胸が苦しい。
今日、自分は生き延びた――それだけが、信じられない。
あの咆哮、あの牙、あの地響き……今も耳に残っている。何度も何度も、頭の中で再生される。次に出会ったら、本当に死ぬ。
怖い。怖くて、仕方がない。
でも、それでも。
私は、逃げることは出来ない。
あの狩人が私のために戦ってくれた。あの人の背中は、あまりに強く、まぶしく見えた。
私も、あんな風になりたい。
いつか、誰かを守れるように。
そう、強く思った。
翌朝、まだ薄暗い時間に目が覚めた。
体は鉛のように重かったが、それでも昨日より少しだけ気持ちが前に進んでいる気がした。そう感じられるのは、命があるからだ。生きているからこそ、考えることができる。痛みも、恐怖も、悔しさも全部、今この瞬間を生きている証だ。
私は、村長の屋敷を訪れた。
村の中央にある、やや古びたが丁寧に手入れされた屋敷。通された部屋の奥で、白髪の長い老人が机の前に座っていた。鋭い目が、じっとこちらを見据えている。
「お前が……昨日、ティガレックスから逃げ延びた者か」
「はい。助けてくれた方と一緒に……」
私は深く頭を下げた。心臓の鼓動が早くなるのを感じながらも、言葉を続ける。
「私は、装備も何もない状態で森にいました。記憶も少し曖昧で……でも、それでも、生きていたいと思いました。だから……狩人になりたいです」
本当は、もっと正直に言うべきか迷った。
この世界に来る直前まで、私は配信をしていた。現実の世界で、ゲームを通してモンスターを狩っていた。そこから突然、この“本物の世界”に引き込まれたのだ、と。
けれど、言えなかった。
いや、言わなかった。
理解されないと分かっていたし、それ以前に、説明のしようがなかった。
“異世界から来ました”なんて、誰が信じてくれる?
何より、自分でもまだこの状況を完全には受け入れきれていないのだ。
ならば、今は黙っているしかない。
この世界の人間として、ここで生きるしかない。
そう思ったからこそ、私は村長の問いかけに嘘をついた。
……いや、正確には、“言わない”ことを選んだ。
しばし沈黙が落ちた。村長は腕を組んだまま目を細め、こちらを見つめ続けていた。やがて、低い声が返ってくる。
「狩人とは、己の命を賭ける覚悟を持った者だけが名乗れる名だ。昨日お前が生き延びたのは、奇跡に過ぎん。だが……あの男が、お前を助けるために剣を振るったというなら……」
村長は一息つき、立ち上がった。
「狩人になるには、ハンターライセンスの取得が必要だ。認定試験に合格せねばならん。そのためには、まず装備を整えろ。話はそれからだ」
「……ありがとうございます」
私は、確かに頭を下げた。震える手のひらを握りしめながら。これは、始まりだ。
―――
装備の貸し出しがされている小屋は、村の裏手にひっそりと建っていた。
中に入ると、壁沿いの棚にさまざまな武器が並んでいた。太刀、片手剣、弓、ランス、双剣、ハンマー……どれも使ったことのある武器たち。けれど、現実に目の前で見るそれは、どれも重厚で、迫力があった。
その中で、一際目立たず、隅の方に置かれていた一振りの武器があった。
――狩猟笛。
私はそれに目を留め、吸い寄せられるように手に取った。
手に馴染む。木と金属で構成された重厚な作り。それを持った瞬間、何かが心の奥で響いたような気がした。
「それにするのか?」
後ろから声をかけられ、振り向くと、管理をしている中年の男が眉をひそめていた。
「狩猟笛は、やめておけ。扱いが難しいし、火力も低い。なにより……独りでは戦えない武器だ。仲間を支援するための道具だ。協力できる相手がいなければ、ただの鈍器にすぎん」
男は近づきながら、私の手元をじっと見た。まるで、今すぐその手から笛を奪い取るかのような勢いだった。
「そもそも、お前は昨日まで装備すら持っていなかった初心者だろ?初めて持つ武器が笛なんて、正気じゃない。実戦で吹けるようになるまでに何ヶ月かかると思ってる」
「それでも……」
「しかも、誰かを支援する?支援ってのは、誰かのために命張れる奴がやることだ。まず自分が死なないようにするのが先だろうが」
言葉は厳しかったが、責めるような怒りではなかった。むしろ、心配してくれているような色が混じっていた。
けれど、私は譲れなかった。昨日、命がけで私を守ってくれた狩人の姿が、今もまぶたに焼き付いている。
「私……昨日、誰かに助けてもらって、生き延びたんです」
「……ああ、聞いてる」
「だから次は、私が誰かを支える側に立ちたい。まだ何もできないけど、それでも……この笛で、誰かを守れるようになりたいんです」
男はしばらく黙っていた。やがて、小さくため息をついて肩をすくめる。
「……そういう顔をする奴は、止めても無駄だな。分かった。だが後悔はするなよ。覚悟だけは、ちゃんと持っておけ」
男の言葉は重かった。確かに、戦うには向いていない武器かもしれない。けれど、それでも――
「これが、いいんです」
私は、この武器と長い時間を共にしてきた。ゲームという世界の中で、狩猟笛だけを使い続けてきた。他の武器には浮気しなかった。
不器用でもいい。火力が出せなくてもいい。
音を響かせ、旋律を紡ぎ、仲間を支える――それが、私の“戦い方”だった。
それに、あの声が言っていた。
“その旋律を奏でよ。その武器で、モンスターを屠れ”と。
だから迷わない。私は、これで戦う。
この世界に来た理由は、あの声が言っていた通り――この旋律で、モンスターを屠るため。
それが私に与えられた役割であり、この世界で生き延びるための道筋でもある。
狩猟笛を選ぶのは、ただ意固地になっているわけじゃない。
自分が元の世界に帰るために、必要な選択なのだ。
私は笛を握りしめた。
誰かのために音を奏でる。それが、今の私に必要な武器だと思った。
たとえ、誰に否定されても。
あの狩人の背中に、少しでも近づけるのなら。
元の世界に、戻れるのなら。
私は、この旋律を信じる。