真鍋和と平沢唯のそれぞれの積み重ねが交わりあう物語。
静かな、午後だった。
放課後の教室には、カーテンを揺らすだけの優しい風と、
遠くから聞こえる部活の声が、かすかに混じり合っている。
受験勉強の合間に、真鍋和は教室に残り、
ひとり、机に肘をついて外を眺めていた。
特別なことは何もない。
それでも、こんなふうに、ただ静かに座っているのは久しぶりだった。
(……わたし、何をしてるんだろう)
そんなふうに、思った。
高校生活。
勉強。進路。将来。
周りが、どんどん先に行っている気がした。
世界は眩しくて、どこか怖かった。
目を背けたくても、背けられなかった。
ずっと昔から知っていた。
「千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって練となす」
積み重ねれば、きっと強くなれると信じていた。
でも、今は──
その自信が、ほんの少しだけ揺らいでいた。
ガラリ、と教室のドアが開く。
「和ちゃーん」
ふわりと、声が飛び込んできた。
振り向くと、平沢唯が、
笑いながら教室に入ってくるところだった。
ランドセルを背負っていた頃から、
ずっと、こうして笑っていた。
(……能天気)
ふと思って、すぐに胸がチクリとした。
唯の隣にいると、確かに安心できた。
だけど、こんな笑顔も、いつか終わるものだって、心のどこかで思っていた。
力がなければ、何も守れない。
笑顔だけでは、世界は変わらない。
──そう、信じていた。
「ねえ、和ちゃん。
今日、ちょっと散歩しない?」
唯が、ふわっと笑って言った。
(また、のんびりしたことを……)
そう思いながらも、断る理由はなかった。
二人で、校舎を抜け、夕暮れの空の下へ歩き出した。
しばらく歩いたあと、唯がふと立ち止まった。
和も、足を止める。
唯は、ふわりと笑った。
そして、まっすぐに言った。
「和ちゃん、すごいよ」
「……なにが?」
思わず問い返す。
唯は、少し首をかしげて、
それから、まっすぐな目で言った。
「だって、和ちゃん、ずっと頑張ってるもん。
ちゃんと、自分の未来に向かって歩いてる」
「……そんなの、当たり前でしょ」
恥ずかしさを隠すように、
少しだけきつい言葉になった。
でも、唯は気にする様子もなく、にこにこと続けた。
「当たり前でも、すごいよ。
わたし、ちゃんと見てたもん。和ちゃんが、ずっと頑張ってるの」
和は、何も言えなかった。
唯の声は、
あまりにも自然で、
あまりにもあたたかかった。
(……そんなふうに、見てたんだ)
思い出す。
そういえば、唯は、いつも笑っていた。
どんなときも、何があっても。
(あの笑顔、ただの能天気じゃなかったんだ)
胸の奥で、何かが、かすかに震えた。
唯の笑顔が──
ただの「無邪気」ではないと、
初めてわかった気がした。
(……千日の鍛)
ふっと、昔読んだ言葉が、心に浮かんだ。
(万日の練)
唯の笑顔は、きっと、
何日も、何日も、積み重ねたものなんだ。
ずっと、ずっと、あきらめずに笑い続けた、その日々があったんだ。
和は、唯の顔を見た。
夕陽を背に、唯が、いつものように屈託なく笑っていた。
その笑顔が、どうしようもなく、
眩しくて、
美しかった。
眩しい、と思ったことは、何度もあった。
明るくて、あたたかくて、
手を伸ばしたくなるような存在だと、ずっと思っていた。
でも──
こんなふうに。
ただ眩しいだけじゃない。
心の底から、「美しい」と思ったのは、
これが、初めてだった。
世界には、こんなにも静かで、優しい力がある。
そんなことを、初めて知った。
「唯」
気づいたら、呼んでいた。
唯が、ぱっとこちらを向く。
「なぁに?」
「……ねぇ、ずっと友達でいようね」
和は、恥ずかしいくらい、まっすぐに言った。
唯は、にぱっと笑った。
「もちろんだよ!」
未来が、怖かった。
でも今、少しだけ、楽しみになった。
いつか、万日を超えたとき。
唯の笑顔が、もっともっと、深くて、あたたかい「練」になったとき。
その隣で、私はまた、笑っていたい。
夕焼けの道を、二人は並んで歩いた。
これからの千日を、万日を、
大切に積み重ねながら。
──fin