日本はシビュラシステムによって統一された
管理社会と呼ばれる時代の幕開けである
常守朱は、生まれたときからこの世界を「当たり前」だと思って生きてきた。
シビュラシステムに支配された社会では、朱は別に特別な存在ではなかった。周りの大人たちも友達も、みんなその枠の中で生きていて、それが普通だと思っていた。だから、自分も当然その一員として育った。疑問を持つなんて考えもしなかった。
子供のころから、朱は「正しいこと」を教え込まれてきた。
高校生活も順調そのもので、誰からも好かれる優等生だった。成績もトップで、部活動は柔道部にスケットとして参加していた。最初はただの人数合わせだったけど、気づいたら体がすごく滑らかに動いて、相手の動きを無意識に感じ取ることができていた。
「天才だ!」
「反射神経がすごい!」
部活のコーチや仲間たちは口々に朱を褒めたけど、朱自身はその理由が全然わからなかった。自分が何か特別な能力を持っているなんて思ったこともなかったから、ただ驚くばかりだった。戦っている相手が怖くもなかったし、体がどこかしっくりきている感じがした。
でも、徐々に違和感を感じるようになった。「なんで、こんなことができるんだろう?」と。それに、感情がよくわからない。相手と戦っても、頭の中では冷静で、何かに支配されているような気分だった。
「私、他の人と違うんじゃないかな?」
その疑問が、朱の中でどんどん大きくなっていった。でも、周りの人たちは全く何も考えていないようだった。みんなシビュラシステムに従っていて、それが普通だと思っている。それなのに、朱だけが違和感を感じている。そう思いながらも、「これが普通だよね」と自分を納得させていた。
大学に進学してからも、シビュラシステムに賛同する人たちばかりだと感じた。講義の中で語られる社会理論や効率的な社会を作る方法に、朱は段々と疲れてきた。
ある日、授業で功利主義の理論を学んだとき、朱の中でその違和感がピークに達した。ベンサムやミルが言っていた「最大多数の最大幸福」という考え方に納得できなかった。
「少数の犠牲を払ってでも、多数の幸福を得る……それって、本当に正しいの?」
その問いに答えが出せず、朱はずっと悩んでいた。自分が学んできた社会理論と、現実の社会には矛盾があるような気がしてならなかった。そんなとき、ふと思った。「私は一体、何のために生きているんだろう?」と
ある日、大学の構内で偶然見かけた配送用のダンボール箱。その陰に隠れてみた瞬間、なぜか心がスッと落ち着いた。それが何でそう感じたのか、全く分からないけど、確かに「安堵」がそこにあった。
周りの友達が笑っているのを見て、朱は笑うことができなかった。何か、違和感があったから。でも、それが何かを言葉にするのは難しかった。
「私は……なにか大事なことを忘れているのかな?」
その疑問が、だんだん朱を飲み込んでいった。
そして、ついにシビュラシステムに従って職業適性診断を受けることになった。結果は、予想以上だった。学業成績や社会適応能力のおかげですべての職業が「A判定」を獲得。なのに、唯一「公安局監視官適性」だけが目立ち、朱はそれを選んだ。
公安局への入庁が、目前に迫っていた。
必要書類も提出を終え、あとは指定された日に出頭するだけ。常守朱は、ベッドに寝転びながら、天井を見つめていた。
これまで通りだ。ただ、決められた未来へ進むだけ。
何も迷うことはない──はずだった。
けれど、胸の奥では、黒く、重たいものが渦を巻いていた。
シビュラの導く正しさに、微かな違和感。誰も疑わない秩序の中で、どうしても拭えないざらつき。
朱は毛布を顔に押し付けた。心を、無理に押し殺そうとする。それでも、まぶたの裏に浮かぶのは、あの光景だった。
──捨てられたダンボールに感じた、あの不可解な安心感
──柔道で無意識に放った、完璧な制圧技
──周囲に「何かが違う」と思われる自分
思い出すたび、心臓の鼓動が速くなる。身体が、無意識に警戒態勢を取ろうとする。
「……おかしいよ、私」
震える声で、朱は自分に言い聞かせた。こんな感情、捨てなければいけない。正しく、清く、シビュラの選んだ生き方を歩まなければ。
──そうしなければ、自分の色相は濁る。
その夜、朱は不思議な夢を見た。
見覚えのない広大な白い草原に立っていた。空は高く、雲ひとつない青空が広がり、足元には白い花がひらひらと揺れている。まるで幻想の世界のようで、気づけば朱はその中で一人、ぽつんと立っていた。
でも、そんな平和そうな景色の中でも、なんだか胸の奥にモヤモヤした感じが残っていた。息を吸うたびに心地よさを感じるけれど、どうしてもその場の空気が少し重くて、何かが違う気がしてならなかった。
その時、遠くの方から誰かが近づいてくるのが見えた。よく見ると、その人物は白い戦闘服を着た女性だった。無駄のない歩き方、しっかりとした姿勢、何か異常なほどの威圧感が漂っていて、まるでその人がこの世界そのものを支配しているかのような雰囲気だった。
朱は思わずその女性に視線を向けた。その瞳は、まるで自分を見透かしているようで、妙に不安になった。
「常守朱」
その声が、朱の名前を呼んだ。その瞬間、全身に鳥肌が立ち、胸がドキドキと高鳴った。
目の前の女性の顔は見覚えがなかったけれど、どこかで見たような気がしてならない。それに、何かしら胸の奥がざわつくような、何か不安な気持ちが湧き上がってきた。
思わず、朱は口を開いた。
「──あなたは、誰ですか?」
女性はしばらく沈黙していた。そして、ゆっくりと目を閉じ、静かに答えた。
「世界を変えようとするな。世界の中で、己を貫け」
その言葉が朱の胸に響いた。まるで、自分が今まで信じてきたものが否定されるような気がして、心に強い衝撃が走った。彼女の言葉の意味がすぐには分からなかったが、心のどこかで「これが答えだ」と感じた。
「自由とは、正しさではない。正義とは、勝者の論理だ。それでもなお──自分自身の意志を生きろ。たとえ、それがどれほど孤独でも」
その言葉は、まるで自分の中で何かが目覚めるような感覚をもたらした。朱は自分が今まで信じてきたものや社会の枠組みを、少しずつ疑い始めていた。それらが自分のためではなく、誰かのために作られたものだったことに、気づき始めた。
「貴女ならできる。貴女には、私たちの
その声は凛としていて、優しさに満ちていた。まるで母が子に語りかけるような、或いは、兵士が後輩へ託すような。朱は、ただその人の言葉に戸惑う事しか出来なかった。
「な、なんで私なんですか?どうして私が選ばれたんですか?」
「
女は言った。声は低く、よどみなく、朱の胸を打った。
「だが勘違いするな。それは、誇りではない。栄光でもない」
「──責任だ」
朱は唇を噛んだ。女は続ける。
「君はなぜ自分なのか、と問うた。だが、選ばれた者に問いは許されない。問う暇があるなら、歩け。迷う暇があるなら、掴め」
「生きるとは、決断の連続だ」
「恐れ、傷つき、倒れても──意志を捨てない者だけが、ここに辿り着く」
冷たく、重い言葉。けれどそれは、拒絶ではなかった。ただ、事実を伝えるだけの、誰よりも温かい眼差しだった。
女は歩み寄る。
「これから、君は正義に裏切られるだろう。善意に踏みにじられ、救いのない闇を見つめるだろう」
朱は、震えた。だが、女はその震えを叱らなかった。
「それでも──進め」
女の手が、朱の肩に置かれる。その重さは、何千の命と、何億の想いを背負った重みだった。
「自由とは孤独だ。だが、孤独を知る者だけが、誰かを救うことが出来る」
女は、微笑んだ。それは痛みと誇りをすべて受け入れた者だけができる、強い微笑みだった。
「君に約束しよう。私はここにいる。君の
白い花びらが、風に乗って朱の周りを舞う。その光景はどこか懐かしく、朱の心を震わせた。
「行け。常守朱」
「誰にも許しを請うな。誰にも認められようとするな。君の意志が、君を定義する」
「私たちの時代は終わった。だが、君の時代は、これからだ。」
朱はただ見つめるしかなかった。温かさと、寂しさと、胸の奥を刺すような責任感が入り混じる。この手を伸ばせば、まだ触れられる気がする。けれど、もう──二度と届かない。
そして、彼女の声だけが、最後に空気を震わせた。
「世界を変えるのではなく、ありのままの世界の中で、最善を尽くせ。」
その瞬間、女性の姿が無数の白い花びらとなり、風に舞い散った。朱はその光景を目の当たりにし、ただ立ち尽くすしかなかった。目の前の光景が、まるで自分が何かの役割を果たすように、静かに散っていった。周りは静寂に包まれ、朱の心に響いたのは、ただその女性の言葉だけだった。
ザ・ボス
その名を、朱は知らなかった。だが、心のどこかで確信していた。
自分は、ここで何かを受け取ったのだと。
朱は目を覚ました。夜明け前の、色のない灰色の空気が、薄く部屋を満たしていた。窓の外では、まだ街も世界も眠ったまま。聞こえるのは、朱自身の鼓動だけだった。
汗ばんだ手を、ぎゅっと握りしめる。指先に、自分の存在を確かめるように力を込めた。胸の奥に、確かに残っている。あの声、あの温もり、あの重み──それは夢とは思えないほど、生々しく朱の中に息づいていた。
頭はまだぼんやりとしている。けれど、心だけはやけに冴えていた。身体の奥底から、何か熱いものがじわじわと滲み出してくる感覚。
それは恐れでも、迷いでもない。
──覚悟だ。
朱は、震える膝を押さえつけるように、静かにベッドから立ち上がった。呼吸は浅く、それでも確かなリズムを刻んでいる。
何かが、変わった。そう、はっきりわかった。もう昨日までの自分ではない。誰かに言われたわけでもない。誰かに教えられたわけでもない。
カーテンの隙間から、ぼんやりと朝の光が差し込んでいた。その光は弱々しく、それでいて確かに、新しい始まりを告げていた。
朱は、その光に向かって、ゆっくりと一歩を踏み出した。歩幅は小さい。
けれど、たしかだった。一歩ごとに、心が強くなるのを感じた。
──私は、進む。
誰かに望まれたからじゃない。
誰かに認められたいからじゃない。
誰かに命じられたからでもない。
私自身の意志で。この手で、この目で、この心で、ありのままの世界に立ち向かうために。
たとえ、誰にも理解されなくても。
たとえ、孤独に押しつぶされそうになっても。
朱は、ゆっくりと目を閉じた。そして、静かに誓った。心の奥でまだ温かく燃えている、あの意志に応えるために。
──私は、進む。
自分を信じて、世界を、見据えて。
最初はネイキッドスネークが常守朱に憑依する設定にしようと思いましたがザ•ボスからネイキッドスネークに継がれたように誰かに継がれる設定にしました。なので今作の常守朱、通称《朱スネーク》は人格はそのままですが価値観、戦闘力などはスネーク譲りになります。