ゲヘナに訪れてから数日後。今日は朝から小鳥遊ホシノとの訓練の日だった。ただ今日は珍しく、いや俺の知る限り初めて、アビドスの空を灰色の雲が覆い、細かな雨粒が屋根を叩いている。
水滴がトタンを打つ不規則のリズムが、体育館の内部まで重低音のように響き渡り、いつもより冷えた空気を震わせていた。
小鳥遊ホシノも数年ぶりとか言っていたから本当に稀なことなのだろう。校庭は砂が泥に変わり始めていたため、俺たちは比較的砂に埋もれていなかった体育館へと場所を移した。かつて “キヴォトス最大の学園” と呼ばれただけあって、コート六面が並ぶ広大なフロアだ。ここなら俺の機動力も存分に活かせる────はずだった。
しかし、湿気が肺にまとわりつき、汗がシャツに貼り付き、足は鉛のように重い。どういうわけか今日のコンディションは最悪だった。
「ゲンヤ、今日はもうやめましょう。顔色が悪いですよ」
「……あぁ、すまん」
声を出すだけで胸が重く、視界の端が霞む。気象病かもしれない。前世では雨で具合が悪くなるなど皆無だったが、この肉体はそうもいかないらしい。
俺は木床の真ん中で大の字に倒れ込んだ。湿った匂いと埃が入り交じった空気が鼻腔をくすぐり、じっとりとした不快感が肌に張り付く。まぶたを閉じると、ふいに頭がふわりと持ち上がった。
目を開くと、真上で小鳥遊ホシノが照れくさそうに見下ろしていた。俺の頭は、いつの間にか彼女の膝の上にある。
「ユメ先輩みたいに柔らかくはないですが、我慢してください」
驚いて声が詰まった俺に小鳥遊ホシノが照れたように言う。
「小鳥遊さんがまさか膝枕をしてくれるなんて、明日は銃弾の雨が降るのかな?」
想定外すぎて口が変な冗談を漏らす。小鳥遊ホシノは眉をひそめ、頬をわずかに赤く染めた。
「何ですか? 本当に明日は銃弾の雨を降らしてあげましょうか」
「嘘です。小鳥遊さんの膝枕は超気持ちいいです。毎朝ここで目覚めたいくらいです」
俺が早口で何とか煽てると何とか機嫌が良くなってくれた小鳥遊ホシノ。
「そ、そうですか」
「あぁ」
早口でご機嫌をとると、小鳥遊ホシノは小さく咳払いして視線をそらした。体育館の高窓から薄い光が差し込み、雨粒が白い線を描いて落ちていく。変な静けさが二人を包み、小鳥遊ホシノが話題を変える
「ゲンヤ、貴方はそろそろ武器を持った方がいいですよ」
「武器、か………」
たしかにこの世界で丸腰は不用心すぎる。だが────
「お金がないんだよな」
既に小鳥遊ホシノと梔子ユメの二人に学校の借金については聞かされている。その時に俺も一年生としてアビドス高等学校の所属となり、生徒会会計の地位を頂いたのだが、会計らしい活動はできていないのであくまで現在は名義上であり、お飾りというやつである。
そもそも学校の借金は原作知識で分かっているし、現在は会計の立場もあって俺が校費を使うわけにはいかない。バイトしかないか。そこで柴関ラーメンで働く黒見セリカの姿が脳裏をよぎる。
「はい、これあげます」
「えっ」
考えごとを打ち消すように、小鳥遊ホシノが銀色の拳銃を差し出した。
「ベレッタ92A1という拳銃です。ないよりはマシでしょう」
「おぉ、ありがとう」
金属の冷たさが掌に心地よい。妙に馴染む感覚が腕から肩に伝わり、胸の奥で何かが疼く。
この重み、手のフィット感、胸の奥で疼く何かがわき上がるような感覚がある。
「小鳥遊さん、弾は?」
「当然、入ってませんよ。あとであげますね」
「ありがとう………ん?」
礼を言いかけたとき、人を感知する鋭い気配が扉の方から────梔子ユメだった。
膝枕と拳銃というシュールな構図。小鳥遊ホシノが慌てて俺の頭を下ろし弁解を始める。
「ち、違いますっ! ちょっとゲンヤが辛そうにしていたので────!」
「うんうん! ホシノちゃんとゲンヤくんがそこまでの仲になっているだなんて、先輩として嬉しい限りだよ!」
「だから────!」
俺は小鳥遊ホシノたちのやり取りを背に立ち上がり、拳銃を構えてみる。手に吸い付くような重みが再び波紋のような違和感を生むが────
「ゲンヤッ! 昼ご飯に行きますよ!」
小鳥遊ホシノの呼び声にかき消された。
「ホシノちゃん、私は?」
「ユメ先輩は一人寂しく食べていてくださいっ!」
「ッ! ごめんって、ホシノちゃん〜」
小鳥遊ホシノと梔子ユメのいつも通りの日常に笑っている内に俺はこの違和感を記憶の片隅に追い込んでしまっていた。
◇◆◇◆◇◆
それから数日。炎天下へ戻ったアビドスは今日もトラブルの連鎖だ。カタカタヘルメット団を追い返し、梔子ユメが持ち込む厄介事を片付けるため校舎と砂丘を往復する。
砂が焼け、陽炎が校門を揺らし、背中の汗はすぐ塩に変わる。着替えたいが男子用ポロシャツは数が少ない。かつてユメのシャツを借りた前科まである俺のクローゼットは、制服の予備とバイト用の柴関ラーメンTシャツだけ。
バイト代も貯まってきたし、少しくらい自分に投資してもいいだろう。そう考えてトリニティ、ゲヘナ、百鬼夜行連合学院などの生徒も利用するの大型モールへ向かったが────
「ゲンヤくんはこっちの方が似合いそうだね、ホシノちゃん」
「わ、私としてはこっちの方が………」
なぜか小鳥遊ホシノと梔子ユメが後をつけてきた。モールの吹き抜けではネオンサインが瞬き、各校の制服姿が行き交う。冷房が砂漠の熱を忘れさせ、カフェの甘いバターの匂いが鼻をくすぐる。
「ねぇ、なんでいるの?」
「私はゲンヤくんがどこかアビドスを離れたことろに行っているのを見て、後をつけて来ちゃった」
「私はそんなユメ先輩がまたトラブルを招くことを警戒して尾行していました」
「………」
もう何も言うまい。ストーカー行為など気にしていられない。
………はぁ、もっと人を感知する能力を鍛えなきゃな。
「それはそれとして、なんで俺の服を選んでいるの?」
「えー、だってゲンヤくんはほっとくといつの間にか黒のTシャツばっか選んでいるんだもん」
「うっ………」
「アビドスで黒色のTシャツ着るなんてさ。それにせっかくゲンヤくんは素材が良いだからオシャレしなきゃね」
梔子ユメと我慢できなくなったのか途中参加してきた小鳥遊ホシノは俺を着せ替え人形にし、三時間。試着室の鏡に映る自分はカジュアルもストリートも華やかなシャツも、全部通過した跡地。ようやくベンチに沈み込むと、モール天窓の光が夕方色に変わっていた。
「も〜う、だらしないんだから」
「ユメ先輩の言う通りです」
「………あんだけ拘束されたら、こうもなる。少し休ませてくれ」
十分後、冷たいドリンクとともに体力を回復し、フードコートで遅すぎる昼食を済ませた。帰路の電車に揺られ、車窓を橙に染める夕陽を眺めていると梔子ユメが突然声を上げる。
「そう言えばゲンヤくん、ネクタイ付けていないよね」
「そう言えばそうですね」
梔子ユメの発言に小鳥遊ホシノも反応を示し、俺の首元を見つめる二人。
「ああ、なかったんですよ。まぁ、なくても困らないし」
「……それなら、今度ネクタイ渡すね」
梔子ユメが楽しげに笑う。電車の連結が揺れ、遠くで雷の残響のような砂嵐が唸った。
俺は今日の疲れから溜め息をつきながら、また彼女らに振り回される近い未来を想像し、苦笑しつつもその日常にほんの少しだけ安堵していた。