魔法は――実在した。
冗談みたいな話だと思ってた。いや、今でもそう思いたいくらいだ。
ファンタジーの世界だけの出来事だと、そう信じていればよかった。
だってそうだろう?
空を飛んだり、火を操ったり、心を読んだり、そんなもん現実にあるわけがない。
普通に生きてりゃ、そう思うのが当たり前だ。
だけど、俺――神谷駿は、そんな“当たり前”の外側に立ってしまった。
巻き込まれた、なんて言葉じゃ足りない。
気づけば俺は、魔法が当たり前に存在する世界の「裏側」にいた。
協会とか結社とか、物騒な単語が現実に飛び交うようになって、はや数ヶ月。
日常はもう、とっくの昔に崩れ去った。
きっかけは、とある通り魔事件だった。
夕暮れの帰り道で偶然居合わせたそれが、“ただの事件”じゃないことくらいは、あのときの俺でも何となく察してた。
人間があんな動きをするわけがない。
目に映ったものは、現実のはずが現実じゃない、異形の力。
そして、それに対抗していた――“もうひとつの現実”。
それが魔法だった。
あとになって知ったことだが、魔法というのは一種の情報操作技術だ。
大気中に満ちる霊的情報素――“マギア”を解析・再構成することで、
本来の物理法則に干渉し、再現性を持たせる超常技術。
使い手によっては火を操り、物質を転移させ、記憶を書き換えることすらできる。
当然、そんな力が公になれば世の中は滅茶苦茶になる。
だから、秘蹟協会ってのが存在してる。
彼らは、魔法の存在を世に隠し、悪用されるのを防ぐために活動してる組織らしい。
見た目は普通の役所職員とか、警察関係者とか、怪しい学者みたいな連中だけど、
その正体は全員、異能のプロフェッショナル。
魔法を秘匿し、制御し、秩序を守る――それが彼らの使命だそうだ。
でも、現実ってのはそう単純じゃない。
魔術結社ってのがいる。
こっちは協会とは真逆だ。
魔法こそが人類の進化を促す鍵だって信じていて、
協会の管理主義を「時代遅れの愚かさ」だと嘲笑ってる連中。
魔法の公開を前提に世界の仕組みを変えようとしてる。
力ある者が力を持たざる者を導くべきだ――なんて思想を、さも当然のように語る連中だ。
つまり、どっちも“正義”を名乗ってる。
協会は世界の秩序を守るために魔法を隠す。
結社は世界を進化させるために魔法を開く。
立場も、方法も、信念もまったく違うけれど――
少なくとも、どちらも“人間らしさ”を失いつつあることだけは、俺にもわかった。
その真ん中に、俺はいる。
気がつけば、彼らの争いに巻き込まれ、
時に命を狙われ、時に誰かを助け、
気づけば女の子に囲まれていた。
ただ、普通じゃないだけだ。
見た目はみんな綺麗な女の子。
けど、俺は知ってる。
あいつらの正体は――いや、今はその話はいいか。
ともかく、魔法は実在する。
俺がそれに巻き込まれて、早くも数ヶ月が経とうとしている。
未だに、慣れたとは言いがたい。
非日常の中で、どうにかこうにか“俺の日常”を守るために、
今日も俺はこの異能の世界で、生き延びてる――。
──────────
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでくる。
まぶたの裏がじんわりと明るくなって、俺は布団の中で唸った。
ぐう、とお腹の音が続いて鳴る。何とも情けない目覚ましだ。
そろそろ起きなきゃとは思ってるけど、布団が俺を手放してくれない。
「駿くん、朝だよー。起きないと、ごはん冷めちゃうよ?」
扉の向こうから聞こえるその声は、まるで春の陽だまりみたいだった。
眠気の海に沈みかけていた俺の意識を、やさしく引き上げる。
布団を蹴って身を起こすと、かすかに味噌汁の匂いが漂ってきた。
胃袋がそれを察知してゴロゴロと鳴る。どうやら、もう一眠りは許してもらえそうにない。
「……今行く」
重たい声で返事をして、眠い目をこすりながらリビングへ向かう。
そこには、割烹着姿で食卓を整えている少女の姿があった。
「おはよう、駿くん。今日のお味噌汁はね、お豆腐とワカメだよ」
茶碗にごはんをよそい、湯気の立つ味噌汁を器に注ぐその姿は、まさに“理想のお嫁さん”ってやつだろう。
「おはよう……てか、いつもありがとな」
「ううん、駿くんは昔から朝が苦手だから。ほっとくとお昼まで寝てるでしょ?」
そう言って微笑む彼女は、誰がどう見ても“優しい幼馴染系美少女”だ。
茶髪は肩のあたりでふわりと揺れ、瞳は柔らかく、声も落ち着いていて耳に心地いい。
成績もよくて、家事も完璧、言葉遣いも丁寧。
学校でも男女問わず人気があるし、教師たちからの信頼も厚い。
――完璧すぎる、って思うことすらある。
だけど俺は知ってる。この光が、かつて――
「いただきます」
彼女が手を合わせたのに続いて、俺も手を合わせる。
ごはんはふっくらとしていて、味噌汁は出汁がしっかり効いていて美味い。
こういう朝がどれほどありがたいことか、最近やっと分かってきた。
それでも――やっぱり、たまに思い出してしまう。
光は、元々“男”だった。
今じゃ信じられないけど、五年前まで俺の隣にいたのは、
いつも鼻を垂らして走り回ってた、ボーイッシュを通り越したただの悪ガキだった。
スカートなんて似合うはずがないって本人も言ってたし、
女子と遊ぶくらいなら虫取りに行こうぜ、って笑ってた。
あの“白石ヒカル”が、ある日突然“白石光”に変わっていた。
原因は、未だによくわからない奇病――「性転病」なんて仰々しい名前がつけられてたけど、
その正体も、発症メカニズムも不明。
ただ一つ確かなのは、それを境に光の身体が“女の子”になったということ。
当時、俺も混乱した。
冗談じゃねえのかって何度も思った。
でも光はケロッとして、「オレ、これからも駿くんの友達だよ」って笑ってた。
その笑顔を見た瞬間、何かが腑に落ちた気がした。
――ああ、こいつは光だ。
見た目が変わっても、声が少し高くなっても、
中身はあの時と同じで、俺のことを気にかけてくれるやつなんだ。
……と思っていたのは、最初のうちだけだった。
気づけば、光は完全に“女の子”として馴染んでいた。
言葉遣いは柔らかくなり、仕草や所作も女の子らしくなった。
周囲も“彼女”を普通に女子として扱っていて、
いまじゃ「昔は男だった」なんて話をすれば、冗談だと思われるのがオチだろう。
正直なところ、俺ももう“昔の光”をほとんど思い出せなくなってきている。
「ねえ、今日さ、放課後にスーパー寄ってもいい? 冷蔵庫のお味噌がもう切れそうで」
「……ああ、いいよ。帰りに付き合う」
「ありがと。あと、今夜は煮物にしようと思ってて。駿くん、里芋大丈夫だったっけ?」
「問題ない。むしろ楽しみだわ」
光はにこにこと笑って、また茶碗にご飯を追加してくれる。
その一連の動きに、何の違和感もない。
当たり前すぎて、もうそれが“日常”になっている。
でも、どこかで思ってしまう。
この笑顔の裏に、“元”という一文字がつくことを。
けれど、それを思い出すたびに罪悪感が湧いてくる。
本人がどうありたいかを無視して、過去に囚われてるのは俺の方じゃないかって。
光はもう、前を向いている。
今の身体に、今の性別に、何の疑問もなく、ただ“光”として生きている。
「駿くん? どうかした?」
「……いや、なんでもない」
俺は笑って答える。
これが、俺たちの“日常”なんだ。
たとえ、その裏にどれだけの非日常が潜んでいようとも。
「駿くん、行こ?」
光が制服の襟を直しながら微笑む。
俺は鞄を肩にかけて、玄関のドアを開けた。
隣同士の家から、毎朝こうして一緒に登校するのが、いつの間にか当たり前になっていた。
穏やかに晴れた空と、朝の空気に混じるパン屋の焼き立ての香り。
これが日常だ。魔法とか異能とか、そんなものが裏にあるなんて嘘みたいに思える。
「今日の数学、ちょっと難しいところあるかも。昨日の公式、駿くん覚えてる?」
「う、まあ……ノートはとった。理解は、これからだ」
「そっか。じゃあ放課後、一緒に見直そっか」
「助かる」
光はふふっと微笑んだ。
その笑顔に、通りすがりのクラスメイトらしき男子が少し目を奪われていたのが視界の端に映る。
まあ当然だ。可愛くて、家事もできて、成績もよくて、性格までいい美少女だ。
中身が元・鼻垂れのガキだったなんて誰も思わないだろう。
そして――もう一人。
交差点の先に、その姿はあった。
長い銀髪が朝日にきらりと光る。風にふわりと揺れるスカート。
凛とした佇まいと、すっと通った横顔。
言葉を交わさなくても分かる、近寄りがたい空気を纏った少女。
彼女の名前は――アリシア・グレイウッド。
数日前に“転校生”としてうちの学校にやってきた。
学籍上は外国人とのハーフで、両親の仕事の都合で日本に来たことになっている。
だがその実態は――
「おはよう、駿。……白石さんも」
「おはよう、アリシアちゃん」
光がにこやかに手を振る。アリシアは静かにうなずいて、俺の隣に並ぶ。
この無表情で口数の少ない少女――
世間では「理知的」「ミステリアス」とでも評されそうだが、
俺にとってはもっとややこしい存在だ。
こいつは――中身がとんでもないジジイである。
外見は文句なしの才色兼備。
頭の回転も速いし、何より落ち着いていて感情に流されることがない。
同じクラスに来てからは、「外国語の発音が完璧」「姿勢がいい」「授業中に寝ない」など、教師陣からの好感度はうなぎのぼり。
ただ、生徒間ではやや距離を置かれている。
表情の変化が少ない上、誰とも特に仲良くなろうとしないからだ。
その彼女と、俺はすでに何度も“魔法絡みの事件”で共闘している。
いや、そもそも。
このアリシアと出会ったことが、俺が魔法に関わることになった元凶だ。
あの通り魔事件、そしてその背後にいた魔術結社の尖兵。
俺がそれらに巻き込まれ、魔法という現実を知ることになった最初の夜、
俺の前に立ちはだかり、そして救ってくれたのがアリシアだった。
あの時の彼女は、まさに“魔法使い”だった。
戦いの中で見せた知識と判断、迷いなき行動、何より圧倒的な魔力の制御力。
まるで百戦錬磨のベテラン兵のような振る舞い――
それもそのはず、こいつの中身は、かつて「灰の賢者」と呼ばれた伝説級の魔術師なのだから。
……見た目は銀髪美少女、中身は数百年生きてきた魔法界の生き字引。
何度思い返しても、脳がバグを起こす。
最初にそれを聞いたとき、正直、笑ってしまった。
このクールビューティが、実は「昔の若いもんはなぁ」とか言い出すタイプだったとは。
今でもたまに口調の端にジジイ臭さが滲み出る瞬間がある。
とはいえ、それを他人に話すわけにもいかない。
アリシアの正体を知ってるのは、俺と協会のごく一部の人間だけだ。
そして、光はもちろんそのことを知らない。
光にとってアリシアは、ちょっと無口だけど美人で落ち着いた女の子。
アリシアにとって光は、よく喋る家庭的なクラスメイト。
互いの裏事情なんて、何一つ知らずに――一緒に登校している。
俺が真ん中で、何か変な汗をかいてるのはもう日課みたいなもんだ。
「……今日の天気、午後から崩れるらしい」
アリシアがぽつりと口を開く。
「えっ、そうなの? 洗濯物干してきちゃった……」
「風が変わってた。匂いでわかる」
「アリシアちゃん、すごーい。駿くんもちゃんと部屋干ししといたほうがいいよ」
「お、おう」
そうして、三人並んで歩く通学路。
ぱっと見はごく普通の高校生の朝――
……だがその裏には、誰にも言えない秘密と、知られてはならない現実が詰まっている。
俺の左には、おっとり優しい完璧美少女――ただし元鼻垂れ坊主。
俺の右には、無表情で沈着冷静な魔法使い――ただし中身が数百年生きたジジイ。
……なあ、これって普通に登校してるって言えるのか? 俺。
教室棟に向かう廊下の途中、光がふと立ち止まった。
「あ、そうだ。今日、わたし日直だったんだ。朝の準備しなきゃ」
「ああ、そっか。先に行ってて」
「うん。じゃ、後でね。アリシアちゃんも、また後で~」
ひらひらと手を振って、光は小走りで先に昇降口を抜けていく。
制服のスカートがひらりと揺れて、髪がふわりと風に舞った。
あの姿だけ見れば、まるで完璧なヒロインだ。中身がかつての鼻垂れ坊主であるという事実を、どれだけの人間が信じるだろうか。
そして、残されたのは俺と――アリシア。
「……少し、話がある」
静かに、けれど確実に俺を制止する声が右隣から響いた。
振り返ると、アリシアは既に立ち止まっていた。
壁際に身を寄せ、人通りがないことを確認してから、俺をその前に立たせる。
教室まではもう少しあるが、他の生徒の姿は見えない。
「……魔術結社が動いた」
それだけで、空気が変わる。
アリシアの瞳は、まるで夜空のように深く、冷たい光を宿していた。
あの無表情が、一層引き締まっているのが分かる。
「数日前、都内の“封印区画”が一時的に反応を示した。おそらく、未発見の遺物が持ち出された」
「……結社の手に?」
「可能性は高い。監視用の術式はかろうじて残っていたけれど、具体的な回収対象が何かまでは判別できなかった」
それだけで、事の重大さは伝わる。
魔導遺物――協会が危険視して封印している、過去の大魔術師たちが残した“遺産”だ。
ろくなもんじゃない。兵器だったり、精神干渉だったり、人の理を超える代物ばかり。
「回収の動きは?」
「……既に内偵班が動いてる。けれど、あくまで非公式。支部としては“異常なし”の報告で固められてる」
「なんでだよ、それじゃ――」
「上が動かない。だから、下が動くしかない」
そう言ったときのアリシアは、本当に“灰の賢者”だった。
静かで、冷たく、すべてを見通すような眼差し。
だが俺は知っている。この少女の皮を被った大魔法使いには、
ときどきポロッと“中身”が出る瞬間があることを。
「とはいえ……儂もそう頻繁に表に出るわけにもいかん。若ぇのに任せすぎるのは――っ、じゃなくて、私は動きを慎重に見極めるべきだと判断している」
案の定だった。
「儂」ってお前、今完全にジジイだったぞ。
「……今、儂って言ったよな?」
「言ってない」
「いや、言ったって。しかも“若ぇのに任せすぎる”って、それもう完全にジジイの愚痴じゃ――」
「静かに。聞かれたらどうする。……私の口調の件は些細な問題だ」
アリシアは少し頬を赤らめながら、すぐに平静を装った。
眉ひとつ動かさないはずの彼女が、微妙に目を逸らしている時点でバレバレだ。
「……くっ、また出たか。やはりこの肉体は若すぎて感覚のコントロールが甘い。老体の頃はもっと――いや、だからそれを言うなというに」
ブツブツと自分に言い聞かせるように口を動かし、数秒後にはまた冷静な表情に戻る。
その素早いリカバリが逆に面白い。
「……とにかく、神谷。警戒は怠るな。今後、封印区画が再度狙われる可能性が高い。君の周辺にも、結社が何らかの接触を図ってくるだろう」
「……了解。俺も気をつける」
「必要なら、いつでも連絡を。私も、できる限りの支援はする」
その言葉に嘘はない。
たとえ口調が一瞬ジジくさくなろうとも、
目の前のアリシアは――冷静で、信頼できる魔法使いだった。
それにしても。
あんなクールビューティーが、一瞬「若ぇの」とか言っちゃうギャップ――
これはこれで、ちょっとずるいよな。
──────
昼休み。教室は、弁当を広げる音や、誰かの笑い声で賑わっていた。
だが、俺の視線はずっと空席を眺めていた。
光――今日は生徒会室で食べるらしい。
アリシア――昼食はだいたい一人か、校舎裏で魔術式の調整をしてるかのどちらか。
当然、昼休みに教室で談笑するような性格じゃない。
というわけで、俺の選択肢は一つだった。
――屋上。
「……はぁ」
昼飯を詰め込んだ紙袋を片手に、階段を登る。
鍵のかかっていない扉を抜けて、静かな屋上に出ると、ちょうどいい風が吹いていた。
青空の下、コンクリートの床に腰を下ろし、袋からコンビニのサンドイッチを取り出す。
なんてことのない昼休み。それだけでいい。平穏であれば、それで。
そう――思っていた、はずだった。
「センパーイ!」
勢いのある声が背後から飛んできた。
その瞬間、警戒反射的に身を起こす。
風と一緒に、ふわっと柔らかい香りが鼻をくすぐる。
振り返った先に立っていたのは、女子制服を着た――とびきり可愛い“少女”だった。
ツインテールに大きな瞳、明るく笑う表情。
ほんのりと紅潮した頬と、屈託のない笑顔。
小柄な身体に少し大きめの制服が揺れて、見るからに守ってあげたくなるような存在感。
……だが、こいつは“男”である。
名前は
名前だけ見れば、どう考えても猛々しい武士系。
しかし、その実態は“男の娘”であり、協会に仮登録された異能訓練生――
そして、なぜか俺に対してやたらと懐いている存在だ。
「何でここに……ってか、何で知ってんだよ俺が屋上に来たの」
「センパイのことは何でもお見通しですからっ。…あ、これ、お弁当作ってきたんですよ。食べます?」
彼はそう言って、ピンクの包みから小さな手作り弁当を取り出した。
キャラ弁ってやつだ。ウィンナーがタコの形をしていて、卵焼きにはハートの形が彫ってある。
完璧に女子力の化け物だった。
「……ああ。ありがとう。いただくよ」
断る理由もない。
というか、断ったら泣かれるのは目に見えている。
「えへへ、嬉しい……あ、でも、センパイのぶん、ちゃんと計算してあるから、足りなかったら僕のもあげますからね」
「いや、それは……遠慮しとく」
「遠慮しなくていいんですって。僕、センパイには何でもしてあげたいんですから」
笑顔でさらっと言ってのけるこの後輩は、
性別を気にしないどころか、自分が男であることすらも忘れてる節がある。
いや、たぶん忘れてるんじゃなくて――最初から意識してないのかもしれない。
名前のギャップもそうだ。
「大河」という勇ましい名は、どう考えても親が男らしく育ってほしいと願ってつけたものだろうに。
それを自ら進んで“ボクっ娘”で通し、女子制服で生活してるのだから、肝が据わってるというかなんというか。
「そういえば、光センパイいなかったですね? あと、アリシアセンパイも」
「……ああ。二人とも今日は別行動だ」
「そっかー。じゃあ、今日は僕が独占、ですねっ」
「独占とか言うなよ」
「えへへー」
笑いながら、嬉しそうに小さな足をぶらぶらさせる。
制服のスカートからすらりと伸びる脚線美。
けれど――中身は、れっきとした男である。
あらゆる意味で、慣れない。
だが、この男の娘は決して“ふざけてる”わけじゃない。
その証拠に、戦闘時は誰よりも冷静で、魔力制御の精度は協会内でもトップクラスだという。
口では甘えてくるが、実際には危険な任務にも一歩も引かず、
俺が窮地に陥ったとき、何度も命を張って助けてくれた。
「センパイがいなかったら、僕……きっと、誰にも本当の自分を見てもらえなかったと思うんです」
その言葉を、過去にぽつりと口にしていたのを思い出す。
性別も、社会の期待も、すべてを背負いながら、それでも“自分”として生きようとする姿勢は、
俺には到底真似できないほどに、真っ直ぐだった。
――強いな、と思う。
俺の方こそ、こいつに救われてばかりだ。
「……なあ、大河。お前さ」
「はい?」
「名前、気にしたことないのか?」
「え? あ、“大河”ってやつですか?」
「うん。普通なら、もっと男らしいイメージあるしさ。女の子らしくするなら、変えようとか思わなかったのか?」
大河は、ほんの少しだけ沈黙した。
そして、小さく笑って首を振る。
「僕は、この名前が好きなんです。親がくれた名前だから」
その答えに、少しだけ胸が詰まった。
たぶん――この後輩が一番、まっすぐ“自分”でいる。
誰よりもブレずに、誰よりもまっすぐに。
俺なんかより、よっぽど。
「センパイも、“駿”っていい名前ですよね。走る、って書くんですよね? 僕、そういうの、好きです」
「……ありがと」
俺はそう答えて、彼の手作り弁当をひとつ口に運んだ。
甘すぎない卵焼きが、妙に沁みた。
「美味しいですか?」
一ノ瀬大河が、期待に満ちた瞳で見上げてくる。
小柄な身体をこちらに傾け、制服のスカートを揺らしてにじり寄ってくるその仕草。
頬にはほんのりと赤みが差し、指先はもじもじと膝の上で絡み合っている。
正直、仕草だけ見れば完全に“可愛い後輩の女の子”そのものだった。
否応なしに“ドキッ”とさせられてしまう類の、やつだ。
「……うん。うまいよ。味付け、すごく好みだ」
それは本心だった。
甘すぎず、でもほんのり出汁の効いた卵焼き。
彩りのいい野菜の和え物に、ジューシーな鶏の照り焼き。
家庭的でありながらも、どこか“プロの味”に近い絶妙なバランス。
こんなの、女子力って言葉じゃ収まらない。
もはや飯テロだ。
「えへへ……嬉しいですぅ」
とろけるような笑顔。
瞳はうるうると潤み、唇には自然な艶。
風がふわりと髪を揺らすたびに、ほのかに甘い香りが鼻をかすめる。
「やっぱりセンパイのために頑張ってよかった……僕、もっと料理のレパートリー増やしますねっ!」
「お、おう……」
なぜかドキドキする。
俺は今、普通に女子と接している……ような錯覚を覚える。
でも、違う。忘れるな。
――こいつは、男だ。
「ねぇ、センパイ」
「ん?」
「こんなに料理上手で、気が利いて、かわいくて、素直で、センパイのことが大好きな後輩って……」
その言い方は、どう考えても“来る”前フリだった。
「……お嫁さんにしたいって思いません?」
満面の笑み。
カバンからハートマークでも飛び出してきそうな破壊力。
直球で、照れもなく、言葉をぶつけてくる。
正面から、真正面から、好意をぶつけてくる。
「いや、えーと……その……」
目を逸らすのも負けた気がして、正面から受け止めたけれど、ダメだ。
顔が熱くなる。耳まで熱を帯びる。
理性が、わずかに揺れる。
こんなに真っ直ぐに好かれて、拒絶できる人間なんているのか。
実際、今の一言で心拍数が上がったのは否定できない。
だが――
「……でも、お前、男だよな?」
現実が突き刺さる。
その瞬間、大河は頬をぷくっと膨らませて、腕を組んだ。
「それ、何回言えば気が済むんですかぁ? 僕は僕です! 男とか女とか、関係ないじゃないですかぁ!」
「いやいやいやいや、大アリだろ」
「ないです!」
「あるって!」
「じゃあセンパイは、僕が女の子だったら、嫁にしてくれたんですか?」
「……ぐっ」
それはずるい。ずるすぎる。
もしこの見た目で、性別まで女性だったら、間違いなく――“危なかった”。
でも、現実は違う。
「う、ぐ……いや、そういう問題じゃなくて……!」
「ふふーん、動揺してる。これはもう、僕の勝ちですねっ」
「勝負だったのかよ……」
視線を逸らして空を仰ぐ。
青空がやけにまぶしい。逃げ場がない。
「そもそも俺たち、男同士だろうが」
「そうですか? 僕は“お嫁さんになりたい”んですけど?」
「お前、それただの天然じゃなくて、確信犯だろ……」
「ふふっ、センパイに褒められるのは嬉しいなぁ。そういうところも、好き」
真っ直ぐに、なんの迷いもなく言ってくる。
そのたびに、理性がグラつくのを感じる。
笑顔は無邪気で、言葉は優しくて、態度は一途で。
俺のことを誰よりも大切に思ってくれていて。
しかも料理もできる。気遣いもできる。頭もいい。魔術の才能もある。
……理想的すぎる“嫁”像だ。
でも――
「――だが、男だ」
俺はそう念じるように、口に出す。
何度でも繰り返す。
どれだけ魅力的に見えても、どれだけ好意を向けられても、
どれだけ心が揺れようとも、そこだけは崩してはいけない。
一ノ瀬 大河。後輩ヒロイン。男の娘。
そして――男だ。
「それにさ、ほら……お前、他にも大事なことあるだろ。訓練とか、魔術の適性とか。俺に構ってる暇なんて……」
「暇じゃないけど、センパイは別枠ですっ」
即答だった。しかも満面の笑顔付き。
もう、何なんだこの後輩は。
強すぎる。いろいろな意味で。
「……でも、ありがとう。弁当、美味かったよ」
「えへへ……じゃあ、今度は晩ごはん作りに、センパイの家に行きますね」
「来るな。というか、勝手に決めんな」
「いいじゃないですかぁ~。ほら、“内縁の妻”ってことで」
「却下だ!」
そうして、空の弁当箱を片付けながら、俺は心の中で叫ぶ。
――頼むから、理性を揺さぶらないでくれ。
俺は普通の、平穏な、高校生活を送りたいだけなんだ。
ただし、現実は――
とびきり可愛い“男”が、俺の昼飯を作ってくる世界だった。
「駿くん~」
昼休みの終わりが近づく頃、屋上の扉がゆっくりと開いて、
陽射しの中からひょこっと顔を出したのは、制服姿の白石 光だった。
「ここにいたんだね。探しちゃったよ~」
「ああ、ごめん。ちょっと静かなとこで飯食いたくなってさ」
「ふふ、駿くんらしいね」
そう言いながら、光は俺の隣に腰を下ろした。
日が傾き始めた屋上は、昼休みの喧騒を忘れさせる静けさを纏っている。
「一ノ瀬くんと一緒だったんだよね?」
「……ああ、うん」
「そっか。相変わらず、仲良しだね~」
「ちょっと待て、仲良しっていうと語弊が――」
「大河ちゃん、かわいいもんね?」
軽やかにそう言って、光はにこにこと笑った。
柔らかな髪が風に揺れ、頬にかかる。
その口調はあくまでおっとりしていて、微塵も含みのない無邪気さであふれていた。
「……いや、まぁ。確かに見た目は可愛いけど」
「ふふっ、駿くんってそういうとき、正直なんだね」
「……違う、そうじゃない。あいつは、男でだな――」
「男の子でも女の子でも、かわいいものはかわいいよ?」
あっさりと言い切る光の声は、まるで“それが当たり前”だとでも言うようだった。
否定も、躊躇いもない。
“自分の感覚”で、ちゃんと目の前の存在を見てる。それだけのことだ。
「大河ちゃんの制服姿、ホントに似合ってるし、
お弁当もすごく丁寧で、言葉遣いも柔らかくて……
見てて、こっちまで癒されちゃうよね~」
ふわりと笑いながら言うその姿には、まったく嘘がなかった。
あの坊主頭だった“ヒカル”が、こうして素直に“可愛い”を語る日が来るなんて……。
――いや、待てよ。
「……お前がそれ言うと、説得力あるな」
思わずモノローグが漏れた。
かつて鼻を垂らして走り回ってた悪ガキが、
今では制服姿が様になってて、料理も掃除も完璧、
しかも誰に対しても分け隔てなく優しい、美少女の鑑みたいな存在。
この“白石 光”が、「男も女も関係なく」なんて言うからには、
それは単なるきれいごとじゃない。
過去を受け入れて、今を肯定して、それでも前に進む強さから出た言葉なんだ。
「ん~? どうしたの、駿くん。じーっと見て」
「……いや、なんでもない」
「ふふっ。駿くん、また変なこと考えてたでしょ?」
「別に。変なことは考えてない……と思う」
「うそ~。駿くんって、顔に出るんだよ? そういうの」
「お前の方がよっぽど天然なんだがな……」
「えへへ、それは否定しないかも」
光は楽しそうに笑う。
風に乗って、どこか甘い香りが鼻をくすぐる。
その笑顔は、何も知らない誰かが見たら、“ただの可愛い女の子”にしか見えないだろう。
でも俺は知っている。
知っているからこそ、時々頭が混乱する。
だけど――それでも、光の中にある“優しさ”や“強さ”は、
かつてのヒカルのままだ。
「……なあ、光」
「ん?」
「お前ってさ、自分が変わったって思う?」
「うーん……難しいこと聞くね?」
光は少しだけ考えてから、ほんの少し視線を落とした。
「変わったこともあるし、変わってないこともあるかな~。
でも、変わったことが悪いことだとは思ってないよ?」
「そっか」
「うん。だって、駿くんがずっと隣にいてくれたから、
“変わっても、ちゃんと自分でいられる”って思えたんだよ?」
その言葉は、思った以上にズシンと胸に響いた。
「……お前、ほんとずるいな。そういうとこ」
「え~、ずるくないよ? 正直なだけだもん」
「……だろうな」
この素直さに、救われたのはたぶん俺の方だ。
日常と非日常の狭間で揺れるこの世界で、
“白石 光”は、俺にとっての揺るがない光だ。
そこに、男とか女とか、そんなのは――もう関係ないのかもしれない。
昼休みの終わりを告げるチャイムが、静かに鳴り響いた。
教室へ戻る時間だ。
「さ、戻ろっか。午後の授業、居眠りしちゃだめだよ?」
「分かってるって……つか、お前こそな」
「ふふっ。駿くんが隣にいれば、ちゃんと起きてられるもん」
からかうように言いながら、光はまた微笑んだ。
その笑顔が、風の中に溶けていく。
――ほんと、お前が言うと説得力あるよ。
可愛いは、可愛い。それだけで、十分だ。
─────────
「じゃ、わたし先に帰ってるね~。晩ごはん、用意して待ってるね?」
帰り道の途中、分かれ道の前で光が振り返りながらそう言った。
陽が少し傾き始めた午後の空。制服の袖を風がかすめて、彼女の髪がふわりと舞う。
「わかってるよ。今日は何作るんだ?」
「んー、秘密。でも駿くんの好きなやつかも?」
いたずらっぽく微笑むと、光は手を振って住宅街へと駆けていった。
小さな背中が、角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、
俺はふぅと息をついた。
「私もそろそろ行く。協会に顔を出しておきたい」
その隣で、アリシアが静かに言った。
いつも通りの無表情に見えるが、その言葉の裏には“任務”の匂いがあった。
「大河も一緒?」
「はーい、センパイ。お仕事、お仕事ですー。ついでに報告もあるんですよ?」
「お前、報告って言うより弁当の感想聞きたいだけだろ」
「えへへ、バレました?」
「……はぁ」
俺の苦笑に、アリシアは一つ頷いたあと、大河の肩を引いて歩き出す。
「じゃあ、駿。何かあればすぐ連絡を」
「ああ。気をつけてな」
そうして、三人と別れた。
光は家へ、大河とアリシアは協会へ――
俺は一人、夕方の町を歩く。
部活帰りの学生、スーパーに向かう主婦、犬の散歩をする老人。
一見、どこにでもある平和な光景。だがその裏では、いくつもの異能の思惑が交差している。
そんな中――
俺は住宅街の、とある小さな公園の前で足を止めた。
「……相変わらず、のんきだな。お前は」
電柱の影から現れたのは、一人の少女だった。
金髪のポニーテールに、長い脚を包む黒タイツ。
制服の上に羽織った黒のパーカーが風に揺れ、
その中で、クラリーチェ=フォルティア――通称クラリスが俺を見据えていた。
「そんなに気軽に一人で歩くような立場か? 自分の身の貴重さを、少しは自覚しろ。神谷 駿」
「ああ、悪い。忠告は正しいよ」
彼女の言葉に俺は素直に頷く。
「お前がいなかったら、あの時――」
「よせ。その話は繰り返すな」
遮るように言ったクラリスは、ため息を一つ吐いてから、肩をすくめた。
クラリス――彼女は元々、魔術結社に属していた。
だが、内部の政争に巻き込まれ、切り捨てられ、消されかけた。
そんな瀕死の彼女を、俺は――見捨てられなかった。
あのとき助けた理由を、明確に言葉にすることはできなかったが、
その後、クラリスは「借りを返す」と言って、俺の前に現れ、
それ以来、俺にとっての“影の協力者”となった。
「で? 視察の方はどうだった」
「下層拠点の再構築が進んでいる。
以前潰された支部の跡地に、別系統の部隊が入っていた。
構成員の魔力パターンから察するに、あれは“新生アルカナ派”だな」
「アルカナ……あの連中、まだ生き残ってたのか」
「ああ。今回はまた“幻影術”を主軸にした実験をしている様子だった。
記憶の改竄と、感覚の誘導を組み合わせていた。
あれは確か、結社内部でも“危険寄り”の扱いだったはずだが……」
「つまり、結社内の均衡も崩れつつある、ってことか?」
「もともと“均衡”なんてあの組織には存在しない。
強者が座を奪い、弱者が道具になる。
ただそれだけの世界だ」
冷たい声でそう言うクラリスの横顔は、妙に大人びて見えた。
その実年齢は俺よりも遥かに上だという事実を、改めて思い出す。
「……ありがとな、クラリス。お前がいなきゃ、俺はこんな情報手に入れられない」
「借りを返しているだけだ。礼を言う必要はない」
クラリスは踵を返し、俺の隣に並んだ。
「今日はしばらく同行する。護衛も兼ねてな。最近、監視者の影が一段と増えている」
「了解。頼りにしてる」
「ふん……当然だ。お前を護るのは、私の“責務”だ」
自分に言い聞かせるようにそう言って、前を歩き出す。
俺もそれに続く形で、住宅街の歩道を進んだ。
しかし――
こうして並んで歩いていると、つい思い出してしまう。
この少女の中身は、かつて結社の“幹部”と呼ばれていた人間だった。
冷酷で、合理的で、力にすべてを捧げた、あの――
(……これで中身、筋骨隆々のマッチョだったんだよなあ)
つい、ちらりと横目でクラリスを眺める。
細い腕、華奢な脚、すらりと伸びた首筋。
それらは“幹部時代”のイメージとは真逆だ。
「――ジロジロ見るなッ!」
「うおっ!?」
突如として飛んできた手刀が、俺の額を小気味よく叩いた。
想像以上の精度でチョップが決まり、数歩後退する。
「な、なんだよ急に!」
「不躾な視線を向けられて平然としていられるほど、私は器が大きくない!」
怒ったように言いながら、クラリスは頬を染めている。
いや、これは――怒ってるんじゃない。照れてる。
「お前、照れてるだろ」
「照れてない!」
「いや、照れてるって」
「照れてないと言っているッ!」
真っ赤な顔で睨みつけてくるクラリスに、思わず笑いがこみ上げてくる。
こいつが本当に元・冷血幹部だったなんて、誰が信じるだろう。
でも今は、確かに“人間”としてここにいる。
未だに自分の立場に戸惑いながらも、まっすぐに俺を守ろうとしてくれている。
「……ありがとな、クラリス」
「言っただろう。借りを返しているだけだ」
そう言いながら、ほんの少しだけ、彼女の歩幅が俺に寄った。
そのささやかな変化が、妙に温かく感じられた。
歩きながら、ふとクラリスの足が止まった。
彼女の視線が、通りを挟んだ反対側――民家の塀の陰へ向けられる。
「……こちらを窺っていたのが一人」
声は低く、けれど明瞭だった。
俺がそちらを振り向くより先に、クラリスはすれ違う通行人を装い、そちらに近づいていく。
塀の陰に隠れていたのは、見るからに目立たないサラリーマン風の男。
だがその気配――立ち方、呼吸、視線の動きからして、ただの市民ではない。
“監視者”。
協会にしろ、結社にしろ、俺の周囲にはこういった“観察対象としての視線”が絶えない。
しかし、それに対してクラリスは――ほぼ無音で近づき、すれ違いざまに視線を合わせた。
その瞬間、何かが“割れた”ような感覚が走った。
目を合わせた男は一瞬目を見開き――次の瞬間、微笑を浮かべて、何事もなかったかのように踵を返して歩き去った。
「……報告には“私はいなかった”と記すだろう。
すれ違った相手はただの学生。
記憶の根に干渉しておいた。当面はこれで十分だ」
そう言って、クラリスは何事もなかったようにこちらへ戻ってきた。
その顔には、任務を終えた魔術師の冷静さが宿っている。
「ありがとな。危なかったな」
「必要な処置をしただけだ。私は、お前の“後始末”のためにいるわけじゃないが……
まぁ、見逃すほど薄情でもない」
「……助かるよ」
再び並んで歩き出す。
夕暮れの町並みが橙に染まる中、住宅街に入った。
人通りはまばらで、犬の散歩をする親子の姿が見える程度。
やがて、俺の家が見えてきた。
「……なあ、クラリス」
「なんだ、神谷 駿」
「お前に……いや、ゲイルに、感謝してる」
それは、ずっと言いたかった言葉だった。
助けたのは俺の方だったかもしれない。
でも、今は助けられている。
情報も、護衛も、忠告も。
彼女――**彼**がいなければ、今の俺はここまで生き残れていなかった。
沈黙。
クラリスの足が、ほんの少しだけ止まった。
しかし、すぐに再び歩き出す。
声は、どこか遠くを見ているようだった。
「……あの男は、もう死んだ。
あれは“結社の幹部”としての役目を終えて、処分された存在だ。
私はただの小娘。名前も姿も、力の使い方すらも、かつてのものとは違う」
「でも、心は――」
「――気にするな」
遮るように、けれど優しい声だった。
「私は私の意思で、お前に付き合ってる。
それだけのことだ。深くに気にしすぎるな、神谷 駿」
そう言って、クラリスは家の前で足を止めた。
俺の家の、ちょうど向かいの家の前。
「……じゃあな。晩飯、しっかり食えよ」
「ああ。お前もな」
「フン、心配性め」
そう言って、クラリスは門扉を開けて家の中へと入っていく。
振り返りはしなかったが、パーカーの裾が風に揺れ、彼女のポニーテールが夕陽にきらめいた。
そう、彼女は――
今や“お向かいさん”なのである。
かつて結社の中枢にいた魔術師が、
今では俺の家の向かいに住み、夕飯時には電灯が灯り、
洗濯物を干し、ゴミ出しをしながら、時には俺の帰りを見張ってくれている。
……信じられるか?
いや、信じられないよな。
だけどそれが、今の“俺たちの世界”の現実なんだ。
今日もまた、日常の仮面をかぶった非日常が、音もなく隣にいる。
───
夕食の席に、クラリスがいる――
その事実を、俺は未だに信じきれずにいた。
「……どうしてこうなった」
ぼそっと漏れたクラリスの呟きは、テーブルの上の味噌汁が揺れるほど低かった。
顔には「完全に場違い」だという緊張と困惑がにじみ出ていて、口元が微妙に引きつっている。
普段の冷静沈着な仮面が、今にも剥がれそうだった。
「……ごめん。俺、止められなかった」
俺は情けない笑みを浮かべて、小声で謝った。
ことの発端は、たった一言。
『駿くん、せっかくだからクラリスちゃんも一緒にご飯食べていこうよ』
近所づきあい感覚で放たれた光の提案に、俺は完全に対応を誤った。
いや、間違ってない。間違ってはいないけど――
断れるわけがなかった。
光の笑顔に、何度だって敗北する運命なのだ。俺は。
クラリスはといえば、無言でしばらく固まった後、
「……断る理由が“ない”というのが一番腹立たしい」と、眉をぴくつかせながら着席した。
今、我が家の食卓には、
俺と、エプロン姿の光と、
腕を組んで隣の茶碗と向き合うクラリスの三人が並んでいる。
食卓には、焼き魚に煮物、味噌汁、出汁巻き卵、白ごはん。
どれも丁寧な味つけで、光の料理スキルが遺憾なく発揮されていた。
「お口に合うといいんだけど……どうかな、クラリスちゃん?」
光が穏やかに尋ねる。
「……美味い」
一瞬の間の後、クラリスはぽつりと呟いた。
声こそ低いが、言葉に偽りはないようだった。
口元に微かに笑みのようなものが浮かんでいるのが、何よりの証拠だ。
「よかった~。頑張って作ったかいがあったよ」
「……ふむ。味のバランスも取れているし、塩分控えめで素材の良さも生きている。
素人の味ではないな。……ごちそうさま、白石 光」
「えへへ、光でいいよ?」
「……そうか。ヒカリ」
なぜか言い直すように復唱してから、クラリスは湯呑みの番茶をすすった。
相変わらず、不器用な社交辞令である。
「まぁ、深く気にしないでくれ。ご近所付き合いってことでさ」
「……そういうものなのか?」
「そういうものだ」
俺の言葉にクラリスは小さく頷くと、ふたたび箸を取って煮物を口に運んだ。
不思議なものだ。結社の元幹部が、今こうして一膳飯をつついている。
しかも我が家の、夕飯の席で。
光はというと、完全に“近所の友達をごはんに誘った”という意識しかないらしく、
まったく怪しむ様子もなければ、深掘りもしない。
その無邪気さが、今は本当にありがたい。
もちろん、クラリスも心得ている。
光の前では、魔術の話は一切しない。
口数こそ少ないが、その辺の配慮は徹底していた。
――とはいえ、目の前の光景はどうしても気になる。
クラリスの小柄な体が、椅子にちょこんと腰かけ、
背筋を伸ばしてまるで儀式のように正確に箸を使って食事を進めている。
ひと口ごとに口元がもぐもぐと動き、たまに頬をふくらませる仕草が、どこか小動物じみていた。
……リスか?
頬袋に餌を詰め込むリス。
どう見ても、小動物系。
「……な、なんだその視線は」
クラリスが、顔をわずかに上げてこちらを睨む。
しまった、と視線を外す間もなく――
「痛っ!」
見事な角度で、手刀が額に突き刺さった。
「……お前は本当に、不躾だな、神谷 駿!」
「いってぇ……いや、そんなにじろじろ見てたつもりは……!」
「嘘だ。私はちゃんと感じていた。ずっと……その、見ていたことを……!」
「あ、ああ……すまん」
顔を真っ赤にして怒るクラリス。
その頬に浮かんだ赤みは、どう見ても“怒り”だけではなかった。
「……別に。見られて恥ずかしいとか、そういうわけではない。ないが……!」
「……うん、うん。わかった。悪かったから。な?」
そう、これは間違いなく“照れ隠し”だった。
不器用なプライドが邪魔して素直になれないのだ。
思わず、俺の口元も緩む。
この食卓に、いったい何が起きているのか。
光はただにこにこと笑いながら、お茶を継ぎ足してくれる。
「仲良しさんだね~、ふたりとも」
「仲良くない」
慌てて否定するクラリス。
それを聞いた光がくすくすと笑い、食卓には温かな空気が流れる。
騒がしくて、静かで、不思議な食事だった。
……こんな日常が、いつまで続くかは分からない。
でも、こうして誰かと囲む食卓があるだけで、
俺はたぶん、少しだけ強くなれる気がする。
「おじゃましまーす~!」
勢いよく玄関の戸が開いた。
続けざまに足音が聞こえ、俺たちが夕飯を食べていた食卓に、
追加の“来訪者”たちが姿を現した。
一ノ瀬 大河――女子制服に身を包んだ後輩男子が、両手に重そうな袋を提げて。
そして、その後ろから静かに現れたのは、銀髪のクールビューティー、アリシア・グレイウッドだった。
「……どういうことだ?」
「俺が聞きたいわ」
箸を止めたクラリスと俺の声が、同時に漏れる。
光はというと、まるで何の疑問も持たないかのように笑顔を向けた。
「アリシアちゃんと大河ちゃん、誘ったら来てくれたんだ~。ね?」
「えへへ、センパイたちだけ楽しそうだったから、混ぜてもらおうと思って!」
大河は袋からタッパーを取り出し、中身を広げ始めた。
手際よく並べられるそれは、どう見ても手作りのおかずだった。
「追加のおかず作ってきたんですよ~! たくさん食べてくださいね!」
「……助かるけど。いや、でも、普通にすげぇな、お前」
「でへへ~、センパイに褒められたっ」
嬉しそうにほっぺを赤らめる大河。
その様子を見ながら、俺は内心で溜息をついた。
そしてアリシアはというと――
座敷に上がったはいいが、どこか微妙な顔をして立ち尽くしている。
「……私はただ、ご相伴に預かりに来ただけだ。
特に、手土産もない。不快なら、遠慮なく追い出してくれ」
「そんなこと言わないよ、アリシアちゃん。
一緒に食べよ? まだいっぱいあるし」
にこやかな光の言葉に、アリシアは微かに肩をすくめ、静かに席に着いた。
その瞬間――
アリシアとクラリスの視線が、交錯した。
一瞬だけ、互いに面食らったような顔をする。
当然だ。互いの素性を知る者同士。
あろうことか、ここで顔を合わせるとは思っていなかったのだろう。
けれど、すぐに――
光の存在を思い出したのか、
どちらも何も言わず、何事もなかったように視線を逸らした。
ただ、互いに送る視線だけは――
複雑だった。
アリシアは、組織の管理の正当性を信じながらも葛藤を抱える存在。
クラリスは、組織の欺瞞に絶望して離反した存在。
交わることのない立場。
だけど、今この場所では、何も語らずにただ――
箸を取り、目の前の食事を静かに口に運んでいる。
「おいしいですね~、光センパイのごはん!」
「えへへ、ありがと~。大河ちゃんのおかずもすっごく美味しいよ。
見た目も可愛いし、こういうのって、女子力高いよね~」
「ふふっ、そんなに褒めないでくださいよ~。ボク、照れちゃいます!」
テーブルの端では、光と大河がキャッキャと女子トークを繰り広げていた。
華やかな笑顔。
可憐な声。
可愛い仕草。
ぱっと見――
それはまさに、男子高校生の夢のような光景だった。
だけど。
だがしかし。
この現実は、そう甘くない。
俺は知っている。
この光景を構成しているメンツを――
白石 光。
幼馴染。
可愛い。優しい。完璧超人。
だが、元・鼻垂れ坊主。
一ノ瀬 大河。
後輩。
制服が似合う天使のような笑顔。
だが、れっきとした男。
クラリーチェ=フォルティア。
今は小動物みたいな少女の姿だが、
中身は元・筋骨隆々の結社幹部だった男。
アリシア・グレイウッド。
完璧無欠のクールビューティー。
だが、その正体は数百年生きた大魔法使いのジジイである。
……この中に、
“普通の女子”は一人もいない。
見た目は華やかだ。
可愛い。
絵面だけ見れば、どこぞの青春ラブコメみたいな場面だ。
だが――
ここにいるのは、
元男、もしくは現男だけである。
……どうしてこうなった。
こんなに美少女たちに囲まれているのに、
なぜ俺は、心の底からときめくことができないのか。
いや、理由は分かっている。
“知ってしまっている”からだ。
その本質を。
その裏側を。
俺だけが、この光景の虚構を知ってしまっている。
そして、ふと脳裏に浮かぶ。
――俺は、こんな感じのハーレムを望んではいなかった。
心の中で、誰にも聞こえない叫びを上げる。
だが、誰も気づかない。
光は大河と女子トークに花を咲かせ、
アリシアは無言で食事を進め、
クラリスは妙に器用な箸さばきで煮物を食べている。
そんな、
“とびきり異常な日常”が、
今日もまた、静かに過ぎていく。
─────────
わたしは――白石 光。
この身体になって、もう五年になる。
時々、自分が男だった頃のことを夢で見ることがある。
あの頃の一人称は「オレ」だった。
汚れた半ズボンにすりむいた膝、鼻水を垂らして駿の後ろをついてまわって、意味もなく張り合って――
それが、わたしの“原点”。
今のわたしは、すっかり女の子らしくなったと思う。
鏡に映る姿も、声も、しぐさも。
もう「オレ」なんて呼び方は似合わないし、口に出せばきっと、誰も信じてくれない。
わたし自身だって、「オレ」と呼ぶと少し恥ずかしい。
……でも、それでも。
その“オレ”だった頃のわたしが、今も変わらず大事にしているものがある。
――駿くん。
駿くんは、わたしのたった一人の“昔”を知ってる人。
わたしが男の子だった頃も、今こうして女の子として過ごしてる今も、ずっと変わらずにいてくれる。
目の前にいるのは、昔と同じ駿くんなのに。
わたしの方が、きっと変わった。
いや、変わらざるを得なかった。
この身体になってから、初めて気づいたこともいっぱいある。
スカートの裾を気にして歩くことや、男子に見られる視線の意味。
洗濯機の中に一緒に入ってる服の区別や、髪の毛の結び方、寝癖の直し方。
初めてメイクをしたとき、駿くんに「変じゃないかな?」って聞いたら、
ちょっとびっくりした顔をして、それからすぐに「似合ってるよ」って言ってくれた。
その言葉が、どれだけ嬉しかったか――
わたしはたぶん、一生忘れない。
駿くんは昔から、困ってる人を放っておけない人だった。
そういうところ、まっすぐすぎて不器用で、
損してるなぁって思うこともあるけど、でも――
そんな駿くんだから、わたしは好きになったんだと思う。
わたしが女の子になっても、
変な目で見たり、距離を置いたりしなかった。
逆に、「気にしてないよ」って態度を自然にとってくれて。
それがどれだけ救いだったか……わたしは言葉にできなかった。
だから、その代わりに“わたし”を選んだんだと思う。
女の子として生きていこうって、ちゃんと向き合おうって、そう思えた。
だけど最近――駿くんのまわりで、何かが変わってきてる気がする。
彼の表情が、ときどき遠くを見ているみたいになる。
教室にいても、誰かの動きを気にしていたり、
携帯を手に、黙ったまま通知を確認していたり。
口では何も言わないけど、
どこか“日常”の外に引っ張られているような、そんな感じがする。
そして、わたしは――気づいてしまっている。
彼が、何か危ない世界に足を踏み入れていることに。
根拠なんてない。ただの直感。
けど、わたしは昔から、駿くんのことなら勘が働く。
そういうときの駿くんって、
いつも誰かを助けようとして、自分が傷つくんだ。
わたしがケガして泣いてた時だって、代わりに怒られたのは駿くんだった。
他の子に意地悪された時だって、駿くんが前に立って庇ってくれた。
……だから、今もきっと、誰かのために動いてる。
それがどれだけ危ないことであっても。
わたしは、それを止められないかもしれない。
だって駿くんは、そういう人だから。
だけど、せめて――
その代わりに、わたしが日常を守る番なんだって思う。
朝ご飯を作ることも、弁当を持たせることも、笑って送り出すことも。
小さなことでも、わたしができることを全部詰め込んで、
駿くんが“帰ってこれる場所”を守っていたい。
危ないことはしてほしくない。
だけど、もしどうしてもやらなきゃいけないなら、せめて――無事でいて。
……無理だって分かってる。
いつか傷つくかもしれないって、不安になることもある。
けど、それでも、わたしは信じたい。
昔から、駿くんはちゃんと帰ってきてくれたから。
そして、もう一つだけ――言わせて。
……駿くん、好きだよ。
“オレ”だった頃より、
“わたし”になった今の方が、ずっとずっと、ずっと……ね。
─────
……神谷 駿。
近頃、儂の思考の中に頻繁に入り込んでくる名だ。
不可解で、厄介で、そして……妙に気になる存在。
最初に会ったのは、偶然ではなく必然だった。
あの夜、結社の尖兵が遺物を狙って動いた。
その場所に、あの少年――いや、あの男がいたのは、たまたまではなかったように思える。
普通であれば、あのまま巻き込まれて終わっていたはずだ。
異能の気配に晒され、恐怖に取り込まれ、存在を潰される。
それが、魔術という力の理不尽さだ。
だが、神谷 駿は違った。
恐怖に怯えながらも、自らの足で前に出た。
「誰かがやらなきゃならないなら、俺がやる」
そう言ったその目に、儂は――いいや、私は、確かに“人としての強さ”を見た。
不思議な男だ。
知識はない。訓練も受けていない。
だが、その場の空気を読む力と、人の心に寄り添う能力に長けている。
戦いにおいては素人だが、判断力だけは侮れない。
だからこそ儂は――く、いや、私は彼を“ただの一般人”として扱うことができなかった。
本来なら、巻き込むべきではなかった。
魔法の世界は、あまりにも危うい。
それを熟知しているからこそ、私は他人を容易に信じない。
協会ですら、信用していないのだから。
理念なき管理と、成果なき規律。その中でどれだけ多くの犠牲が出たか――私は誰よりも知っている。
それでも、神谷 駿だけは、少し違った。
彼の中には、理屈では説明できない“芯”のようなものがある。
打算でも理性でもなく、ただ、そこに“ある”もの。
まっすぐで、折れなくて、厄介で。
正直なところ、初めはそれが鼻についた。
綺麗ごとばかりを並べる、理想主義者だとすら思った。
だが……違った。
彼は、痛みを知っている。
傷を受ける覚悟を持っている。
そして、それでもなお前に進む勇気がある。
私が、かつて持っていて――そして捨てたはずのものだ。
……いや、待て。
これは何だ。
なぜ、儂は――私の思考は、こんなにも神谷のことを考えている?
少しおかしい。
私の年齢は、見た目に反して百を優に超えている。
感情に振り回される年齢でも、経験でもない。
それなのに、彼のことを思い出すたび、胸の奥に妙なざわめきが起きる。
例えば、あの笑顔。
例えば、怒るときの真剣な顔。
例えば、誰かのために傷だらけになりながらも、絶対に弱音を吐かない姿。
――まったく。
どうにも、落ち着かん。
「センパイ、今日も頼りになりますね!」とやたら懐いてくる後輩や、
「駿くん~」と柔らかい笑顔で世話を焼いてくる幼馴染の存在も、彼の周囲にはある。
だが、私は彼にそういう接し方ができない。
ただ、事実を述べ、情報を渡し、必要なら手を貸す。
それだけだ。
……それだけ、のはずなのに。
彼が誰かと笑っていると、視線がそちらに引かれてしまう。
彼が無防備なまま結社の残党に接触しようとすると、無意識に魔力が指先に集まる。
これは――何だ?
いや、わかっている。
儂は昔、“恋”と呼ばれる感情を何度か目にしたことがある。
他人のものとして、観察者として、興味深く眺めていた。
だが、自分がその渦中にあるとは、考えたこともなかった。
百年を生きた者にとって、感情とは“制御すべきもの”であり、
脈動ではなく“論理”で組み立てられるものであるべきだ。
それが、魔術師としての矜持だ。
情に流される魔術師は、魔に取り込まれる。
それが道理であり、戒律であり、戒めだった。
――にもかかわらず。
神谷 駿という存在は、私の中の“魔”を揺らがせる。
それが恋であるかどうかは、まだ分からない。
分かるつもりも、ない。
私はただ、彼を“観察”しているだけ。
協会と結社の狭間で、彼がどう動くのか、見極めるため。
……そう、見極めるためだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
……なのに、なぜ。
彼の声を聞くだけで、私はこんなにも静かに、内側から満たされていくのだろう。
─────
ボクの名前は、一ノ瀬 大河。
生物学的には男、外見的には完全に女子高生、そして中身はれっきとした魔術師――それも、まあまあの才能がある方。
早熟型っていうのかな。訓練を始めてから、魔力の操作にはほとんど苦労しなかったし、術式構築も理論もすぐに理解できた。
だから、自分のことを「ちょっとすごいんじゃない?」って、どこかで思ってた。
……それは、神谷センパイに出会うまでの話。
最初は正直、見下してたんです。
ただの一般人で、魔術の知識も適性もない。
事故みたいな形で事件に巻き込まれて、それで運よく生き延びたってだけ。
魔術の世界において、そういう存在は“観察対象”で終わるのが普通。
危険なら排除、安全なら記録。それが協会のやり方。
でも――センパイは違った。
ただの“巻き込まれた一般人”なんかじゃなかった。
自分より強い相手にも、一歩も引かずに立ち向かう。
誰かが傷つきそうになったとき、誰よりも先に動いて、
誰よりも深く、痛みを抱えて、
それでも「自分がやらなきゃ」って顔で立ち続ける。
初めて見たときは、正直バカかと思った。
どう考えても無謀で、勝てるはずもないのに、前に出る。
それは無謀でしかないって、そう思ってたのに――
いざ自分が追い詰められたとき、
自分の知識も才能も、通じなかったとき、
真っ先にボクをかばったのは――あの人だった。
炎が吹き荒れて、逃げ道もなくて、
ボクは恐怖で動けなくなって、頭の中が真っ白になって――
その時、目の前に立った彼の背中は、何よりも頼もしかった。
術式も結界もなし。
魔法の才能もない、ただの人間なのに。
でも、あの瞬間の神谷センパイは、
ボクにとって“最強の魔法”だった。
そこからボクの中で何かが変わった。
尊敬? 憧れ?
最初はよく分からなかった。
でも、いつの間にか、センパイの背中ばかり見てる自分に気づいてた。
誰かと話していても、センパイの声に耳を傾けてて、
誰かが彼の名前を出すと、無意識にそっちを見ていた。
「なんでだろう」って自分に問いかけたとき、答えはすぐに出た。
――ボク、神谷センパイのことが好きなんだ。
性別?
うん、知ってる。ボクは男だし、センパイも男だ。
でもね、そんなこと、もうどうでもいい。
好きなものは好きなんだから。
それ以上の理屈、いらない。
誰かが変だって言っても、関係ない。
ボクにとって、彼は“男か女か”じゃなくて、
“神谷駿”というたった一人の人間で、それ以上でも以下でもない。
ボクは、何度も彼に救われた。
戦場で、日常で、心が折れそうになった時に。
ボクが無理して笑おうとしたとき、
「無理すんなよ」って、静かに言ってくれたあの言葉。
そのひとことが、どれだけ救いになったか。
だから今度は、ボクの番。
センパイに、恩返しがしたい。
協会の上の連中がどれだけセンパイを道具扱いしても、
結社の奴らがセンパイを狙っても、
ボクは絶対に、あの人の味方でいる。
力じゃ叶わないかもしれない。
でも、それでもいい。
同じ場所にいて、手を取り合って、
「ありがとう」って言ってもらえるだけで、報われるから。
……あの、センパイ?
ボク、きっとこれからも、迷惑いっぱいかけると思うけど――
それでもそばにいさせてください。
ボクが下手を打った時、誰よりも助けてくれたのはセンパイなんだから、
今度はボクが助ける番ですよ。
だから――
好きです。大好きですよ、センパイ。
男とか女とか、そんなの、どうでもいい。
ボクのこの想いが、嘘じゃないってことだけは、知ってほしいな。
──
吾輩があの小僧に――?
まさか。あるわけがなかろう。
考えるだけでも、笑止千万。
助けられた? 感謝している? ああ、それは認めよう。
命を拾ってもらった恩は重い。吾輩はそういう義理だけは欠かさない主義だ。
だが、感謝と……好意とは別だ。
ましてや“異性としての情”など――冗談ではない。
吾輩はかつて、魔術結社の幹部として名を馳せた男だ。
ゲイル・バルトロメウス。力ある者が、弱者を導くべきだと信じ、
その信念のもと、数多の実験と闘争を経て階段を駆け上がった。
快楽も名誉も権力も、望めば手に入った。
愛人だって数えきれぬほどいた。
長い人生、飽きるほどに女を抱き、飽きるほどに口説いた。
それが――今ではどうだ。
この肉体。
クラリーチェ=フォルティア。
若く、華奢で、やけに愛らしい顔をした少女の身体。
元は幹部連中のひとりが実験素材として確保していた“空の器”だ。
吾輩があの馬鹿どもに裏切られ、魂を移された器。
用済みの男にふさわしい、滑稽な末路だと思わんか?
こんな姿にされて、まだ生きている。
恥だ。屈辱だ。
それでも吾輩は生き延びた。
命が尽きるその日まで、己の矜持だけは失わずに。
――そんな吾輩を、助けたのがあの小僧だった。
神谷 駿。
協会でも結社でもない、ただの一般人。
魔術の才もない。剣も、銃も使えない。
ただ、人が倒れていれば迷わず手を差し伸べるような――
正義感と、お人好しの塊のような、馬鹿だ。
馬鹿だが……一度だけ、死ぬかと思ったとき、
吾輩に手を差し伸べたその顔は、なぜか焼きついて離れない。
……まったく。馬鹿らしい。
あの時、吾輩は死んでいればよかったのかもしれない。
この滑稽な身体と共に、誇りもすべて終わらせてしまえばよかった。
だが――生き残ってしまった以上、償うしかない。
吾輩の中に残っていた、わずかな矜持と、妹の記憶と、復讐の名残を抱えたまま。
そして、神谷駿と出会ってしまった。
……繰り返すが、好意など抱いていない。
ない。
あるわけがない。
吾輩は男で、今も中身は男で……それも、何人もの愛人を抱えていた淫蕩な男だ。
こんな小僧に、心を動かされるはずが――ない。
ないったら、ないのだ。
けれど、『私』は……
この肉体が、この器が、ふとした瞬間に揺らぐ。
駿が真剣な顔をするとき、
誰かのために怒るとき、
自分よりも他人を優先して無茶をする姿を見たとき、
なぜか胸の奥が――うるさい。
「吾輩」が否定しても、「私」が揺れてしまう。
この体に宿る少女の感覚が、
吾輩の感情を薄皮一枚で包み込み、歪ませてくる。
あるいは、これは呪いなのか。
弱った魂が、器に感化されているのか。
それとも――いや、考えるな。
これは、ただの感謝だ。
命を助けられた恩に対する、義理堅い反応。
吾輩はその恩に報いるために、あの小僧のそばにいる。
あの子が正義の道を行くというなら、せいぜいその背を守ってやろう。
馬鹿が無茶をするなら、せめてそれを回避させてやろう。
それだけだ。
感情ではない。情ではない。
ただの、償い。義理。
……そう、言い聞かせなければならない。
でなければ、揺らぐ。自分が崩れる。
そのくらい、あの男は……神谷駿は、人を惹きつける“何か”を持っている。
くそっ……。
だが――もし、あの男がいつか本当に死地に立つようなことがあれば、
吾輩は――いや、私でもいい。
必ず、力を貸す。
命を助けられた以上、それに応えるのが筋というものだ。
義理と、誇りと、そして……たった一つだけ、認めたくはない感情を抱えながら、
私は今日も、彼の背を見つめる。