こんなハーレム望んじゃいない   作:しが

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⚠性行為表現アリ⚠ 
※もちろん直接的な描写はないです


ワンナイト☆

御神木の裏手、大社の庭に入り込んだ光は、草履を片方飛ばして走っていた。修行を終えたばかりの白装束は、もうすでに泥と草の匂いでべったりだ。

 

「うおおおっ、今日はこっちが陣地だぞおおっ!!」

 

鳥居に竹の棒を立てて、そこを“砦”に見立てるのが光の今日の遊びだった。相手にされてる駿はというと、やれやれとでも言いたげに神社の階段を降りてくる。

 

「おいヒカル、お前さ、昨日も同じ場所で神主さんにぶん殴られただろ……」

 

「へーきへーき。怒られんの慣れてるし、それより駿、棒持って来た?昨日隠したやつ!」

 

「持ってきたけどさあ……これ本当は結界棒の残材だぞ?」

 

「だからいいんじゃん!霊力ちょっとでも残ってるかもだし!わんぱく強化アイテムってやつ!」

 

「いや強化されたら余計怒られるだろ……」

 

それでも渡す駿に、光はにかっと笑って手を伸ばす。その笑顔は、修行場では決して見せない、駿にだけ許された顔だ。

 

駿は光の隣に並んで腰を落とし、棒を構える。

 

「で、今日はどんな設定なんだよ」

 

「えっとなー……オレが白狐の軍で、駿が黒天狗の族長。神域を賭けた全面戦争ってことで!」

 

「なるほど、オレ負けるやつじゃん。だいたい天狗って大体脇役だし」

 

「うっせーな!駿の天狗は強いんだよ、なあ?やる気出せよ!」

 

そう言って光が飛びかかってくる。棒が空を切って、駿が後ろに飛んで受け流す。土煙が舞い、どちらともなく笑いがこぼれた。

 

その笑い声は、静寂に包まれた大社に無遠慮に響く。境内の奥にいる神職たちが、またあの坊主どもか、と眉をひそめる音すら聞こえそうだった。

 

「ヒカル、ちゃんと修行してんのか?」

 

「してるよー!午前中はずっと九字切ってたし、神楽も舞わされたしさー!」

 

「それってお前、二時間正座させられてたやつだろ」

 

「まーな!でも我慢した!そのご褒美がこれな!」

 

「修行のあとに怒られるのがご褒美なのか……」

 

「違うよ、駿と遊ぶのがご褒美なんだよ」

 

不意に真顔になって、光が棒を地面に突き立てる。

 

「駿と遊んでると、オレ、神の子とかじゃなくて、ただの子供でいられる気がすんの」

 

「……お前さ」

 

駿はちょっとだけ目を伏せて、光の額を指先で弾いた。

 

「鼻垂れてるぞ、将来の御子様」

 

「うわ、マジ!?やっべ、ちょっと神域の泉で洗ってくる!」

 

「いやそこ一番怒られる場所だからやめろ!!」

 

追いかけてきた駿と境内をぐるぐる回っているうちに、光の草履が完全に脱げた。すぐに裸足で走り回るのが癖のようで、芝を踏みしめながら笑って逃げる姿は、神の子の重圧などどこにも感じさせない。

 

「ヒカルー!神様は見てんだぞー!」

 

「だったら今ごろ雷落としてるっつーのー!」

 

それは、修行という言葉とはかけ離れた日々だった。

光が“男”としていた最後の一年間。

 

駿はなんとなく、終わりが来ることを感じていた。

 

神の家系。伝承の巫女。神託の受容者。

 

駿はいつだって、光の生まれた場所と、自分の位置の違いを理解していた。

けれどもこの時間だけは――ただのガキとガキとして並んでいられた。

 

 

---

 

その日の夕方、泥まみれのまま帰ろうとした光が、駿の手を取って言った。

 

「なあ駿、オレ、変わっちゃうかもしれないけど……駿のことだけは忘れないと思う」

 

「……変わるって、何がだよ」

 

「わかんない。なんか、最近さ、家の人らが変なことばっか言っててさ……。

オレが“次の器”になるかもしれない、だとか、なんとか……」

 

駿は一拍置いて、ぽつりと言った。

 

「変わってもいいけど……お前はお前でいてくれよ。ヒカルは、ヒカルだろ」

 

光は黙ってうなずいた。

夕焼けの空が朱に染まり、影だけが地に長く伸びていた。

 

名前も読みも、身体も声も、変わってしまった彼女。

 

けれど駿だけは、彼女の中に“あのわんぱく坊主”を確かに見ていた。

泥だらけで笑っていた、御神木の下の幼馴染の影を。

 

大社の境内。午後の稽古を終えた神谷駿は、袖口をまくりながら井戸の手押しポンプで手を洗っていた。指の節に泥と赤みが残っている。今日は木刀の稽古で、また指をすりむいたらしい。

 

「……また怪我してる」

 

後ろから声をかけたのは、白石ヒカルだった。片足だけ草履を履いたまま、もう片方は素足。白装束の裾は泥跳ねで斑模様になっている。駆け寄ってくる様子は、まるで犬のようだった。

 

「お前こそまた泥んこじゃん。神主に見つかったら立たされんぞ」

 

「いいの。今、逃げてきたし。……でさ、それ」

 

ヒカルは駿の指を掴んで、自分の袖で泥をぬぐう。

 

「また『型崩れ』で打たれた?」

 

「ん。ちょっとね」

 

「駿の型、オレ好きだけどな。ふわってしてて、けど芯があってさ。じいちゃんは型がうるさいだけだよ」

 

「うるさいのはそっちのじいちゃんもだろ?」

 

「そりゃそーだけど!」

 

言って笑ったヒカルは、そのまま駿の横に座り込んだ。井戸の石垣に足をぶらぶらさせて、ちょっとだけ視線をそらす。

 

「なあ駿さ。最近、顔こわばってんぞ」

 

「……そうか?」

 

「うん。修行、つらいんだろ?」

 

駿は手のひらを見つめて、それから空を見上げた。晴れ間に鳥が一羽、飛んでいた。

 

「つらくないわけじゃないけど。まあ、大したことないよ」

 

「またそれだ。駿、いつもそう言う」

 

「ほんとのことだよ」

 

ヒカルは駿の顔をのぞき込むようにして、じっと見つめた。

 

「オレさ。駿がもし修行つらくて、逃げたいって言ったら、ちゃんと手引いて逃げる自信あるんだよな」

 

「はは。じゃあ逆に言えば、ヒカルが逃げるときは俺が背負って逃げるよ」

 

「まーたそうやって軽々しく背負おうとするんだから」

 

「お互い様だろ。俺も、お前も」

 

ヒカルはしばらく黙っていた。風にそよぐ木の葉の音が、空気をさらっていく。

 

「でもさ……駿って昔からそうだよな。ちょっとやそっとじゃ折れない。オレさ、神の子とか言われてるけど、ほんとはけっこうすぐ折れそうなんだ」

 

「お前が折れたら、俺が拾い上げるよ。バラバラになったとしても、全部拾うから」

 

「うわ、なにそれ。なんか今の、カッコいいっぽく聞こえるけど、泥くさ!」

 

「泥はお前の得意分野だろ」

 

「ちがいねぇ!」

 

ヒカルはまた笑って、駿の肩に頭を預けてきた。汗の匂いと土の匂いと、少しだけ残った線香の香りが混ざって、彼らがどこにいるのかを教えていた。

 

「なあ駿」

 

「ん?」

 

「今日も、ちょっとだけこのまま休も」

 

「いいよ。怒られるのは俺が引き受けるから」

 

「そっか。じゃあ、しばらくこうしてる」

 

ヒカルの声は、いつもの元気な声より少しだけ小さかった。駿は何も言わず、肩にかかる重みをそのまま受け入れた。

 

誰もいない庭の一角。修行場でも神域でもない、その隙間のような場所で、彼らはほんの一瞬だけ、自分たちの年齢に戻ることを許されていた。

 

この時間が、あとどれだけ続くのかも知らずに。

 

けれども、ヒカルはまだ笑っていた。駿もそれを見て、目を細めた。

 

日が傾く頃、遠くから鐘の音が聞こえた。

 

「そろそろ戻んなきゃ、怒られるぞ」

 

「オレは怒られ慣れてるしー」

 

「俺もまあまあだな」

 

「よし、じゃあ今日は負けたほうが木に登ってカラスの鳴きまね三回な!」

 

「お前また神木登る気か!?」

 

「オレが登るのは神じゃなくて、遊びのため!ってことで逃げたー!」

 

「おいヒカル!待てこら!」

 

駿が追いかけると、ヒカルは裸足で石段をかけ上がっていった。笑い声だけが先に境内に跳ねて、声を立てる風鈴のように高く、軽やかだった。

 

その姿はまるで、何にも縛られない、ひとりの男の子そのものだった。修行も、宿命も、神の声も――その時だけは、背負っていなかった。

 

夢を見ていた。

 

あの頃のままの白石ヒカルが、裸足で庭を走り回り、俺に向かって大声をあげて笑っていた。

御神木に登っては怒鳴られ、泥だらけで井戸に手を突っ込んで――それでも笑顔だけは、変わらずにそこにあった。

 

「駿、今日は逃げるぞー!」

「こらヒカル、そっちは神域の……!」

 

追いかけて、笑って、息を切らして、振り返って――

 

「お前といるとさ、駿、なんでも大丈夫な気がするんだ」

 

その言葉のあと、ふっと光が遠ざかる。夢の中でも直感する。

ああ、これは思い出だ。俺の記憶の中にしか存在しない光景だ。

 

もう、戻らない。

もう、あいつは――

 

「……駿くん」

 

耳元で聞こえた声に、俺は目を覚ました。

 

――白い天井。

ゆるやかな朝の光。

掛け布団の重さ。

そして、なによりも異常な“体温”の存在感。

 

俺の腕の中には、女の子がいた。

しかも、全裸で。

 

……いや、ちょっと待て。

 

白い肩が見える。柔らかな髪が俺の首筋にかかってる。

肌が、近い。ぬくもりが、すぐそこに。

 

呼吸が、お互いの肌に当たってる。

 

「…………」

 

冷や汗が背中を伝う。視線をそらすのが怖い。

でも見なければならない。これが夢の続きじゃないのだと、認めなければ。

 

そっと視線を落とす。

 

――白石光。

 

俺の幼馴染。五年前に突然女の子になった、あの“光(ヒカリ)”が。

今、俺に抱きついたまま、すぅすぅと寝息を立てている。

胸元が、見えてしまっている。肩から掛け布団が滑り落ちかけていて、まるでこの世の理不尽を具現化したような光景。

 

産まれたままの姿、ってこういう意味だったのか。いや、言葉通り過ぎるだろ。

 

いやいやいや待て。

 

……なにこれ?

 

なにこれ!?

 

俺、なにやった!?!?

 

いや待て、本当に!?

昨夜の記憶、昨夜の……ええと、ええと、たしか――

 

・一緒に晩飯食った

・テレビでバラエティ見た

・光が眠そうにしてたから、俺が毛布を持ってきて

・で、俺もそのままうたた寝して

・…………

・………………

・…………………………記憶、ねぇ。

 

いやいやいやいや! おかしいだろ俺!? なんで途中でカットイン入ってんの!?

お前いつから自動録画オフになった脳みそだよ!?

バグってんのか!? 記憶のファームウェアアップデートしろや!!

 

……落ち着け、俺。

落ち着け、神谷駿。

 

とにかく冷静に状況を確認しろ。今大切なのは記憶じゃなくて、現状だ。

目の前には光。抱きつかれてる。服は着てない。俺の手、ちょっと変なところにある。

 

おおおおおおい!!

 

なんで!?

なんでこんなことになってるの!?

なに、俺、そういうこと、した!?

したの!? 本当にしたの!?

 

光はぐっすり寝てる。というか、俺の胸に顔を埋めて、子供みたいな寝顔してる。

……可愛いとか思うな! そういう問題じゃない!

 

くそ、思い出せ! 頼むから思い出せ!

キスしたか!? 抱きしめたか!? 抱き上げたか!? 抱いたのか!? 抱いたのかああああああ俺ええええ!?

 

いやでも待て、冷静に考えろ。光は酔ってたわけでも、薬盛られたわけでもない。

ってことは……

もしも、もしもそういうことがあったとしたら――

 

俺が、手を出したってことだよな!?

 

うわああああああああ!!

いや無理無理無理無理無理無理!!

俺、そういうつもりじゃなかった! 昨夜まではただの幼馴染だったじゃん!

いや、ちょっと可愛いとは思ってたよ!?

でもさあ!? この5年間、何もなかったじゃん!?

平穏だったじゃん!?

 

それがなんでいきなりベッドの中で“パーフェクトヒカリ”になって俺に抱きついて寝てるんだよ!!!

 

なにがあった俺!?!?

 

いやでも落ち着け、落ち着け……

可能性はゼロじゃない、ゼロじゃないんだ……

何もなかった、ってこともある。服が脱げただけ、って可能性もある……あるよな?

なんかの拍子で脱いだだけとか……寝相で……えっと……引っ張られて……?

 

無理ある。すごい無理ある。

 

でもでも、光は寝てるんだ。起きて、何も言われなかったら、何もなかったことに――

いや、それもクズ過ぎるだろ俺!?

 

……どうすればいいんだよ、俺。

誰か助けてくれよ。いや、誰にも見られたくない。通報されたくない。俺、悪くない……はず……きっと……多分……。

 

「……んぅ……駿くん……」

 

やめて、名前呼ばないで。

寝言で呼ばないで。

それだけで心臓爆発するから。

 

俺は今、全身全霊で後悔と混乱と羞恥を引きずって、脳内大炎上中です。

 

神様、御社の庭で泥だらけになってた頃の俺に戻してくれませんか……!

切実にお願いします――!

 

「ふぁ……おはよう、駿くん……」

 

隣から聞こえたその声は、夢じゃなかった。

ついに――目を覚ましやがった。

 

白石ヒカリ、起床ッ!!!

 

反射的に背筋が伸びる。瞬間、俺の腕に柔らかい感触があって、ああ……まだ抱きつかれてるという事実を全身で再確認させられた。

 

「……うん。やっぱり、駿くんの匂い……好き」

 

やめて。頼むから、その甘い声で耳元に吹き込むのやめて。俺の心臓、限界突破してるから。

 

「……それにしても、昨晩は……その、うん、激しかったね……」

 

え?

 

「……え、いや、え?」

 

俺の思考が一瞬で停止する。

 

「ありがとう、駿くん。……情熱的で、すごく、よかったよ」

 

おおおおおおおおおおおおい!!!!

ちょっと待て待て待て待て待て!!!

今、なんて言った!?

情熱的!? 激しかった!?

ありがとう!? なんのありがとうだおい!!

 

確定ッ……!! 確定演出ッッ!!!!

 

やっちまった――やっちまってたぁぁぁああああ!!!!

 

俺、手ぇ出してたんだ!?!?

え!? 本当に!?

うそだろおおお!? だって記憶が、記憶がッ!!!

ないんだよ!?

俺の中の映像データが真っ白なんだよ!!?!

 

なのに!!!

ヒカリ本人が、公式に、“やった”って言ったああああああ!!!

 

よりにもよって、俺の幼馴染で、元男で、今女で、ずっと一緒にいた奴に!!!

俺がッ!!!

手を出したァァァァ!!!!!!

 

「ほんと……ずっと好きだったから、夢みたい……。

でも夢じゃないんだよね……? これ、ちゃんと、現実だよね……?」

 

ぅああああああああああああ!!!

お願いだから、そのキラキラした目で見ないでくれえええええ!!!

お前のその清らかで幸せそうな表情が!!!

俺の罪悪感を特大の刃でえぐってくるんだよおおおおおお!!!

 

どこまでやった!? 何がどうなった!?

記憶! 記憶カムバック!!!

頼むからワンシーンでもいいから帰ってこい!!!

心当たりがないのに、既成事実が確定したこの状況ッ!!!

これはもう!!!!

 

完全にヤッちまったなぁぁぁあああああ俺ェェェェ!!!!!!

 

――神谷駿、絶望の朝を迎える。

記憶のない初夜を終え、隣にいるのは幼馴染、いや“恋人”になってしまったヒカリ。

愛されてる? そうかもしれない。

愛してた? そうだったかもしれない。

でも――心の準備、してなかったあああああああああああ!!!!!!

 

……これから、どうすんだよ、俺。

なあ、誰か。マジで誰か、朝の神様、やり直しの鐘を鳴らしてくれよ……!

 

──────

「おい、あんまり大声で言うなよ……ほら、また出入りの見習いに聞かれるぞ」

「いいだろ、たまには話したくなるんだよ。だって“灰の賢者”だぜ? あのアリオス・グレイウッド。今じゃもう伝説扱いだろ」

 

魔術師たちが集まる、秘蹟協会第七観測棟の休憩スペース。

白衣を羽織った数名の魔術師たちが、コーヒーの紙カップ片手に談笑していた。話題は、ここ最近協会内でまた再燃している“古き時代の賢者”について。

 

「灰の賢者アリオス……彼が協会にいたのはもう何十年も前の話だ。まだ“純魔導律”すら確立されてなかった時代に、術式階層を数学的に解析し、それを他者に指導できた最初の人間だぞ」

「実際、術式構文理論の半分はアリオスの発明だって言っても過言じゃない。今でもあの人の著作を引用しない論文なんてほとんど存在しないしな」

「それだけじゃない。彼は戦場でも化け物だった」

 

一人の魔術師が、机の上に古びた報告書の写しを広げる。黄ばんだ紙には、赤く染みたような汚れと共に、“魔術災害・ネヴァリオンの制圧”という文字が刻まれていた。

 

「これ、見たことあるか? ネヴァリオンの“精神群体災害”。あれを、たった一人で制圧したときの報告書の写しだ。正確には三日間、眠らずに“思考拡張式”を展開し続け、最終的に群体意識を“理論的に解体”したんだとよ」

「まるで神話だな……魔力を撃ち合ったわけじゃないんだ。理屈で相手の存在そのものを壊したってことか」

 

言葉に、ひとり息をのむ。

 

「しかもそのあと、協会の上層部に“思考統合術”の危険性を直訴して、自ら研究禁止を提言した。自分で使っておいて、だ。まったく、あの人の考えてることは……」

 

「だからこそ怖いんだよ。あの人、“倫理”とか“感情”の上で動いてるわけじゃない。全部、理論と、確率と、結果だけで判断してる。

……たとえ、味方が巻き込まれようとも、最終結果として“正しければ”実行してしまう、そういう人だったって聞いてる」

 

「俺も聞いた。戦術判断で三十名を見捨てて、五百名を救ったって話。……誰も責められなかった。誰もが納得する選択だった。だが、誰もが震えた。“この人がもし敵だったら”ってな」

 

「そう……“あれが人間だったから良かった”ってな……」

 

少しだけ、空気が静まった。誰もが、口にするのもはばかられるような畏怖を感じていた。

称賛と、敬意と、同時に感じずにはいられない人間離れした“怖さ”。それが――灰の賢者アリオス・グレイウッドだった。

 

「でもさ、最近になって、アリオスの“孫娘”が協会に入ったんだってな」

「ああ、灰色の髪と瞳をした少女だろ?若くて、見た目はちょっと無愛想な感じ」

「才能は本物らしいけど、やっぱり血かねぇ。名前が“アリシア・グレイウッド”……ちょっと皮肉だよな。まるで本人が若返って戻ってきたみたいだってさ」

「……まさかな。本人だったら、今ごろこの建物ごと読心されてるって」

 

笑いが起こる。その笑いには、ほんの少しだけ、震えが混じっていた。

 

だが彼らは知らなかった。

その“孫娘”が、ほんの五メートル先の廊下に立ち、彼らの会話を聞いていたことを。

 

背を壁に預けたまま、アリシア・グレイウッドは目を閉じた。

白衣の下に制服を着た少女の姿。灰色の髪、灰色の瞳。声は出さず、ただ静かに呼吸だけを整えていた。

 

(……過去の“自分”が、まるで他人みたいに語られるのは……もう慣れた)

 

賞賛と恐怖。伝説と畏怖。

どれも、かつての自分――アリオスとしての行いによるものだ。

 

だが、彼らの中に、“今の私”を語る声はなかった。

彼らは私を知らない。アリオス・グレイウッド本人であることも、かつての“戦術神”がこの細い体に宿っていることも。

 

それでいい。

それで、いいのだ。

 

「……どう思われようと、私はもう“あの人”じゃない」

 

アリシアはぽつりとつぶやいた。誰にも聞こえないように。

それは言い訳でも、否定でもなく、ただの決意だった。

 

彼らのように語る者がいる限り、アリオスは“伝説”として生き続ける。

だが今の自分は、ただの一人の少女。失敗し、迷い、傷つきながら、それでも歩く“今”を選んだ存在。

 

その足で、彼女は静かに廊下を歩き去っていった。

影を踏まず、記憶を振り返らず、灰色の瞳は真っすぐ前だけを見据えていた。

 

 

灰の賢者――アリオス・グレイウッドは、すでに人の身を離れていた。

不老。老いず、肉体の細胞は常に最適化され、精神は疲弊の閾値を超えてなお鋭利だった。

 

しかし、それでも不死ではなかった。

 

「魂は、摩耗する」

 

誰よりも知識を求め、誰よりも術式を練り、誰よりも“理”を信じた男が、唯一恐れていたのは“理に反しない崩壊”だった。

体は生きていても、心が朽ちる。記憶が薄れ、意志が削れ、最後には“何者でもなくなる”未来が、彼の背中に影を落とし始めていた。

 

それは静かなる終末だった。

痛みはない。衰えもない。

ただ、ある朝、目覚めるたびに、「昨日の自分」が、ほんの少し遠くに感じる。

想いが、薄れる。怒りも、喜びも、過去の激情も――感情そのものが、空洞の奥に落ちていく。

 

「魂の密度が、崩れていく……まるで……自我が液状化していくようだ……」

 

アリオスは、冷静だった。

狂気すらも定義し、摩耗を“現象”として観察する立場を崩さなかった。

 

そして、彼は決断した。

 

――肉体を変える。

しかし、ただの肉体では不十分だった。

魂が宿り、かつ記憶と意志を損なわず継承できる、「器」――それが必要だった。

 

術式的自己転写。

魂の転移と、記憶の構造的圧縮、および定着用の魔導核の整備。

膨大な理論と失敗を経て、ついに彼は自らの“新たな身体”を作り上げる。

 

それは少女の姿だった。

 

華奢な体。若々しい容貌。

魔力効率を極限まで高めた結果、最適な形状が“未成熟な人間の姿”であった、というただの演算結果に過ぎなかった。

情緒も、羞恥も、感覚の継承も、アリオスにとっては計算式の中の項目にすぎなかった。

 

「これで……儂は、自分を保てる。もう失われることはない……」

 

準備は整った。

あとは転移するだけ――だった。

 

だが、魂の摩耗は想像よりも早かった。

 

ある夜、思考が一瞬、途切れた。

ふと、己が“何者”であるかが曖昧になり、術式が歪み始めた。

 

狂気の淵が、目の前に迫っていた。

 

「……駄目だ……まだ未調整だが……このままでは……!」

 

咄嗟に、彼は転移を決行した。

本来は一週間の調整期間を経て、精神の定着率を安定させるはずだった。だが――

 

その術式は、未完成だった。

 

 

---

 

目覚めた時、世界はまるで違っていた。

 

細い指先。高い声。肌に当たる空気の違和感。

まず最初にアリオスを襲ったのは、“この身体が自分ではない”という感覚だった。

 

だが、それ以上に深刻だったのは――

 

“アリオス・グレイウッドは、あくまで過去の存在”として、脳が整理を始めていたこと。

 

自分の記憶は確かにある。

ネヴァリオンの惨禍。式術階層理論。思考拡張式。

すべてがそこにある。自分が見た光景だ。

だが、その記憶を思い出すとき、自分は“彼”を外側から見ているような奇妙な距離感を覚えた。

 

“彼”が、アリオスが、そうした。

“私は”……ただそれを知っているだけだ、と。

 

「これが、魂の未定着か……?」

 

少女の体は、実に優秀だった。

魔力の流動性も、精神構造の安定性も、アリオスが設計した通り。

ただ一つだけ、誤算があった。

 

人格は、引き写されなかった。

 

アリオスとしての思想、価値観、感情の根源は、脳でも肉体でもなく、魂に染みついた“重さ”の中にあった。

だが、摩耗した魂には、その“重さ”すら抱えていられなかった。

 

そして今、アリシア・グレイウッドは“彼”の記憶を持ちながら、“彼”ではなくなった。

そのことを、誰よりも本人が理解していた。

 

だから、アリシアはアリシアとして生きている。

灰の賢者アリオス・グレイウッド――その名は、今や“他人の過去”でしかない。

 

だがその記憶は、夢のように浮かぶ。

例えば戦場での決断。論文に署名した瞬間。師を超えた確信の感触。

 

どれも、まるで他人の人生だ。

だが、確かに自分の中にある。

 

“私”は誰なのか。

“私はアリオス”なのか、“アリシア”なのか。

 

その答えを、彼女はまだ――探し続けている。

 

 

静かな夜だった。

風もなく、星明かりだけが窓から差し込んでいる。

 

書庫の奥、誰も来ない深夜の記録室で、神谷駿はアリシア・グレイウッドの隣に腰を下ろしていた。

彼女は開いたままの書類に目を落としつつも、そこに意識はなかった。

灰色の瞳はどこか遠く、遥か昔の幻を見ているようだった。

 

「……私は、かつてアリオス・グレイウッドだった」

 

ぽつりと落とされたその言葉に、駿――シュンは息をひそめて耳を傾ける。

 

「魂の摩耗が始まっていた。自我が崩れるのを、日々感じていた。

私の精神は、まるで風化する岩のように、静かに削れていたんだ。

だから、新たな器を求めた。記憶も、思考も、すべてを転写できる“完全な少女の肉体”を」

 

淡々と語られるその声には、どこか諦めに似た静けさがあった。

 

「だが……不完全だった。転写は成功した。記憶もある。論理も、術式も、あの日の戦いの記憶も……全部、この身にある。

けれど、感情の輪郭が違うんだ。かつて私が下した数々の決断、それを思い出すたび、まるで他人の記録を読んでいるような気がする」

 

アリシアは指先を組み、ゆっくりと息を吐く。

 

「ときおり漏れる“儂”という古臭い言葉が、まるで仮面のように感じることがある。

シュン。私は、自分が“アリオス・グレイウッド”であることに、確信を持てないんだ」

 

重く、深い告白だった。

知を極めた者だからこそ、自らのアイデンティティの揺らぎを見逃さなかった。

その不安が、静かに滲み出る。

 

「私はいったい誰なのか。アリオスなのか。それとも、別の誰かなのか。

“孫娘”という肩書きが作り物だと知っていても、それを演じているうちに、“それでいい”と感じてしまう自分がいる。

……それが、時折、怖いんだ」

 

アリシアの声が細く震えた。

シュンは、ゆっくりと顔を上げた。

そして、まっすぐに彼女を見据えたまま、はっきりと口を開いた。

 

「それでも、今俺の目の前にいるのは――

俺を助けてくれた命の恩人だ。

この世で一番、かっこいい魔術師だ。アリシア・グレイウッド」

 

アリシアの目が、大きく見開かれる。

 

「お前がアリオスだろうが、そうじゃなかろうが、関係ないよ。

お前は俺を守ってくれた。それだけで十分すぎる。

誰の記憶を持っていようが、今ここにいるのは、“アリシア”ってやつだろ?」

 

数秒の沈黙。

灰の瞳が、何かを映し出そうとするように細く揺れる。

 

そして――

 

「……なんだそれは」

 

アリシアはふっと破顔し、笑った。

小さく、けれど確かに、少女のような笑みだった。

 

「理屈もなく、根拠もなく、そんなふうに私を肯定するなんて……シュン、お前は昔の私が最も軽視していたタイプだな」

 

「だったら、今のアリシアは?」

 

「……笑って済ます。それも、悪くないと思える程度には、私は変わったらしい」

 

笑った彼女の瞳には、もう“アリオス”の影はなかった。

あるのは、確かにここに生きるひとりの少女――アリシア・グレイウッドだけだった。

 

星明かりの中で、彼女は静かに言った。

 

「私は……“私”を見つけたいと思う。誰かを守って、誰かを救って、シュンのように、理屈もなく、誰かに手を伸ばせる“私”を」

 

「それなら、俺が横にいてやる。今のアリシアをちゃんと見てるって、何度でも言ってやるよ」

 

それを聞いたアリシアは、また笑った。

その笑顔は、知の象徴でも、賢者の仮面でもない。

たったひとりの少女が見せた、素直な、ありがとうのかたちだった。

 

――そんな夜もあったなぁ。

 

誰もいない記録室で、アリシアと肩を並べて過ごしたあの静かな夜。

灰の賢者としての彼女の過去と、今の彼女の現在が、静かに重なっていた。

あれは本当に、心に残るひとときだった。

 

理性と狂気の狭間を歩いた少女が、ひとりの人間として、自分という存在を問い直す姿。

俺は確かに、あのとき、彼女の瞳の奥に「生」を見たんだ。

 

――あのアリシアが、そんな軽率なこと、するわけないよな。

 

知的で、冷静で、論理的で、誰よりも落ち着いていて……。

たとえどこか迷っていたとしても、あんなに自分を見つめ直せる奴が、

そんな――

 

そんな、

 

そんな訳あるか。

 

横目で、何気なくベッドの隣を見る。

そして――

 

見るんじゃなかった。

 

産まれたままの姿で、俺の腕を枕に眠るアリシア・グレイウッド。

 

「………………………………………え?」

 

静止。

時間が止まった感覚。

鼓動が、文字通り爆発音のように耳に響く。

 

いやいやいやいやいやいや。

 

お前、アリシアだよな!?!?

 

灰の賢者、アリオス・グレイウッド。

かつて群体災害を制した天才。術式解析理論の祖。戦略的冷徹判断の化身。

その知識と威光をもって協会内でも未だ語り継がれる、あのアリオスの記憶を持つ少女――が。

 

なぜ今、裸で俺の腕に顔を埋めてるんだああああああ!!!!

 

「ちょっ……まっ……てぇ……また……?」

 

俺の理性が今、死んだ。

完全に、何かが崩れた音がした。

いや、崩れたのは昨夜の記憶だ。もしくは俺の尊厳。

 

昨夜の記憶……えーと、えーと……。

 

・夜更かしして、アリシアと紅茶飲んだ

・珍しく彼女が感情的になって、昔の話をしてくれた

・静かで、穏やかな時間だった。

・一緒に座って、本の話をして、あれこれ語って……

 

――そして、そこから記憶がない。

 

また、だ。

 

またッ!!! やったのか俺はあああああああ!?!??

 

いや待て、まだ確定じゃない。

寝間着が脱げただけかもしれない。

彼女は寝相が悪いのかもしれない。

もしかしてこれは魔術的な事故かもしれない。

精神と時の部屋の入り口が開いてたのかもしれない(そんなもんはねえ)。

 

でも――!

 

“また”ってなんだ俺!!!!!

 

お前、何度同じ状況を繰り返せば気が済むんだよ!?

なぜ毎度毎度、記憶が曖昧で、隣に美女(しかも元男)が裸で寝てるんだ!?

そしてなぜ全員、寝顔だけは天使のようなんだ!?!?

 

……落ち着け。まずは起こそう。いや、待て。起こすのは怖い。

もしかしたら起きた瞬間、「昨晩はありがとう、シュン」なんて言われるかもしれない。

その笑顔に殺される。確実に。精神的に。

 

「俺……やったのか……?また……?」

 

呆然と呟く自分の声が、部屋の静寂に吸い込まれていく。

いや違う。まだ分からない。決まったわけじゃない。これは誤解かもしれない。

 

可能性の話だ。あくまで、これは状況証拠だ。現行犯じゃない。

証拠不十分。疑わしきは罰せず。無罪推定。俺は何もしてない、何も覚えてない、だから俺は――

 

「……んぅ……シュン……」

 

やめろその声で俺の名前を呼ぶな!!!

寝言で甘えんなアリシアああああああ!!!

たったそれだけの一言で、俺の決壊寸前のメンタルがオーバーフローするんだよ!!!

 

くそ、ダメだ。もうダメだ。

 

またヤッちまったなぁぁぁぁあああ俺ええええええええええ!!!!

 

なんでだよ、なんでなんだよ。

光のときもそうだった。

目が覚めたら裸でくっつかれてて、「昨晩はありがとう」案件だった。

 

今度はアリシア!?

おい、マジでなんでこうなるんだよ!?

俺の“童貞的価値観”どこ行ったんだよ!!!

しかもこのパターン、共通点あるだろ!?

 

全員、元男じゃねえかあああああ!!!!

 

俺の人生どうなってんだよ。どんなバグだよ。

神様、お願いです。巻き戻し機能をください。

いや、せめて“記録再生”機能を……!

 

こんな形で“もう一人の灰の賢者”になりたくなかった……!!!

 

 

目が合った。

 

それはもう、逃れようのない、現実の直視だった。

ぐっすりと眠っていたはずのアリシアが、ふと瞼を開き――

その灰色の瞳が、俺の黒目を真っすぐに捉えてきた。

 

「……おはよう、シュン」

 

小さく、けれどはっきりと囁かれたその声は、昨夜と同じく、柔らかで――

どこか、艶やかだった。

 

やばい。

 

俺は察した。

何もかもが――アウトだ。

 

起きたアリシアは、ほんのりと頬を赤く染めていた。

目元には寝起きの緩さがあるというのに、どこか含みのある微笑みを浮かべている。

 

その仕草はまさしく、“やってしまった翌朝”に相応しい“雰囲気”に満ちていた。

 

「……昨晩は、その……すごかったね。私、こういうの……初めてだったから……」

 

おいおいおいおいおいおい!?!?

 

待て、待ってくれアリシア!!!

そのセリフ、まずい!!それはもう完全にアウトなやつだから!!

 

アリシアはシーツを肩まで引き寄せ、顔を少し伏せながら続ける。

 

「……ふふ。実はね、シュン。

――アリオスは童貞だったのよ」

 

ギャアアアアアアアアアアア!!!!!!

 

まさかの歴史的暴露、降臨。

この世界に君臨した灰の賢者、幾千の戦場を駆け、数百年に渡って知を積み重ねた伝説の存在――

 

童貞でしたァァァァァ!!!!!!

 

俺の脳内がスパークする。

何!? 何を聞かされてるの俺!?!?

え!? 童貞!? 灰の賢者、童貞だったの!?

いやそれ以前に、お前、今なんて口調!?!?

 

「数百年も、“理屈”と“知識”の中でだけ生きてきて……そういう“経験”は、ずっと避けてきたのよ。

感情が乱れると、演算が狂うからって。……でも、もういいかなって。

昨晩、シュンに……その、優しくされて……」

 

もうやめてくれええええええええ!!!!

 

その柔らかい声、上気した頬、そしてなにより恥じらいを含んだ“乙女の視線”。

おい。お前、本当にアリオスだったよな!?

なんかすっかり“アリシア”として覚醒してないか!?

女の子すぎないか!?!? めちゃくちゃ可愛いんだけど!?!?

 

アリシアは指先で自分の唇をそっと押さえるようにして、微笑む。

 

「……数百年、守ってきた男としての意地も、昨日……とうとう消えちゃったわね」

 

ふわりとしたその言い方は、まるで夜が明けたことに安堵するかのような、穏やかな幸福の表情だった。

 

はい、ヤりました確定でーす。

 

俺は天井を仰ぐ。

この状況、もうどう言い訳しても無理だ。

だって、本人が全部語ってる。

俺に優しくされた?

初めてだった?

童貞卒業?

男としての意地が消えた??

 

おい、それ全部重たいわ!!!

 

つーか、アリオス、マジか……?

人類最高峰の知能を持ってて、あんなに冷徹だったくせに、実は童貞だったって……

そんな人が、今、俺の腕枕で微笑んで、「すごくよかった」とか言ってるって……

 

どうしてこうなった。

誰だ、こんなルート用意したの。

この選択肢、間違ってるだろ!?

俺、どのルートに進んだんだよ!?!?

 

なんかもう、昨夜の記憶がないことが余計に怖い。

どんな会話があって、どうしてそうなって、なにをして、どこで、どうやって。

なぜ!!!記憶がないのだ俺ッ!!!

 

「ねえ、シュン……また今夜も、そばにいてくれる……?」

 

その破壊力抜群のセリフに、心臓が飛び跳ねる。

こ、こんなの聞いてない……。

俺の精神、防御力ゼロなんですけど!?!?

もう完全に、完全に、落ちてるやつじゃん俺ェ……!!

 

そして俺は――

 

完全敗北。

 

アリオスの知性に、アリシアの乙女心に、すべてにしてやられた。

俺は今確かに思う。

 

アリシア・グレイウッド、最強の魔術師にして最強のヒロインだった。

 

 

───

崩雷のゲイル――ゲイル・バルトロメウス。

その名前は、秘蹟協会においても、そして魔術結社の内部においても、一目置かれる存在であった。

 

協会の者たちは彼を「脅威」と呼び、結社の者たちは彼を「守護」と讃えた。

だがその実、彼はどちらの枠にも収まらない、まさに“異端”の魔術師だった。

 

ゲイル・バルトロメウスがその名を世に轟かせたのは、魔術戦争第二期――

結社が地下都市ヴェリダを制圧した一件に端を発する。

あの時、彼はただ一人、五つの防衛結界を瞬時に破壊し、たった一晩で都市機能を掌握。

敵味方を問わず“無血”で制圧を成し遂げたことで、魔術師たちの間で「雷の嵐」と恐れられた。

 

彼の主戦術は“雷系統”に属する超高出力魔術。

しかしそれだけにとどまらず、地・風・水の複合魔術を精緻に制御し、

それらを「束ねて統合する」異常な構成能力を持っていた。

 

それゆえに“崩雷”と呼ばれるに至った。

単一属性を超え、構造すら崩して“再構築”する雷――その象徴が彼だった。

 

その才能は、ただ破壊することだけに用いられたわけではない。

彼は魔術結社における防衛網の再編や、魔導炉の安定化にも深く関わっていた。

実際、結社が拠点としていた旧都市アグリアの魔力循環系は、ゲイルの設計によるものであり、今なお改修なしに機能し続けている。

 

知略と力、そして実行力。

それらすべてを兼ね備えた魔術師など、そうそう存在しない。

だがゲイル・バルトロメウスは、その全てを当たり前のように使いこなし、なおかつ“傲らない”男だった。

 

それもまた、彼が“異質”である理由のひとつだった。

 

魔術結社という組織は、力を得た者ほど歪む。

より大きな権限を求め、蹴落とし合い、権力を奪い合う――それが日常である組織において、

ゲイルは決して出しゃばらず、階級を欲することもなく、ただ自分のやるべきことを見据え続けていた。

 

「守るべきものがあるなら、余計な欲は不要だ」

 

それが彼の口癖だった。

 

不干渉を貫きながらも、最前線では誰よりも速く、誰よりも激しく戦った。

敵が現れれば、真っ先に飛び込む。

味方が劣勢なら、躊躇なく自らを犠牲にしてでも突破口を開いた。

 

その戦い方は、まさに“雷”そのものだった。

計算され尽くした式構成と、荒ぶるままの魔力出力。

一瞬にして炸裂し、周囲を圧倒的な速度と威力で巻き込む“その破壊”に、誰もが畏怖を抱いた。

 

結社内では、時に「次期幹部候補」とも囁かれていたが、本人は興味を示すことはなかった。

そしてある時期を境に、ゲイルは現場から突然姿を消す。

 

その理由は、公式には語られていない。

が、彼の近くにいた者は知っていた。

あの男には、“守ろうとした者”がいたのだ。

 

かつて、己が信じた理想と現実の齟齬の中で、

ゲイルは選んだ。力によってではなく、守るために“姿を消す”という選択を。

 

その後、ゲイル・バルトロメウスの名は、結社の記録から徐々に薄れていく。

彼が手掛けた術式や防衛構築案は匿名扱いとなり、

その存在すら一部では「伝説」として語られるようになった。

 

だが、記録の残らぬ者ほど、記憶の中では色濃く残るものだ。

 

今もなお、秘蹟協会の中堅魔術師たちは、資料室の片隅でその名を囁く。

そして結社の若き構成員たちは、かつて語られた“崩雷”の神速を畏れながらも憧れる。

 

それが――ゲイル・バルトロメウス。

伝説にして、生きた異端。

結社の一部にとっては希望であり、協会にとっては脅威であり、

そして何より、魔術という力を“正しく振るおうとした”男の記憶。

 

彼は確かに、生きていた。

そして、その轟きは、いまだに幾人もの心に“稲妻”として焼き付いている。

 

ゲイル・バルトロメウス――

結社において“崩雷”の異名を持ち、幾度もの戦術転回においてその力を示した男。

破壊の権化としての圧倒的な出力、並外れた術式構成能力、そしてなによりも、その正しさ。

 

魔術結社という組織において、“正しさ”というものは、常に異物だった。

 

力こそが正義とされるその世界で、ゲイルは異質だった。

ただ強いだけではない。ただ器用なだけでもない。

己の能力を、「正しくあろうとする意志」によって行使する男だった。

 

誰かを救うために戦う。

守るべきもののために力を振るう。

その信条は、しばしば結社の理念と衝突した。

 

彼の行動には、常に筋が通っていた。

誰の命令であろうと、理に反する指示には従わず、時には幹部の意向すら突っぱねた。

だがそれでも、誰も彼を処罰することはできなかった。

――なぜなら、彼は“強すぎた”のだ。

 

だが、同時に“目障りすぎた”のでもあった。

 

ゲイルの正しさは、結社に巣食う腐敗の鏡となった。

弱者を踏みつける者たちにとって、彼の存在は自らの醜さを暴かれるようなものだった。

「正義」を貫くその背中が、誰よりも強く、誰よりも潔く、だからこそ――憎まれた。

 

一方で、ゲイルの肉体と魔術適性は、異常なまでの「研究価値」を持っていた。

彼の魔力の流れは、常人とは違った。

魔力回路の密度と可変性は、既存の理論を大きく逸脱しており、

彼の術式構築は、常に独自の「雷の中枢構文」を軸としていた。

 

その才を、ただの戦力ではなく「素材」として見ていた者もいた。

 

――それは、結社の中枢に潜む、研究者たちだった。

倫理を排除し、成果のみを追い求める者たち。

命を、個人を、人格を、「サンプル」と呼ぶことに何のためらいもない連中。

 

彼らは、密かにゲイルの記録を集めていた。

術式の構成データ。戦闘時の魔力波動。身体能力の変化率。

全てが、“極上の実験素材”としての価値を持っていた。

 

そして、ゲイルを憎む一派と、彼を研究対象とする一派は、

奇妙な共犯関係を結ぶことになる。

 

「正しさ」を壊すことが、彼らにとっての“勝利”だった。

「強さ」を解体し、再構築することが、“成果”だった。

 

そしてある夜、ゲイルは――消えた。

 

公式記録では、“戦闘任務中に消息不明”。

しかし、実際には違った。

それは、完全に仕組まれた“捕縛”だった。

 

薬物によって意識を遮断され、封術によって魔力を遮断され、

そして、魂を引きずり出され、別の肉体へと“転写”された。

 

研究者たちは、古来より残る“転魂術”の応用に取り組んでいた。

そして、ついに実験段階にあった一体の少女型ホムンクルスに、

ゲイルの魂を“強制的に”定着させたのである。

 

その結果、誕生したのが――

現在、神谷駿の傍にある少女。

 

クラリーチェ=フォルティア。

 

かつて、誰よりも強く、誰よりも正しくあろうとした魔術師は、

無力な少女の肉体に魂を閉じ込められ、

すべての尊厳と力を奪われた。

 

だが、運命はそれで終わらなかった。

 

クラリーチェとして覚醒した“彼女”は、

自らの存在が「誰かの手によって捨てられた」ものであることをすぐに理解する。

 

そして――逃げ出した。

 

過去の記憶と現在の姿の乖離に苦しみながらも、

かつての“信念”を思い出しながら、

彼女は再び、歩き出した。

 

それが、クラリーチェという少女の始まりである。

 

「見捨てるのも、夢見が悪くなるからさ」

 

それは、神谷駿がクラリーチェ=フォルティアを救ったとき、誰に聞かれるでもなく口にした、ただの独り言だった。

誰かの命を背負う覚悟だとか、崇高な正義感だとか、そんなものとはまったく無縁の、それでいて揺るがぬ“理由”。

 

――夢見が悪い。

 

たったそれだけの理由で、彼は自らを死地に投じた。

 

その日、駿は偶然――否、結果的に必然として、結社の廃棄処分リストに載っていた一体のホムンクルス少女を発見した。

暗く、じめついた空間。魔力の流れすらない、封じられた小部屋。

そこに、がらんどうのように佇んでいたのが、彼女だった。

 

クラリーチェ=フォルティア。

名も、記録も、所有者さえ抹消された“使い捨て”。

研究が終わり、観測が終了し、「もう必要ない」と判断された命。

 

生きているのに、廃棄とされた存在。

 

彼女は、ただ黙っていた。

感情も、言葉も、体温さえ希薄で、

それがまるで“生きた遺物”のように見えて、

普通なら、きっと、見逃しただろう。

 

だが駿は――止まった。

 

その部屋の空気に、何かが引っかかったわけじゃない。

彼女の姿が哀れだったから、というわけでもない。

 

ただ――そんな風に捨てられる存在があるという事実が、気に入らなかった。

 

それは、自分の問題だった。

 

もしこのまま立ち去れば、

もしこの場を見なかったふりをしてやり過ごせば、

この夜、きっと夢に見るだろう。

 

封じられた部屋。

表情もなく横たわる少女。

呼吸の浅さ。無力な手。

あのまま、誰にも知られず、忘れられ、壊されていく存在。

 

そんなものを、夢に見る自分自身を――駿は、許せなかった。

 

正義のためじゃない。

誰かの命を背負うヒーローになりたいわけでもない。

 

ただ、“自分の良心のため”に、駿は戦う。

 

「だから、悪いけど。君、俺が連れてく」

 

誰に聞かせるでもなくそう言って、駿はクラリーチェを抱き上げた。

 

彼女の体は軽かった。

恐ろしいほどに、命の気配が薄く、

このまま消えてしまってもおかしくないような儚さだった。

 

逃走ルートを練り、最短での脱出を試みる。

警備魔術師との交戦は避けられなかった。

 

けれど、駿は躊躇わなかった。

 

彼のスタイルは“非殺”。

魔術も使えず、己の肉体と技術だけで立ち向かう。

けれど、その戦いは迷いがなかった。

 

守るべきものが明確なとき、彼は誰よりも強くなる。

 

そうして、駿はクラリーチェを抱え、血に塗れながらも逃げ切った。

破壊された封印、鳴り響く警報、魔術的探知の網をかいくぐり、

ようやくたどり着いた薄明かりの路地裏で、彼女の小さな呼吸を確認したとき――

 

駿は、ただ、ぼそりと呟いた。

 

「ったく……どうして俺は、こうなんだろうな……」

 

誰も答える者はいなかった。

だが、彼の腕の中の少女が、わずかに指を握り返した気がして、

彼はようやく、小さく笑った。

 

それだけのことだった。

理由なんて、それでいい。

見捨てたら夢見が悪い。

だったら、助けるしかない。

 

神谷駿という男は、

それ以上でも、それ以下でもない――けれど、

その“ただ一度の決断”が、ひとつの命を、確かに救った。

 

 

「神谷駿、茶を淹れてくる。貴様は動かなくてよい」

 

「はいはい、じゃあお願いしようかな、クラリス様」

 

午後の陽射しが斜めに差し込む、誰もいない静かな家。

珍しく、今日は本当に二人きりだった。

白石もアリシアもいない。大河も任務で外。沙羅や他の誰もいない。

 

誰かしらが必ずいたこの家において、これは貴重な“空白”だった。

クラリーチェ=フォルティアと、神谷駿だけの。

 

キッチンから湯を沸かす音が聞こえる。

動作に無駄はなく、必要以上に丁寧でもない。

それは、かつて戦場で迅速に術式を組み上げていた“彼”――崩雷のゲイルの気質が、今も染みついている証だった。

 

今のクラリスは、見た目こそ柔らかな少女だが、その所作の一つひとつに、訓練と経験の匂いが滲んでいる。

だが、それは同時に、あまりにもこの“姿”には似つかわしくないものでもあった。

 

「ミルクは要るか」

「いらない。砂糖一個で」

「了解した。吾輩の見立て通りだな」

 

「……ああもう、それだよ」

 

駿は苦笑を漏らした。

カップを受け取ったその手が、自然とクラリスの方を向く。

 

「今の姿で“吾輩”って言われてもさ……正直、威厳もへったくれもないんだけど」

 

クラリスは一瞬眉をひくつかせ、深いため息をついた。

 

「……自覚している。わかっては、いるんだ」

 

ソファの背にもたれながら、少し仰け反るようにして紅茶を啜るその姿は、どうしても“威圧”というより“可憐”に見えてしまう。

かつて、前線を駆け、結社を恐怖させた崩雷の魔術師が、この姿で、しかも“げんなりした顔”をしているのだ。

おまけに、ちょっとカップが重そうに見えるのも妙に可愛らしい。

 

「そもそもこの口調、身に染みついてるからな……油断すると、こうだ」

「うん、まあそれはわかる。でもさ、そんな顔で“貴様”呼ばわりされたところで、ぜんぜん怖くないっていうか……むしろちょっと笑えてくるっていうか」

 

「……屈辱だな」

 

とはいえ、クラリスの口調はどこか穏やかだった。

駿の前では、昔のような張り詰めた声を使うことは、もう少なくなった。

 

「けど、今のクラリスって、なんかちゃんと人間してる感じがするよ。前みたいに“正しすぎる”感じがないっていうかさ」

 

「……正しくなければ、意味がなかったんだ。かつての吾――いや、俺は」

 

言い直したその一瞬に、クラリスの顔がわずかに曇る。

ゲイルとしての過去が、今もなお胸の奥に重く沈んでいるのがわかる。

 

「正しさだけが、自分の価値だと思っていた。力があるから、正しくなければならない。

そうでなければ、俺のような存在は、ただの“災厄”になる」

 

「それでも、そんなクラリスを捨てた連中の方がよっぽど災厄だったよ」

 

駿の声には怒気はない。

ただ、はっきりとした温度がある。

 

「正しいかどうかじゃない。今のお前が、俺にとって大事な仲間だってことに変わりはない。

崩雷だろうがクラリーチェだろうが、それはどうでもいいんだよ」

 

「……お前は、ずるいな。神谷駿」

 

クラリスは小さく目を細めた。

威厳も、称号も、魔力の奔流もない。

ただ今この家に、静かに座っているひとりの少女。

でも、その中にちゃんと“自分”を見出してくれる誰かがいる――それが、たまらなく救いになる。

 

「そうか。今の俺には、もう威厳などないのだな」

 

「うん。まあ、はっきり言うと、威厳はゼロ」

 

「……認めたくはないが、そういう視点もあるか……」

 

クラリスはティーカップを両手で包み込み、照れ隠しのように紅茶を口に含んだ。

その仕草ひとつも、かつての“崩雷”とは遠い。

 

だが、駿は思う。

 

今のこのクラリスが、一番強い。

 

過去を受け入れながら、今を生きようとしている姿。

それが、たとえ小さくとも、心の底から誰かを信じられるようになったこの少女こそが――

 

何より、誇らしく、そして愛おしい。

 

――そんな語らいもありましたね、と。

 

神谷駿は、窓の外をぼんやりと見つめながら、心の中で静かに現実逃避をしていた。

 

あの時のクラリスとのやり取り。

過去を乗り越え、今を生きようとしている彼女の言葉。

「吾輩」と言ってしまってげんなりする顔とか、

「威厳ゼロ」と笑ったら、素直に苦い顔で認めたあの表情とか。

 

思い出すたび、くすぐったいような気持ちになる。

あんな風に話せる日が来るなんて、少し前の自分には想像もつかなかった。

クラリスは確かに“元・ゲイル・バルトロメウス”であり、崩雷の異名を持つ男だった。

それが今では、ちょっと不器用で、けど誰より繊細で――なんなら、お茶を淹れる手際が上手くなってる、そんな少女になっている。

 

「……まさか、あのゲイル・バルトロメウスがね〜……」

 

と、駿は口元を緩めながらぼやいた。

結社内で恐れられ、協会でも名が通った最強クラスの魔術師。

その“中身”が今では紅茶を嗜み、穏やかな午後を楽しみ、時折“吾輩”とか言っちゃう姿。

あまりにもギャップがありすぎて、もはやそれを受け入れている自分の感覚もどうかしてる。

 

――二度あることは三度あるとは言うが。

――いやいや、さすがに今回はないでしょ。

――まさかね、クラリスに限って……。

 

彼は、そんなことを考えながら、横を見た。

 

そこで、時間が止まった。

 

――見たくなかった。

――でも、見た。

 

目を逸らす暇すら与えられなかった。

 

そこには、何も着ていないクラリスがいた。

 

「………………………………」

「………………………………」

 

沈黙。

鼓動が、爆音のように頭に響く。

全身の血が一瞬で沸騰して、そして冷えた。

 

「あのなあああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」

 

天を仰ぎ、魂の底から慟哭する駿。

 

なんだよもぉぉぉぉまたかよぉぉぉぉぉぉ!!!!

 

なんでだよ!?なんでなんだよ!?

このパターン、何度目だ!?

もしかして、俺の生活、呪われてるのか!?

女の子が裸でくっついてくる現象が周期的に起こる人生なのか俺は!?!?

 

「ちょ、ちょっと待って!おいクラリス!クラリスさん!?目、開けないで!?いや開けていいけどこれは……その、何!?」

 

声を荒げつつも、駿は目を逸らそうと努力していた。

だが、脳裏にはすでに焼き付いてしまっている。

クラリスの、白い肌。小柄な体。整った輪郭。

その姿は、まごうことなき“少女”そのもので――

しかし駿は知っている。その中身がどれだけヤベェ奴かを。

 

「おかしいだろ……いや、ほんとおかしいだろ。お前、崩雷だったんだぞ……?」

 

崩雷のゲイル。

単騎で前線を制圧した猛者。

雷の奔流を操り、無数の魔術師を薙ぎ払った男。

 

その本人(中身)が、今は――

 

スヤァ……と、駿の腕を枕にして、裸で寝ている。

 

どうしてこうなった!?

なんで毎回、俺の腕枕なんだ!?

寝相が悪いとか、そういうレベルじゃない。

なんで脱いでるのかを教えてくれええええええ!!!!!

 

しかも、彼女は熟睡しているらしく、微動だにしない。

時折、ほんのりと頬が染まって、吐息がふわりと漏れる。

寝顔は天使そのもの。完璧だ。完璧すぎる。

だけどそれが、よりによって元・ゲイルってのが、

駿の理性をズタズタにした。

 

「なぁ、クラリス。君は……どうしてそうなるんだ……」

 

まるで神に問うかのような声。

けれど、神は答えない。

クラリスも、寝たまま微笑んだだけだった。

 

「…………くそぉ、夢見が悪いって言ったの、俺なんだけどさ……これ、現実の方がひでぇわ……」

 

神谷駿は、肩を落としながら天井を見つめる。

その視線の先には、答えなどない。

ただ一つ確かなのは――

 

これで三人目だ。

 

これを「事故」と言い張るには、もはや限界がある。

だが、クラリスが目覚めた時、

また何か言い出すのだろう。

 

「……昨晩は悪くなかった」――とか。

 

考えるだけで、胃が痛くなる。

 

「……もぉぉぉぉ……頼むから、これで終わってくれ……」

 

と、駿は静かに布団をそっと被せる。

クラリスが風邪を引かないように。

そして、少しでもこの現実が“なかったこと”にできるように。

 

でも、たぶん――もう、遅い。

 

目が合った。

 

重力がすべて逆転したような感覚の中、駿は何とか現実を受け止めようとしていた。

だが、それは到底無理な話だった。

なにせ、隣で裸のまま、彼の腕を枕にして眠っていた少女――クラリスが、まさに今、ゆっくりとまぶたを開いて、彼を見つめているのだから。

 

「……おはよう、駿」

 

その声は、まるで夢から醒める瞬間のように優しかった。

囁くように、小さく、けれど確かに心に響く。

そして、まったく違和感なく、すんなりと“駿”と彼の名を口にした。

 

「あ……お、おう……おはよう」

 

返す声はうわずり、目線は泳ぐ。

焦りもあるが、それより先に“予感”があった。

またか、と。いや、今度こそ確定か、と。

 

クラリスはゆっくりと上体を起こし、柔らかく髪をかきあげた。

その動作ひとつとっても、かつての“崩雷のゲイル”など微塵も感じさせない。

少女らしい、しなやかで繊細な身振り。

そして、目を伏せるようにしながら、唇を少し尖らせて呟いた。

 

「……けだもの」

 

「っ……はぁ!?」

 

その一言に、駿は思わずのけぞりそうになった。

なに!?今なんて!?けだもの!?俺が!?

……いやまあ、見たまんまの状況だけども!!!

だが、そういう時に出るワードなのかそれは!?

 

動揺する彼を尻目に、クラリスはシーツを引き寄せながら、頬を赤く染めて目をそらす。

怒っているわけでも、責めているわけでもない。

むしろ、恥ずかしくてたまらない――けれど、どこか満更でもなさそうなその表情が、駿の理性にとどめを刺した。

 

「……あの、クラリスさん……その、“けだもの”ってのは、こう、どういう意味で……?」

 

「……わかってるくせに……」

 

「い、いや、俺は、そもそも何も覚えてないし、だいたい、昨日って俺たち普通にお茶飲んでて、それから寝て――」

 

「……寝ただけ、じゃないよね?」

 

その言葉に、完全に固まる駿。

言い逃れできない確信犯のような空気が、部屋を満たしていた。

 

そして――

 

「駿」

 

名前を呼ばれた瞬間、彼の思考は完全に止まった。

その声が、やけに優しく、甘く、そして近い。

 

気づけば、クラリスがシーツを巻いたまま身を乗り出してきていた。

そして、そのまま――

 

そっとキスをしてきた。

 

唇が触れる一瞬のぬくもり。

それはかつて“ゲイル”と呼ばれた者が纏っていた冷酷や峻厳とはまるで無縁の、

少女としての、たった一人の“想い”だった。

 

駿は、頭を抱えた。

 

「……まただ……またかぁ……」

 

呟く声に、自嘲と諦めが混ざる。

なんで毎回こうなる。

なんで俺は、こうも記憶が曖昧なまま、ヒロインの裸に囲まれることになるんだ。

しかも、今回はクラリス。

まさか、まさか……あの、あの“崩雷”のゲイル・バルトロメウスが――

 

ヤッたなぁぁぁぁぁあああああ!!!!

 

脳内で鐘が鳴る。

現実逃避すら追いつかない。

これはもう確定事項。逃げ道はどこにもない。

 

目の前にいるのは、確かにクラリーチェ=フォルティア。

しかし中身は、かつて数百人の魔術師を率い、戦場を雷で焼き払ったあの男。

そんな彼女が、今――

柔らかな表情で微笑み、名前を呼び、キスをしてくる。

 

どうしてこうなった。

なぜ俺の人生は、こうなった。

夢見が悪いから助けた――それだけだったのに。

まさかここまでくるとは、思ってなかった。

 

「……駿、また頭抱えてる」

 

「そりゃ抱えるだろ!あのな、俺は本当に何も覚えてないんだ!あれか!?今の俺、睡眠中に自動で口説いてるのか!?無意識の中に第二の人格がいるのか!?」

 

「ふふ……そんな駿も、好きよ」

 

ああ、もうダメだ。

これは完全に落ちた。

 

――この家のヒロイン全員、俺にキスしてくる説、強まってきたな……。

 

駿は再び、天井を見つめた。

そして深いため息をひとつ、静かに、静かに落とす。

 

これが日常になる予感に、頭を抱えつつも、

彼の胸の奥には、なぜかほんの少しだけ、あたたかさが残っていた。

 

 

 

 

───────

 

――次に目が覚めたとき、そこには後輩がいた。

 

もはや神谷駿は驚かなかった。

本当に、まったく、驚きもしなかった。

 

「あー……おはよう、大河」

 

「……ん、おはよ、センパイ」

 

寝起きの声に、どこか満足げな気配が混じっているのは気のせいだろうか。

駿はベッドの中で軽く伸びをし、そして横を見る。

 

案の定。

 

全裸の一ノ瀬大河が隣にいた。

 

「あー、うん。知ってた。そうだろうなって思った」

 

淡々とした口調で現実を受け入れる駿。

彼の中で、もう“隣に裸の女の子が寝ている”という事象は、

朝の天気予報レベルの既視感になっていた。

 

――しかし。

 

そう、“しかし”。

 

何かがおかしい。

 

何かが違う。

 

駿は眉間にシワを寄せながら、もう一度大河の寝顔を確認する。

整った顔立ち。ピンクのツインテール。

やや太めの骨格。発育の良すぎない体型。

パッと見れば女子高生。制服だっていつも女子用を着ているし、仕草も声も、世間的には完全に「女子」だ。

 

だけど――

 

「……こいつ、男だよな」

 

思わず声に出たその呟きに、全世界が静まり返る気がした。

いや、世界は普通に動いてる。だが、駿の精神だけが沈黙に包まれた。

 

今までは、確かに色々あった。

朝起きたらヒロインが裸で寝ていた、なんてのはもう数え切れない。

光。アリシア。クラリス。

 

全員、“元は男”だ。 けれど、“今は女”だった。

 

だから、理屈としてはまだ理解できた。

女体化。肉体は完全に女性。

そういう事情があるのなら、色々と複雑でも、どうにか受け入れることはできる。

 

――だが。

 

目の前の一ノ瀬大河は、男だ。

見た目はどれだけ女子でも、体の構造がどうなっていても、

戸籍上、医師診断上、そして駿の知識上でも「男」だ。

 

つまり――

 

「……俺は、男に……?」

 

その瞬間、駿の脳裏に、ありとあらゆる禁忌のワードが流れ込んできた。

BL。♂×♂。ホモソーシャル。リバーシブル。レインボー。マイノリティ尊重。多様性の受容。文化の壁。倫理の壁。壁という壁。

 

「……やばい、俺……もしかして、道を踏み外した……?」

 

頭を抱える駿。

マジで無言。完全に顔を両手で覆ってうずくまっている。

 

「大河……俺、昨日、何かしたか?」

「えー……さあ? センパイが勝手に盛り上がってきたから、ボクもノってあげただけだよ?」

 

「“ノってあげただけ”ってなんだそのエンジョイ感!!!」

 

「でも、気持ちよさそうにしてたし……ほら、センパイって、普段あんまり素直じゃないから……。

そういうときくらい、ちゃんと可愛がってあげたいなーって思って」

 

「うわああああああああああああああ!!!!!!!!」

 

駿、完全に崩れる。

手で顔を覆ったままベッドに突っ伏し、枕を抱えてのたうち回る。

 

「いやでも!違うかもしれない!まだ断定はできない!

そもそも服を脱いでるだけかもしれない!俺が寝てる間に脱がされた可能性もあるし、何もなかった可能性だって――!」

 

「うん、あったよ、ちゃんと。ほら、ボクたち、心が通じ合ったじゃん?」

 

「通じ合ってねぇ!!!!!!!」

 

まるでトラウマになりそうなテンションで叫ぶ駿。

大河はケロッとした顔で、タオルケットを巻きながら起き上がる。

 

「ボクさ、センパイのこと、ずっと好きだったから、嬉しかったな」

「それもそれでなんか切なくなるからやめろおおおお!!!!」

 

「ふふ、そういう反応もカワイイ」

 

「やめてぇぇぇ……もう俺、人間として立ち直れないかもしれない……」

 

顔を真っ赤にしてうずくまる駿の背中を、優しくぽんぽんと叩く大河。

その手つきがなんか母性すら感じさせるのが、またヤバい。

 

「でもさ、センパイがどんなにジタバタしても、ボクの初めてはもう、センパイのものだからね?」

 

「言うな!!」

 

もはや精神崩壊寸前。

神谷駿、これにて完全にノックアウト。

 

唯一の救いは――いや、救いなんてあるのか?

これはもう、どう考えても人生のターニングポイントだ。

 

そして駿は確信した。

これはもう、そういう物語なんだ。

 

「もう……なんか……いろいろ超えて、俺……悟りそう……」

「センパイ、今夜も楽しみにしてるね」

「やめてえええええええええ!!!!!!!」

 

――まさか、男にまで手を出すとは思わなかった。

……いや、手を出した覚えはないんだけど!!!

 

 

「センパイ、あれだけ感じちゃってて、カワイイ〜」

 

その一言は、もはや爆弾などという生易しいものではなかった。

心の奥深くに、鋼鉄製の杭を打ち込まれたような衝撃。

雷鳴轟く戦場に放り出されたかのような混乱。

 

神谷駿は、もはや何も言えなかった。

全身が凍りつき、声にならない叫びが喉の奥でせき止められる。

思考が、停止した。

 

「……お前、今……なんて?」

 

恐る恐る、搾り出すように問いかける駿。

だが、大河はまるで何でもないことのように、にこりと微笑む。

 

「ん? ボク、なんか変なこと言った?」

 

天使のような笑顔。

だが、その背後には悪魔的な確信犯性が見え隠れしている。

まるで、わざと言ってるのか、それとも天然でやってるのか――その境界が一切わからない。

 

「ちょ、ちょっと待て……今の発言の意味を、俺なりに咀嚼してみるからな」

 

駿は目を閉じ、手でこめかみを押さえる。

冷静になれ。落ち着いて考えろ。まだ確定じゃない。まだ、だ。

 

――感じてた、ってなんだ。

――普通、“男”が“男”に感じてたって、どういう構図なんだよ。

――いやいや、そんなバカな。俺は男だぞ? 大河も男だぞ? じゃあ、どっちが……?

 

「……いや、まさか……俺が……掘ったんじゃなくて……掘られた……のか……?」

 

震える声で、自分の推論を口にする駿。

だが、口に出した瞬間、その“可能性”の重みに腰が抜けそうになる。

 

いつの間にか、後ろのロストヴァージンしていたのか……?

 

頭を抱える。

いや、もう抱えきれない。

腕も足も全部使って抱えたい。魂ごと覆い隠したい。

 

「う、うそだろ……だって俺、そんな記憶……」

「うん、センパイ寝てたもんね。気持ちよさそうに、うふふっ」

 

「ヒィィィィィィィィィ!!」

 

思わず部屋の隅まで転がって逃げる駿。

大河はシーツ一枚をふわりと巻きながら、まるで何事もないかのようにベッドに腰かけている。

 

「な、なぁ大河……はっきり聞くけどさ……その……

俺の……その……貞操っていうか……“後ろの門”は、無事……なのか……?」

 

必死の問い。

最後の希望。

否定されれば全てを許す。過去も未来も水に流す。

 

だが。

 

「うーん……どうかなぁ?」

 

曖昧な笑みを浮かべながら、大河は小首をかしげた。

その口調は無邪気そのものだが、

決して“否定”はしなかった。

 

「な、なんで答えないんだよぉぉぉぉ!!!」

「ボクとしては、いい夜だったと思ってるし……

ああいうのも、たまにはアリだよね?」

 

「なにが“アリ”だあああああああああ!!!!」

 

声にならない悲鳴を上げる駿。

天井を仰ぎ、己の運命を呪う。

 

いや、でもまだだ。

まだ“実際にあった”とは断定されていない。

大河の態度が曖昧なのが救いだ。

 

「お、おい大河……俺、本当に記憶にないんだ。

だから、その、もし俺が……そっちの気があるっていうなら……いや、そうじゃなくても……

なんかこう、ヒトとしての尊厳的に、ちゃんと教えてくれないか……?」

 

駿の目は真剣だった。

この数日で、彼の精神はもうズタボロだ。

冗談で済むことと、そうでないことの境目がわからなくなってきていた。

 

だが、大河は――にこっと笑った。

 

「……それは、ボクの胸の中に、しまっておくよ」

 

「しまうなあああああああああああ!!!!!」

 

全力で叫ぶ駿。

その絶叫は、部屋中に響き渡り、

どこかで目覚まし時計がガタンと倒れた。

 

「も、もうダメだ……俺、これ以上は……」

「ボクは、嬉しかったよ? センパイがあんなに素直になってくれて。

あんなに乱れて……ああ、ほんと、夢みたいだったなぁ……」

 

「思い出すなあああああああああ!!!!」

 

転げまわる駿に、大河は優しく微笑む。

その笑みは、まるで――

駿という一人の“先輩”を、すべて受け入れるような、温もりを持っていた。

 

だが駿は知っている。

それが逆に怖いのだ。

この後輩、絶対ワザとやってる。

 

「も、もう誰も……俺の隣で寝ないでくれ……」

「えー、でもボク、また一緒に寝たいなぁ」

 

「やめてくれえええええええええええ!!!!!!」

 

こうして、またしても神谷駿の貞操は、

“確定ではないが限りなく黒に近い灰色”として、闇に葬られるのであった。

 

 

 

 

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