玉は天にあるが、政は地に堕ちた
民が天を捨て、炎となった
王朝は、もう随分前から傾いていた
政が腐り、天の名を借りては、地の欲を肥やすだけのものになっていた
帝は宮中に籠もり、政治は宦官と外戚に食い荒らされ、私怨と陰謀が政を覆った
名ばかりの会議、買われた官職。法も義も、風に舞う塵のように、その価値を失っていった
俺は、何も知らなかったわけじゃない
旅を続ける中で、いくつもの村を通り過ぎるたび、そこには声なき者たちが、確かにいた
働いても土を噛むばかりの民。薬代の払えぬ老母
肥えた貴族が酒を浴びる背で、子が飢えて野垂れ死にしていた。
どこを巡っても、そんな光景が広がっていた中――俺は、“黄なる声”が流れ出すのを感じた。大地の下、血と薬草の香に混じって、それは静かに燃えていた
疲弊した民の絶望に寄り添い、癒しになろうとしたその道は、
もとは優しい祈りだった。信仰であり、救いだった
だけど――教祖となった彼は、愚かにも、それでは足らぬと天に手を伸ばしてしまった
「蒼き天はすでに死し、黄の天が立つ」
そう、高らかに彼は叫んだ
けれど、天を変えるには、まず地が燃える
その炎は、祈りの形をしていたはずだった
だが、剣より熱くなったとき――人はもう、元には戻れなくなった
燃え上がった焔を、俺はただ、遠くから眺めていただけにすぎない
あるいは、巻かれそうになりながら、風のまにまに、それを置き去りにした
あれから教祖は、とっくに討たれたというのに
焔の民は、いまだ燻り続けている
そして、あの焔の残り香は――いまも、俺の肌にほんのりと、残っている
―――――
暴君との宴の翌朝、俺は空を見ながら、思い更けていた
どこまでも蒼い、春の空
あの頃と、何一つ変わらないはずなのに、どうしてだろう――今、風は、重く感じる
縁側に仰向けで寝ころび、ぼんやりと雲の流れを追っていた俺に、ふと、香が寄ってきた
蜜柑に似た、どこか幼い果実の香り。それが、春の匂いにまぎれて立ち止まる気配がある
「……春日和に、物思いですか?」
やわらかく、鈴のような音色。だがその奥に、うっすら刃の影が潜んでる
振り返る前から、声で察する。暴君の侍女だ
髪は夜のように黒く、肌は春の朝霧のように白い。その顔立ちは、まるで月の面影――
「国一」と噂され、暴君に侍る女の名に、嘘はない
彼女は、薄絹の衣を揺らしながら、そこに立っていた
「そんなところかな。仙人たる者、囚われの身となりては、日々に衣食の憂ひこそなけれ、志の及ぶところに従ふを得ざるは、すなはち、道を行ふの自由を失ふなり。――ってね」
「風の語る空は、今も変わらないのですか?」
「変わらないよ。空はいつも、地を見下ろしている」
俺が返すと、彼女は微笑んだ。だが、その目は伏せたままだ
「……帝が崩御なされ、都も、揺れております」
「霊帝、だったか」
「はい。跡継ぎを巡って、兄と弟、二人の皇子が……」
言葉を濁す。だが、もう続きは知っている
「その混乱に乗じて、炎のような男が都を包んだ」
あの暴君だ。小帝の後を継いだ弟君の後見人、というのは、まぁ分かりやすい建前で、実態は暴君の都合のいい駒。後はもう、彼の思うまま。粛清に圧政、自分は贅を尽くす日々、というわけだ
「大将軍様は……帝の安寧のためにこそ、不可欠なお方、と……」
言葉の途切れに、微かな迷いが滲む。それは誰かに課された"声"であり、同時に、彼女自身が信じきれぬまま繰り返す"呪文"でもあった
彼女はわずかに瞼を伏せ、呼吸の間を置く
言葉の重みに、暴君ではない誰かの"声"が乗っている
「それで。今日、君は誰の風に乗って、ここまで来たのかな?」
「ご挨拶が遅れました。本日は、相府より遣わされました」
「……相府、か」
王相――相国。名は口に出さずとも、都で最も老獪な"仕掛け人"の顔が浮かぶ
「相府様は、あなたのような方に、是非ご助力をお願いしたいと」
「控えめに言って怪しい仙人にか?」
「……風のように、どこへでも吹き、誰の側にも寄らぬ、あなたに」
それは、誉め言葉ではなかった
「都は静かに燃えております」
最後にそう告げた彼女は、微笑みをたたえながらも、その目は笑っていない
「それと――」
不意に、彼女はもう一言付け足す
「別件で、飛将軍様より、伝言を――」
少し、彼女の声音が揺れた
「"貴殿の風が、近く吹きすぎる"……とのことです。近日中に、直接、お話があるとか」
なるほど
この都は、俺をただ酒で囲っておくつもりはないらしい
――風は、本来、誰のものでもないはずなのに……
あいも変わらず、春の空は蒼かった
けれど、いつもと同じ空が、今日はどこか――静かに重い