ホロウを抜けるまでの間、アベルとアキラの進行を阻むものは何一つなかった。
朽ちた廊下、崩れかけの扉、焼け焦げた床にひび割れたガラス。あらゆるものが崩壊し、静寂に包まれた空間で、唯裸足のアベルとボンプのぽよぽよとした足音だけが響く。
「ふんふんふ~ん」
「ご機嫌だね」
鼻歌交じりに廊下を歩くアベルに、アキラは語りかける。
「それは、そうさ!なんてったってボクはこの建物から出たことがないんだぜ?ご機嫌にもなるさ」
「?待ってくれ、今『外に出たことがない』と言ったけど、記憶がないんじゃなかったのかい」
「あれ?確かに……なんでこんなこと……」
「ふむ…もしかしたら、記憶喪失は一時的なものかで、しばらくしたら思い出すかもしれない」
「うーん、そうだといいなあ」
途中、複数体のエーテリアスと遭遇したが、奇妙なことに一体として襲ってくる様子はなかった。
アベルを見たエーテリアスは、あの研究所にいた個体と同様に、跪くか、その場で静止するように行動を停止した。
「……どうやら、『魅了』の効果対象は人間だけではないらしいね」
「アキラ、どうかした?」
果たして、アベルは自分の『魅了』について、理解しているのだろうか、研究所での記録を調べた限りでは、本人にその自覚はないらしいが。
仮に知らないとして、『魅了』についてアベルに伝えるべきか否か。
「……いや、何でもない。こうも襲われないなら、開き直って最短ルートで行ってもいいかもしれない」
「そう?ボクもう疲れたし、それがいいかも」
ホロウの裂け目を通って、外に出られたのはそれから十数分後のことだった。
「っあ~疲れた~……出られたは良いものの、これからどうするか」
情けない声を上げながら、ヘロヘロと郊外の乾燥した地面にへたり込むアベルに、ボンプを通してアキラが一つ提案する。
「お疲れ様、アベル。これからのことだけど……君さえよければ、家にくるといい」
アキラの提案に目を輝かせ、すぐさま食いついたアベルは、しばらくの後、迎えに来たアキラの車に揺られて、疲れから眠りについた。
「実験■■■———002号AB■■L……成功だ……!」
「やったぞ私達は■■遂げた!!」
「ああ、は■■■の主よ!我らはついに……」
夢を見ている。
「最初の■■はやはり失敗■だった」
「CA■■の奴がまた収容区を■■■■に———」
懐かしい記憶のような。
「ああ、美■きアベ■よどうか我らを導■■となりて———」
うるさい
「■■■■」
「■■002号」
「アベル」
「アベル様」
「■■■■■■■■よ」
だまれ———
「お■い、A■E■L!早く来■ってば!」
「待って!……■■IN」
窓から顔に差し込んだ陽の光で、アベルが目を覚ます。
視界に広がるのは見慣れない景色。物が乱雑に配置された部屋のベッドに寝かされていたようだ。
「……ここは、どこだ」
「良かった。目が覚めたみたいだね」
声のしたほうに視線を向けると銀髪の男が立っている。年はアベルと同じくらいに見える。聞き覚えのある声。
「……アキラ?」
「その通り。改めて、僕がアキラ。よろしく、アベル」
ふと眠気を覚まそうと顔に手をやると、薄い布のようなものが鼻から下を覆い隠している。フェイスベール、というやつだったか。
「おっと、できればその布については、取らないでもらえると助かる」
「……これは?」
「……こういう言い方は何だけど、君は自分の異常な能力について、理解しているかい?」
「……魅了、だろう?」
「知っていたのか……」
長い沈黙の後アベルが渋々といった様子で答えると、アキラは少し驚いた顔でそう言った。
「いや、少し、思い出しただけだよ。詳しくは知らない」
「あの後、研究所のデータを幾つか調べてみて分かったんだけど、どうやら君の他者に対する『魅了』の力は、顔を直接視認さえしなければ、そこまで強く作用しないらしい」
「それで、フェイスベール?」
「家に使えそうな物がソレしかなくてね。でも、現に僕は特に影響なく君と話ができている」
「成程……」
自分の状況についてアキラと話し込んでいると、誰かが階段を上ってくる音が聞こえる。
「お兄ちゃーん!目を覚ましたって本当ー?うひゃあ!!」
部屋に入ってきた少女がアベルを見て驚いたように、尻餅をつく。
「……リン。自分で入ってきておいて驚くっていうのはどうかと思うよ」
部屋に入るなり素っ頓狂な声を上げて尻餅をついた彼女は、リンと言うらしい。
「アベル。彼女はリン。僕の妹で、君の第一発見者。君のコフィンを解放したのは良いものの、君を見て気絶しちゃってね。それで僕が君の相手をしていたというわけなんだ」
つまり、目の前の彼女は、アベルの恩人であり、同時に魅了の被害者というわけである。
「それは、知らなかったとはいえ申し訳ないことをしてしまった。それとありがとう。ボクを見つけてくれたこと感謝するよ」
リンの手を取って、目線を合わせ、最大限の感謝を示す。人と仲良くするときはこうするのだと昔誰かに言われた気がする。
「ひゃっ……ひゃい……お気になさらず〜!」
しかし、リンはまた顔を赤くして、逃げるように隣の部屋に飛び込んでいった。
「コレ、本当に効果あるのかい?」
アベルがフェイスベールの端をつまみながら訝しむと、アキラは目を逸らして小さく答えた。
「……ある、はず」