私は逃げていた。自分を揶揄ってくる男子から。きっかけは分からない。でも、多分無いと思う。小学生特有の、男子が女子を
「ふう、うぅ~~~~」
情けない泣き声を上げながら、図書室の中にある一室に身体を滑り込ませる。鍵はついてないけれど、もう何でも良くて、ドアを閉めて蹲っていた。電気も付けていない。そんな事をしたら追手に見つかってしまう。
だが、ほどなくしてドアは開かれた。もう追手が来たのかと私は身体を縮こませる。だが、聞こえた声は予想外の物だった。
「珍しいな。先客だ」
それは一人の男の子だった。彼の声に揶揄う意志はなく、ただの現状確認と言った感じで、本を持ってテーブルに向かっている。
(この人は怖くない人なのかな)
そう思った私は思いきって聞いてみた。
「もう少しここにいていい?」
するとその男の子は本から顔も上げずにこう言った。
「構わない。反対に、出て行きたければ出て行くと良い。僕の読書を邪魔しないなら、何をしてもいい」
それが、幼馴染となる男の子との出会いだった。
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次の日も、私は同じ部屋で同級生たちをやり過ごしていた。やはり本好きの男の子もいる。その部屋にはテーブルと椅子が有って、私は男の子の正面に座って彼を観察していた。不思議な目をした男の子だ。光は無いが、絶望しているわけでもない。焦点は合わないけど、何も見ていないというわけではない。
テーブルの辺を一つ移動してみる。彼の横顔は案外綺麗で、意外と
「……何か用かい?」
「え」
「なんだ。その鳩が豆鉄砲を喰ったような顔は。僕の顔を穴が開きそうなほど見つめていたのだ。流石に気になるぞ」
この時は小学生だし、ここまで仰々しい喋り方ではなかった気がするけれど、もうこの喋り方に慣れてしまって、記憶の中の彼はこういう風に再生されてしまう。
「で、でも、読書の邪魔はするなって……」
「すまない。言い方が悪かったようだ。話しかけられれば返事くらいはするぞ。本を読みながらという、無礼な形で良ければだが」
意外だった。読書が好きな人は人間嫌いという偏見が私の中にあったのかもしれない。実際、現実に嫌気が差しているから小説を読むという人もいる。小説の登場人物は基本的に現実世界に無関心だ。人間が嫌いな人には、それが心地よいのだろう。
「じゃ、じゃあ……コホン、同じ……クラスだよね?」
「そうだな」
なんだかんだ顔を上げて答えてくれる彼。なんだかホッとしてしまう。
「意外とちゃんと喋ってくれるんだね」
「喋ったというか、相槌を打っただけだが」
「それでも。返事すらしてくれそうになかったもの。話しかけるなってオーラが出てたし」
「そのようなイメェジなのか……さっきも言ったが、話しかけられれば返事くらいはする。生憎とその機会が無かったがね」
「ごめんなさい。でも、もう少し人と話してみたら? 友達少ないでしょう? 君」
「ああ、快適に過ごしている」
「そうなんだ……因みに、今は何を読んでいるの?」
「ミステリィだ。読んでみるかい?」
「人が死ぬ本?」
「探偵が頑張る本と言ってやってくれ……」
この時の私は知らなかった。彼に友達ができないのは、彼自身だけに問題があるわけじゃないって。
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翌日、私は彼に借りた本を返すために図書室に向かっていた。その途中で、男子生徒が話しているのを聞いてしまった。
「あの噂って本当だったんだな」
「ああ、〝虫〟は人の言葉を話さないって」
最初は何を言っているのだろうと思った。〝虫〟というのが何を指しているのか、私には分からなかった。
「図書室のアイツ、難しい言葉ばっかり並べやがってさ」
「きっと俺達を馬鹿にしてるんだぜ」
「だから呼んでやるんだ。図書館の〝虫〟ってさ」
「アハハ! 良いな、それ!」
私は駆け出した。これ以上、汚い言葉を聞きたくなかった。
「ねえ」
今度は友人の女子に話しかけられた。
「あの子と話さない方が良いよ」
「……どうして?」
「だって、本ばかり読んで気持ち悪いし……君もハブられちゃうよ」
まるで彼が悪いかのように言う女子。仮にそうなったとして、孤独に追い込むのは自分自身だろうに。ここまで露骨に責任転嫁されると言葉も出ない。度を越した下劣さは、却って怒りのエネルギーを奪うのかもしれない。
その時、自分が元友人の女子になんて言ったのかは覚えていない。向こうは唖然としていたから、普段の私からは考えられない言葉を投げつけたのだろう。実際、私は怒っていた。彼ら彼女らの頭蓋をアイスピックで砕いて、本を詰め込んでやろうかと思うくらいには。
「やあ、昨日の今日で随分……悲しい顔をしているね。そんなにミステリィは悲惨だったかね? 確かにハッピーエンドかどうかは首を傾げる結末だが、そんなに泣くほどの―――」
「本を貸して」
彼の言葉を遮って、私はそう言った。彼の言葉をもっと学びたい。綺麗な言葉を学びたい。悪口さえも美しくできてしまう言葉を。もっと美しいものを知りたい。それは言葉のリズムなのかもしれない、時代なのかもしれない、題材や感情の問題なのかもしれない。
理解したいというよりは、彼から言葉を盗みたいと思った。私は言葉を盗む泥棒。宝石にもアクセサリーにも、文房具にも、その他同級生が価値有という物に興味がない。理解という名の上から目線の同情では無くて、盗むくらいの気概で接さなければ、凡人の私には彼と話す事なんてできない。
「ああ、別に構わないが……」
彼は少し
そうして彼と過ごしながら時は過ぎていった。気付けば私達は高校生になっていた。本当に色々な事があった。受験だってあったし、本を読んでいるばかりではなく、彼との対話も幾度となく
私はピアノが弾けたから、時々彼を家に招いて披露したりもした。彼のお気に入りはピアノソナタ月光。なんだか、本好きな彼らしいと思った。
世界はあまりに難解だった。彼も私も知らない事ばかりだった。でも、それら全てを言葉にしてしまえば、とても気持ちが良かった。
彼と過ごす日々は心臓が
きっと、もう賛美歌なんて流行らない。神様がいないのだから。
彼に、突然本を続けざまに借りたわけを聞かれて、言葉を盗みたくなったと噛み砕いて説明した。そしたら、彼は笑った。私が頬を膨らませると、彼は謝りながら語り出した。
「いやなに、周囲の人間が、僕を可哀想な病人と思っている事など、とうに知っているさ。それで君が同情心から話しかけていれば違った反応も返そうが、まさか言葉を盗むという発想に至るとはね。ククク」
「君は時々、意地悪だよ。でも、結局私のエゴで行動しているんだから、他人の事は言えないけれど」
「確かに、しかし、つい最近も僕のことが毒虫か何かに見えているらしい男が僕に絡んできたが、あんなものはただの
林檎を投げつけられるのはもう慣れた。と、彼は言った。でも、仮に彼の正体が毒虫だとしても、私は彼と友人で居続けるだろう。
「もし君を毒虫というのが大多数の意見だとして、私からすればそれは怪物だよ。リヴァイアサンが自分の鱗を毒虫だというなんて、馬鹿馬鹿しい」
「ホッブズかい? 君も随分と読書家になったな。しかしまあ、仮に僕を排除しようとしているのがリヴァイアサンだとして、僕にとって大事なのは、僕がそれを善と宣布したものなのさ。それが僕の法であり、秩序であり、宗教であり、信念といえるものだろう。僕が死ねば、僕の世界も死ぬ。それならば僕の生き方と存在方法が世界そのものだ。僕が決めたのだよ。それを世間では何もしていないと云うのかもしれないが、僕はこうにしか生きる事など出来んよ。ただの無気力と見るか、阿呆と見るかは任せるがね」
いつぞや、絡んできた男子に言い放ったのと同じような事を彼は言った。それは屁理屈かもしれない。世の中を知らない子供の戯言かもしれない。世間に迎合しない事の言い訳なのかもしれない。でも、私にはその言葉は輝いて見えた。
「まるでエイハブみたい。そこまで攻撃的な人だっけ、君」
「闘いは好きではない。が、自衛はしなければならないだろう。奴らはこちらの左足を食いちぎろうとする白鯨だ。それに対抗するためには、それなりに強い自我が必要なのだよ……幸い、イシュメールは側にいる。その役割を押し付けてしまう事に、少し罪悪感はあるがね」
「気にしないで、私が好きでやってる事だから。君の意見に全て賛成できるかって言われたら違うけど、君は綺麗だと思うよ」
だが、彼に表立ってリヴァイアサンやモビィ・ディックと戦う気は無い。私はそれで良いと思う。彼は自分が小市民であると嘯くけれど、攻撃的なのはらしくない。そんなのは時間泥棒に時を盗まれて、怪物の一部と化してしまった人間達と変わらないのだから。
後編はそのうち。