絶飯巡礼 ― JKが『日本一飯のマズイ店』を追い求める 作:隼
夜の帳が落ちた宿の廊下には、かすかにきしむ音と、湯の香りの残り香が漂っていた。
一日の観光を終え、浴衣のまま畳の上でゴロゴロする時間――それはまさに“旅”の特権だった。
葵は布団の上であぐらをかき、スマホをいじりながら首をぐるぐると回す。
「ふぁー……お腹すいたかも……晩ごはんしっかり食べたのに、不思議と今、めっちゃ何か食べたい……」
横になっていたくれはが、ゆっくりと身を起こした。
「……じゃあ、ちょっと良いもの、見つけたかも」
その言葉に、葵の目がきらりと光る。
「えっ? まさか、持ち込みスイーツ!? それともレトルト!? カップ麺だったら神!」
くれはは小さく笑った。
「……無料だよ」
「えっ、無料!? やった、くれはありがと~!」
葵は素早く立ち上がり、すでに鼻歌まじりでサンダルに足を突っ込んでいた。
くれはは、そっと部屋の鍵を取り上げ、静かに言った。
「じゃあ、ついてきて。共用ラウンジ、夜だけおにぎり置いてあるんだって」
「おにぎり!? うわ、最高すぎん? 旅館のお夜食ってやつじゃん!」
そう。無料。お夜食。おにぎり。
――ただし、“あれが、食べ物だと信じていた頃”の話。
くれはの脳裏には、**昨夜、ひとりで味わったあの“白い絶望の固まり”**が蘇っていた。
米粒の芯、ぬめりを帯びた海苔、腐りかけの甘味、そして“???”としか記されなかった得体の知れぬ具材。
だが彼女は、顔に出さなかった。
むしろ――笑っていた。ほんの少し、罪深く。
***
ラウンジは薄暗かった。
壁際の棚には色褪せた観光パンフレット、テレビは音を消されたまま古いバラエティの録画を流している。
その奥、冷蔵庫の脇に置かれた白いトレイ。
ラップに包まれたおにぎりたちが、夜の静けさに沈んでいた。
「おお……ちゃんとある……! くれは、ほんとにあったよ!」
「うん。1人1個って書いてあるけど……2個くらい、いけるかもね」
「やった! 私、鮭とツナいこっかな~!」
(それが、鮭であると、いつから思っていた――?)
葵はうれしそうにラップを剥がし、パクリとひと口かじった。
「…………ん?」
時が、止まった。
「……くれは……これ、ツナ……?」
「うん。ツナ、だよ」
葵は笑いながらも、眉間にかすかな影を落とした。
「ツナって、こんなに……乾いてたっけ……?」
「水分を吸って進化するタイプのツナなんだよ。パサパサ系ってやつ」
「……はは、進化系ツナか……クセが強いなぁ……」
次の一口で、ツナの中心部――**“白味噌らしき異物”**が、葵の舌を直撃した。
「…………あ、あれ……味噌……? 甘っ……え? えっ、なんか違う……」
「旅館の“隠し味”じゃない? 地域特有の……」
「……ううん……これ、“隠しすぎた味”だと思う……くれは、もしかしてこれ……」
くれはは、にっこりと笑った。
天使のように、悪魔のように。
「“無料”って、そういうことなんだよ」
「えっ」
「“誰にも責任を問えない”って意味なの」
葵は、箸を――いや、手を止めた。
ラップの切れ端が小刻みに震えていた。
米が崩れ、トレイに散らばる。
「くれは、あんた……」
「うん、食べたことある。昨日、こっそり一個。胃が再起動するかと思った」
「なんで言わないの!!!」
「だって、無料だし」
「無料で魂持ってかれたら、だめじゃん!!」
それでも、笑ってた。
くれはは、笑ってた。
「でも葵がひと口食べた瞬間、**この旅が“忘れられないものになった”って確信したよ」
「おにぎりで記憶作らないで!!!」
葵は水を飲みながら、味の記憶を水没させようとしていた。
けれどその横顔に、微かに笑いが浮かんでいたのを、くれはは見逃さなかった。
***
部屋に戻る道すがら、葵がつぶやいた。
「……くれは、あんた人のこと巻き込むのうまいよね」
「えへへ。“一緒にまずいもの食べた人”って、強くなるんだよ。友情的に」
「逆に言えば、二度と信用しないからねこの宿の“ご自由に”系!!」
「……でもまた見つけたら、取っちゃうでしょ?」
「うぐっ……」
くれはの声は、夜の風の中にふわっと溶けていった。
たぶん葵は明日も忘れない。
この夜のおにぎりと、くれはの笑顔を。