ウォール・マリア南方のシガンシナ区。人間を求めて壁を引っ掻く巨人たちと一枚壁の移住区で、いっとう見窄らしい家があった。
他の家々に挟まれたようなひしゃげた家だ。外壁は剥がれ、窓はボロボロで一見したら空家だと勘違いしてしまうかもしれない。そんな疑いを持つ人間がいなかったのは、朝から晩まで灯りが絶えない家だったからだ。側を通るだけで、人の賑やかな話し声が聞こえてくる憩いの場。
それがノエルの生まれた家だった。
病気で畑を耕せなくなった老夫婦、殉職した調査兵の遺族、景気が悪くなりウォール・ローゼから最南端のシガンシナ区まで下るしかなかった家族。ノエルの両親は、どんな人にも救いの手を差し伸べた。小規模な卸売の商いをする傍らで、自らの家を一時的な宿として無償で提供したり、仕事を与えていたのだ。夜になれば、父親が一階に自作した簡易的な酒場で駐屯兵団やらをもてなした。訓練兵を途中で挫折した父親は、自分が成ることのできなかった兵士という職業に羨望の念を抱いていたのだ。お題は取らずに家を空け、昼間から扉を叩いてくる駐屯兵団たちも嫌な顔ひとつせずにもてなした。二人は街でも評判のお人よしだった。
そんなの間に子供が産まれると、町中が一丸となって喜んだ。母子の見舞いに人がひっきりなし訪れ、その波が途切れたのは一週間後のことだった。そうして、町中の愛を一心に受けて育った子供が、曲がりなく成長していったのは当然の結果なのだろう。
「良い行いをすると必ず神さまが見ているのよ」
その家訓を曲がりなく受け入れたノエルが街中の大人たちから愛される存在となるのは自然なことだった。
あどけなさを残しながらも美しく成長したノエルは、朝の市場に出るだけで目を引く。言葉巧みに交渉する姿は大人顔負けで、値引き交渉に根負けするのはいつも店主だった。お使いをしながら、道端の物乞いにパンを与え、困っている人間がいれば助けに走る。ノエルを嫌う大人は誰一人としていなかった。
そんな、幸福を体現したような生活を送っていたノエルにも、心の中にはぽっかりと空いた穴があった。
同じくらいの友達が、誰一人いないことだ。容姿と振る舞いが災いした。周りの子供は高嶺の花と持て囃すばかりで、ノエルの内面まで歩み寄ってくる人間は現れない。大人たちに友達を作りたいと訴えても、真剣に取り合ってくれる人はいなかった。大人たちからすれば、「友達ができない」などという悩みはほんの些細なことか冗談にしか感じられなかったのだろう。それほどに、大人たちからみたノエルは模範的な子供だった。親の元に集まる人々は身寄りのない人や子供を失った人が多く、何度も言い出せる雰囲気もない。
一度だけ、風邪を診てもらった医者の息子と顔を合わせたこともあったが、同年代の子供相手にどう接すればいいか分からず、無言の時間がただ過ぎるだけに終わった。大人びた性格がノエルも知らずのうちに、同年の子供と深い溝がつくっていたのだ。
良い行いを続けていれば、神さまが見ていてくれる。自分に言い聞かせて、より一層人助けに精を出していたある日のことだ。
母と共に店番をしていると、薄汚れた服を身に纏った男が入ってきた。腰くらいの子供に体重を預けて、片足を引き摺りながら。母が心配そうに駆け寄る傍らで、ノエルは神に感謝した。緊張を押し殺して、笑顔を浮かべる。
「あたし、ノエル。ノエル・ジンジャー」
「わた、わたしは――」
前屈みになって、差し出された手を両手で握る。その日、ノエルは初めての友達であり、親友を手に入れたのだ。
夢のような日々だった。夕飯前になるまで話したり、親友を引き連れて色んな場所へ出かけた。お気に入りの場所は今までよりも色づいてみえ、普段しないような悪戯もした。良い子のノエルは、お転婆のノエルと呼び変えられた。大人しい親友と反比例するように、ノエルはより子供らしくなっていった。ノエルは日課のように外へ飛び出した。どこにいくにも親友の手を引き、自分の後ろに連れて歩いていた。親友さえいれば、他に何も要らなかった。
ノエルのお気に入りの場所。小山の野原で寝転んで見上げる、雄大な青い空。駐屯兵団の人はお酒くさくて敵わないとか、鳥みたいに空が飛んでみたいとか。適当なおしゃべりをしてから、二人は丘の頂上に歩いていった。ノエルが伸び伸びと咲き誇っている草花を摘んで、すいすいと編んでいく。「わあ……!」隣で感嘆の息が漏れた。
「ふふ、うまいでしょ?あたし」
言いながら、売られていてもおかしくないくらいの花冠を親友の頭に乗せる。贈られた本人は、瞳を輝かせて宝物に触れるような手つきで冠に触れた。その大袈裟な様子を見て、清々しい風に髪を靡かせながらノエルはくすくすと微笑む。
「よく、頼まれたんだ」
「……だれに?」
「近所の、子たちとか」
ノエルはささやかな嘘を吐き出す。大人にばかり囲われていたノエルに、そんな事実はなかった。両親に渡そうが心は満たされず、一人で花冠を作っては部屋で腐らせるのが常だ。ずっと渡す相手がいなかったこと。自分を慕ってくれている親友に告白するには、恥が捨てきれなかった。それにしても隠すように、未だ花冠を気にしている親友の手をとって歩き出す。
「今日のご飯、シチューにしよう」
ノエルという子供は可憐でありながら、博識でもあった。いつか読んだ料理本で見つけ、すっかり定番となったメニューの名を出すノエルに、親友の目が輝き出す。「白いやつ!」ノエルのシチューは特別だった。牛乳を使う分豪華ではあったが、それだけに美味しいのだ。親友が珍しく大声をあげてはしゃぐと、頭の冠が大きくずれた。ノエルは口元を緩めながらずれた花冠を付け直してやり、細い小道を歩き出す。
ノエルのお気に入りの場所。キラキラと貴族が持っている宝石のように輝く川の水面。隣から聞こえてくる静止の声が聞こえていないかのように、ノエルは手を繋いだまま宙へ駆け出した。大きな水柱が上がり、水沫があたりに飛び散る。繋いであった船底に波がとぷんと到達する頃には、川に浮かんだ影が二つ。笑い声が響いていた。騒ぎに周囲が気付き、不可解な目で見下ろした。
「風邪引くぞー!」通りすがりの駐屯兵に言われても、二人は水に体を浸したままだ。そのままの状態で、何時間が経った。指が白くふやけても話をして、陸に上がったのは見回りの憲兵団に発見されてから。行き過ぎた子供の遊びに、兵士は戸惑いながらも強く叱るのを忘れなかった。お咎めもほどほどに解放され、親の迎えで家へ帰ってきた二人は乾いた服に着替えてから夕飯ができるのを待っていた。鼻歌を歌いながら調理する母親の背で、昼の思い出を語らう。
「魚になったみたいで気持ちよかったけど」
「けど?」
「ノエルってば、無茶するんだもん」
「ごめんね。もうしないよ」
親友が名残惜しさを醸し出しながら、頬を軽く膨らませる。ノエルはすぐさま謝ったが、不貞腐れる親友の姿で笑ってしまい、疑いの目は途切れなかった。口元を抑え、微笑みを堪えるようにしてから、ノエルはすっと小指を立てた。
「指切りしよう」
「指切り?」
「うん、こう。するんだよ」
真似した形で伸びてきた指を引き寄せて絡ませる。どこかの儀式。何かの本で読んだそれを頭の中に思い浮かべてながら、ノエルは呪文を唱えた。
ノエルが一番気に入っている場所。壁の閉門を知らせる鐘の音。音色に魅了されていたのではない。鐘が鳴ると門の前へ集まってくる行列が、ノエルのお目当てだった。ノエルは壁外調査の日になると決まって外へ飛び出し、行列を影から眺めていた。誰かにみられることを恐れるかのように、最前列へ出ることはせず、そっと遠くから見守る。側から見ても異常なほど熱の入り用で、調査兵団を注視するノエルの姿が親友からすれば不思議だった。そもそも調査兵団の支持者は数少なく、同じ兵士の間でも異端視されている。駐屯兵団がよく出入りする家に住むノエルが、それを知らない訳はない。親友の問いに、いつもノエルは曖昧に笑い、決まり文句を答えてみせる。
「調査兵団に入って、人類を救ってあげたいんだ」
「人類?」
「そう、みんな!」
ノエルはこの世界の理に薄々気がつき始めていた。生まれ育った故郷を囲っている高い壁は、巨人から人類を守っている神の叡智などではない。人類を狭い檻の中に押し込め、虚構の幸福を享受させているのだと。
ノエルは、果てのない世界へ突き進む調査兵団に入りたかった。巨悪の権化である壁を打ち破り、皆を世界へ解放する。誰に遮られることもない自由な場所で、皆に本当の幸福を知ってもらうために。何よりも、神さまに見てもらうために。
「お母さんたちには、言っちゃだめだからね」
行き過ぎなくらい心配性な二人の顔を思い出して、ノエルは眉を下げる。何度言っても怪訝そうな親友に、人差し指を立て、赤みを帯びた頬でそっとほほえむのだった。
心の許せる親友も得て、平穏な時間が緩やかに流れていった。運命の出会いから五年が経ち、その日もノエルは親友と一緒に壁外調査から帰還した調査兵団を迎えていた。一行が去っていくのを見送ってから、二人並んで帰路に着く。「ねぇ」なにか、言い辛そうに。親友が歯切れの悪い言葉を吐き出す。「どうしたの?」美しく澄んだ声のノエルが返事をすると、親友は少し間をあけてから、怯えたように声を詰まらせた。
「さっき、……みたいな人も。ノエルは……助けてあげたいの?」
白い布に包まれたなにか。それを抱いて泣き崩れる母親。団長と呼ばれたおじさんが、膝をついたまま叫んでいる姿。一歩後ずさった親友とは違い、ノエルは目を逸らそうとしなかった。周囲の嘲笑、失望に埋もれながらも、ノエルは帰ろうとしなかった。
「うん。だって、神さまがみてるから」
怯みもせず答えたノエルに、親友はそれ以上何も言わなかった。目を泳がせて小さく口を開きかけ、諦めたように閉じる。ノエルは親友の動揺を肌で感じながらも、特に声を出すことはしなかった。
「ただいまー」ノエルが言って、扉を引く。シガンシナ区でも辺鄙な場所にある家は珍しく灯りがついておらず、人気もなかった。ノエルの両親は商談でウォール・シーナに。親友の父はトロスト区へ出稼ぎに行っていた。一緒の馬車に乗って出ていくところを二人で見送ったのが数時間前のことだった。ノエルは日の光が入っていない暗い部屋に蝋燭を持ってきて火を灯した。誰もおらず、どこか寂しいカウンターで二人してお客のように座る。ノエルは蝋燭と共に持ってきていた大きな革鞄を広げて、中途半端にはみ出した服を入れ込む。
「明日、楽しみだね」
服を折り畳んでいる親友から、さっきまでの欝屈とした空気は霧散していた。「うん」ノエルも明るく返事して、来る明日の旅路を思い浮かべる。ウォール・ローゼにある親友の父が働く工房へ遊びにいってから、トロスト区を観光して戻ってくる。それだけのことだったが、子供の心を掻き立てるには十分過ぎた。大好きな外遊びもせずに、持っていく荷物をあれでもないこれが欲しいと言いながら荷造りする。
「屋台で、なんか買いたいな」
「おこづかいなくなっちゃわない?」
「ぅ……」
親友は気に入った絵本を購入したばかりだ。すかさず釘を刺され、目が逸らされる。そんな親友の姿に、ノエルは口を開けて笑った。しつこかったのか、首を逸らした親友の顔は曇り、頬はぷっくりと膨らんでいる。それがまた可笑しく映ったノエルは笑みを絶やさない。諦めた親友が不貞腐れながら服をたたみ始めた。「言い過ぎだよ、ごめん」ノエルには耳を貸さずに、黙々と続けている。その様子に笑みを隠そうとしないノエルは、畳まれた服を鞄へ押し込もうと椅子から立ち上がる。
轟音。鼓膜を突き破るようなそれは突風と共にやってきた。木屑や板が降り掛かり、反射的に頭を抱えて姿勢を下げる。恐る恐るノエルが目を開けたら、同じような格好の親友がいた。瞳に混乱を滲ませて劈くような悲鳴をあげる。むわりと吐き気を催すほどの鉄の匂いが窓から流れ込んできた。最初に飛び込んできたのは鮮やかな赤、恐ろしいくらいの青空。
「ぁ、あ…ああ」
ノエルが目をあけた先には、半壊した家の瓦礫に呑まれている親友がいた。そこから出ようと踠きながら、泣き声をあげている。引き攣ったよう悲鳴をどこか遠くで聞きながら、ノエルは操られるように首を持ち上げた。剥き出しになった人の中身。残骸の隙間から覗く空が、真っ赤な影で覆われていた。人間の形だけを縁取った"ソレ"は見たこともないような色の煙を巻き上げながら、悠然とこちらを見下ろしている。
「神さま……」
きっとこれは神が下した試練だ。あたしが本当に人を救えるのか、試している。ノエルは粘ついた唾液を飲み込み、首から下げた十字架を痛いくらいに握りしめてから「たすけッ、ノエル。たすけて、」助けを求める親友へ駆け寄った。
「今、引っ張り出すから!!」
ノエルが腕を引くと食いしばったような悲鳴を親友があげる。何かに引っ掛かっているようで、びくともしない。先ほどの無音が嘘みたいに、辺りから悲痛な叫びが聞こえてくる。知っている声が聞こえてこないことを祈りながら、木屑を掻き分けた。
「上の板を、板を……どけて」
数分格闘しても、親友の体は自由にならない。爪の間に木片が挟まって、血が滲む。子供の力では限界なのか、そう考えた時に親友がか細い声をあげた。
すぐさま、親友の上に乗っている板をどかす。親友の言う通りだ。このまま、体を引いてるだけじゃ何も変わらない。荒い呼吸を繰り返しながら、ノエルは必死に手を動かした。上半身が見えた状態になって、もう一度腕を引っ張る。今度こそ、絶対に。千切れそうに痛くても、不穏な足音がすぐそこまで来ていても。ノエルは一心不乱に体を引いた。
「ぬけ、た……?」
時が止まったかに思えて、親友と目を合わせる。ノエルは胸に飛び込んできた親友を抱きしめて、その暖かさにホッとした。瞼を閉じ、神さまに感謝を告げる。親友の足は出血こそしていたが走れないほどではなさそうだ。ノエルは勇気を奮い立たせて、立ち上がった。
半壊した家からどうにか抜け出し、路地に出た。ノエルが手についた木屑を払いながら顔を上げ、大岩の隣で呆然と立ち尽くす親友の背が映る。
「ねぇ、あれ…」
指を指した先には、地獄が広がっていた。生ぬるい鉄臭さが立ち込め、あちらこちらから死に際の絶叫が聞こえる。虫みたいに摘まれた男が、巨人を口汚く罵って、頭を齧られていた。「ひ、……ぁ」ぱたぱた水滴が垂れる音がして、親友の下に水溜りができる。
男の声がぷつりと途切れた。唇を真っ赤にした巨人がこちらを向き、無垢な黒と目が合った。ノエルは服を濡らしたまま、佇んでいる親友の手を取って走り出す。人混みに向かって、ただひたすらに前を向いて、走る。喉が痛い。心臓が死にそうなくらいに締め付けられ、鼓動しか聞こえなくなる。後ろから、悲鳴とか嫌な音が響いた。
神さま。ノエルは何度も何度も唱えながら、手を引っ張る。顔を大粒の涙がぐちゃぐちゃに汚した。焦点の合わない目がノエルに向いた。この子は、あたしが守らないといけない。きっと神さまも見てくれている。ノエルは何度も言い聞かせ、船を目指してひた走った。大きな岩が落ちていて、真っ赤な何かが潰れているのにも。気づいたらあれだけいた周りの人が居なくなってもお構いなしに、ノエルはただ足を動かした。
「は…」
どしん、と地面が揺れる。曲がり角から、大きな影がこちらを覗き込んだ。黄ばんだ歯には布切れや赤黒い何かが挟まっていて、赤く染まった小太りの体がゆらゆら揺れる。無邪気な赤ん坊のようなまん丸の、黒い瞳が二人をみていた。
「ひ…」
親友がノエルの手を痛いくらいに握る。小さな悲鳴は耳に入ってこなかった。ノエルの足が動かない。重くて、動かせない。神さま、ねえ。神さま、聞こえてるんでしょ。ノエルが何度叫んでも、巨人はこちら見たままで。
「は、はやく…にげない、と」
「ねえ」とノエルのそばからか細い声がする。どしん、巨人が踏み出してきた。口を魚みたいにはくはく動かした親友が涙の跡をつけ、頬を恐怖で歪ませる。
ノエルはわけがわからなかった。良い行いを神様は見ていているはずで、ずっと言われるがままそれを遵守してきたのに。"良い行い"をしていれば、神さまが見てくれているはずなのに。「ノエル!!」どしん、三回目の揺れで親友が叫ぶ。怠慢な動作で首を動かすと、縮まった瞳孔がノエルを捉えていた。
「ノエル……」
親友が縋るようにノエルを見る。ガクガク震えていても、手のひらは離れていなかった。
ああ。そうだ。ノエルはぎゅっと親友の手を握り直して、決死の思いでその瞳を見る。恐れや絶望で憔悴しきっている顔に光が灯った。
「行こう!!」
まだ終わってない。神さまは自分たちが安全なところに避難するまで見守ってくれている。だから、大丈夫。ノエルは今で積み重ねてきた善行と、その度に応えてくれた神さまを思い返す。隣にいる親友だって、自分が"良い行い"をしていたから、神さまが与えてくれたのだ。
「早く!」
ノエルに宥められ、若干の落ち着きを取り戻した親友を引いて走り出す。緊急時は貨物輸送船が使われるはず。多少遠回りでもいいから、船に辿り着かないと。路地で遊んでいたのが幸いした。ノエルが巨人を遠回しに避ける道を進もうとして、急に地面の振動が速くなる。
「ッ!!」
親友が声にならない悲鳴を上げた。「走って!!」巨人が、走り出したのだ。振り向けない。ノエルはすぐ近くまで迫ってきている死に脇目も振らず、がむしゃらに走った。ノエルの全身がもげてしまいそうなくらいに。軋む、喉が焼けるように熱い。後ろから名前を呼ばれ、ノエルは握った手のひらに爪を立てる。こんなのは終わりじゃない。始まりだ。神さま、みていてください。親友を救い、二人で生き残るところを。
「ぇ」
ふと、ノエルの体が引かれた。遠心力で投げ出される体、一度止まってしまうと限界を迎えた体は動かなくなった。砂埃が上がる。膝を擦りむいた。ノエルは、何が起こったのか理解できなかった。
どしん、どしん。巨人が近づいてくる。動けない。違う。一度止まった体はもう、動かない。
「え?なに、どうして、?」
意味がわからない、なんで、あたしが倒れているの。背後から死が迫ってきているのに。どうして、親友は泣きながらあたしを。
「ご、め…なさ、ごめ…ん、なさい」
ゆるして、と彼女の口が動いた。ずっと繋がれていた手はノエルの手と離れていた。違う。手を離されたんだ。親友が背を向ける。ノエルを置いていく。小走りが駆け足になって、走り出す。ノエルはただそれを目に焼き付けるように見ていた。たすけて、掠れた声で呟く。だれも、聞いてはくれない。なんで。神さまが、応えてくれない。
生ぬるい息が顔にかかる。とてつもない匂いにその場で吐いた。地面に打ち捨てられた身体をつままれる。容赦なく掴まれ、「かみざま」祈りの言葉が潰された。内臓が圧迫され、ノエルが胃液を吐き出す。真っ赤な手の中、考え付くのは輝かしい、成すはずだった未来。ボキ、何処かの骨が折れた。ノエルの肺に突き刺さったようで、ひゅぅひゅう呼吸をする。ノエルの脳内で記憶が走馬灯のように流れていく。その大半は親友との思い出だった。自分を裏切った、ソイツとの。
「は、あ゙!!」
ノエルの唇から鮮血が吹き出す。止まらない。体が嫌な音を立て、むわりとした死臭が身体を包んだ。小さな体が湿っぽい口の中に押し込まれていく。ノエルの歯がガチガチ音を立て、脳が危険信号を出して鳴り止まない。頭は落ち着いていても、体は死から必死に逃げたいようだった。もがいてみる。体が巨人の唾液に絡みついて、滑るだけでピクリともしない。唾液は所々真っ赤な塊や皮膚が混じって見えた。粘ついた透明な液が絡み付いて、肌をゆっくりと流れ落ちてく。喉の奥からする生暖かい匂いが嗚咽を誘う。
ノエルは痛みの中でつぶやく。ああ、神さま。私の行いが足りなかった。だから、あなたは私をこんな目に合わせるんですか。見ているんでしょ、なら。なら。
「だずげで!だずげ、でくだざ!」
ずっと"良い行い"をしてきた、あたしを。ノエルは粘ついた唾液の上でもがくが、救いの手が差し伸べられることはない。
「うそ、づぎ!!」
ノエルの腹がミシミシ音を立てる。喉から血反吐が滝のように流れ出ていく。神さまなんて、いなかった。あたしは、一人だ。ノエルが何度叫んでも、誰も見ていない。いるのは、あたしを見捨てたあいつだけ。"良い行い"をしようとしたから。母の言葉を信じていたから。アイツを助けたから、あたしは。あんなのは、神さまがくれた贈り物でも、なんでもない。人の皮を被った悪魔だ。やっとわかった。神様はいない、でも。悪魔は存在する。ずっと目の前にいたのに、気づかなかった。空虚な言葉を何度も馬鹿みたいに吹き込んできた母親のせいだ。
あたしがあいつを囮に使うべきだった。助けなきゃよかった。あんなの見捨てて逃げればよかったのに。妬ましい。あたしは痛くて苦しくて辛いのに。あたしをこんなにした悪魔が、誰に断罪されることなく、悠々と逃げていく。
「ゔぉ、え」
地面に真っ赤な絨毯を作った。石畳の淵に流れ込んで、川を作る。ノエルの内臓が捌かれて、突き破って紐みたいにぶら下がった。冷たい。歯が体に押し当てられている感覚がした。喉から胃液と血を地面に撒き散らす。喉が。泥が喉に詰まっているみたいに苦しい。
「ああああああ!!!」
ノエルの頭蓋骨が卵の殻みたいにぐしゃりと潰れて、絶叫した。喉が焼けるように痛い。喉の皮膚が引き伸ばされて裂けているせいで内側に風があたっていて、冷たい。脳みその一部がちぎれて、巨人の喉に落ちて行く。
「ぃ、ぎ…」
何かが液体の中にボトボトと落ちた音がする。小さくて醜い潰れた無花果のような何かは、故郷と同じ真っ青な青空に手であった部位を伸ばす。
「…だ、れか。たずげ、」
ノエルの首に巨人の歯が降りた。血走った目が歯に押し出されて、外に飛び出る。潰れた何かが巨人の口からこぼれ落ちた。赤い糸を引いた目玉だけが、親友の背をみていた。