島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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第14話 萌芽

 窓の外を眺めてもそこに望んでいた光景はなかった。茶色い土が所々覗いているような、薄い雪が積もっている。まばらに降る雪の結晶が勢いを強める気配は全くない。豪雪とは大袈裟にも言えない穏やかな冬の流れを見て、去年がいかに異常気象だったのか再確認させられる。訓練兵が雪掻きに駆り出されたのが朝ではなく、昼前だったのは対応が遅れていたんだろう。去年の経験があったから、今年も大雪が降らないものかと考えていたので残念だった。全身の筋肉を酷使する雪掻きに駆り出されるのは嫌だけれど、去年よりは体力も上がっているし、また残り時間を使って遊べたら楽しいに違いない。うまくいけば、交渉次第でホットミルクが手に入るかもしれないのだ。凍えるような寒さの屋外で働いた後、暖かい飲み物が体に染み渡る感覚は忘れられそうにない。

 雪を楽しみにするなんて、初めての経験だ。こんな風に変わったのは、同期のみんなの存在があってこそなんだろう。色鮮やかな思い出のなかで、いっとう輝いてみえる大切な記憶。思えば、訓練兵団にいるのもあと一年。今のうちに思い出を増やしたい、と思ってしまうのはあたしが欲張りだからだ。来年の冬は雪山訓練があるので、予行練習がかさむ。今年のうちに遊んでおかないと、あっという間に時間は過ぎてしまうだろう。肌寒さを感じつつ、寝床から怠慢な体を起こす。外の風景が期待外れでも、肩を落としてはいられなかった。すれ違う同期に挨拶をしながら、宿舎を出る。纏わりついてくる冷気を振り払うように足を動かした。目的地は朝から生き物の気配で騒がしい厩舎だ。

 

「おはよう」

 

 厩舎に入ったら、麗しき相棒の彼女に声をかける。偶然か必然か、彼女は瞳をゆっくりと瞬いて鼻を鳴らした。訓練兵に入りたての頃から、すっかり定着した日課だ。備え付けのブラシを活用して厩舎の通路を軽く掃除、終わったら彼女の世話をする。訓練所では馬術以外にも乗馬する機会が多い。使い古して擦れてしまった蹄鉄の汚れを丁寧に洗い流していく、馬にとって蹄は重要な部位だ。冬場では乾燥しがちなので、彼女の動向に注意を払ってお手入れした。足が終わると、楽しいブラッシングの時間になる。最近の出来事やぼやきを呟きながら、ゴワゴワとした手触りの毛並みを整えていく。ライナーの話はお気に召さないらしく、とばっちりを喰らうので無意識に避けてしまう。ギイギイと軋んでいる厩舎の隙間風に体を震わせつつも、大袈裟に体を動かして寒さを忘れようしていた。雪を甘く見て厚着一枚で出てきたのがよくなかったのだ。皮のジャケットを着ていれば、多少はマシだったのに。自分の軽薄な考えを恨みつつ、美しくも絡まりやすい立髪も一通り綺麗になったので、身近にあったバケツを裏返しにして腰掛ける。片手にブラシを持ったまま、足元から冷え込んでいる体を手で摩った。彼女の満足げな表情を見るに、ブラッシングは終わりらしい。ブラッシングが苦手な馬もいるけれど、彼女は真逆だ。自分が凛々しい姿をしていると知っているんだろう。まるで、身だしなみを整えて欲しいかのように手入れを催促するのだ。あたしが全体をブラッシングをしても彼女が不機嫌だったら、反応を見つつ毛並みを整えるのに専念する。調子の悪い日や眠気が抜けきれない時なんかは、一度目が雑になってしまって機嫌を損ね、彼女の機嫌を取るのに訓練開始のギリギリまで厩舎に籠ることもあった。馬術の成績がそこそこ良いのは、間違いなく彼女の力あってこそなので不満はない。落ち着いている彼女の姿に胸を撫で下ろしつつ、何気なく目に留まったのは漆黒の瞳だった。出会ったばかりに恐怖していたのが馬鹿らしくなるくらい、気品のある馬だ。全てを見透かしたような瞳が、今は安心感すら感じる。

 

「最後の一年、よろしくね」

 

 怖がらせないように手をゆっくり近づけて鼻筋を撫でる。訓練兵団を卒業したら、あたしが彼女の元を離れて、新しく入ってきた訓練兵に回される。彼女と引き合わされた兵士は幸運だ。こんなに利口で美しい馬と三年間を共に出来るのだから。あたしが彼女の主人でいられるのはあと一年。出会ってきた中で最低の主人に格付けされないためにも、今のうちに努力しないといけない。心中で渦巻いている物悲しさを断ち切るようにして、息を深く吐き出す。浮かび上がる白い息が空中に溶けて消えていった。

 

「ノエル?」

「わッ!」

「ゔっ!!」

 

 突然、背後から声をかけられて振り返った。ゴンッと言う重い音と額に鈍い痛みが広がって、前に立っていた影が呻き声を上げながらふらついて数歩下がる。目まぐるしい出来事に理解が追いついたのは数秒後だった。未だ、ぶつけた箇所を抑えているマルコに駆け寄る。

 

「ごめん、マルコ!」

「や、やっぱり、けっこう痛いね……」

 

 痛そうに顔を歪めていたマルコがあたしを安心させるように微笑む。言われてから思い出した。石頭を知らない相手なら対人格闘術で通用すると企んで、マルコに相手を申し込んだことがある。作戦は成功。かなりのダメージを負っていたので、申し訳なくなってしまったのだ。

 

「ほんと、ごめん……」

「謝るのは僕だよ。急に話しかけたから」

 

 自分の額を摩っていたマルコが自嘲しながら笑う。朝から厩舎に来る人がいない訳ではないのだけど、冬になって冷え込んできたからか、だいぶ少なくなった。ここ最近なんて、一人と一頭で会話していきたので油断していたのだ。偶然でも頭突きしてしまったマルコには申し訳ない。

 

「ノエルは馬の世話?」

「うん……」

 

 伏せ目がちにマルコを覗うけれど、額を痛めている様子がなくてほっとする。これからは、もっと周りを見て行動しないといけないな。今後の身の振り方を胸に留めていると、マルコはあたしと背後にいる相棒に目をやってから口を開いた。

 

「朝から偉いな」

「えへへ……マルコも馬の世話をしにきたの?」

 

 マルコの言葉に気分を良くしながら、不思議に思っていたことを尋ねる。朝から厩舎でマルコと出会うのは珍しい。大抵はジャンと一緒に食堂へ入ってくるか、既に席に座って談笑している印象だった。

 

「その……厩舎にノエルみたいな人影が見えたからさ」

「ああ!水汲みに行った時かなぁ」

 

 マルコは少し言葉を濁してから、悪戯がバレた子供のような顔で頬を掻いている。さっき外に出て彼女の飲み水を汲みに行ったのを見たんだろう。井戸の底に薄氷が張っていて汲むのに苦労してしまったから、井戸の前で慌てている姿がマルコの目に入っていないことを願おう。

 

「ジャンはいないんだ?」

「まあ……ずっと一緒にいる訳でもないから」

「それもそっか」

 

 マルコとジャン、二人セットの印象が強いから勘違いしていた。あたしだって訓練兵団になってからはライナーたちとずっといる訳でもないのに。眠気が抜けきれず、くだらない質問を投げかけたあたしの目を覚まさせるようにして、ヒュオオと冷気が厩舎を吹き抜けた。温まりかけていた体の熱が持っていかれ、寒暖差に震え上がる。

 

「ノエル、ジャケットはないのかい?」

「持ってこなかった。ジャケットなしでいけると思ってたんだけど……」

「ああ、急に寒くなったからね」

 

 厩舎の隙間風に目を瞑り、明らかな軽装で寒さに耐えながら、後悔を吐露する。緩やかに気温が下がるならまだしも、今年は寒暖差が激しい。風邪はひけないので、体調管理が大変だ。マルコも同調してくれて、困ったように眉を下げていた。

 

「冬の寒さには、いつまで経っても慣れそうにないなぁ」

「そうだね……真冬の訓練にも慣れないよ」

「今日くらいの天気だったら、屋外でもやるからねー」

 

 流石の訓練兵団でも去年のような猛吹雪の中で訓練はしない。とは言っても、天気を理由に屋内で座学が実施されるのは圧倒的に少なかった。教官たちは悪天候すら利用して訓練兵を鍛えてくる。訓練の中止に希望を抱いていたのは最初だけで、今は前夜の雲行きが怪しいと皆一様に天候の回復を願うようになった。まばらに降る雪と肌を刺すような冷気を運んでくる突風に耐えることが今日の試練になりそうだ。

 

「しかも兵站行進か……」

「なかなかきつい訓練になりそうだ」

「ほんとに」

 

 体力と筋力があまりないあたしにとって、苦手な科目の一つだ。都合よく忘れ去っていた現実を思い出して、ガックリと肩を落としていると、背後にいた彼女が大きく鼻を鳴らした。振り返ると、不満げな二つの相貌と目があう。自分を蚊帳の外にするのか、とでも言いたげな様子だ。このままでは髪の毛を食べられかねないので、そうなる前に手を伸ばす。

 

「……ノエル、ちょっといいかな」

「うん?」

 

 興奮気味になっている彼女を嗜めていると、その様子を黙って見ていたマルコが声をかけてくる。呼び声に応えて振り返れば、何を思ったのか、一歩前に出たマルコがジャケットを脱いでいるところだった。呆然としているあたしの肩に脱いジャケットを被せて、マルコは満足そうに小さく頷く。

 

「よし、これで少しはマシになるはずだ」

 

 あたしに分けられる直前まで、人のぬくもりに触れていたジャケットは優しい温かさを持っていた。革製で、元より防寒性能が高いジャケットだ。マルコの言った通り、ないのとあるのでは大違いだった。持ってこなかったのが大誤算だったと確信すると同時に、心ともないシャツ一枚になってしまったマルコが心配になる。

 

「あ、あったかいけど、でも……」

「ノエル、僕なら平気だよ」

 

 肩にかけられたジャケットを前にして狼狽するあたしを安心させるようにマルコは微笑んだ。嘘か本当か見分けがつかなくて、あたしは眉を顰めることしかできない。厚着一枚のあたしですら寒いのに、シャツ一枚で耐えられると思えなかった。気遣いは嬉しいけれど、あたしのために無理をしてマルコに風邪を引いて欲しくない。

 

「だから……今だけでもいい。着ててくれないかな」

 

 マルコが懇願するように柔らかく微笑みながら言う。あたしには、その親切心を無下にはできなかった。無理にでもジャケットを押し付け返そうとしていた手を止めて、ジャケットに手を通す。マルコのジャケットはあたしの物よりも一回り大きくて、手の部分が完全に隠れてしまった。ぶかぶかで不恰好だけど、寒さを感じることはない。何よりも、お裾分けしてもらった優しさで体の芯から暖かかった。

 

「ありがとう。マルコ」

「いいんだ。僕がしたかったことだから」

 

 感謝の言葉を告げるもマルコは謙遜して首を横に振っている。素直に受け取ってくれてもいいのに、マルコにはその気がないようだ。照れたように頬を掻いてから、にこりと口元を綻ばせている。マルコは優秀でありながら腰が低いのが魅力だけど、こうなってくるともどかしかった。

 

「わ、外は吹雪いてきたのかな」

「そうかもしれないね」

 

 粉雪を纏ったかのような白い風が足元を通り抜けていく。さっきまでは風が吹く度に体を震わせていたのに、もうへっちゃらだった。とは言え、ずっとマルコのジャケットを奪っていいはずもない。早く自分のジャケットを取りに戻らなければ。ブラッシングは終わっているし、あと残っているのは片付けくらいだ。白い粉雪が隙間だらけの厩舎から出て行くのを見てから、あたしは備え付けの用具を手に取った。

 

「あとは……片付けか。マルコ、ジャケット返したいから宿舎まで一緒に来てくれる?」

「もちろん、手伝おうか」

「これだけだから大丈夫。ありがとう」

 

 水汲みに使った木製のバケツを指先に引っ掛けて、外にある井戸を目指し、厩舎の扉を開ける。空から舞い降りてくる雪は去年見た物よりめ小さくて、地面に落ちた殆どが溶けていた。希望を捨てきれずにいたあたしは落胆して肩の力を抜く。井戸の淵に積もっている雪も、第一関節分あるかどうか。みんなと遊ぶのは諦めるしかなさそうだ。井戸の側にバケツを置いた拍子に、カランと哀しい音が鳴った。

 

「雪降ってないね」

「もっと積もって欲しいの?」

 

 頭に乗った雪の結晶を払い落としながら、つぶやく。失望の色が滲んでいたのか、マルコは怪訝そうに聞き返した。マルコの反応は最もだ。訓練の負担が増えるだけだから、普通ならあたしも天気が悪くなって欲しくない。この時期だけは特別なのだ。

 

「大雪が降ったら雪かきが大変じゃないか」

「それも、嫌ってくらいわかる。でも、去年みたいな大雪とか降らないかなって……」 

「あれは異常気象だから……そうそうないと思うな」

「だよねぇ」

 

 マルコに改めて事実を突きつけられ、声色が暗くなってしまう。雪山訓練を控えた来年に遊ぶ時間が残っていることを願うしかなさそうだ。せめて、みんなで熱々のホットミルクさえ飲めれば嬉しいのいに。

 

「あたし、マルコのホットミルクが忘れられないんだ」

「ああ、あの日の!」

 

 切実な感情を吐露すると、マルコもあたしの態度にピンときたようで手を叩いていた。不快な膜がなく、とろみのある口溶けのミルク。凍えきった体に注がれる濃厚な味わいが芯から全身に広がる感覚。瞼を閉じれば、すぐに思い出せる。高級なものは何一つ入っていないだろうに、あの味は格別だった。みんなのためにミルクを用意してくれたマルコの想いと、一仕事終えたひとときをみんなで過ごせたことであれ程の美味しさになったんだろうか。

 

「生きた中で一番美味しいホットミルクだったよ」

「じゃあ……君がジャケットを取りに行ったら、食堂に寄ろうよ」

 

 拳を握ったまま、しみじみとただ確信を持って言うと、頬を緩ませているであろうあたしに向かって、マルコは考えてもみていなかったことを口にする。諦めかけていた光景が色を取り戻し、衝撃的な展開に立ち止まってしまう。あのホットミルクがまた飲める。魅惑的な誘いを断るはずもなく、あたしはその言葉へ食い気味に飛びついた。

 

「い、いいの!?」

「今日も寒いから、丁度いいんじゃないかな」

 

 詰め寄りながら是非を問うあたしにも、マルコは微笑みかけてくれる。ジャケットで体は暖かくても、指先はまだ冷えているし、馬の世話を終えたのち、訓練までの休憩にホットミルク。最高と言うほかないだろう。そう考えていたのはあたしだけではなかったようだ。

  

「この時間なら、食堂には誰もいないしね。牛乳二杯分くらいなんてことないよ」

「今から……二人で?」

 

 思い立ったのはあたしで何もやましいことはしないのに、いざするとなると少しばつが悪かった。朝の食堂で二人、冬にホットミルクを飲みながらゆっくりと冷えた体を落ち着かせて、特別な朝を楽しむ。こんな素敵な思い出を二人だけで記憶して良いものか。特に部屋で寝ているであろうアニには悪いけれど、これが早起きの特権なんだろう。

 

「うーん……全員分は難しいから、みんなには内緒になるね」

「……みんなには悪いけど、やっぱり飲みたい!食堂行こう!」

「良かった」

 

 マルコは目尻を下げて何故だかホッとしたようにつぶやく。隣にいるあたしはホットミルクのことしか頭になかった。ふんふん、と自然に鼻歌を歌いそうな心地のまま、二人で宿舎に向かって歩いていく。マルコは明らかに気分が上々のあたしを鬱陶しくすることもなく、微笑ましそうに見つめてから意外そうに言った。

 

「そんなに喜んでくれるとは思ってなかったな」

「すっごく嬉しいよ。訓練兵もあと一年だからさ、沢山思い出を残しておきたいんだ」 

「そうか……もう、そんなに経つんだね」

 

 あたしの言葉でマルコも時の流れを自覚したらしく、しみじみと噛み締めるように言った。訓練兵団でよ生活は目まぐるしい。大変で辛いこともあるけれど、隣にはかけがいのない大切な仲間たちがいて、幸せな時間もいっぱいある。

 

「あたしは残りの時間で、みんなと色んなことがしたい。マルコとも……」

「……ノエル」

 

 あたしが進むのは生存確率が低い調査兵団。エレンとは一緒にいられるとして、同期のうち何人が調査兵団に入るのか。その何人をあたしは救えるんだろう。ただ、同期が死んでいくのを目の前で見たいだけなのか、あたしが見られる側か。最悪の事態が普通の世界、それが壁外だ。もういっそ、みんな調査兵団以外の兵科に所属して欲しいと思うのは我儘なんだろうな。調査兵団志望の筆頭であるエレンを止めれる気がしないし、言ったら嫌われてしまいそうだ。

 卒業したらこの生活はできなくなる。みんなといられる貴重な時間を、記憶を。どうか、あたしは増やしたいと願ってしまう。色褪せることのない宝物の時間を。

 

「今日もきっと素敵な思い出になるよね」

「うん……二人の、思い出になれたらいいな」

 

 マルコは一呼吸の間をおいて、首を縦に振ってくれた。あたしは拳を作って粉雪を散らしている曇り空に向かって突き上げた。マルコのジャケットだから丈が長くて拳は隠れてしまったけれど。念願のホットミルクを前にして身軽になった体で跳ねるように歩いたら、宿舎にはすぐ着いた。まだ活動している人がそれほど多くない、静かな宿舎の前で足を止める。

 

「あたしのジャケット取ってくる」

「僕は外で待ってるよ」

「わかった!」

 

 マルコに返事をしたら、騒音にならない程度の駆け足で部屋に向かった。何枚も扉を通り過ぎて、目的地を目指す。急いだから、着くのはあっという間だった。扉の淵に手をかけ、自室を覗くもベッドから起き上がっている影は数えるほど。膨らんでいるアニのベッドに気を配りながら、自分の服が入っているクローゼットを開いた。マルコのジャケットから腕を抜き、丁寧に畳んでから自分のジャケットに着替える。

 

「おはよう、ノエル」

「あ、おはよう。ミーナ」

 

 ぶるっと肩を震わせているあたしに話しかけてきたのは、手を口に当てながら大きな欠伸を溢しているミーナだった。あたしが挨拶すると、眠たげな瞳を怠慢な動作で瞬きさせてからある一点に視線を向ける。

 

「そのジャケット…大きくない?」

「マルコに借りてたんだ。今返しにいくとこ」

「え……はっ!ま、マルコに!?」

「う、うん」

 

 ミーナは驚愕で目を見開いてから、グイッとあたしの体を掴んだ。両肩に手をかけたまま、上下に揺さぶられる。眠気を纏っていた姿から一転して、急に活発になったミーナにあたしは狼狽するしかない。小声でありながらも、あまりの形相にこくこくと首を上下に振った。

 

「いつ?どこで?」

「さ、さっき……厩舎で」

「ふぅん、なるほどね……」

「み、ミーナ、手を」

 

 降参を伝えるように両肩を掴んだミーナの手を軽く叩いた。ミーナは今気づいたような素振りを見せて、「ごめん」と謝罪しつつ肩を離してくれる。ミーナの食いつきに面食らったものの、呆けている場合ではない。自分の襟を直し、手櫛で髪を整えて畳んで置いたマルコのジャケットを両手で抱える。

 

「あ、そういえば……ミーナも一緒にくる?」

「えっ、どうしたの?」

「マルコと一緒にホットミルクを飲むんだ」

「私は行かない!絶対!」

 

 少量なんだから、三人分くらいは確保できるんじゃないだろうか。我ながら名案だと鼻を高くしつつ、ミーナの反応を伺ったけれど、すぐさま断られてしまった。

 

「いいの?」

「私は良いから!それよりも早く、マルコのところ行って来なよ!」

 

 ミーナは確固たる意志があるみたいで、とんでもないとでも言いたげな顔で首を横に振った。しょんぼりするあたしの背中に手が置かれて、寝起きとは思えない力でぐいぐいと部屋の外まで押し出される。「感想聞かせてね」と言ったっきり、ミーナと別れたあたしは何か腑に落ちないような違和感を抱えつつも早歩きで宿舎の外に出た。待っていたマルコと合流して畳んだ上着を返しつつ、食堂まで歩き出す。何はともあれ、ホットミルクはすぐそこだ。薄く積もった雪をザクザクと鳴らしながら、二人で肩を並べて歩く。部屋でミーナに捕まり、少々遅れてしまったと伝えたらマルコは訳知り顔で笑っていた。

 

「……ジャンに感謝しないといけないな」

「ジャンがどうかしたの?」

 

 この場にはいない人物の名前を小さく呟いたマルコに聞き返す。独り言のつもりだったんだろう。首を捻っているあたしを見て、眉を下げると曖昧に微笑んだ。あたしから視線を逸らし、遠くを眺めてから目を細めたマルコが口を開く。

 

「ううん。ちょっと貸しがあるんだ」

「マルコがジャンに?」

「あはは、気を利かせてくれたんだよ」

「そうなんだ……?」

 

 はぐらかすような言い方をするマルコに詳細を聞き出す勇気は出なかった。何より、あたしの頭にはホットミルクのことしかない。ダラダラと雑談を続けながら歩いていたら、食堂まであっという間だった。厨房でホットミルクを作って、向かい合いながら熱々のコップに口をつける。なんの隠し味もないはずなのに、念願のホットミルクはやっぱり信じられないくらい美味い。飲み干してしまってはもったいないので、わざとちびちび飲んでみる。両手で覆うように持つと、指先から伝った熱が全身に溶けていくようだった。

 

「っー美味しい。マルコ、ありがとう」

「……よかった。そんなに喜んでもらえると僕も嬉しい」

「うん、何杯でも飲めちゃいそう」

 

 食堂にみんなが集まってくるまで、あたしとマルコは密かに特別な朝のひとときを過ごしたのだった。

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