島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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【注意】恋愛要素かなり強め。


第16話 邂逅

 

 休暇にも関わらず、朝早くから目が覚めてしまった。アニの寝顔を横目に、そろりと朝の静寂に降り立つ。まだ数回しか身につけていないワンピースを身に纏ってその場でくるりと一回転した。アニと買った貴重なよそいきの服だ。ライナーに言われてからは気が向いたら着たりしているけれど、ほとんど新品。大切に保管しているので皺も少なく、あたしの服とは思えないくらい優雅だ。

 登ってきた朝日を背にして、陽気に袖を通していく。いつもの服とは違って、滑らかな素材が気持ちいい。その場で軽く伸びをしてから、洗面所に向かった。開け放たれた窓から入ってきた生温い夏の風が頬を撫でる。蛇口から出る水を手で掬い、軽く顔を洗った。ぽたぽたと雫を垂れていく。その髪先を意味もなく手ですいて、持ってきたタオルを手に取った。気持ちのいい朝を迎えると、気持ちのいい日を過ごせる。自分へそう言い聞かせてから、自室に戻る。歩く度に揺れるスカートの裾が、胸を躍らせた。

 この時はまさか街へ降りることになると思ってもみなかった。捨てたはずの記憶と、再開することも。

 

 一歩踏み出せば、町の賑わいがあたし達を包んだ。立ち並ぶ色とりどりな露店、商いをする人々の掛け声。店主たちの売り文句を聞き流しながら、軽い足取りで進んでいく。トロスト区はいつ来たって楽しい。前方ではあれやこれやに目を輝かせたサシャを、コニーが全力で引き留めている。エレンが難しい顔で頼まれた物を復唱していて、その隣を歩くのはミカサとアルミン。トロスト区はいつ来たって楽しい、友人がいたらもっともっと楽しい。サシャのあんまりなはしゃぎように吹き出して、口元を抑える。並んで歩いていたマルコも同じタイミングで耐え切れず笑みをこぼしていた。マルコと視線がかち合って、顔を見合わせてから笑い合う。

 これだけじゃまるで遠足のようだが、104期訓練兵、計七名はとある目的の達成のためにトロスト区へ赴いていた。とある、とは言ったものの大層な任務ではない。

 朝、厩舎の掃除も終えたあたしはひと足先に食堂でアニを待っていた。そこにたまたまマルコがいて、雑談をしているうちに人は増えていった。エレンとアルミンが欠伸をしながら入ってきたので、隣に誘ってぺちゃくちゃと話を続けていたら、狙っていたかのようにミカサが加わってきた。お腹が減ったと嘆きながらサシャとコニーが入ってきて、食堂が賑やかになってきた頃だ。丁度みんなで次は誰がくるか話し合っていて、現れたのはあまりにも予想外すぎる人だった。休暇中にも関わらず、一切の緩みを見せずに佇む、キース教官だ。騒ぎすぎてしまったのかと青ざめたが、教官の口から発された言葉は予想だにしないものだった。

 

「なあ、ほんとに後でいいのかよ」

 

 新鮮そうな野菜が売っている屋台を通り過ぎても一向に足を緩めないサシャたちに向かって、エレンが呟く。全く同じことを言おうとしていたあたしは怪訝そうな表情を浮かべるエレンと共に、先頭を楽しそうに進むサシャたちへ視線を向けた。

 

「いいんですよ!荷物になっちゃいますから!」

「一応教官からの指示だろ。早く帰った方がいいんじゃねえか」

 

 サシャが良く言えば明るい笑顔で、悪く言えば何も考えてなさそうな笑顔で言うけれど、エレンは表情を緩めようとしない。あたしも全く同じ気持ちで、通り過ぎていく野菜を見る度に焦燥感が降り積もっていた。

 

「なあ、アルミン」

「僕もそう思う、けど……」

「つまんねぇこと言うなよ、アルミン」

 

 エレンに同意を求められ、小さく頷いたアルミンの肩にコニーが勢いよく腕を回す。自分より小さい体とは言え、突然力をかけられたらよろけてしまう。アルミンは「うわ、!」と声をあげて半ばコニーに押し潰される形で足元をふらつかせた。

 

「俺たちは折角の休暇を潰されて、わざわざお使いに来てやってるんだぜ?」

 

 訓練地で提供される食事の材料は訓練兵団管轄の畑から送られてくるらしい。なんでも、その畑が不作で訓練地に回す野菜が不足しているとのこと。物凄い剣幕で何を言われるのかと思ったら、内容はただの買い出しだった。コニーが「なんだそんなことかよ」と教官の前で口にしてしまったのも多少は頷け、なくもない。

 

「少しくらい許されなきゃおかしいだろ」

「コニーの言う通りです!少しくらいご飯食べたって許されますよ」

 

 任務だからと気を引き締めようとするあたしたちに反発しているのがサシャとコニーの二人だ。さっきからずっとこんな調子で、さっさと先頭を走っていってしまう。こんな人混みで逸れては敵わないから、必然的にサシャたちについて行くしかなくなっている。

 

「この間の襲撃予想訓練の時ですら、何も食べられなかったんですから!!はッ……」

 

 熱弁するサシャの足がついに止まった。その前には美味しそうな骨付き肉が並んでいる。一介の兵士なら絶対に手が出せないような高級品だが、サシャの手には教官から渡された財布がある。財布と言っても、銅貨が入った何の変哲もない袋だ。ただ、中に入っている金額は桁違い。訓練兵全員を賄えるくらいといったら、そうなるのも当然だろう。今の状況のようになるのを予知して、一番安全そうなアルミンに渡していたのだが、さっきのタイミングでコニーが盗ったらしい。

 

「サシャ、そのお金は駄目」

「あ、ちょっと!ミカサ!返してください」

 

 中々の連携プレーだけど、慌てるのはまだ早い。こちらには、なんてったってミカサがいるのだ。サシャが店主に注文するよりも先に、ミカサは軽々と財布を奪った。サシャが無くなった手の重みにすぐさま気づいて嘆く。「ミカサ!この野郎!」コニーまで一緒になって叫び、ミカサから財布を取り戻そうとする。ミカサは手に持った財布を軽やかな手捌きで動かしてサシャの魔の手から逃れている。コニーは、身長が足りなくて相手にされていない。

 

「飯食うんなら自分の金で食えよ」

「エレン。お前知らないのか?自分の金より人の金で食う飯の方が美味いんだよ」

 

 ミカサとの攻防を半目で眺めていたエレンが、至極真っ当なことをつぶやくと、妨害を諦めたコニーがやって来た。絶妙に顰蹙をかいそうなキメ顔で言ってのける。

 

「……まあ、そりゃあそうだろ」

「ねえ。マルコ、そのお金も税金なのかな?」

 

 兵団の資金源が税金であることは、座学や教官から耳が痛くなるくらい言われるので知っている。トロスト区で固定砲整備をする時なんか、たまに税金泥棒と文句をつけられたりするし。実際に見たことがないから実感が湧かなかったけど、ミカサが持っているあの財布の中身こそ、税金なんじゃないだろうか。コニーたちのやり取りを眺めていたあたしは、ふと知りたくなって隣のマルコに問うた。

 

「そうだな…あのお金は誰かが苦労して稼いだものだ」

 

 予想はやはり当たっていたらしい。ウォール・シーナの貴族たちなら兎も角。ウォール・ローゼの人たちがどんな暮らしを強いられているか、あたしたちは身に沁みて知っているはずだ。困窮した生活の中、身を切るような思いで払っているお金。

 

 「それを……二人とも、本当に使っちゃうの?」

 

 そのお金を私利私欲で使ってしまったら、それこそ税金泥棒だ。言い返すことすら出来なくなってしまう。試しにもう一度聞き返したら、サシャとコニーもやっと実感が湧いて来たのか、段々と罰の悪そうな顔が滲んできた。

 

「う。そ、それは……」

「わ、わかりました…諦めますよ」

 

 ようやく諦めてくれたらしい。最初から反対だった者同士で顔を合わせて安堵する。ミカサも財布をアルミンに返して、乱れたマフラーをかけ直していた。サシャとコニーは相当ショックだったらしく、がっくりと地面に倒れそうな勢いで項垂れている。ついでにサシャのお腹が動物の鳴き声みたいな音を立てた。あんまりの落ち込みように、訓練地に帰ったらお昼があるから、と声をかけようとしてサシャが勢いよく顔を上げた。

 

「そのお金は諦めます。なので、誰かご飯を奢ってください」

 

 諦める、とは言い方が悪かった。サシャが食に関して諦めるわけがないのに。さっきの落ち込みようが嘘みたいだ。あたしたちが驚愕する間も与えず、サシャは清々しく言い切った。

 

「エレン、あそこの肉屋とか美味そうじゃねえか?」

「行きましょうよー!エレン」

「あんまりくっつくなよ!熱い!」

 

 ただ今、真夏の真っ只中。お昼前の城壁都市である。道に照り返した熱だけでも肌を焼かれているようなのに、エレンは厄介な二人に目をつけられてしまった。肩を組まれ、腕を掴まれ、非常に歩きづらそうな上、厄介なおねだりのおまけつきだ。ミカサが飛んでいきそうなものだが、エレンの心からの叫びでやっとミカサが仲裁した。絡んでいた二人の腕を瞬きの間に外して、ちゃっかり自分の手を差し出している。

 

「エレン。私の手は冷えている、だから手を」

「そんな熱そうな格好してる癖によく冷えてんな」

 

 指摘されたミカサはいつも通りマフラーをつけたまま、涼しい顔をしている。もう三年目だから慣れたけれど、一年目は二度見しちゃったな。夏でも長袖のジャケットを脱ぐことは許されないのでいつも死ぬほど熱い。ミカサはジャケットを着た上でマフラーまで巻いて、訓練もこなすんだから恐ろしいのだ。しかも、成績は毎回トップ。切り損ねた巨人模型を見たことがない。

 

「ノエル、私さっきからあそこの店が気になってて……」

「あ、あたし?あたしは無理だよ!」

 

 エレンにガードが付いてしまったからか、涎を垂らしたサシャがいそいそと近づいて来たので、手と首を横に振る。今着ているワンピースを買ってしまったのもあって、今兵団を追い出されたら二日で餓死するくらいには貯金がない。

 

「それなら、マルコでもいいですよ」

「サシャ…」

 

 切羽詰まっているあたしの様子を見て、サシャはころりと相手を変える。流石のマルコも呆れたように声を上げた。サシャの食い意地は恐ろしい。まるで見境がない。

 美味しそうな匂いを出す屋台が出る度に強請られるのをどうにか回避しつつ、アルミンが持つ財布を前にして善意と空腹の狭間で葛藤してる二人を見ながら七人で歩く。本来の目的を忘れかけている様に感じつつも、滅多にない大人数でのお出かけを楽しんでいると、つま先が何かに引っかかった。

 

「わっ」

「ノエル!」

 

 迫ってくる地面へ反射的に手を出し、地面との激突はどうにか免れたみたいだ。細かな石が手に刺さって痛いこと以外、どこも怪我はしていない。人混みがあたしの前で割れているので、目の前に伸ばされている手を有難く借りて素早く起き上がる。

 

「怪我はない?」

「うん、びっくりしたけど」

 

 あたしを引き上げるなり、マルコが不安げに聞いてくるので安心させる様に笑ってみせる。前ばっかり向いていたから、足元に目がいってなかった。この人混みだ。誰かの足が引っかかってしまったんだろう。

 

「危ないから、このまま繋いでおこう」

 

 感謝を告げて借りていた手を離そうとしたら、マルコが提案してきた。揶揄っているとか、そんなんじゃない。一目で見てわかる位、真剣そうな姿に目を丸くする。

 

「マルコが大変じゃない?」

「全く。こっちの方が嬉しいし、ね」

「そう?」

 

 確かに、手を繋いでしっかりしているマルコに引いて貰えばもう転ばなくてすみそうだ。あたしが転けない限りは、だけど。なんであれ、まあ。マルコが嬉しそうだから、いっか。「いいよ」と返事をしたら、マルコは目元を緩めて笑顔になった。変な形で繋いでいたのがマルコの手によって、それらしいものに変わる。伝わってくる人肌の温もりは、ライナーのものより落ち着いていて、アニよりもずっとあったかかった。マルコは男の人だから、あたしの手より一回り大きくて、骨張ってる。ライナーの時そう変わらないはずだけど、なんだかそわそわした。

 

「ノエル」

 

 何が違うんだろう。胸の内で首を傾げていると、そう呼びかけられた。顔を上げたら、マルコが笑顔を一転して困ったように眉を下げている。まさか。生じた不安を確かめるためにあたりを見回す。特徴的なミカサの艶を帯びた黒髪も、小柄な金髪も、見当たらない。行き交う人々の間に、あたしたちだけがぽつんと取り残されている。

 

「あたしたち、はぐれた?」

「みたいだ……」

「ど、どうしよう」

 

 当然、連絡手段はあるはずもない。ぶらぶらと散策していただけなのだから、集合場所なんて決めてる訳がない。訓練地と違って、トロスト区は広大だ。その上、今日は市場が開かれているので人混みも激しく、見つけるのも困難。このまま、会えなかったら馬車で待つしかない。馬車がなかったら、歩いて帰るしかない。襲撃想定訓練の時には徒歩で来たことがあるけれど、一日分の食料がないと厳しい道のりだ。

 ただでさえ災難なのに。マルコまで巻き込んでしまった。なんであたしはいつもこうなんだろ。失態にも程がある。

 

「とりあえず、移動しよう」

 

 押し寄せて来た不安と後悔が表情に出てしまっていたのだろう。マルコはあたしを落ち着かせるように柔らかく微笑んで、ゆっくりと手を引いてくれた。人の波に流されるまま、通路を抜けて開けた噴水の淵に二人で腰掛ける。

 

「ほんと、ありがとう。マルコ……ごめん」

「あんなの当然だろ。大丈夫、きっと会えるよ」

 

 俯いたまま贖罪を口にするも、マルコは優しく励ましの言葉を投げかけてくれる。もしもこれがジャンとかだったら散々罵られて、罪悪感なんかも無くなっていただろうに。優しさが救いである反面、罪悪感を膨らませてゆく。

 

「今頃。僕たちがいないことに気づいているだろうし」

「あの様子のサシャとコニーが、気づいてくれてるかな」

 

 あの二人、誰がどう見ても屋台に夢中だった。有頂天になっている二人があたしたちの迷子に気づくのは、一体いつになるんだろう。考えるだけで頭がくらくらしてきそうだ。訓練地に向かう馬車まで、ここから相当ある。いれ違うくらいなら、今のうちに合流しておきたい。

 

「アルミンたちもいるんだ。探してくれるよ」

「アルミン。そっか……まだ、あるかな」

「あるよ」

 

 二人の奇行が目に余り過ぎたのと絶望で忘れていたが、アルミンたちもいるんだった。二人に振り回され過ぎて、あたしたちのこと忘れていないといいけれど。

 

「あ」

 

 ようやく見つけた一筋の希望に縋りつつ、落ち着かせようとしてくれるマルコの気遣いに感謝を告げようとしたら、マルコがふいに声をあげた。

 

「どうしたの?」

「手、まだ繋いだままだったね」

 

 指摘されてから、ようやく思い出した。マルコの言う通り、自然と手は重なりあったままだ。もう転けようもないし、いいかな。勝手に決めつけて、手を動かしたらぐっと力を込められ、引き止められる。

 

「サシャと合流するまで、こうしててもいいかな」

「でも、暑くない?」

「暑いけど、いいんだ。ノエルは、やっぱり嫌…?」

 

「無理強いはしたくないから……」マルコが手をそろそろと引っ込めようとするので、今度は自分が力を込めて引き止める。腕を上げて、解きかけた指をぎゅっと組んだ。

 

「マルコの手だから平気だよ」

「あ、ありがとう…」

 

 繋いだ手を見せながら言うと、マルコは何故だかそっぽを向いてしまった。ちらり、見えた耳が微かに赤く染まっている。この暑さ、だからだろう。胸の内を底なでした何かには知らないふりをした。

 太陽が無慈悲にギラギラと輝き続けるので、噴水の近くは安息を求めて人が絶えずに集まってくる。水面から漂うひんやりとした空気が、太陽に照り付けられて火照った体を冷やしてくれて心地よい。ライナーがいたら怒られそうだけど、ワンピースの首元を掴んでパタパタと風を送り込む。それだけで、心なしか体が涼しくなっていった。いつも着ているシャツではできないから、ワンピースで良かったのかもしれない。目の前の人混みに視線を這わせてアルミンたちを探しつつ、その片手間でマルコとくだらない話しを続ける。

 

「暑いねえ。訓練地より暑くない?」

「人口密度が高いからね。今日は市場もやってるし」

「マルコはトロスト区出身だっけ」

 

 あれ。トロスト区出身なのはジャンとトーマスだけか。マルコだけ別、だったはず。言ってから自分の間違いに気づいたけれど、訂正する間もない。マルコは表情を変えずにゆるく首を振って、慣れ切ったようにあたしの言葉を訂正した。

 

「ううん、ここから馬車を少し走らせたジナエ町ってところだ」

「ジナエ町?聞いたことないかも……」

 

 アルミンのような博識だったら知っていたんだろうが、残念ながら自分は地理に詳しくない。悲しくなるような記憶力しか持っていない。みんなの出身地を聞く機会なんて三年前の入団式以外にほとんどないから、許されるだろうか。頭のどこを探っても聞き覚えのない単語に、口をへの字に曲げて肩を落とす。その様子が面白かったのか、マルコが小さく笑い声をあげた。

 

「あはは、大抵の人はそういうんだ。中途半端な場所にあるところだから」

「どんなところなの?」

 

 自虐を交えた言葉を聞き返すと、マルコはジナエ町のことを少し恥ずかしそうにしながらも教えてくれた。ジナエ町はトロスト区の近郊にあり、馬車の休憩地点であること。町らしく栄えている場所もあるが、自然とも触れ合えるとてものどかな場所らしい。マルコの家の近くには川も流れているそうだ。川上がどうなっているか知りたくて、辿った末に森で迷ってしまったこともあるらしい。今でもよく座学の教官に質問している姿を目にするので、その姿を簡単に想像できた。知的探究心が旺盛なマルコらしい話だ。

 

「素敵なところだね、ジナエ町」

「どこにでもあるような田舎町だよ」

「そう?自然が近くにあるって、ちょっと羨ましい」

 

 マルコはそうやって謙遜するけれど、あたしからしたら羨ましい話ばかりだ。反りたつ壁の内側に詰め込まれたり、草木もない荒地よりよっぽどいい。

 

「ノエルは……そっか。シガンシナ区出身だもんね」

 

 あたしの言葉で羨望する理由をそれとなく察したらしいマルコが何か思うことがあるように声を低くする。ジナエ町と比べたら、城壁都市で触れられる緑は限られる。初めて開拓地に連れられた時、空気の違いに驚いたっけ。

 

「小さい畑とか丘くらいしかないんだ。あと、憲兵の人の目を盗んで川に入ったりもしてたっけ」

 

 川に入ろうと言い出したのは親友の方だった。最初は暑さで頭をやられてしまったのかと思ったけれど、引き摺り込まれた川の冷たさ。それはもう爽快で、暗くなるまで夢中になって遊んだ。

 

「それ、見つからなかったの?」

「見つかったよ。服が乾くまでお説教された」

 

 マルコが不思議そうに聞いてくるので、あたしは眉を下げて首を横に振った。が通った後の波に体を預けるのが好きで二人してぷかぷか浮いていたら、その姿を水死体と勘違いした誰かが通報したのだ。死体であるはずのあたしたちが動いたから、憲兵団のおじさん物凄い形相で驚いてた。

 

「ノエルは昔から変わらないんだね」

「それは、いい意味で?」

「もちろん。いい意味で。」

 

 笑みを作って聞き返せば、マルコはにっこりと笑って答えてくれる。二人でくすくす笑い合ってから、子供の頃の話をしていた。物干し竿でつくった秘密基地、初めて育てた野菜が苦くてとても食べられたものじゃなかったこと、こっそり壁の上まで登ろうとした時の話。笑ったり驚いたりしながら、懐かしさのかおる思い出を一通り話し終える。話疲れた喉を一度休憩させるために背中を伸ばし、ふうと一息ついた。

 

「水遊びしたいな。行くなら近くの湖?」

「ああ!あそこなら近いし、きっとちょうどいいよ」

 

 マルコが思い出したように声をあげて、大きく頷いた。訓練地の近くには何にも使われていない綺麗な広い湖があるのだ。訓練の合間にライナーとベルトルトが案内してくれて、全く気づかなかったと驚いた記憶がある。

 

「あそこって、私有地じゃないよね?」

「うん。おそらくだけど、訓練地の周辺は訓練兵団の土地だ」

 

「じゃないと、あんな贅沢に森を使って訓練してられないよ」あたしの考えとほとんど同じことを言うマルコに向かって、軽く相槌を打つ。あたしたちの衣食住に訓練地まで拵えて、どれだけの税金がかけられているのやら。

 

「訓練兵であるあたしたちが、あの湖を使うのも。自由?」

「それはまた別の問題かな」

 

 教官でもないマルコに意味もなく聞き返すと、またもや考えていたような答えが返ってきた。「まあ、そうだよね」空に視線を移して、肩をすくめる。教官に許可を取ろうとしたって、追い返されるのが関の山だろうな。訓練に何の関係もない希望だし。下手すれば、罰則か。

 

「キース教官が泳いでるとこ、見たかったのに」

「あははっ、それこそ大問題だね」

「ほんとに!あたし、絶対笑っちゃうもん」

 

 自分で口にしてから笑みを堪え切れず、二人でくすくすと笑い合う。脳裏に過った教官が水の中を颯爽と泳いでいる姿。あまりにも現実離れしていて馬鹿馬鹿しくなってくる。前見た時は水面が光を反射して輝いていたけど、教官の頭もあんな感じで輝くんだろうか。駄目だ、考えれば考えるほど深みにはまっていく。

 

「キース教官って、訓練兵団に来る前は何してたんだろ」

 

 再び込み上げてきた笑いへ蓋をするよう、たわいもない疑問をマルコにぶつける。あたしの言葉を聞くなり、マルコは顎へ手をやって少し悩むようにしてから口を開いた。

 

「前職でそれなりの功績があって、移動してきた可能性が高いな」

「じゃなきゃ、あんな貫禄は出ないよね」

 

 あれは見せかけのものじゃないと入団式で誰もが感じたことだろう。反骨精神も若さもある何百の訓練兵をほぼ一人で統率しているのだから尚更だ。鬼教官から言わせてみれば、あたしたちは豚であり、人間ですらないのだから当然か。

 

「憲兵団団長を引退したとか。駐屯兵団かな」

「調査兵団は候補にないの?」

「うーん……」

 

 不可解な面持ちのまま、あたしに聞き返したマルコの前で宙を見上げる。深く考えずでた自分の言葉、その根拠を頭の中で掻き回して引っ張り出した。

 

「壁外調査の責任を負える人は……ある意味。自分に酔ってる人しか無理なのかなって」

 

 他二つの兵団に比べ、調査兵団の死者数が多いのは考えなくてもわかる。壁外が地獄だと分かっていながら、仲間たちを引き連れられるのは自分の我儘に付き合わせられる覚悟がある人だ。その我儘にいくら犠牲を出そうが、平然としていられる。自分と、自分の夢に酔える人じゃないと。あの環境で正気を保っていられないだろう。

 

「キース教官は……厳しいけど、厳しいけど!熱心な指導の裏返しだし。自分に酔ってる感じはしないよね?」

「そうか、確かにその通りだ……ノエルは地頭がいいね」

 

 前触れのないマルコの言葉に硬直する。地頭がいい。生まれてこの方縁もゆかりもなかったような単語をゆっくり、それはもうゆっくりと嚥下する。やっとのことで「ぃ、やあ?」と控えめの声を絞り出した。

 

「思考を言語化できるのはノエルが賢いからだよ」

 

 搾りかすみたいなあたしの声にマルコが爽やかな笑顔で言った。マルコがタチの悪い冗談を言うような人じゃないのはわかってる。不慣れな褒められ方に視線を泳がせ、ごくりと空気を飲んだ。

 

「マルコに言われたら、信じちゃうよ…?」

「これに関しては、信じて欲しいな」

 

 そこまで言われてしまったら、懐疑的な気持ちもなくなってしまう。萎んで消えかけていた自信にものすごい勢いで空気を入れられているみたいだ。胸にじわりと登ってきた歓喜を押し込んで、声を出す。

 

「マルコは人の良いところ見つけるのが上手なんだね」

「ノエルもそうだろ」

 

 誉め殺しから逃げ出そうとしたところを引き止められる。マルコの口角は上がっているから、確信犯だ。あの子に成れて、あの子のように見えているなら嬉しいはずが、なんでか素直に受け止め切れない。だって、あたしが言われるべきじゃないし。だけど。マルコが心からそう思ってくれていると分かるから。だから。否定できなくて、照れ臭い。

 

「僕、ノエルを尊敬してるんだ」

 

 どうにか出したあたしの一言、その一呼吸あとにマルコが付け加えた。自分の指先が顎、頬に滑って熱をもつ。目を逸らすことも忘れて、マルコの口先をみつめた。

 

「……頑張り屋なところとか、自分のことには赤くなるところとか、すごく――好きだ」

「の、喉。喉乾いた!!」

 

 致死量の賛辞を言い終え、マルコは目元を和らげる。雀班をのせた頬と口元が緩やかな弧を描いて、楽しそうに笑んでいるのが目に入り、そう大声を上げた。

 

「あははっ、顔真っ赤だよ。ノエル」

 

 前もこんなことがあったな。頬にまとわりついた熱を冷ましながら、マルコの笑い声を聞き流す。噴水の淵から立ち上がり、一歩前に出た。

 

「それは、熱中症になりかけてるから!」

「ふふ、うん。そっか、どこかで水を飲もう」

 

 マルコがあたしと同じように腰を上げるのを横目でみつつ、手のひらで顔を仰ぐ。そう言ったはいいものの、たぶん。両方だ。涼みにきたはずが、マルコのおかげですっかり体が熱を持ってしまった。

 

「あ。でも、移動してもいいのかな」

「さっきから人が増えていっているし、そんなすぐには来ないよ」

 

 蛇口を探そうと足を前に出し、思い出した。あたしたちはエレンたちを待っていたのだ。右足を前に出したまま動きを止めかけるも、マルコの一言で救われた。マルコとの話に夢中で注意していなかったが、大通りの人混みは道からはみ出るほどになっている。

 

「入れ違いになったりしたら、その時はその時だね。一緒に待とう」

 

 元を辿ればあたしが巻き込んだようなものなのに。どうしてマルコはここまで優しくなれるんだろう。にこりと温和に微笑むマルコが眩しくて、言葉が出てこない。

 

「ノエルとなら、待つのも苦じゃないし」

「……あたしも、苦じゃないよ!」

 

 やっとのことで声を出すと、マルコの瞳が丸くなった。これ以上は何にも思いつかなくて、だらりと傍に垂れていたマルコの腕を引く。離れていた指同士を乱暴に絡め、力を込めた。

 

「合流するまで、こうしてるって言ってたから」

 

 繋いだ手を見ないまま、一方的に歩き出す。背後でマルコが何か言いかけたような気もしたが、振り返ることはしなかった。人気のない路地に入り、辺りを見回す。ぽつんと置かれた水道を発見するなり、駆け寄った。額に流れ落ちた汗をぬぐい、蛇口をひねる。勢い余って吹き出した水へ前屈みになって喉を潤した。びしょ濡れになった口元を拭うあたしのとなりで、マルコも蛇口へ前屈みになる。

 

「ぷはぁ、生き返る……」

「井戸から引いてるのかな、すごく美味しい」

 

 言われてみれば、訓練地の水よりも甘くて舌触りがよい。ような、そうでもないような。少なくとも、鉄臭さは全くない。猛暑で疲れ切った体を癒すのに最適な水場だ。

 

「顔が赤いのも治ったみたいでよかった」 

「……なんか。マルコ、ジャンみたいになってきてる」

 

 マルコがあたしの顔をみたままくすりと笑うので、自分の頬を抑えながら物言いたげな目を向けてみる。ライナーといい、みんなあたしを揶揄い過ぎじゃないだろうか。

 

「そんなつもりはないんだけど……ノエル相手だからかな」

「そんなに揶揄い甲斐がある?」

 

 何度も揶揄いたくなるような反応をしているつもりは微塵もないのだが、マルコにまでいじわるされると自分に原因があるように思えてくる。言いながら頬を膨らませと、マルコは眉を下げて笑った。

 

「と言うより……気づいて欲しいのかもしれない」

「気づく?」

「うわあああん!」

 

 含みのある言葉へ口を開きかけ、あたりに響いた泣き声に遮られる。あたし達以外に人影はなく、声の主が誰かは一目瞭然だった。腰くらいの背丈の子供が背中を丸くして俯いている。保護者らしき人の姿はない。そもそも、ここは道から外れた路地だ。子供が一人で泣いているとなれば、想像はできる。マルコと顔を見合わせてから、今だに泣き続けている子供の側に近づいた。

 

「こんにちは。どうしたの?」

「…だれ」

 

 涙を目尻にいっぱい溜めた潤んだ瞳があたしを見上げる。その視線からは不信感と不安が滲み出て、うるうると揺れていた。少しでも安心してもらおうと、その場でしゃがみ込んで同じ目線になり、精一杯の微笑みで優しく語りかける。

 

「あたしは南方訓練兵団所属、ノエル・ジンジャー。こっちの優しそうなお兄さんがマルコ」

 

 指で自分とマルコを指さしたら、女の子の表情があからさまに緩んだ。やはり、兵士と聞かされたら警戒心も解けるらしい。大人達には税金泥棒だのと揶揄されてばかりだけど、こんな時だけは役立ってくれる。

 

「くんれん、へい?お姉ちゃんたち……兵士さん?」

「うん。だから安心して」

 

 彼女はちゃんとした親御さんに育てられているらしく、なかなか警戒を解きらない。腕を持ってきて小さく敬礼をしてみせ、行き場のなくしている手のひらを両手で包んでみる。

 

「なんで、こんなところにいるの?お姉ちゃんたち、見たことない…」

「お休みだから、遊びに来てたんだ。でも……」

 

 試しに伸ばしてみた手は振り払われなかったけれど、見慣れない顔がひっかかるようだった。口角を上げたまま、言葉の続きを引き延ばし、首を動かしてマルコに視線を映す。

 

「僕たち、迷子になんだ」

「…迷子?お兄ちゃんたちも」

 

 その言葉に表情がパッと明るくなった。頬に流れ落ちた涙を服の袖で乱暴に拭い、もう一度あげた顔に警戒の色はなかった。ひとまず、打ち解けられたことに胸を撫で下ろし、大袈裟なくらい肩を落として女の子に返事をする。

 

「そう。友達に会えなくてすっかり参っちゃた」

「君は?」

「…わ、わたしも。友達とかくれんぼしてたの」

 

 マルコの問いに女の子は意気揚々と話し始めるが、終わりに従って表情を暗くする。止まっていたはずの涙が瞳から溢れだし、あたしが何か口にするより先に再び泣き始めてしまった。

 

「わたし、こんなところ知らなくて。帰りたいのにっ…」

「大丈夫。お姉ちゃんたちがいるから」

「うん。一緒にそのお友達を探そう」

 

 不安をごちゃ混ぜにしてただ泣き続ける女の子の肩を撫でながら、二人で声をかける。ぼたぼたと大粒の涙落としていた女の子が静かに首を動かし、真っ赤に腫れた目元を晒した。

 

「いいの……?」

「もちろん。最初からそのつもりだよ」

 

 震えの混じった声に応えるよう、握っていた手のひらに力を込める。大きく頷いて見せれば、やっと女の子の顔から影が取れた。

 

「兵士は困ってる人を助けるのが役目だからね」

「うんっ、うん、ありがとう。兵士のお兄ちゃん、お姉ちゃん……!」

 

 女の子は何度も頷き、感謝の言葉を繰り返す。その光景に浸る間もなく、あたしたちは早速彼女を連れて歩き出した。さっきの涙が嘘のように女の子が前方を跳ねるように駆けていく。マルコの提案で、かくれんぼを始めた場所に行ってみることとなったのだ。女の子は路地から出るまで落ち着かない様子であたりを見回していたが、知っている景色を見るなり飛び出して行った。トロスト区の住民なだけあり、迷うことなくどんどんと先へ進んでいく。

 可愛らしい笑顔で振り返って手招きをする女の子の背後によそ見しながら歩く男がやってくる。声を上げるより先に男が進行方向を変え、すんでのところですれ違う。どんな人混みもその小さな体で潜り抜けていくが、ときおり波に飲まれ、潰されそうになっていてひやひやする。

 

「危ないから、お姉ちゃんの背中に乗りな」

「僕がやるよ」

 

 走る姿を呼び止め、道の脇でしゃがんで自分の背を指さしていたら、横からマルコが顔を覗かせた。唐突な申し入れに、どう返事しようか思案する。マルコの方が力もあって安定するだろうから、女の子も安心だろう。絶対的にマルコに任せた方がいいのに、あたしが言い始めたことを押し付けてしまうのが嫌で口を噤む。その沈黙を別の意味と受け取ったであろうマルコが、女の子に背を向けて膝を折った。

 

「ライナーほど頼りにならないかもしれないけど、これでも鍛えてるんだ」

 

 あたしが答えを返す前に、マルコが女の子をおんぶして持ち上げる。「わあ!たかい!お兄ちゃん、すごい!」女の子が自分の身長よりもずっと高い目線に熱っぽく歓声を溢した。そのはしゃぎようにつられて、あたしまで口元が綻んでしまう。

 

「ふふ、そこからならよく見えるだろ?」

「うん!お兄ちゃん、ありがと!」

 

 女の子をおんぶしたマルコは危なげなく、すいすいと前に歩いて行く。子供の効果があるのかもしれないが、人混みが割れるように前で流れていくのでさっきよりも格段に動きやすい。もう躓く心配もなさそうだ。女の子はマルコの背中で体を伸ばしたり、手を離したりしておんぶを満喫している。瞳を輝かせながら、お気に入りの店や場所を通るたびに友達との思い出を興奮気味に話している。マルコが質問をするまでは、ずっとそんな様子だった。

 

「お友だちはどんな子?」

「すっごく、つよくて。かわいいの!」

 

 女の子は鼻息を荒くして応える。なんの疑いようもない純粋無垢な笑顔を目にすると、頭の奥が鈍く傷んだ。まるで、昔のあたしみたいだ。痛みがなんであるか確信する前に、笑顔を作って自分の心ごと塗り替えてしまう。

 

「その子のこと大好きなんだね」

「うん!」

 

 一切の躊躇なく断言する姿が眩しくて、目を細めた。似ているのだ。罪を犯す前の自分に。この子なら、どうしていただろう。考えようとした頭を切り替えるように「そういえばさ」と言葉を続けた。

 そうして三人で談笑をしていたら、女の子はマルコの背で寝息を立て始めてしまった。歩き疲れたか、泣き疲れたのだろう。しっかりと瞼が閉じられていて、規則的に体が上下している。目的地への行き方は聞き出したから、二人だけでも問題ない。子供が眠りについてから訪れた静寂は、落ち着くながらも物悲しさがあった。任せっきりも申し訳ないので、子供が起きないように背をトントンと叩く。本当によく眠っているようで、あたしの見よう見まねなあやしにも起きる気配はない。

 

「いいお嫁さんになるね」

 

 思っても見なかった一言に、マルコの顔をみつめたまま手が止まる。どこか聞き覚えのある言葉だ。無意識のうちに遡った記憶を口にしていた。

 

「それ、ライナーにも言われた」

「いつ?」

「いつだったっけ。覚えてないなぁ」

 

 正確な時期は嘘みたいにでてこないが、食事当番が一緒の時だったはず。調理を担当することになって鍋を混ぜていたら、神妙な顔のライナーが「いい嫁になるな」とつぶやいた。突然どうしたの、と問い直すと「立ち姿が様になっている」とか褒め言葉なのかよくわからないことを言われたりしたのだ。

 

「マルコのほうが、良いお父さんになりそう」

「お父さん?」

「そう、パパ」

 

 眠っている子供に気を遣ってか、控えめに聞き返したマルコへ大きく頷き返す。この子が見物したがっている屋台に来たら見せてやったり、はしゃぐ子と談笑しながらもマルコは危なげなく歩いていた。そんな背はよほど居心地が良いのだろう。女の子は熟睡していて、まだ起きそうにない。

 

「この子にも好かれてるし」

「そうかな?」

「じゃなきゃ、寝れないよ」

 

 女の子は初対面でも自分の体を預けられるくらいにマルコのことが気に入ったらしい。じゃなきゃ、これだけぐっすり眠りにつくことはないはず。流石、マルコだ。あたしが女の子の立場だったら、同じように心を許していただろう。

 

「それを言うんなら君もだ」

 

 きょとんとしてたら「ほら」、マルコが女の子を背負い直してから指さした。指先を目で辿った先には、目を閉じている女の子とあたしの手。まだ丸みを残した子供の指が、あたしの人差し指を覆うように握っていた。

 

「あ」

 

 いつの間に握られていたんだろ。声を出したあたしにマルコが微笑をこぼす。あたしもつられて、わずかな羞恥心を掻き消すようにわらった。たまに小声で話しながら、女の子が教えてくれた目的地へ向かって歩く。通路を埋め尽くすように立ち並ぶ屋台と人混みから一区切りして、やっと周囲に気を配れそうな道へ出た。未だに眠り続けている女の子をおんぶしているマルコに、そろそろ代わろうか、と口を開きかけたところだ。

 

「発見!確保だ、サシャ!」

「確保!確保ォー!」

 

 元気な声が聞こえてきたかと思ったら、一つの影が突撃してきた。マルコばかり気にして、正面を見ていなかったあたしは衝撃のまま数歩よろける。突然のことに目を白黒させかけ、前から見知った顔が歩いてきた。憲兵ぶっているコニーとあたしの胸元に飛び込んでいるサシャを目にして、苦笑しているアルミン。白けた顔を隠そうともしないエレンに、端正な顔のままあたしたちを眺めているミカサ。その背中にマルコと同じように子供が背負われている。その子はミカサの首に腕を回したまま、艶のある髪の間から大きな瞳を見開かせていた。

 

「ありかとー!面白いお兄ちゃん、お姉ちゃんたち!」

「もう迷子になんなよ!」

 

 聞くと、もう一方の子もあたしたちと一緒にいた子が奥へ奥へと流されたせいもあってか、なかなか見つからず困っていたそうだ。そこへあたしたちを探していたエレンたちがやってきて、なんやかんやあったのち、共に探し始めたらしい。何はともあれ、それぞれが探し人に出会えて良かった。

 

「またねっ、ノエルおねぇちゃん!マルコおにぃちゃん!」

 

 返事をするように振り返ったまま、手を振り続けていたら、やがて雑踏に紛れて二人の影がみえなくなった。影でほっと息を吐く。形にならないまま喉の奥に引っかかっていた感情を嚥下した。

 訓練兵がトロスト区に来るのは、特別珍しいことじゃない。もう一度会うこともあるかもしれないのに、これが最後の別れだと感じてやまなかった。もしかしたら、願望なのかもしれない。あたしに、あの二人は眩し過ぎていた。

 

「たまにはああやって遊んでやるのも悪くねえな」

「どちらかというと遊ばれてたと思うけど…」

 

 なんやかんや交流を楽しんだのはコニーたちの他にもいたらしい。エレンが顎に手を添えながら言うと、楽しさよりも疲労が勝ったらしいアルミンが付け加えた。そんな二人の横に並んで歩くミカサには疲れの色が一切滲んでいない。子供をおんぶして歩いていた上に、コニーとサシャまで相手していたはずだ。全くそんな様子は見せないけれど。

 

「本来の目的忘れてねぇか?」

「あ」

「え」

 

 エレンが思い出したように言った言葉で、先頭を歩いていた二人コンビが大袈裟に肩を跳ねさせる。二人ほどじゃないが、そういえばそれが目的だったな、と思い返して冷や汗を垂らす。「やっぱり忘れてるのかよ」エレンの呆れ返った声色に、顔を見ることはできなかった。

 

「さっさとそこらの店で買ってこーぜ」

「遅れた理由はどうする?」

「サシャが食べ過ぎて腹を下した」

「あっ!それ、いいね。ミカサ」

「うん」

 

 運動神経のみならず、ミカサは頭まで回るのだ。ピッタリな言い訳に声をあげたら、ミカサがこくりと静かに頷いた。そんなミカサとは正反対にあんぐり口を開けたサシャが絶望的な顔であたしたちを覗き込む。

 

「え!?本気じゃないですよね??」

「ああ、そんならいいだろ」

「ごめんね、サシャ」

 

 エレンとあたしが諭すとサシャは口を開いたまま、わなわな震え出した。我ながら非情だけど、教官のお叱りを逃れるにはサシャの犠牲がなくてはならない。必要な犠牲だ。ごめんね、サシャ。

 

「ちょっと!?みなさん!!」

「サシャ、諦めて」

「ミカサまで!ひどいですよ、みなさん!!」

 

 ミカサの諭しにも反発してサシャは声をあげ続ける。ミカサの襟首を掴んで前後に揺らしているつもりなんだろうが、ミカサは涼しい顔で歩を止めない。振り払われはしないのでサシャがミカサの腰に腕を回し、後ろに引っ付く形で泣きついている。周囲の目を痛くて、少しだけ距離をとった。

 

「日頃の行い、だな」

「あはは…」

 

 コニーが嘆くサシャの惨状を前に訳知り顔で呟くも、マルコが困りきった笑みで応えるだけだった。サシャを除いた他三人は無言だが、何を言うまいとしているかはすぐに分かった。お前が言うな、である。

 

「せめて、ご飯を食べていたことに…いや。美味しそうな野菜を選んでいたとか!」

「嘘くさいから駄目だな」

「ああ、嘘臭え。」

「私のはいいんですかっ!?」

 

 サシャはコニーに構う余裕すらないらしい。あれはこれはと代替案を出すが、いつの間にやら敵に回ったコニーとエレンに次々と一刀両断されている。一切取り合われない姿に哀れみさえ湧いてきた。常日頃から、人の食べ物ばかり狙っているからだろうか。よく横からパンを強請られて耐えきれずにあげているので、助けは出さない。心のうちで、再度サシャに謝罪する。

 

「よく、あることだから」

「ないですよ!この三年間、一回も!!」

「まあいいじゃねえかよ、一回くらい」

「無責任なのやめてください!いやです!」

 

 ありもしない汚名を被せられるのがよっぽど嫌らしい。おバカコンビと呼ばれるほど、訓練地で散々好きに振る舞っているはずだが、羞恥心は残っていたようだ。ここまで嫌がられると、やっぱり良心も少しは痛む。

 

「なら、帰りに何か買ってあげるよ」

「え!?いいんですか!?」

 

 さっきまでの嫌々が嘘みたいな満面の笑みでサシャが前を歩いている。その手にはあたしが買った蒸した芋がガッチリと握られていた。騙された、ような気がしないでもない。あたしも、お腹空いてるのにな。「やめときゃ、良かったのに」エレンの正直な感想が胸の深いところに刺さる。くう、恨みがましく鳴る自身の腹を抑えた。幸せそうに芋にかぶりつくサシャが見ていられなくなって、やけ食いでもしてやろうかと屋台を眺めた。骨付きの肉、食べちゃおうかな。や、だめだ。僅かな小銭さえなくなってしまったら、餓死が現実味を帯びてしまう。自分だけ何も食べず我慢しているのも、虚しさが募るだけだ。あたしも、イモのひとつくらい――

 

「――さん?」

 

 息が止まった。鼓膜に触れたのは、聞くはずのない単語。聞けるはずのない、言葉。二度と言うことも、聞くこともないはずだった。ないといけなかった。声の主を視界に入れてすぐ、振り返った自分を激しく悔やんだ。なんてことはない、男だ。刃物を持っているわけでもない、ただの男が神経を逆撫でし、あたしの心臓を鷲掴みにする。耳元を動脈の音が支配して、頭をドクドクと揺れ動かした。足は動かない、つま先の小指ですら固まったみたいに動かせない。

 

「あんた、――さんとこの娘じゃないか?」

「……は」

「よかった!あんたをずっと探してたんだ」

 

 まるで、自分が自分じゃないみたいだ。男の喜ぶ声がずっと遠くから響いてくる。はくり、と出した息は硬直したまま消え失せた。唯一動く目玉で男の行動を追う。男は笑ったまま、あたしの硬直した肩を叩いた。ピクリとも動かない相手に何の疑問も抱かないのか、男はそのまま顔を俯かせる。

 

「…あんたの親父、死んだよ」

「は、?」

 

 意味が、分からない。誰の、親が。

 

「開拓地を巡って、行方不明になったあんたをずっと探してたんだ」

 

 嘘だ。だって、パパは足が悪かった。探せるはずがない、探しにこれない。

 

「そんで、元々悪かった足を悪くしてな。ほとんど動かなくなっちまった。しばらくは、一人で療養してたんだが……」

 

 心臓の、音がうるさい。男の口を塞いでやりたのに、どうして。あたしの体はぴくりとも言うことを聞いてくれない。こんなだから、成績が悪いんだ。あたしは、なんで。

 

「神様はいねえって思ったよ。んな時に、あれだ。わかるだろ?ウォール・マリア奪還作戦だよ」

 

 男は妙に大きな身振り手振りでありもしない悲劇を語り続けた。止まることを知らない、壊れたオルゴールみたいに。膿を出し切ってしまいたいみたいに。ただ、ひたすら喋り続けていた。

 

「年寄りとか、生産性のない人間は悉く連れてかれた。俺の親父と、あんたの親父も、その一人だったよ」

 

 連れて行かれた?誰に。知らない、あたしは知らなかった。知らないで良かった。パパは、どこかで生きてるって思ってれば。無責任に。

 

「とにかく、あんたが生きていてくれてよかった」

 

 男が、取ってつけたような善人面で付け加える。心なしか表情は晴れ晴れとしていた。返事を待っているのか、まだ喋りたいのか。男は退かずに立ち続けている。

 

「あ、の」

「そうだ。墓参りに行ってやってくれ。中身は空っぽなんだが……ほら、こっからすぐ行ったとこの――」

「あの!」

 

 男が、大声を出したあたしを訝しげに見つめてくる。周りを通り過ぎていく女たちも、ひそひそ声を残していった。強引に絞り出された二言が喉奥をじわりと蝕み、全身に広がっていく。喧騒がずっと遠くから響いてくる。自分だけが世界から切り離されているようだった。

 

「……人違いです」

「で、でもあんた」

「あたしはノエル・ジンジャーと言います。そんな人知りません」

 

 口に出すと、体が言うことを聞きはじめた。自分を作り替えるように、掘り起こされた記憶を上から被せて忘れさせるように。名前を、深く深く胸の内に刻み込む。あたしはノエル・ジンジャー。それ以外なんて、いらない。必要ない。今のは、全部関係のない話。

 

「そ、……そうか。人違いか。悪かったな、急に話しかけちまって」

 

 断固とした態度に男は顔を曇らせ、思いの外あっさりとあたしを解放した。耳を塞いで何もかも遮断したくなる衝動を抑えながら、覚束ない足先を動かす。酸欠みたいに歪んでる視界で、靴のつま先を前へ前へと進ませる。あんな人、知らない。見たことない。パパの同僚じゃない。

 あたしのパパはシガンシナ区で死んだんだから。そうだ、飛んできた瓦礫に潰されて。潰れたトマトみたいに果汁を垂れ流したまま、何度呼びかけても答えはなくて。それで、死んだのだ。偽りの記憶を作り固め、焦燥を無理矢理喉の奥に押し込む。押し込もうとして安堵する。永遠とも思えるような時間のまま、一歩。また一歩と歩を進めて、地面に影がおりてきた。辿った先に、エレンとアルミンが晴れない顔を貼り付けて立っていた。

 

「あ…ふたり、とも」

「わ、わり。盗み聞きするつもりじゃなかったんだが…」

「ごめん」

 

 二人はあたしと目を合わせるなり、罰が悪そうに謝罪した。二人は優しいから、いきなり立ち止まったボンクラがまた迷子にならないよう見守ってくれていたのだろう。気にしないで、と。いつものような返事がしたいのに、口が開閉するだけでなんの言葉ものせてくれない。使い物にならない口を閉じ切り、粘っこい唾を飲み込んでやっと人間らしく動き始めた。

 

「あたしこそ、待たせてごめん」

 

 ぎこちない笑顔さえ浮かべられず、小さく謝って口を閉ざす。向けられる視線に居心地が悪くなって、逃げるように顔を背けた。

 賑やかな町とは真逆の静寂を纏ったまま、三人で歩き出す。呼吸ひとつで喉が焼けつくあたしにとっては、静けさがありがたかった。あんなにも彩られていた町が色をなくす。鮮やかな飾りを目に入れるだけで、治りかけの瘡蓋を剥がされたような気分になる。押し込んでいた血液がどくどく溢れ出して、むせ返しそうだった。地面を這うように見ながら、ただ前に進む。

 

「ノエル」

 

 そうしていると、エレンの声がした。反応しなくても良ければ、楽なのに。何も聞かずに立ち去ってしまいたい衝動を堪え、呼ばれるままに顔を持ち上げる。

 

「俺たちで取り戻そうぜ、全部」

「……そうだね」

 

 その瞳には、五年前の惨劇が映っているのだろう。向けられた真っ直ぐな励ましに、あたしはそっと嘘をつく。今だけは、その優しさが息苦しかった。

 

 

ーーーー

 

 いつだったか、微睡の中で滲むのは平凡な日々の昼下がり。友達は家族で市場へ行くらしいので遊ぶ相手もおらず、パパと家で二人きりだった。「――おいで」床でお絵描きをしていたら、低くて安心する大好きなパパの声がわたしを呼んだ。さっき誰か来てたみたいだけど、もういいのかな。駆け寄ったら、大きな手のひらが髪の毛を柔らかく梳かれる。抱っこをねだった腕の下に手が入って、浮かんだと思ったらパパの膝に着地する。パパの膝が、わたしのお気に入りの場所だった。

 パパの机の前は、大きな窓が付いていて行き交う人たちを見下ろせる。いろんな人たちが小さくなって行き交う様子は、蟻みたいで面白い。パパが仕事の時は、こっそり登って眺めるのが好きだった。それに。もしかしたら、お母さんが帰ってきてくれるかもしれないし。

 今日もたくさんの人たちが色とりどりな服を着て、慌ただしくすれ違ってる。そのまま目をずらすと、机の上には難しそうな本がたくさん並んでいて、その隣にいつも飾ってあるお母さんの絵が額縁から出されたまま広げられていた。結婚を申し込んだ場所を母さんが描いたものだと、懐かしそうに、大切そうにしていたのに。この絵の話をするときだけは、パパが幸せそうに笑うから、わたしも絶対触らずにしていたのに。そんな絵が、ひび割れた額縁から引き出されて、窓の風に揺られている。

 

「パパ、どうしたの?」

 

 胸がざわざわしてパパを見上げるけど、何も言ってくれない。「パパ」もう一度口にして、体をぎゅっと引かれた。暖かくて、落ち着く匂いに息を吸う。ゆっくりと目を開いたところで、見慣れないものがまたひとつあった。腕の間から、机に翼みたいな紋章がみえる。それは、目を凝らさなくても分かるくらいの、真っ赤な染みが滲んでいた。

 

「お前は、調査兵団に入るな」

「ちょうさ…?それって、お母さんの?」

 

 わたしの顔に大粒の雫が垂れてきて、パパが泣いてるんだってわかった。そっか。お母さん、死んじゃったんだ。

 パパの太い腕が小刻みに震えてる。うずくまった体が小刻みに煽動している。鼻を啜る声と嘆息が聞こえて、体を締め付ける力が強くなった。わたしは、何をすればいいのかわからなかった。大人は泣かないんだって、友達が言ってたから。嘘だったのかな。それとも、パパが泣き虫なのかな。

 

「わたしは、パパをひとりぼっちにしないからね」

 

 そう言ったら、痛いくらいに抱きしめられた。鼻水と涙でぐちゃぐちゃになったパパの顔を擦り付けられたけど、嫌じゃなかった。お母さんがいなくなって、悲しいのに嬉しくて。嬉しいのに、悲しくて。二人で、泣き虫になっちゃった。お母さんがいなくても、わたしがいればひとりぼっちじゃないもんね。

 

――パパ、大好き。

 

「ッはあ――!」

 

 じっとりと全身に汗ばむ不快と共に、瞼を開けた。ああ、これで二度目か。鉛玉が埋まっているかのように頭の傍が鈍く痛みを響かせてくる。水を吸っているみたいに重い腕をつき、体を起こす。布団の纏っている人肌のような温もりが、気持ち悪くて仕方ない。眼前でずり落ちていく毛布に、丸い滲みが落ちていった。止めようと思っても、無駄だった。落ちていく滴を救えるような指先の感覚もなく、ただ滲みが広がるのを見ているしかなかった。

 

「パパ……ごめんね」

 

 誰が、大好きだ。誰が、ひとりぼっちにしないだ。わたしはいつも、裏切ってばかりじゃないか。出来もしない約束を並べては、全部。全部、同じ結果にしてきた。結局、一人で死なせてしまった。あたしが、殺してしまった。

 

 巨人の胃の中で、彼は、何を想っただろう。

 

「酷い娘で……ごめん」

 

 

 

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