島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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第17話 無茶

 

 派手な赤や黄色の葉をつけた木々が過ぎ去っていく。湿気と苦味が混ざったような独特の空気に肺が押し潰される。まとわりついてくる生ぬるい風邪を断ち切るよう、高い位置の枝に向かって次点のアンカーを射出した。さっきから眼下に何かを持った人影が映っては消えていく。この訓練を評価している教官だろう。補助を手伝っている訓練兵とは違って、あたしを追ってくる視線に圧を感じるからすぐわかる。胸の鼓動をごまかすように、ガスを強める。

 考えるな。気にしたら負けだ。この時期から採点が始まるから足を引っ張るなって、ジャンに名指しで言われたばかりだし。だめ、だめだ。アンカーを巻き取りながら、一人で首を振る。今あたしが気にするべきは巨人模型。まだ誰にも狩られてない模型を見つける。それだけでいい。みんな、特にミカサだ。ミカサたちに、狩り尽くされる前に――

 

「あ!っぶ」

 

 反射的に声をあげる。考えていて全く気が付かなかったが、太く伸びた枝がこちらに迫ってきていたらしい。背後で流れ消えていく枝を睨みながら、片手で痛く跳ねた胸をさすった。ギリギリで頭を下げて怪我をせずに済んだが、当たってたらただじゃ済まなかっただろう。ほんと、危なかった。

 

「それで何回目だ?お前本当に三年目かよ」

「じ、ジャン……」

 

 意識を切り替えようと躍起になっているあたしに、声がかけられた。この意地悪な声、顔を見なくたってわかる。横から現れ、あたしに並んだジャンは見る前から想像していたような嘲笑を貼り付けていた。その表情からはあたしに足りない余裕が滲んでいる。

 

「激突してぺちゃんこになる前に、考え事は済ませておくんだな」

「だ、だって!ジャンが採点されてるとか言うから」

「ハア?事実だろ。それともまさか、お前も憲兵狙いとか言うんじゃねぇよな」

 

 こんなに不安が掻き立てられるのも。ジャンが余計なこと言ってきたからだ。非難の声をあげてみたものの、易々と一蹴りされてしまった。しまいには唸るような声色で聞きかえしてくる。何を心配しているのかわからないが、最近のジャンは憲兵関係の話になるとピリつきがちで困る。エレンに「成績上位に入らなかったら笑ってやるよ」とか言われたからかな。

 

「いや、違うけど!緊張しちゃうの」

「テメェの成績は緊張しようがしまいが変わんねえだろ」

 

 毎度毎度本当に酷い言い草だ。事実だから言い返せないのだけど。ジャンがただの嫌味野郎だったら良かったのに。間違ってないのだからタチが悪い。今だって、ジャンは余裕で話しながら飛んでいるけど、あたしは手元が狂わないか気が気でない。

 実力差に打ちひしがれながらも、必死でジャンの速さに喰らいつく。アンカーを刺した場所が悪く、指摘される前に直そうとして、巨人模型が立ち上がり軋む音と大きな影が遮った。弾かれたように顔を上げた先、並んだ模型は傷ひとつないうなじを晒したまま佇んでいる。

 

「お、二体か。楽勝だな」

「た、タダで渡さないから!!」

「ヘッ。やってみろよ!」

 

 誰も手をつけてない模型が、今なら二つも狙える。横で飛んでいるジャンを出し抜くことが出来れば!ジャンの嘲笑を背中で受けながら、一気にガスを吹かす。汗ばむ手でブレードを抜きさって、目標までアンカーを突き刺した。

 

「フェイントはなしだろ!」

 

 高く背を伸ばした木々と平野の境目でジャンの負け惜しみが響き渡る。いつもの終了地点まで抜けたつもりが、同じく林を抜けた仲間たちの姿はまばらだ。先頭の班だからもあるだろうが、競い合っていたお陰で随分早くに林を抜けてしまったらしい。

 

「だってジャンが馬鹿正直に真っ直ぐ行こうとするから」

 

 最初からジャンがそばにいる状況で二体狙えるとは考えていなかった。焦って狙えば斬撃が浅くなりかねないし、下手したら二体とも取られてしまう。それならと、回り込んで遠くの模型を確実に仕留めた。「取れそうな方とっただけ」正直に吐露するも、ジャンからは納得の表情がみられない。あのジャンから一体奪えたのだ。してやったりという気持ちがない訳でもないので、きゅっと口元を引き締める。もう遅いかもしれないけれど。

 

「取れそうな方とっただけ?ずいぶん生意気なヘタクソだなァ?」

 

 あたしの心中を見透かすように、ジャンの鋭い目つきが細められる。あたしから一本取られたのが、かなりの痛手だったらしい。自分でも上手くいくとは思わなかったから、気持ちは理解できる。順風満帆に討伐数を稼いていた最中、石ころに邪魔されたのだから。それはそれとして、ライナーたちにはこっそり自慢させてもらおう。

 

「お前のせいで憲兵に入れなかったら一生恨むぞ」

「そう?ジャンはあたしなんかに足を引っ張られるような人じゃないと思うけど」

「……お前」

  

 たった一体がなんだ。あたしにとっては大きな一歩だが、ジャンからすれば数ある中の一つでしかない。そう考えると、みんなとの差を痛感させられる。立体機動に関して言えば、まさに天と地の差だ。当たり前のことを言えば、ジャンが何か言いたげにひと言呟いた。その声の続きをじっと待っていたら、肩を叩かれる。

 

「珍しい組み合わせのケンカだな」

 

 振り返ると、いつの間にか林を抜けていたらしいライナーが立っていた。あたしとジャンを順に目で追ってから、腕を組む。茶化すような声色に、反論しようと口を開きかけ、ジャンが代わりに声をあげた。

 

「喧嘩じゃねえ!獲物横取りしたヘタクソに説教だ。木にぶつかんのも注意してやったってのに……」

「また激突しかけたのか?」

「う……はい」

 

 すかさず真剣な顔をしたライナーが聞き返してくるので、あたしは肩をすくめて小さくなった。嘘をつこうにも隣にはあたしの味方になってくれなさそうな証人が道を塞いでいるので逃げ場がない。

 

「注意散漫になるのは致命的だぞ」

「その通りです……」

 

 ライナーの言葉が痛いほど胸に沁みる。怪我がなかったから、ライナーはそれ以上何も言わないけれど、あたしのせいで表情曇らせてしまった。その事実で強い後悔の念に襲われる。もっと立体機動に集中しなければ、初歩的なミスは無くさないといけない。

 

「同情するぜ、ヘタクソ」

 

 一人で地面を見ながら決意新たにしていると、ジャンが憐れむような声色で口を出してきた。今はあたしよりライナーに同情してあげてほしい。心底、こんな危なっかしくてめんどくさいやつの面倒をよく見てくれていると思う。面倒見のいいライナーじゃなかったら、とっくに放り出されている。

 

「俺みたく才能があれば、そんなこと気にしなくてもいいのにな」

「そう言うなよ。お前にだって、才能がない分野はあるだろ」

 

 生き生きと皮肉を放つジャンに、思わぬ人から反論があった。ライナーとジャン。言葉を交わすことはあれど、こうして真正面から対立することはなかった二人にハッと顔をあげる。ジャンがエレンと喧嘩している印象が強すぎるだけかもしれないけれど、それにしても珍しい。ジャンもライナーから返答があるとは考えていなかったのか、一拍置いてからため息をついた。

 

「はあ?ヘタクソ庇ってケチつける気かよ」

「実際、対人格闘はどうだ?エレンに勝ったことあるか?」

「っんでそこに死に急ぎ野郎が出てくんだよ……!」

 

 しょっちゅう喧嘩しているだけあって、エレンは名前だけでも効果的だ。本格的に苛立っているジャンを前にしても、ライナーは平然としている。ジャンの唸りに怯む様子は一切見せない。

 

「対人格闘は成績になんねぇんだから、関係ないだろうが」

「煽るつもりはねぇ、事実を言ってるだけだ」

「……じゃあ、何が言いてぇってんだよ」

 

 少し冷静さを取り戻したジャンが静かに問いただす。ライナーは組んでいた腕を解いて、何か説明するかのように手を前に出した。

 

「誰にだって不得意な分野があるっつぅことだ」

「そう言ったって、コイツの才能は悲惨過ぎるだろ」

 

 鷹のように鋭い眼光が向けられ、びくりと肩を跳ねさせる。ヒサン、悲惨か。ベルトが破損していたエレンを除いて、適性検査に一人だけひっかかった時から分かっていたことだけど、こうも真正面から言われると改めて才能のなさが身に沁みる。口がどれだけ悪かろうと、成績優秀者で立体機動に秀でたジャンの言葉は間違っちゃいない。救えなさがひしひしと響いてくる。

 

「特に立体機動だ。才能がまるでねぇ」

「まあ、それは……そうだな」

「え?ちょっと、ライナー?」

 

 呆れたような口ぶりのジャンにライナーが少し眉を顰め、間を開けてから答える。まさかの肩透かしをくらい、ぽっかりと口が開けたままになってしまう。雰囲気にながされて受け入れかけたけれど、まさかの裏切りである。

 

「否定してくれる流れじゃないの?」

「否定したとこでお前のためにならねぇだろ。現実を受け入れんのは大事だ」

「それは、わかるけど。わかるけど、ね……」

 

 ジャンとライナーの言うことが正しいのはこの三年間で嫌になるほどわかってる。流れのまま、庇ってくれるだろうと甘い考えをしていたからだろうか。ライナーの口から告げられた正論が深く心に沁みて痛い。

 

「ライナー、お前。ヘタクソを庇う気あんのか?」

「最初から庇ってるつもりはねぇんだがな」

「無意識かよ……」

 

 違和感を覚えたのはあたしだけじゃなかったらしい。ジャンが横槍を入れるようにして口を出すけれど、結局は冗談のつもりがなさそうなライナーの言葉を半眼で聞いていた。

 

「タチ悪りぃな」

「ほんとに、最後まで面倒みてよ」

「いつもみてやってるだろ」

 

 軽い気持ちで言ったはずが、思わぬ返に言葉が詰まる。そう言われてしまうとあたしはライナーに言い返せない。ライナーだけではない、アニとベルトルトにもそうだけど。あたしは、みんなに頼ってばかりだ。少し顔を伏せてから「うん。ありがとう」と感謝を伝えかけ、別の人物によって遮られた。

 

「よう。何やってんだ?」

 

 声をかけてきたのはエレンだった。いつもの調子で挨拶するなり「ライナー、と……」とあたしたちに目をやった。ライナーの影にいて遠くからは見えなかったであろうジャンを視界に映すなり、エレンの言葉が途切れた。

 

「死に急ぎ野郎じゃねぇか。お前こそ、一人で何やってんだ?」

 

 先手を切ったのはジャンだった。あたしが割り込む隙もなく、エレンを焚きつける。正面から煽られたエレンの表情が、あたしの心配とは裏腹に一層険しくなっていく。

 

「ライナーとノエルに聞いてんだよ、割り込んでくんな」

「いつもの二人に捨てられたか」

 

 ジャンに言われてからエレンの周りにはいつもの姿がみられないことに気がついた。周辺へ軽く目をやってみるたものの、休憩がてらに雑談している仲間たちばかり。その中に駆け寄ってくる姿はない。教官に呼び出されでもしているのだろうか。

 

「てめぇこそ、マルコに愛想尽かされたんだろ」

「アア?」

 

 あたしが首に手を添えて考えを巡らせている前で、軋轢がさらに深みを増していく。凄み合う二人の傍ら、あたしはひとり焦慮せずにはいられなかった。訓練で使い切ってしまった体に揉め事は毒だ。明日の自分にとっても、余計な疲れは溜めたくない。なにより、こんなところを教官に見られたらどうなるか。説教だけで済めばいいのだが、あたしはもう罰則やら芋剥きやらの言葉とは絶縁したいのだ。

 

「お、落ち着いて二人とも。ねえ、ライナー?」

「ああ。犬猫じゃねえんだから、二人ともそう牽制し合うのはやめろ」

 

 意を決して仲裁を試みる。ライナーの手を借りて宥めにかかったが、まるで聞こえていないようだ。あたしの行動は虚しく、言い合いが熱を増していく。「調査兵団とか言う馬鹿が集まっているような――」ジャンが調査兵団関連に触れたら、この炎を止められるのはミカサくらいしかいなくなる。「家畜みてぇに内地で過ごしたいと思ってるお前とはちげぇんだよ!」調査兵団を心底尊敬しているエレンからすればジャンの文句はいつだって効果てきめんだ。青筋を立てたエレンが相応の返しをしたら、ジャンが反応して。このまま放っておけば、このやりとりが無限に繰り返される。

 

「あ、あたし!立体機動のアドバイスもらってたんだけど、エレンも聞く?」

 

 勇気を出して口論をかき消すくらいの大声をあげてみる。我ながら、あまりに突拍子が無さすぎる。言い切ってから、自分に向けられる唖然とした四つの目玉に頬が熱っぽくなるのがわかった。玉砕して肩を落としているあたしをジャンが鼻で笑う。

 

「はっ。正しくは、指導だけどな」

「嘘だろ、馬が人間に指導なんて聞いたことねぇよ」

 

 あたしの不器用過ぎる話題転換では、怒りを忘れるまでいけなかったらしい。エレンがその男前な顔を歪め馬鹿にしたような笑みを浮かべるも、ジャンがこれくらいで引き下がるわけない。むしろ、燃え盛る焚き火に薪を投下したようなものだ。

 

「ハハッ、幻覚見えてんじゃねぇのか。誰が馬だって?」

「テメェに決まってんだろ」

「目が悪りぃんだよイノシシ野郎!!」

「その言葉そっくりてめぇに返してやるよ馬野郎!!」

 

 ジャンが一歩踏み出し、エレンの首根っこを引っ掴む。エレンがされるがままのはずなく、対抗するように同じ場所を引っ張り返す。それが始まりの合図だった。

 

「あちゃあ……」

「始めちまったか」

 

 こう本格的な喧嘩がはじまったら、もうお手上げだ。ライナーは頭を抱えるあたしが面白かったのか、ニヤついたまま二人を傍観している。

 

「ライナーも止めてよ」

「まあ、見てる分には面白いだろ」

「見てる、だけになるならいいけどさ……」

「教官が来る前にとんずらすればいい」

「そういう問題かなあ」

 

 食堂で二人が喧嘩している時もそうだ。ライナーには二人の喧嘩が娯楽として映っているようだった。ライナーだけじゃない、他の男子たちもよく二人を囃し立てたり、勝ち負けで賭けてたりする。これには性別の差を感じざるおえなかった。あたしにとってすれば、エレンとジャンの乱闘は痛々しいものでしかない。あたしはライナーのように割り切ることもせず、喧嘩も止める力もない。顔を悲痛に歪ませて、偽善ぶった言葉を吐くことしかできないのだ。

 

「大体、ノエルを下に見てんじゃねえよ!」

「はあ?言うことなくなったからって下手な言いがかりつけんな!!」

「え」

 

 唐突に名前を呼ばれ、あんぐりと口を開ける。調査兵団、憲兵団、と何百回も擦られたであろう言葉にまさかの新単語が加わったらしい。開口したままライナーに顔を向け、助けを求めるも救いの言葉はない。むしろ、さっきより楽しげである。意地が悪い。

 

「ノエルは内地に行きたいだけのテメェとはちげぇんだよ」

「褒められてるぞ」

「いや、嬉しいけど……嬉しいけどさ……」

 

 どうやら、エレンはあたしの扱いに思うところがあったらしい。遠回しに褒められ、なんだかむず痒くなる。なぜかにやけているライナーが親切にも教えてくれるけれど、素直に受け取れない。褒められるのは嬉しい。当たり前にそうだ。今だけは、褒めるより先に喧嘩をやめてくれないかと言いたくなる。いつ教官が来て、怒られるかわからないのに。もう、ほんとうに芋剥きはいやだ。

 

「ッだから、なんでヘタクソが出てくんだよ!!結果が出せてねぇんだから意味ねぇじゃねえか」

 

 あたしと全く同じことを思ったらしいジャンが叫びに似た声をあげて拳を振るかぶる。鈍い音が響き、エレンが後ろに数歩よろけた。ジャンの思惑通り、エレンの腹に直撃したらしい。音を聞くだけでも痛そうだ。関係のないあたしが目をつぶってしまう。

 

「っうるせぇな。証明してやるよ」

「へえ、どう証明してくれんだ。言ってみろ」

 

 会心の一撃を喰らわせ、表情にも余裕が滲むジャンに対してエレンは地を這うような声で言った。ジャンを凄むにはたりなかったらしく、軽い調子で言い返してくるジャンにエレンの眉間の皺がまた一本刻まれる。

 

「次の立体機動訓練、討伐数で勝負だ」

「おいおい。俺の得意分野じゃ、勝負にならねぇんじゃねえのか」

 

 聞き間違いだろうか。エレンの提案は、どうにもあたしとジャンが討伐数で勝負するということのように聞こえてくる。あたしがピシリと文字通り固まっている間にも、話が売り言葉に買い言葉で纏まっていく。

 

「そうやって調子こいてるから足元掬われるんだろうな」

「…いいぜ、受けてやるよ。その挑戦」

「あ、あの……それって」

 

 聞き間違いであってくれと願いながら手を上げた。勝負の取り決めが終わった二人はすっかり炎を鎮火させ、突然割り込んできたあたしを奇怪な目でみつめてくる。いつもこれくらい穏やかにいて欲しいものだ。心のうちで不満を吐きつつ、間違いであると信じたまま口を開いた。

 

「あ、あたしがジャンと競う、って……こと……?」

「当たり前だろ」

「今更、びびってんのかよ?取消はねぇぞ」

「そ、そんな……」

 

 行き過ぎた妄想であってくれとの願いは無惨にも打ち砕かれた。あのジャンと。あたしが勝負?あまりに無謀過ぎてわらけてきそうだ。座学か馬術ならまだよかっただろうに、よりにもよって立体機動術だ。ジャンの得意分野でもある。

 勝てるわけがない。あたしの脳が最初に出した結論だった。庇ってくれたエレンには悪いけど、ジャンの言った通りになるだろう。こんなことになるなら、ライナーとそそくさ逃げた方が良かった。優柔不断なところが墓穴に繋がるのだ。

 

「変なのに巻き込まれたな」

「……楽しそうだね」

 

 また意味もなく敗北を積み重ねなければならないという事実に項垂れていると、ライナーが話しかけてきた。自分の顔を上にして、表情を覗き込む必要すらない。この声は、意地悪な笑みを浮かべている時のそれだ。

 

「側から見る分には楽しいぞ」

「薄情!」

「訓練には付き合わなくて良さそうだな」

「う……ライナー、最高!かっこいい、筋肉!」

「筋肉は褒め言葉じゃないだろ……」

 

 ライナーが呆れて言うと同時に、教官の号令が周囲に響き渡った。つい何分前まで殴り合いまでしていた二人は、勝負の件ですっかり鎮火したらしい。燃え上がっていた緊張感が嘘みたいに霧散して、二人とも平然としている。一番の元凶であるエレンなんか、「忘れんなよ」とジャンにいらない念押しをして去っていってしまった。エレンからの信頼が最悪な方向で発揮されてしまった現状を覆すべく、追いかけようとして「ヘタクソ」と背後から呼び止められた。

 

「勝負に勝った奴にはもちろん、何か、あるはずだよな?」

「……パンをあげるとか……?」

「それで喜ぶのはサシャだけだろ」

 

 ジャンが悪者みたいな笑みを浮かべて放った言葉に、冷や汗を垂らしながら対応する。ジャンの呆れた視線から察するに、どうやら彼が望んでいた正解ではなかったようだ。

 

「ま、負けた人が勝った人の言うことなんでも聞く、とか……?」

「へえ、大きく出たな……いいぜ、それで」

「え!?ちょ、待って」

 

 頭の回るジャンのことだ。リスクが高い条件なら回避するはず。あわよくば、馬鹿言ってんじゃねぇと勝負もおじゃんになるのを狙ったのが良くなかった。エレンにさりげなく勝負が流れたことを伝え、あたしは負け試合を回避できる。その考えは全て間違いだった。馬鹿げた条件をなんてことなく受け入れたジャンを前に一人狼狽する。

 

「い、いいの?ほんとに、だって……教官の前で裸になる、とかでもやるんだよ」

「ああ、お前がな」

「や、やっぱり、なし。とか」

「ヘタクソ、お前なんか言ったか?」

「ゔ」

 

 勝負に負けた未来を想像して、青ざめる。余裕そうなジャンに撤回を匂わせるも、すぐさま睨まれて口ごもる。もう逃げ場がない。ただ勝負に巻き込まれたはずが、自分で馬鹿らしい条件をつけて首を絞めてしまった。数分前に戻って、墓穴を掘る自分の口を塞いでやりたい。

 

「来週までにお前に何ができるのか考えといてやるよ」

 

 そう軽口を叩いたっきり、ジャンが歩き出してしまう。逃げも誤魔化しもできなくなってしまったあたしは、ただ立ち尽くすことしかできない。

 

「ノエル」

「え」

 

 勝負のことで頭をいっぱいにしていると、肩に手を乗せられる。振り返った先、ライナーがじっとあたしを見据えていた。今まであたしの滑稽な姿を眺めていたはずなのに、なぜだかいたって真剣な表情をしている。あたしの苦労を笑っていたさっきまでの顔はどこへやら。いつになく、目が本気だ。

 

「絶対勝つぞ」

 

 有無を言わさないライナーの圧に押され、墓穴を掘ってとんでもない約束を取り付けてしまった愚かな自分は無言で首を上下に振る他なかった。

 

 それからは特訓の日々だった。ジャンを凌ぐには、どんな小手先も通用しない。勝負の鍵は、一週間の期限でどれだけ立体機動術を磨けるかだ、というのがライナーの助言だ。そのためにあたしは毎日一体づつでも討伐数を増やし、制限時間内に討伐できる模型の数を増やしていった。妙に意気込んだライナーとの特訓は間に挟まった休日にも行われ、ことの発端となったエレンにミカサを連れてきてもらったりなんかしたり。実戦でも使われる模型が、その大きさと重さのせいでそうそう片付けられなかったことだけは幸運だった。おかげで佇む巨人模型に容赦なく斬撃をいれて、練習ができる。勝負の日まであと三日となった頃には、かなりの改善が見られた。連日の自主練でふらついた体のまま訓練に参加して、他の訓練に支障をきたした甲斐があったというものだ。理不尽な勝負に嘆き、アニから「自業自得」と言われながらも、今日を乗り切った。明日は兵站行進だ。訓練予定の道に土砂崩れでもおきて、中止にくれればと祈りながら目を閉じ、翌朝、窓に叩きつける雨で目を覚ました。訓練が悪天候問わず行われるのは、この三年間でよく知っている。朝から荒れた天気が続いたとて、中止を期待する人はおらず、訓練の過酷化を心配するしかできない。あたしは荒れ狂う景色を映した窓を前に立ち尽くして、心の中で泣いた。

 

 轟音と大雨に打たれながら、自分の声だけが反響して聞こえる。これまでに兵站行進は何度かこなしてきていたけれど、いつやっても全身の筋肉が疲弊する苦手な訓練だった。今日はその負荷に加えて、昨日の練習の疲労がある。専用の物資に見立てた重しを背負って、長時間目的地まで走り続けいると、じわじわと体を痛みが蝕んでいく。あたしのように中々筋肉がついていない人にとってはキツイ訓練だ。

 教官の怒号に肩を揺らしながら、血の味がする口で荒い呼吸を繰り返していた。雨具から金色の髪を覗かせたアルミンが、どんどんと背後へ下がっていく。並走していたアルミンの姿が見えなくなっても、あたしは自分のことに精一杯で今にも途切れそうな意識を繋ぎ合わせることしかできなかった。千切れるほど痛い足を前に前にと気力だけで進ませる。雨粒が体に激しく打ち付け、森全体が唸りを上げている中で後列から教官の怒号が聞こえてきた。もはや、ジャンとの勝負など気にしていられない。置いていかれてしまえば、待つのは罰則と怒号だ。そう脳細胞に刻み込み、一心不乱で足を動かす。

 

「はァっー!はあ!はァッ、は、はァッ!」

「ノエル、荷物持とうか?」

 

 肩紐を手に食い込むくらい握り、みっともなく口を開きながら空気を求めて喘いでいると、マルコが隣に出てきて言った。あたしほどではないだろうが、流石のマルコもこの豪雨と訓練は堪えるようだ。頬は泥水に濡れていて、眉間には皺が刻まれている。

 

「はぁ!は、だめ!マルコが、減点!される、よ!」

「そっ、か」

 

 今回の訓練も評価されてる。もし万が一、そんなところを見られたら減点は避けられないだろう。可能性がある以上、マルコをあたしの巻き添えにしたくない。今までも散々迷惑をかけたのだ。骨の芯から痛みが伝わってきて、いまにも足がもげてしまいそうだ。だけど、どんなに辛かそうが、それだけは譲れない。

 

「やめときな、そういうことする奴は一人でいい」

 

 元より横に並んで、あたしがひいひい言っているのを眺めていたアニが少しの焦りも感じさせない声でつぶやく。雨具の中から覗くその横顔はあたしたちと同じ訓練を受けてきたのか疑うくらい、今喉を焼きながら走っているあたしからすれば、憎く見えるくらいには綺麗だ。

 

「いい、な!アニ。余裕そうッはあ!でっ」

「あんたと違って、体力があるからね」

「はァ、は、は!羨ましい!!」

 

 朝の軽いランニング程度の走りをみせるアニの隣で、死にかけの濡れ鼠になりながらやっとのことで訓練は終えることができた。訓練地に帰ってくるなり、ずぶ濡れになった雨具を絞って乾かす。ミーナたちと寮に戻って汚れた服を着替えたら、あたしはもう一度外へ出た。向かうは立体機動装置が並べてある倉庫だ。水浴びをしようとして、明日の練習に備えた立体機動装置を整備しなければいけないことを思い出したのだ。面倒だが、仕方がない。立体機動装置を所持していたら整備はつきものだ。装置を乱雑に管理していて壊しでもしたら、どう教官に言い訳するかわからない。早めに整備をしておいても損はないし、夕飯ができるまで寝られないので一石二鳥だ。

 いい匂いのしてくる食堂を通過して倉庫へ赴くと、水浴びよりも点検を優先した人が他にもいた。そばかすと黒髪が特徴のマルコと絹ようなブロンドを靡かせるアルミンだった。真剣そうな顔をしているところへ割り込むのには勇気がいったが、二人は快く受け入れてくれた。訓練や最近の出来事なんかを話しながら、談笑は続いた。装置の部品は数が多くてクラクラしてくるけど、室内で作業できるだけ幸せだ。

 

「あッ!」

「どうしたの」

 

 側面を磨き上げている最中に手が止まった。布が拭きかけた先には、馴染みのない真新しい凹みがひとつ。脱力感を堪え、怪訝そうなマルコに向かっておずおずと発見した傷跡を晒した。

 

「気をつけてるつもりなんだけどなあ……」

「装置だって消耗品だ。仕方ないよ」

「そうかな」

 

 マルコが励ましてくれるけれど、どうやっても懐疑の種は潰れそうになかった。嘆いていたら、「僕も、ほら」マルコが手元の装置を回転させ、裏側にしてあたしから見えるよう寄せた。

 

「不注意でね、少し前に凹みができたんだ」

「え、マルコも?」

「うん。ちょうど、ノエルのと同じような位置だね」

 

 目を瞬かせてからマルコの指が指す方向を覗き込む。そこには確かにあたしのと似たような凹みができていた。こんな偶然、起こるものなんだ。「おそろいだね」驚嘆を飲み込んでいるあたしのそばで、マルコがつぶやく。心地よい響きに顔をあげると、マルコは柔らかく微笑んでいた。

 

「おそろい、うん。おそろいだね!」

 

 おそろい。そう冠をつけただけなのに、さっきまで憎たらしかった凹み跡がまるで宝物のように思えた。言葉だけのあまりに不安定な存在だけど、それでもいい。装置を持つ手に力をこめて胸に抱き寄せる。ただの装置だったものが、思い出に変わったんだ。

 

「アルミンにもないの?」

「残念だけど、ないかな」

「そっか……」

「二人のはすごい偶然だよ。よく凹む場所でもないし……」

 

 三人一緒だったら面白いのに、と軽い気持ちで声をかけてみたつもりが、アルミンは顎に手を添えて難しい顔をしてしまった。偶然を偶然のままにしないところが、アルミンを秀才としている所以なんだろう。

 

「……よかった」

 

 またには装置を磨き上げてみようかと布切れに手を伸ばしかけたところで、マルコの呟きが耳に入ってきた。手短な布を掴み、座りがてらに聞き返す。

 

「どうしたの?」

「いや、そうだな……」

 

 マルコが視線を泳がせ、言葉を探るように口をもごつかせる。狼狽える姿が物珍しくて、手も動かさずにマルコを待つ。あたし、アルミンと視線を動かしてから、マルコは覚悟を決めたように口を開いた。

 

「教官に頼まれて、みんなと町に降りたことがあっただろ」

 

 予想だにしていなかった一言に、心臓が跳ね上がる。マルコがあたしを真っ直ぐに見つめるので、必死に表情を取り繕った。都合の悪い記憶を、全部まっさら忘れてしまえるくらいの馬鹿だったらよかったのに。あたしはいつも、中途半端だ。

 

「帰り際、ノエルの様子が……辛そうだったから、ずっと気になってたんだ」

 

 過去の自分が嫌になる。被害者面することがどんなに罪深いことか、知っているはずなのに。

 

「でも、君の笑顔が見れて……安心した」

「マルコ……」

 

 ふわりと笑んだままマルコがあたしをみつめる。心底、心配してくれていたのだろう。違う、あたしに向けられていい顔じゃない。胸の内で叫び回る自分を、唾と共に嚥下する。

 

「……何が、あったの?」

 

 静寂。腹の底で暴れていた自分さえ動きを止め、つま先から這い上がってきた寒気に凍りつく。

 

「嫌なら、いいんだ。だけど、僕にできることがあるなら」

「マルコ」

 

 全身を蝕む寒気に耐えかねて、マルコを遮る。あたしに割り込まれたマルコは小さく何か言おうとして、口を閉じる。その瞳には不安げな色に揺れていた。マルコの優しさがあたしなんかに使われている。息が詰まりそうになりながら、なんの答えにもなっていない言葉を吐き出す。

 

「別に、なんてことないよ。知らない人に呼び止められて、五年前の話を聞いた。それだけ」

 

 笑顔で丸め込もうとすればするほど、マルコの顔が暗く濁っていく。焦燥感に掻き立てられてペラペラと口を動かしてみせるが、逆効果だった。

 

「それで……いろいろ、思い出しちゃって。ほんとに、それだけ!」

「で。でも、ノエルは……」

 

 今まで黙って話を聞いていたアルミンが、確認するようにあたしを見上げてくる。駄目だ。二人は優しいから、あたしの下手くそな嘘じゃ納得してくれない。誤魔化すのをやめにしたとして、どう言えば気にしないでいてくれるかもわからない。脳が痛いくらいに伸縮して、限界を訴えている。二人はじっとあたしの返答を待ったまま。嫌だ。知って欲しくない。あたしが、親殺しだって。

 

「なあ。お前ら、なに陰気くさくなってんだ」

「あ、ジャン……」

 

 緊張していた体が脱力する。まるで気が付かなかった。ジャンはいつもの鋭い目つきであたし達を一見して、どうにもおかしかったのかふっと鼻で笑う。助かった。今だけはいつもの皮肉がありがたくて、マルコの隣へ座るジャンを感謝の籠った視線で追った。

 

「なんだよ、会いたくなかったか?」

 

 ジャンはその熱烈な視線を忌避と受け取ったようだ。まるで最初からそこにいたみたいに頬杖をついて、拗ねた口調で言った。これがまたありがたかった。物言いたげなマルコの視線には知らないふりを決め込んで、いつものように文句を垂れる。

 

「そりゃ、会いたくはないよ。明後日のこと、考えるし」

「……明後日、何かあるの?」

「ああ。コイツと俺の勝負がな」

 

 何も事情を知らないアルミンが問いかけると、ジャンはあくどい笑みを浮かべながら自分とあたしを指さした。あまりに無謀な勝負を前にして、アルミンも驚きを隠せないらしい。当然だ。あたしだってまだ信じたくないのだから、他の人からしたらもっとだろう。あの鈍臭さで有名なノエルと憲兵志望のジャン、どう考えようと対等な勝負にはなり得ない。

 

「ノエルがジャンに喧嘩売ったって、本当だったんだ」

「も。もしかして、みんな知ってるの……?」

「うん。ノエルの勝ち目がないから、噂だと思ってたんだけど……」

 

 グサリ、と予想外のところから飛んできた矢があたしの口角を歪ませる。知らないところで噂になっていたらしい。饒舌なジャンのことだ。言いふらしていようと驚きはないけれど、噂に留まった理由が不甲斐なさ過ぎる。ようやく察したのか、アルミンは一拍遅れて「あ」と零した。

 

「ごめん……現時点ではって意味だから」

「う……」

「トドメ刺してやるなよ」

 

 ジャンの一言が、本当のトドメになってしまった。よろよろと机の上に置いておいた自分の装置を引き寄せて、その場で突っ伏す。否定はしない。否定はしないが、そこまで明確に言われて無傷でいられるほど鈍感でもない。あたしは巻き込まれただけなのに。エレンのせいでこんなことになったとアルミンに言ってやろうか。少し考えて、頭を振った。アルミンに言ったところでジャンが乗り気な以上何も変えられないし、嫌味なやつになるだけだ。

 

「負けた方がなんでもする、ってのもちゃんと広めとけよな」

「な、!……なんでもって、ジャン。お前……!」

 

 横からの愕然としたマルコの声をどこか上の空で聞き流す。同時に「え、ノエル……」憐れみと疑問を含んだアルミンの声がするけれど、返答する気力はない。みんなの驚きの大きさに改めて後悔と怒りが湧き上がり、胃がキリキリと痛んでくる。この怒りはもちろん、馬鹿な提案をしてしまった自分にだ。最初から夕飯を全部あげる、程度にしておけば良かったのに。

 

「なんだよ、マルコ。お前が嫌がろうとコイツが言い出したことだぞ」

「そ、そうなのか?」

「こんなつもりじゃなかったんだよ……ほんとに……」

 

 息も絶え絶えになりながら返事をするけれど、信じてくれるかすら怪しい。マルコやアルミンには至らない。至ることのできない境地だ。聞かれても、あたしからは一時の気の迷いとしか説明できない。だって、今の自分でさえその時の心境がわからないのだ。あまりにも、おばか過ぎる。

 

「ジャン!」

「変えるつもりはねぇよ。この俺がわざわざ相手してやる意味なくなんだろ」

 

 そう。それだけあたしが嘆こうと、ジャンからしてみれば都合のいい話でしかない。よってジャンがこの勝負の中止や変更を受け入れるはずないのだ。鴨がネギ背負って歩いてきたのに、仕留めない人がどこにいるだろう。少なくとも、あたしが勝負をふっかけたジャンはそんなに優しくない。

 

「ヘタクソがなんでもって言ってんだ。俺を応援する理由が……マルコ。お前にはあると思うけどな」

 

 ジャンが何やら言っているけれど、耳を傾ける気すらしない。苦い木の香りを思いっきり吸い込んで全身の体重を預けると、この絶望的な状況が少しは許される気がした。 

 

「俺の命令で、お前とヘタクソを二人っきりにしてやったっていいんだぜ?」

「や、やめろよ!」

「……そーかよ。真面目過ぎんのも問題だな」

「二人きりくらい普通にやるけど……?」

 

 机の匂いと暗闇に逃避行するのも飽きて、顔をあげる。あたしのために言い争ってくれていたマルコはジャンに向けて顔を動かして、あたしをみた。瞳がゆらゆらと揺れていて、雀斑の乗った頬は妙に赤くなっている。照れさせてしまうような事を口走ったつもりはないのに。首を傾げてからアルミンに目をやるも、眉を下げて笑っているだけでよくわからない。

 

「……らしいぜ。良かったな」

「お、こんなとこにいたのか。探したぜ」

 

 ジャンが茶化すような笑みで固まったマルコを小突くのと、見慣れた金髪が整備室に入ってくるのはほぼ同時だった。訓練が終わった後なのにばっちり兵服を着込んだライナーがギシギシと床の音を鳴らしながら歩いてくる。整備の最中でもなさそうな机と仲良くその机を囲っているあたしたちを見るなり不思議そうに口を開いた。

 

「四人揃って整備か?」

「たまたまね」

「俺はこいつらを冷やかしに来ただけだ」

 

 ジャンが椅子の上で腕を組んでふんぞりかえる。その冷やかしがなければ、あのことを有耶無耶にできなかっただろう。根は面倒見の良いと知っているからこそ、尊大な態度で振る舞うのが疑問だったが、今この時だけは気にならない。むしろ、救世主には相応しい態度だ。

 

「それで、どうしたの?」

「どうしたも何も、まだ今日の特訓が終わってねえだろ」

「え!?」

 

 ライナーが臆面もなく言い放つので、あたしは吃驚して大声をあげる。兵站行進があったから、すっかり今日の特訓はないと思い込んでいた。外はまだ曇り空でいつ天候を崩すか予想できないし、何よりも体力の限界が近い。室内で談笑していたからだいぶ回復してきたとは言っても、時計からしてだいたい一時間程度。今の時点でも明日の筋肉痛に怯えているのに。

 

「今日も?」

「当たり前だろ」

 

 聞き間違いであってくれと願いながら聞いたが、あっさり希望は絶たれた。横にいるジャンのニヤニヤがちらついて鬱陶しい。救世主なら相応しいなんて前言撤回だ。マルコに浄化されてしまえばいい。

 

「だ、だって。今日は兵站行進もあったし……」

「そんなんでへばってたらそこの奴に負けちまうぞ」

「ああ、ちょうど今何してもらうか考えてたとこだ」

「も、もう。今日はいいんじゃない?ライナーも疲れてるだろうし……」

「仲間の特訓に付き合ってやんのも兵士の務めだろ。俺のことは気にするな」

 

 ライナーは本気であたしを勝たせるつもりらしい。ライナーの世話焼き気質が裏目に出たのだろうか。それとも、他の何か?どっちにしろ、これ以上うだうだと言い訳を続けようが何もひっくり返せそうにない。筋肉痛としばらく友達関係でいることを受け入れるしかなさそうだ。

 

「とにかくお前は勝つことだけ考えてろ」

「うん……」

「技術はあと二日でどうにかするぞ」

 

 呆然とするあたしの前でライナーはテキパキと整備用の工具を片付けていく。まるで、子供が散らかしたものを片付ける保護者みたいだ。あたしが手伝おうとする前に机はさっぱり綺麗になり、装置は人質として取られてしまった。

 

「ま、奇跡がおこんのを祈っとくんだな」

「もう少し言い方ってものがあるだろ」

 

 ぶっきらぼうな言い方をマルコが嗜めるけれど、それくらいで止まるジャンではない。足を組み直すなり、この後の特訓のことで頭がいっぱいになっているあたしに視線を向けてくる。何かあるのかとぼんやり意識を向けかけたところで嘲笑された。

 

「ないな。数日で拵えた付け焼き刃が俺に叶うはずねぇよ」

「実際、どうなの?」

 

 アルミンがこそりと聞いてくる。ここで、絶対に勝つよ、とか言えればかっこいいんだけれど、そんな風に啖呵を切れる勇気も技術もない。残念なことに。

 

「ぼ。ぼちぼち、くらい?勝てる気は……」

「そ、そっか」

「そのぼちぼちをどうにかするんだろ」

 

 あたしとアルミンの間に影が落ち、あたしはびくりと肩を跳ねさせる。もうちょっとゆっくりさせてくれてもいいのに。時間を引き延ばすのも、これが限界らしい。ライナーの目が怖いので、そそくさと椅子から立ってライナーに手を伸ばす。雑談に夢中だったからか、渡された装置は一仕事終えた後みたいにピカピカで今から使うのが嫌になるくらいだ。お前も休みたいよね、ずしりと重みを伝えてくる我が相棒に泣きつきたくなった。

 

「飯までもう時間がねえ、ほら。行くぞ」

 

 「はあい……」気の抜けた返事を返して、ライナーの後に続く。意図的か無意識かわからないが、手首が強く握られていて遠くにはいけそうにない。ジャンたちからは首を咥えられた子猫と親猫のように見えていることだろう。

 

「ちゃんとやれよ、ヘタクソ。圧勝じゃあ、競い甲斐ねえからな」

 

 激励とも野次とも取れるようなジャンの声と「無理しないでね、ノエル」「応援してるよ」真反対な声援を背に受けながらあたしは整備室を後にした。結局、ライナー指導の特訓は夕飯の鐘が鳴るギリギリの時まで続いて危惧していたとおり、天候は急変。二人でずぶ濡れに。泥人形同然の姿で食べたスープは土の味がした。ユミルには腹を抱えて笑われるし、こんな「おそろい」は懲り懲りだ。

 

 真上には薄青い秋空が広がっている。僅かな肌寒さはあれど、久しぶりの曇りひとつない空には心が踊った。これで勝負事などなければ最高だったのだけれど。他の仲間たちと一緒に順番を待ちながら、一人ため息をこぼした。「初め!」と聞こえてくる教官の号令で、序盤の訓練兵たちが飛び出していく。アンカーを巻き取る音に体がびくりと反応した。自分の番を間違えているのではないか不安になるのもあるが、来たる勝負の瞬間に震えているようでもあった。装置をフシュー、とから吹きして異常がないのを再度点検していく。泥まみれになりながら訓練をしたのも数日前。勝負の日は想像していたよりもあっという間にきてしまった。立体機動に不備がないことを確認して、滲んできた汗を手で拭う。

 

「問題ないか?」

 

 そう問いかけてきたのはここ一週間、びしばしとあたしを指導し続けたライナーだ。隣にはベルトルトがそばにいて心配そうなにあたしを見ている。ジャンと勝負することになった、と言ってから。特に、負けたほうがなんでもする、という条件を聞いてからベルトルトはずっとこうだ。あたしだってみんながそんな条件の勝負をしてたら同じようになるだろうから、あまり気にしていない。

 

「大丈夫。いけそう」

「そうか」

 

 首を上下に振ったライナーは筋肉のおかげもあって教官のようだ。それとも、ここ数日教官並の厳しさで鍛えられたからだろうか。昨日は勝負の前日だからと休ませてもらったが、それ以外の休みはないという厳しさである。それはライナーも同様。ライナーなら軽々こなせるのかもしれないが、本人でもないのに異常な熱の入り用だ。どうしてここまで付き合ってくれるのか聞いても、「お前を勝たせる」というだけでよくわからなかったし、きっと謎のままだろう。

 

「もし、負けちゃっても嫌いにならないでね」

「なるわけねぇだろ。大体、こっちは負ける前提で用意してきてんだ」

「そうなんだ……」

 

 これにはベルトルトも初耳だったらしい。確認するような視線が注がれるけれど、反応はできそうにない。泣き言を間髪入れず一蹴りしてくれるまでは良かった。問題は後半部分だ。これだけ練習しても負ける前提、で考えなければならないなんて。ライナーからみたあたしとジャンの差はどれだけ開いているんだろう。ここ数日の努力で少しは近づけたのかすらわからない。

 

「いざとなれば俺が話をつけてやる。練習通りにやれ」

「ウン……」

 

 いい笑顔のライナーが肩を叩いてくれるので、どうにか首を縦に振る。本番直前で実力の差を改めて知るべきじゃなかった。さまざまと突きつけられた壁の高さに体が重い。このまま地面にしゃがんで落ち込んで痛かったが、トーマスが開始地点に歩いていく姿をみつける。トーマスはあたしより一つ前の順。そろそろ出番だ。

 

「いっ、てくる」

「うん」

「行ってこい!」

 

 緊張で震える足を無理くり前に動かそうとして、背中をばしりと無遠慮に叩かれた。ふらついたまま、振り返ればベルトルトが「がんばって」とつぶやき、ライナーが小声で「作戦、忘れんなよ」と伝えてくる。その言葉で真っ白になりかけていた頭が色を取り戻す。そう、あたしには作戦があるんだ。ずる、と言われてもおかしくないような秘策。縋るものができた途端に胸が軽くなる。ライナーとベルトルトへ大きく頷いてから、あたしは歩き出した。

 この数日間やってきたことを反芻しながら、開始地点に辿り着く。ライナーとベルトルトの順番は最後の方だと言っていたから、結果報告はだいぶ先になりそうだ。「初め!」トーマスがアンカーを巻き取りながら林へ消えていくのを見上げ、前に出る。必然か偶然か、隣に並んだのは勝負相手だった。お互いを視認するなり、ジャンがニッと笑みを深める。

 

「せいぜい足掻けよ」

「初め!!」

 

 教官の合図を皮切りに手ごろな木へアンカーを刺して、一気に巻き上げる。風の中を切り裂く感覚が気持ち良い。突風を顔に受けながら薄く開いた目の先に、あたしよりも速く木々の中へ飛び込んでいくジャンの背中が映った。やっぱりだ。あたしはジャンの速さに追いつけない。だから。ジャンの背を追わず、斜めに右を切り開く。いつもなら何も考えず真っ直ぐ飛んで、見えてきた模型に切り掛かるだけだが、今回は違う。練習期間に何度も訪れ、記憶に刻まれた場所を目指してアンカーを射出する。

 

「知っているのを、確実に!獲る!」

 

 張り替えられた新品のうなじに深い斬撃が入った。切り離された箇所が吹っ飛んで、視界の端でそのまま地面に転がっていった。

 

「真剣勝負じゃお前は勝てない。だから、裏技を使う」

 

 特訓をするぞ、と言い出したライナーについてくるなりそう言われた。あたしも最初は理解が追いつかなかったが、わかって仕舞えば簡単な話だ。つまり、巨人模型の設置場所を覚えろということらしかった。大前提として、模型は本物ではないので移動もしないし、頻繁に場所が変えられることもない。もちろん、一年間まるっきり同じでは困るから、訓練のたびに訓練兵団の人間が数人がかりで一週間に数体ずつ移動させる。一週間後では半分が同じままだろう。ライナーはその穴を狙えと言っているのだ。やっていることは完全に卑怯でズル同然だが、なりふり構っていられない。あたしもライナーの提案にのってここ一週間は林で模型の位置を覚えながら、斬撃の精度を上げ続けた。ジャンより先に見つけたからと言って、斬撃が浅く討伐数に含まれなければ意味がないからだ。おかげさまで五回に一回が三回に一回くらい成功するようになった。

 

「あった!」

 

 木々の間から次点で狙っていた巨人模型がのそりと姿を現す。二つ連続で移動がないとは、運がいい。強いガスを蒸して、加速する。びゅんびゅんと顔面に風を受けながらブレードを頸に滑らせた。いとも簡単に頸が削げて、くるくると宙を舞う。深さも十分。すぐさま離脱し、次の地点へ向かってアンカーを刺す。誇張なしに、訓練兵時代で一番綺麗に斬撃をいれられたかもしれない。紙で記録をつけている教官のそばに駆け寄って、今の斬撃の評価を聞きいてみたいくらいだ。これで、二体目。あたしからすればそれだけで快挙だが、ジャンに勝つには後二体。できれば三体はいきたい。目標地点近く、左右を見渡すと正面から見慣れた模型が一体。三体目だ。人影もないので、今なら独占もできるはず。

 

「きた!勝てる!!」

 

 手招きする希望の光に喜びの声が漏れる。目星をつけた模型が三連続で位置替えから逃れていたのは幸運としか言えない。ジャンには悪いけれど、巻き込まれたのはあたしだ。軽々と勝った暁には、例の約束もさせてもらおう。エレンと握手して欲しい、とか。きっとそんなのがいい。最初の晩みたいな落ち着きを取り戻してもらおう。意気揚々と考えながら、慣れた手つきで頸を刈り取る。美しく切り取られた頸の断面を眺めながら、笑みが溢れてしまう。このまま、軽く勝ってしまえば、もしかしたら、ミカサを超えてしまうかも。なんて、ズルをして超えたって意味がない。ああ、だめだ。勝利を確信すると、こんなにも体が軽い。

 

 

 と、幻想に浸っていられたのは到着地点に着くまでだった。確かに最初の三体は順調で、宙を飛びながら浮かれていた。問題はその後だ。人生で初めて三連続で斬撃を成功させ、すっかり調子に乗っていたあたしは頭から紅葉した葉っぱの中に突っ込んでしまったのである。安全装置が作動したおかげでアンカーは自動的に外れ、枝に絡まってくれたが、教官に人間ミノムシ状態を晒す羽目になってしまった。目の前がいきなり赤と黄色で染まる光景はしばらく記憶に残り続けるだろう。一週間前、ジャンとライナーに注意されたことをもっと覚えておけば、こんなことは起きなかっただろう。逆さまになりながら眺めた空は、嫌味なくらい青かった。

 

 結果、あたしは葉っぱをいくつもつけながらジャンの前に登場した。あれだけ意気込んでおいて、不戦勝である。「は?木に突っ込んだから討伐数なし?っぶはッ!お前、まじかよ!!」膝まで折って落ち込むあたしに、ジャンは腹を抱えて笑っていた。「……うん、うまくいかない時もあるよ」「そういう問題じゃねえだろ、こいつは」膝を抱えて下を向き続けるあたしのそばに慰めてくれるマルコも増えたころだ。最後尾のライナーが到着し、足音を立てて近づいてきた。事の顛末を正直に話してしまったら、呆れて縁を切られてしまうかもしれない。ひとり青ざめてびくびくしていたのだが、そこは流石のライナーだった。驚き心配はしたものの、失望の言葉は一切かけずに約束の件についてジャンへ切り出した。ライナーが約束の無効を提案してくれたりしたが、「約束は約束だろ」とジャンは頑なに譲らなかった。半ば、自暴自棄になって「何すればいいの?」と問いただせば今日の夕飯の後、食堂の裏で伝えるということになり、今に至る。

 

 夕飯をさっさと食べ終え、命令の内容を聞くと言い張って引かなかったライナーを連れて兵舎の裏口へまわった。煌々と漏れる灯りを頼りに、奥へ移動する。

 

「ジャン、きっと嫌がると思うけど……」

「だとしても、一人にするつもりはねえ」

「別に。あたしは一人でも平気だよ?」

「駄目だ」

 

 こうなったらライナーは決して譲らない。あたしからすれば心強いのだが、ジャンは嫌がりそうだ。この集合場所を伝えた時だって、同席したいと言ったマルコの申し出を拒絶していたし。一人、でくるようにと言っていたし。散々特訓を積んでもらった末に、不注意での不戦勝を提げて帰ってきた手前、ライナーへ強くは言えない。

 

「……一人で来いつったよな」

「そうだな。俺は立会人ってところだ」

 

 夜闇の中に紛れる鋭い眼光はなかなかの迫力だ。あたしが何かいうよりも先にライナーは言って、あたしとジャンの中央に移動した。

 

「立会人なんていらねえだろ」

「そうか?俺がいなきゃ約束を取り付けたことにならんぞ」

「チッ……仕方ねえ」

 

  最もなライナーの提案にはジャンも舌打ち一つで受け入れるしかないようだ。あたしからすれば逃げ道を一つ絶たれたようなものだが、ライナーのことだ。なにか考えがあるに違いない。うろうろ目を泳がせて活路を見出す傍らで、待ち受ける宣告の時に頭を痛くする。過去の自分に何度目かわからない恨み節を唱えながら、心臓の音と一緒にジャンの言葉を待った。

 

「み、み……ミカサの好きなタイプを聞いてこい」

「え」

 

 そっぽを向きながらジャンが告げた言葉は予想していたよりもはるかに可愛らしいものだった。裸で踊るとか、教官にちょっかいをかけるとか、訓練兵でいられるかわからないくらいのことをやらされると考えていたので口を開けたまま硬直してしまう。

 

「い、一回でわかんねぇのか?タイプだ、タイプ!」

 

 そんなあたしに対して、ジャンは恥ずかしさと苛立ちをごちゃ混ぜにしたような顔で叫んでいる。ライナーも同じように拍子抜けしていて、真っ赤に熟したトマトみたいなジャンを二人で見つめた。

 

「女なんだからまだ聞きやすいだろ」

「なんだ、そんなことか……ジャン」

 

 安堵で全身から息を吐き出す。タイプを聞くだけって、自分で想像してきた命令より一番軽い。ミノムシになった時は絶望していたけど、無理に嘘をついたりしないで白旗をあげたのが結果的によかった。

 

「んだよ!?悪りぃか?」

「いや……信じてたぜ」

「はァ?!」

 

 安堵を息を吐き出すあたしのそばで、ライナーが言ってジャンの肩に手を置く。ジャンが鬱陶しそうにその手を払うが、ライナーは一人頷くだけだった。ジャンが「意味がわかんねぇ」と頬を仄かに赤く染めながら、文句を言っている。気の緩みも相まって、笑みが溢れてしまう。「笑ってんじゃねえ!」とすかさずジャンが声を荒げるが、いつもより覇気がなくてあまり怖くなかった。

 

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