島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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第18話 悔恨

 顔をつたった冷水が、膝から地面に落ちていく。泡立が悪く、ひびも入った石鹸を置き、手に残った泡を最後に流した。本来なら水浴びなどできない時間帯だが、規則が言葉だけだとはすでに把握済みだ。訓練兵団に夜間の見張りを置いておく財力はない。一日中熱湯を供給できる設備もないので、凍りついたかのように冷えた体を抱えたまま深く息を吐きだす。私服に、髪にドブの匂いがついていないか軽く嗅いでから水浴び場を出た。変装道具は全てタオル包み込む。これなら、仮に目撃されたとしても水浴びをした帰りにしか見えないだろう。自室で呑気な顔を晒して寝ているアイツ以外は。扉を慎重に引き、寝静まっている部屋へ足を入れた。闇に馴染んだ瞳でベッドの淵をなぞり、その奥の灯びが浮かび上がる。窓辺で揺れている不安定な炎のそば。いたのは、呑気に寝ているはずのノエルだった。蝋燭で照らされていた影が動き、視線が交わる。

 

「おかえり」

 

 前から投げかけられた囁くような声に返答はせず、持っていたタオルを道具ごとまとめて自分の棚にしまってしまう。このままベッドに上がってしまってもいいが、まだどこかに残った鼻をつく臭いが眠気を追いやってしまったらしい。梯子にかけていた手を離し、しゃがみ込んでいるノエルを上から覗く。広げられているのは蚯蚓の這ったような字が続いている分厚い本だった。アルミンにおすすめされたとノエルが見せてきたものだ。分厚い本を借りただけで読んだ気になっているノエルに、ちゃんと理解できるのか聞き返したのが数ヶ月前。にも関わらず読み終わったページは爪の長さにも満たないほど。私の予想はあたっていたようだ。

 

「遅かったね」

「あんたこそ、こんな時間に何してるの」

「何って、読書だよ」

 

 どうやら、私を待っていたわけでもないらしい。棘を含んだ言い方をしても、図星をついたような感覚はない。蝋燭の優しげな光に照らされて、ノエルが目尻を下げた。全く進んでいない本のページに手を挟んで私の方へ近づけてくるけれど、内容は影になって読むことができない。

 

「ふうん。それで、内容は?」

「う、」

 

 ノエルは暗闇で瞳を左右に彷徨わせてから、小さく呻いて顔を落とす。やはり苦戦しているらしい。ノエルがすらすらと読み進められるわけもないので、驚きはない。大方、アルミンの警告も無視して勢いのまま受け取ったのだろう。

 

「今さら読んだところで、どうにもならないと思うけど」

 

 落ち込んだまま、立ち直ろうとしないノエルにため息を吐き出す。今月末には卒業演習があり、訓練も佳境になってきている。本に時間を費やしたところで、すぐ実践に活かす器用さを持ち合わせているとは思えない。本を勧めたアルミンも訓練に忙殺されて忘れているだろう。そんな本を今さら引っ張り出してきて、何になるのか。それも、こんな深夜に。

 

「じ、実は。読もうと思ってたわけじゃない……」

 

 恐々とした目が登ってきて、ノエルが躊躇いながら話し出す。さっきのが堪えたのか、一語ずつ探るよう口にしている。開かれていた本は徐々に閉じられ、手を添えるだけになった。

 

「この本、読んでれば眠くなるかなと思って……」

 

 また変な責任感で馬鹿をしているのかと思ったけど、そうでもないらしい。語尾を小さくしながら「アルミンには内緒だよ」と付け足すノエルに、肩の荷が緩んだ。控えめに伸ばされた指が私の湿った前髪に触れて、軽く梳いていく。振り払うような気力もなかったので、そのまま受け入れてやる。それから、ノエルはすんと鼻を鳴らして何かを思い出すように宙を見た。

 

「水浴びした?どこか汚れたの?」

「……別に。気になっただけ」

 

 靴にまとわりつく汚物、粘ついた音。忘れかけていたはずのそれ。肺が腐ってしまったような、反吐が出るような悪臭、鼻先から全身に巡っていく。もう、下水からは出たはずなのに。あの男の苦い煙草の匂い、掴まれた肩の感覚が蘇ってくる。

 

「綺麗になった?」

「さあ……」

 

 王都と訓練地を行き来しているうち、あの悪臭は私に染みついてしまった。どんなに体を洗おうが、この島にいる限りは忘れられないだろう。きっと、どこまでも追いかけてきて。あの、孤独で、惨めな仕事を思い出させ怪訝そうに揺れた。その瞳孔を占領する自分の影は奥から駆け上がってきた小さな背徳感を映している。

 

「……そっか」

 

 何かを飲み込むような間の後に、ノエルが言葉を溢す。感情を押し殺すように、口元は引き結ばれている。荒んでいた腹の底へ、微かな高揚が混じる。以前なら、一歩踏み込んできただろう、ノエルはその衝動を呑み込んだ。私が聞かれないことを望んでいるから。

 

「あたし、寝てみようかな」

 

 ノエルが本を胸に抱えたそっと、立ち上がる。朝焼けの予兆を見せ始めた窓の奥から、青白い光が差し込んできていた。空気中に漂う埃が、光に反射して煌々と輝いている。

 

「アニも、寝る?」

 

 二段ベッドに手をかけて、振り返ったノエルは目尻をさげて微笑んでいた。遠くでカラスの鳴き声が聞こえてくる。点呼まであと数時間、と言ったところ。瞼を閉じて闇に身を委ねたら、永遠に続く下水道と臭いを思い出すことになるだろう。目もすっかり冴えて、眠気は微塵も感じない。ノエルの誘いに乗ってやる理由なんて、ひとつもない。

 

「早く上がってくれない」

「あ、うん…………!」

 

 だから、これは。飼い主がご褒美をあげるようなものだ。顔を輝かせたノエルが慌てて梯子を登り出す。私もその後に続いて、毛布を広げて待っていたノエルの横に潜り込む。横になっても、眠気は息を潜めたままだ。私はノエルに背を向けて、柵の隙間から段々と明るくなってゆく部屋を眺めていた。

 

「アニ、ありがとう」

 

 こそり、と聞き取れないくらいの声がしても、返事はしなかった。しばらくすると、後ろでノエルが寝息を立てはじめる。つられるように目を閉じて、あの光景が出てくることはなかった。食堂で、喧嘩を始めた馬鹿二人を仲裁するライナーの姿を目にするまでは。

 

 定期的に行われる、この密会が私は心底嫌いだった。マルセルの代わりになるとか抜かしてる、リーダー気取りのドベに呼び出されて、あたしが持ち帰ってきた情報を精査する。エレンは脅威になりそうだから早々に排除しておこう、とか。ジャンが無事憲兵に入ってくれれば楽だ、とか。昼まで挨拶をしていた奴の排除方法を嬉々として語るドベを眺める。アイツは島の悪魔だ。穢らわしい悪魔の末裔だ。密会でノエルの話が出るたび。大抵は自分で言い出した癖に、ライナーは言い続けた。私たちに聞かせているつもりか、自分を戒めているのか。いや、この男は私たちに言って聞かせているつもりなのだろう。その証拠に、ライナーは壁を破壊することを選択した。お友達ごっこの相手を何の躊躇もなく殺すことにしたらしい。その高貴な演説が耐えきれなくなって矛盾を指摘してやれば、いつもの言葉で封じ込めてきた。「顔を、近づけないで、くれる?」熱に浮かされたようにいつもの説教を垂れてくるライナーへ言って、顔を下げされる。それでも、腹の立つ顔を止めようとしないライナーに口を開いた。

 

「分かってると思うけど、どんくさいノエルが実戦投入されたら……死ぬかもね」

 

 配属先が、運が、周りの人間が。何かひとつでも悪ければ「かも」ではなくなる。あっさり巨人に喰われて死ぬだろう。壁を破壊すれば、真っ先に死にそうなのがノエルだ。ライナーの虚をつくつもりで口走り、すぐに後悔した。

 

「アイツは俺たちのためによく役立ってくれた」

 

 ああ。だから嫌いなんだ。私は、こいつが。何の濁りもないうざいくらいの真っ直ぐな目。英雄気取りのライナーはいけしゃあしゃあと続けた。役立ってくれた、とは言い訳にも程がある。ノエルの利用価値なんて、とっくの昔になくなっていた。この場にいる全員が知っている。

 

「そろそろ、別れ時だろ」

「用が無くなったら、そこらへんのゴミみたいに捨てろって?」

 

 なんの悪びれもなく言ってみせる姿が耐えられなくなり、自分でもわかるくらい声を荒げる。その別れとやらを、散々引き伸ばしてきたのに。どうして今更、あんたに決められなくちゃならない。全てわかっているみたいな顔を貼り付けて。ライナーは、何が悪いのかわからない子供みたいな顔で惚けたままだ。

 

「散々保護者面してきたあんたが言うんだ」

「言っただろ、信用されるためだ」

 

 乾いた笑いを呑み込んで指摘してやれば、ライナーは何かに取り憑かれたように、腐った言い訳を口にした。ノエルがいなくたって、みんなの頼れる兄貴分、という馬鹿げた称号さえあれば信頼など気にしなくて良いはずなのに。その事実を隠すように、あるいは本気でそう信じ込んでいるかのように、言ってのけるライナーの顔が嫌いだ。反吐が出そうになるくらい。

 

「信用、ね。本当に、それだけなの?」

「お前……何が、言いたい」

 

 一歩踏み込んでやると、ライナーが動きを止めた。何かに取り憑かれていたようなライナーの余裕が崩れる。いい気味だ。心の底に愉悦が溜まるのを感じながら、頬で顔を支えたまま、言葉の続きを吐き出す。

 

「あんたが、その。悪魔の末裔とやらに執着してるんじゃないのかって聞いてる」

「アニ……!」

 

 普段から、ほとんど何も言わずに私たちの話を聞いているだけのベルトルトが珍しく声を荒げた。ライナーのことを気にしているんだろうが、そんなもの、私からしたら知ったこっちゃない。大体、ただの傍観者に徹してきたあんたが、なんで。今さら。軽く睨んでやれば、ベルトルトはわかりやすく目を伏せた。

 

「俺が、あの悪魔に入れ込んでる、そう言いたいのか」

「それ以外にある?」

 

 心底訳が分からないと言いたげな鬱陶しい顔を貼り付けて、ライナーが訴えてくる。コイツは、こんな些細な矛盾でさえ、本気で気づいていなかったらしい。最初からそのつもりで振る舞っているなら、まだ少しはマシだっただろう。その無自覚からくる憎たらしいくらいの偽善っぷりが、私たちを振り回してる。

 

「違うだろ。そうだったら、壁の破壊を提言したりしない」

 

 まただ。途端に、熱を持っていた体が重くなり、代わりに停滞した雨雲のような諦めが胸から沁みてくる。今まで、熱心に訴えていた自分が馬鹿らしくなって、目の前の男を蹴り飛ばしてやりたくなった。

 

「いいか、アニ。俺たちは島の悪魔どもを倒すために選ばれた戦士だ。故郷と命を投げうってここにきた」

 

 知ってる。そんなのは、もうとっくに習った。わかりきったことを。マーレの教本に丸々書いてあったようなことを。息を荒げながら、取り憑かれたように話すライナーは、座学を担当していた教官によく似ていた。

 

「島の悪魔共を葬って、世界を。レベリオの同胞、お前の父親を……救うんだろ」

「なら!ちゃんと……あんたが責任とって、殺してよ!」

 

 ノエルを。あの、哀れな島の悪魔を。私はもう何も考えたくない、なんで私が。あいつの一番そばにいて、あいつを殺す計画を黙って聞いてなくちゃいけないの。そんな責任を負ったつもりはない、ただ。気まぐれだった、私は疲弊していて。見窄らしい女の相手することが面倒くさかっただけ。こんなことになるなんて、誰も教えてくれなかった。

 あいつのためを思うなら、私がやってやればいいのに。今日にでも幸せなまま殺してやればいいんだ。それだけ。体が、腕が、指が。頭が言うことを聞かない。瞼の裏に焼きついたアイツの顔が浮かんでは消えた。

 

「私は、知らない。もう……うんざりだ」

 

 喉が渇いて、焼けるように痛い。掠れきった声で衝動を吐き出せば、燃え上がった後の灰だけが胸に残る。項垂れて、両手で馬鹿げた現実を覆い隠す。壊れた人間に、何か言うだけ無駄だった。解決策を求めていたわけでも、救済して欲しかったわけでもない。正義やら、悪魔やら、任務やら語るだけの男が、殺してやるって、言えばいいだけ。それなのに、誰と言おうとしないのは。わかってる。どこかで勝手に殺された、そう言う結末を望んでいるから。そうやって責任を逃れて、「仕方がなかった」と言い訳をしたがっている。

 

「アニ、悪かった。俺たちは、アイツをお前一人に押し付けちまってた」

 

 ライナーが被害者みたいに顔を歪めて、全部知っているような口ぶりでつぶやくのを、私はどこか遠くで聞いていた。

 成すべきことは、何があろうとなさなければならない。人間性を捨て去って、壊れたおもちゃみたいに言い続けていれば、こんなことで悩まなかった?パンを差し出した女の首を絞めて、路地裏に捨てていればよかった?わからない。決まっているのは、ノエルが死ぬこと。涎垂らして抱きついてくるような、食堂であたしを見つけると笑顔になるような、何度蹴られてもむしろ嬉しそうにしているような奴が、私たちに殺される。何の意味もなく。誰かもわからない巨人の歯にすりつぶされて、叫ぶ間もなく瓦礫に潰されて。私に、私が殺す。

 

「ノエル」

 

 ノエル・ジンジャー。私たちに全てを奪われ、私たちに利用されてきた女。他人に食い潰されて、何ひとつ残さずに死んでいく哀れな女。巨人に喰われていた方が、ライナーが破壊した壁の破片で潰されていた方が、まだ。幸福だったのかもしれない。私を見つけずに、避難所で餓死していた方が、ずっと。

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