島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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トロスト区奪還作戦編
第20話 解散


 コップに並々と注がれた水が、目の前で繰り広げられる喧嘩の余波で揺れている。白熱する取っ組み合いに、何か言葉をかけようとして、立ちあがろうとするミカサの姿に飲み込んだ。

 ライナーもエレンの言葉で吹き出すし、別れが辛くなるかも、という危惧はいなかったかもしれない。ミカサによって、軽々と子供のように抱え上げられたエレンの姿で場が沸き立つ。頬杖をついたアニは興味なさそうに皿に乗った質素な料理をつついている。あれだけ惜しく思っていたはずが、過ぎて仕舞えばあっという間だった。成績上位者の発表も終え、いよいよ明日には訓練兵でなくなる。考えて、高揚感と不安をコップの水で勢いよく押し流した。三人が成績上位者として名を呼ばれた時は、みんなの代わりに自分が声をあげてしまいそうだった。無事十位以内、ベルトルトなんて二位をとったのに、発表の後に駆け寄っても三人は冷静だった。あたしが一番喜んでいたくらいだ。発表される前から決まっていたようなものだから、そこまで嬉しくなかったのだろうか。一緒に喜んでくれそうなライナーも、何故だか今回ばかりは仏頂面だった。

 「クッソ、あの野郎……」ようやく熱の冷めたらしいジャンが文句を言いながらドカリと席に座り込む。エレンはすっかり運び出されて、アルミンがしきりに外を気にしている。

 

「ノエルはどの兵団に行くつもりなんだい?やっぱり、駐屯兵団?」

 

 親友としてジャンを宥めていたマルコがピリついた空気を変えようと聞いてきた。話題を切り替えたいという思惑を察しながらも、嘘をつくことはできない。なるべくジャンを刺激しないよう、慎重に口を開いた。

 

「調査兵団だよ」

「え……?」

 

 マルコの瞳が大きく開かれ、動きを止める。やっぱり、嘘でも言っておいた方が良かったかもしれない。自責の念にかられながら、曖昧に笑ってみせた。やはりこの言葉は聞き捨てならないようで、一人ぶつぶつ言っていたはずのジャンも鋭い目を覗かせる。

 

「お前が言うと笑えねぇんだよ。お前まで自殺願望持ちか?」

「そう言う訳じゃないんだけど……」

 

 流れに乗った冗談だと思われてしまったらしい。ジャンの笑みの前で歯切れの悪く言葉を詰まらせる。この反応はだいたい予想していた。希望していると言うだけで異端者扱いの調査兵団だ。あの、鈍臭くてバカで立体機動の才能がまるでないノエル・ジンジャーが入ったらどうなるかは目に見えている。本当に、質の悪い冗談みたいな話だ。

 

「まさか、まさか……本当に、調査兵団へ入るつもりなの?」

 

 馬鹿らしい話で笑っているジャンの向こう側、マルコが確かめるように問いかけてくる。隣にいるアニとベルトルトからも、視線が痛い。

 

「何マジになってんだよ、マルコ。まあ、心配になんのは分からなくもねぇ――」

「本当だよ。あたしは調査兵団に入る」

 

 確固たる意志を告げて、ようやくジャンはあたしの言っていることを理解したようだった。饒舌に回していた口が止まり、何かを吟味するみたいに上から下まで視線を滑らせた。

 

「……おいおい、あの死に急ぎ野郎のせいでヘタクソまでおかしくなったじゃねえか」

「おかしくなってないよ。あたし、元からそのつもりだもん」

 

 5年前のあの日から、ノエル・ジンジャーの夢は決まっている。調査兵団に入り全人類を救う、ほぼ神話に等しい夢物語を叶えるために足掻き続けること。それであたしは生きることを許されている。

 

「は?ノエル、お前。馬鹿だろ……」

 

 ヘタクソ、と呼ばないあたり。ジャンは本心で驚いているようだ。愕然とした視線が向けられるが、あたしは普段と同じような笑みを浮かべることしかできなかった。罵倒に憤慨するのも、肯定の言葉を吐くもの違う。さっさと他の話題に移って欲しいものだが、ジャンがなかなか視線を外そうとしない。こうなるとわかっていたから、配属兵科を問われるまで秘密にしておきたかったのだけど。重苦しい空気にそっと息を吐く。

 

「駄目だ」

 

 沈黙に耐えかねて、下手くそな笑みを口元に貼り付けたまま、声を出そうとした時だけ。肩に添えられた重み、背後から掛けられた声に首だけ振り返る。話を聞いていたのか、いつの間にか側にいたライナーは至って真面目な顔でそう告げた。

 

「お前には荷が重すぎる。諦めろ」

「ライナー、でも。あたしは」

 

 ライナーがこうして反論してくるのは予想外だった。言われるとしてもアニから、無謀だ、死に急ぎ野郎に影響されたのか。と、捲し立てられる程度だと思っていた。その対策を講じることしかしてこなかったのだけど、あたしは一人で言葉を探って狼狽える。

 

「……調査兵団に入ってもお前の技量じゃ、無駄死にするだけだ」

「っそれは言い過ぎだ。ライナー!」

 

 叫ばれた声にハッとして、反射的にその声の主へ顔を向ける。普段それほど声を荒げないベルトルトが感情の織り混ざった表情で眉を顰め、ライナーを見据えていた。反論はすれど、ここまで大きな声が出せるなんて知らなかった。目を丸くするあたしを置いて、話は進んでいく。

 

「じゃあお前は、ノエルが生き残るって言い切れるのか?」

 

 ライナーはそんなベルトルトにも淡々と続けた。あたしはもうすっかり覚悟を決めているのに、ライナーたちはそんな愚かなあたしを心配して言い合っている。全て話すことができれば、ライナーたちも余計に声を荒立てなくていいはずなのに。罪を吐露することはできない。申し訳なくて、あたしは膝に置いた指を眺めた。

 

「最初の壁外調査で無事に戻って来れる可能性の方が低いことくらいわかるはずだぞ」

 

 三割。新兵が初の壁外調査で生き残れる確率だ。座学で教官がその圧倒的な数字を告げた時、講義室は騒めいた。あたしはどこか蚊帳の外のようにそれを聞いていた。あの子がずっと教えてくれていたから。贖罪が揺らぐことはなかったけれど、みんなは違うようだった。あの反応は、三割という数字を前にしてもそれでも壁外へ向かい続けている調査兵団への畏怖だったのかもしれない。

 

「これじゃ、自分の意思で死にに行くようなもんだ。そうだろ、ベルトルト!」

「変わらないよ。鎧の巨人と、超大型巨人がいる限り……」

 

 掴まれた肩に力が込められ、顔を上げるとライナーは握り拳をつくって訴えかけた。それに反して、ベルトルトがいたって冷静に言葉を返す。深い夜の森みたいな色の瞳が真っ直ぐあたしを見つめた。

 

「それなら、ノエルが好きなようにした方がいいと思ってる……」

「ベルトルト」

 

 見つめ返したあたしの視線から逃げるように目を落として、ため息を吐き出すようにベルトルトが溢した。ベルトルトの意見は最もだ。壁を壊せる二体の巨人がいる限り、この壁の中で絶対に死なないでいられる場所なんかない。ウォール・シーナだって。あたしたちは、ここで生まれた時から、そういう運命に決められていたのかもしれない。

 

「……僕はもう決めた。ライナーも覚悟を決めてくれ……」

「いい加減にして」

 

 片手で顔を覆いながら、震える声で言ったベルトルトをアニが遮った。バン、と音を立てて勢いよく立ち上がったアニに全員の視線が注がれる。アニはその視線を鬱陶しそうな目で睨んでから、地を這うような声を出した。

 

「この前散々説教した癖に、今更グズグズ悩んでんの?」

 

 「ふざけんな」消え入りそうなくらい小さく呟いて、アニは立ったまま顔を俯かせた。影と前髪に遮られ、表情はよく見えない。どこか傍観者のような立場でいたあたしの心が引き戻される。アニ。静まり返った空気を切り裂こうと、その名前を呼ぼうとしてジャンの舌打ちの方が先だった。

 

「クソ。エレンの野郎が変な話持ち出したせいで、折角の旅出が台無しだ」

 

 必要以上に大きな声で話し出したジャンは身振り手振りも付け加え、鋭い目をあたしの方へと寄越した。何を言われるんだろう、身構えるあたしにジャンは咎めるように続ける。

 

「ヘタクソも面白くない冗談はやめろよ。アニもマジになってんじゃねえ」

「あ……ごめん」

 

 あたしが一言謝り、アニが静かに腰を下ろす。その様子を見ていた誰かが徐々に話題を切り替え始め、兵舎はまた賑わいを取り戻した。どこか呆然とした気持ちでその様子を眺めていて「ったく……」小さく悪態をつくジャンの声で口を開こうとした。

 

「すまない、ジャン。僕、少し外に出てくる」

 

 口論に参加せず、ただ静かに何かを考えているようだったマルコが神妙な面持ちで腰を上げた。その顔は優しく笑みを含んでいるが、どこかぎこちない。心配そうな顔をしてしまっていたのだろう。ふっと眉を下げてから、マルコは口元を動かした。

 

「少し席を外すだけだよ。またあとでね」

「う、うん。また……」

 

 いつもとは違って弱々しいマルコの姿に、何を言えばいいか分からず、そのまま返事をする。背中を向けて歩き出したマルコへ「チッ。アイツ……」ジャンが痺れを切らしたように呟いて、立ち上がった。

 きっと、あたしのせいだ。こんなに、なるなら言わなきゃよかった。周りのことも考えず、馬鹿正直に言った数分前の自分が嫌になる。ジャンがマルコの隣に追いついて、何か言葉を交わしている。あたしが言ったところで、きっとマルコの心を今以上に掻き乱すことしかできないだろう。

 

「そんな顔するな、ノエル。ジャンがいんだから大丈夫だろ」

 

 二人分空いてしまった隣の席に腰を下ろしながら、ライナーがあたしの背を安心させるように叩いた。前にはアニとベルトルトがいる。やっぱり、四人集まると緊張していた体が解れるようだった。あたしは心の内でほっと息を吐いた。

 

「兵団に入ったら、みんなに毎日手紙書くよ!返事……書いてくれる?」

 

 小さく深呼吸をしてから、重苦しい空気を掻き消すように溌剌と言ってみせる。その勢いに押され、ベルトルトが僅かに目を開く。何かを考えているかのように、一拍置いてから、唇を開いた。

 

「……うん、書くよ」

「やったー!アニは?」

「書かない」

「そっか、残念だな」

 

 表面上では残念がってみせながらも、徐々に戻りつつある空気へ胸を撫で下ろす。こんな形で最後の夜を終えたくなかったから、あたしの言葉に乗ってくれたベルトルトには感謝しかない。このままアニの将来でも勝手に想像してみようか。再び調子の良い声をあげようとして「ノエル」隣から名前を呼ばれた。

 

「さっきは……酷いことを言った」

「ううん、気にしてないよ。事実だから」

 

 三割に入るだろうと分かっていて、調査兵団を志望する。自殺願望でもあったのかと驚愕して引き止めるのは当然だ。自虐的に笑ってみせれば、ライナーは顔を覆っていた手を退けて、力強い黄金を宿した瞳であたしを確かめるように見た。

 

「それでも、行くんだな?」

「うん。行くよ、絶対に」

「……なら、仕方ないか」

 

 トロスト区の壁を整備しながら、その日あった取り留めのない出来事を手紙に書く。たまに、憲兵のお仕事で三人が遊びに来てくれたりなんかして。夜のトロスト区でお酒を飲んで騒いだり。そんな未来なら、ライナーにこんな顔させなくてよかったのに。

 

「ごめん」

「謝る必要はねぇよ、むしろ俺が謝るべきだ」

「ライナーの反応は当然だよ、あたしだって止めるもん」

 

 三人が調査兵団に行くと言ったら、あたしはライナーみたく大人に諦められないだろう。きっと、みっともなく嘆いて縋り付くはずだ。三人と別れることでさえ、こんなに心を取り乱しているのに。

 

「うまく隠してたよな、そんな素振り一切なかっただろ」

「隠してるつもりはなかったんだけどなぁ、エレンたちには言ってたし……」

「なるほどな。だから最初っから仲良かったのか」

 

 へらりと軽く笑いながら言えば、ライナーが納得したように頷く。調査兵団を志望して良かったことと言えば、今のところそれくらいだ。あたしは根性がないから、共通点がなければエレンとは今ほど仲良くなれなかっただろう。

 

「そうそう。一目見て仲間だって思ったから」

「……しっかし、死に急ぎ野郎と一緒か。巻き込まれんなよ?」

「気をつける」

 

 そう言うなり、頭に手が置かれる。力加減のされた手のひらが髪の毛をぐちゃぐちゃに撫でた。こうされるのも、なくなるんだろうな。一人で隠れて名残惜しさを感じていると、ライナーは一通り掻き回してから「さっき言ってた癖になんだが……」と頭の上で話し始めた。

 

「俺は、お前を信用してる。上官になって、俺に肉を食わせてくれるまでは死ねないだろ」

「ライナー…」

 

 心臓をぎゅうと掴まれたような心地で、ただ名前を呼んだ。あたしのせいで、散々振り回したのに。最後はこうやって認めてくれる。そんなライナーを振り回してしまった後悔と共に、胸の奥から温かなものが広がってきた。

 

「手紙、書くからな。絶対返事しろよ」

「……うん、ライナーこそね。忘れないでよ」

「ああ」

「最低」

 

 口元で浮かべていた笑みが凍りつく。戻り始めていた雰囲気が一刀両断され、たち消えた。何も言うことなく、あたしたちの振る舞いを見ていたアニは忌々しげに吐き捨てるなり、じろりと鋭い視線をこちらへ向けた。

 

「アニ?」

「どうした?なんのことだ、アニ」

「話しかけないで、もう行く」

 

 先ほどと同じく、いや。それ以上に、怒気を孕んだまま席を蹴ったアニが早急に立ち去ろうとする。立ち去ろうとする背中に向かって「どうしたの。気分でも……」と引き止めるよう声を出す。

 

「そう、気分が悪い。ここに居たら吐き気がする」

 

 立ち止まった背中が白けた瞳を覗かせながら言った。視線が交わり、細められてから容赦なく断ち切られる。静止の声をかけるも、アニは振り返ることなく出ていってしまった。

 

「どうしちゃったんだろう……」

「食べ過ぎちまったんじゃないか」

 

 ライナーが言ってくれるけれど、絶対に違う確信があった。元々アニは少食な方だし、今だってほとんど何も口にしていなかった。

 

「……あたし、行ってくる」

「やめとけ。とばっちり受けるぞ」

 

 すぐにでも泣き出してしまいそうなアニの表情が忘れられなくて、その背を追おうとすると、ライナーに腕を掴まれた。「でも、」言い淀みながら躊躇うあたしへ、ライナーが諭すように続ける。

 

「いつもあんなもんだろ。最後なんだからもう少し食っとこうぜ」

 

 ライナーが皿に残った料理をフォークに突き刺し、あたしの方へ向けてくる。断ることもできないので、小さく口を開いて雛鳥のように料理を口の中へ入れた。あまり味のないそれを咀嚼しながら、ライナーが満ち足りたように頷いているのを見上げる。

 

「なんて顔してんだ。お前もアニが気になるのか?」

「……きっと、違うよ。アニは……」

 

 ライナーの声でベルトルトへ目を向ける。ベルトルトは先ほどよりも余裕のない顔で、何かをぶつぶつと呟いていた。瞳孔を見開いたまま、自分の手のひらをただひたすらに見つめている。

 

「何言ってんだ、ベルトルト。暗い顔すんなよ」

「……ベルトルト……気分、悪いの?」

 

 ライナーは異常さに気づいていないようで、いつものように軽口を叩いてみせる。その隣で、あたしはじっくりと言葉を探りながらベルトルトを伺いみた。深緑の瞳孔があたしを映して、震えたあとに逸らされる。

 

「いや、僕は大丈夫じゃなくちゃ……」

 

 奇妙なことをうわ言のように呟いたベルトルトは、開いていた手を自身の首に這わせ、世界を隠すよう顔の上にのせた。長身の体が随分と小さく、肩が僅かに震えているように見えた。

 

「ノエル、ごめんね。ごめん」

「ベルトルト……?なんで、どうしたの……?」

「……心配かけてっから忍びないんだろ」

 

 明らかに、ベルトルトがおかしい。じわりと頬からつたう汗を感じながら問うてみるも、返事はなかった。心配をかけているから、とかそういう話ではない気がするけれど、ベルトルトを一番よく知っているライナーが言うのならそうなんだろうか。

 

「なあ、ベルトルト」

 

 確かめるようなライナーの言葉で、ベルトルトが跳ねるように顔を上げた。「あ、ああ。そう、そうだね……ごめん」視線をうろうろと彷徨わせてから、ベルトルトは謝ったきり口を閉じた。

 

「……ほら、食おうぜ。せっかくの飯が冷めちまう」

 

 ライナーの一言で、ベルトルトが料理に手を伸ばす。どう言葉をかけていいのか分からなくて、あたしも側にあった芋を口に放り込んだ。口の中の異物を噛み砕いて、咀嚼する。ハズレに当たったのか、なんの味もしなかった。

 

 アニが出ていってしまった後、すぐにお開きとなった。あたしは食器を片付けるなり、ライナーとベルトルトに別れの言葉を告げてから駆け足で兵舎を出た。トロスト区の兵舎にある寮は、訓練地のものより一回り大きくて、割り当てられた部屋まで辿り着くのは一苦労だ。まだ誰も帰ってきていない、夜の静けさを纏った暗い廊下で一人足を動かす。目的の部屋まで辿り着き、願いながら扉を開ける。窓辺から差し込む月明かりに照らされ、人影が足元まで伸びていた。息を呑んで、影の側に並ぶ。その横顔は、夜のトロスト区を眺めていた。この寮は縦に長いから、向かいの建物の屋根と少し先ぐらいは一望できる。すぐ下の道には、同期とも分からない兵士がうろうろと行き交っていて、建物の窓からはちらほら光が漏れていた。真っ暗闇に包まれる訓練地とは違って、トロスト区は数々の光が夜を照らしている。

 

「答えて」

 

 生きた光に魅入られていると、すぐそばから声がした。アニは窓の奥を見つめてから瞼を閉じ、開く。あたしの方へ、静かに瞳を動かした。

 

「本当に、あんたが選んだの?」

「……うん」

 

 そっと嘘を吐く。アニはただじっとあたしを瞳に移したまま、しばらくして「そう」興味をなくしたように言い、顔を戻した。

 

 

 

 よく、あの子に連れられて壁外調査から帰ってくる調査兵団を眺めていた。毎度興奮気味なあの子の隣で、みた光景。

 鉄の匂いが充満しているそこに、出発前さりげなく手を振りかえしてくれた人の姿はなかった。赤黒く滲んだ包帯を頭に巻いた人、馬車の上で横たわった人。名前も知らないその人が、どうなったかは子供ながらにわかった。罵詈雑言の中、先頭を歩く人へ近づいた大人たちは、大抵膝を負って呆然としていた。

 面白くも、幸せでもない光景を見るためだけに、あの子は毎回あたしの手を引いた。息もぴったりで、どんな時も楽しかったのに。あれだけはわからなかった。熱あげてその景色を食い入るように見つめるあの子が、理解できなかった。それが憧れからくるものだったとしても、あたしには恐ろしいものとしか思えなかった。

 

「ぇっ……おぇっ……」

 

 こんなことではいけないのに。焦燥感に塗れたそれが胃の中から競り上がってくる。微動だにせず、虚な目で運ばれていった兵士、下半身にマントをかけられた兵士、譫言を呟きながらうずくまる兵士。あたしのお母さんは、指の一本も返ってこなかった。残ったのは、赤黒いシミがついた紋章だけ。

 あたしも、そうなるのだろうか。誰も救えなくても。そうなれば、あの子は許してくれるんだろうか。

 

「ぁあ……」

 

 濡れてしまった前髪から雫が垂れ、頬を冷たく這う。口内に溜まった不快な酸味を嚥下すれば、自身の嘆息がやけに大きく聞こえた。全身が干からびているみたいで、力が思うように入らない。輪郭が掴めない蛇口をどうにか掴んで、大きく捻る。口に水を含み、酸味と共に吐き出した。

 

 嘘つくのって、

 

「……やっぱり、くるしいな」

 




嘘ついてる癖に被害者面をする天才が、ここにひとり。

【教官の評価】
全体的な能力は他に劣り、特筆した才能もないが、どんな訓練にも耐えてきた。その忍耐強さと目的意識の高さは評価できる。
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