まるでそうなることが決まっていたかのように、真っ青な空が広がっていた。訓練兵最後の日に相応しい晴天だ。朝から元気な太陽の光を浴びて、欠伸を飲み込む。体に残った眠気を、ぐっと背伸びして誤魔化した。あんなことがあったせいで、昨日はどうも寝れなかったのだ。悪夢こそ見なかったが、寝ては起きての繰り返し。うんざりした頃にやっと眠り、数時間後には起こされてしまった。このまま突っ伏して寝てしまいところだけど、最後までやることは山積みだ。数分後、壁上で煤濡れになっている自分が容易に想像できて、いやになる。「ちゃんと起きてるか?」「起きてるもん」よほど眠たげにしていたのだろう。運よく同じ班になったライナーから茶化されつつ、どうにか前へ進んだ。
「ごめん、みんなは先に上がっててくれないか」
動き続けた甲斐あって、すっかり眠気も体から抜けてしまった。ライナーと軽口を叩きながら歩き、やっとのことで壁まで辿り着いた。滑車をキイキイ鳴らしながら、リフトが降りてくるのを待っていると、ベルトルトがやけに暗い色を落として言い辛そうにしながら言った。
「さっきから気分が悪くて……」
「えっ、あたし一緒に行くよ」
「そりゃあ、難しいだろ」
「なんで?」
ベルトルトを一人だけ置いていって、倒れたりしたら大変だ。兵舎の救護室に連れて行こうかとあたしが声を上げると、ライナーが遮ってきた。向けられた目線にライナーは肩をすくめる。やり辛そうに目を逸らしてから、ベルトルトへ嗜めるよう付け加えた。
「ベルトルト、お前が妙な言い方をするからだぞ」
「え?」
「用を足しに行きたいって素直に言やあいい」
「そ、そうだな、ライナー。わかった」
ライナーがベルトルトの背を軽く叩くなり、ニヤリと歯を見せて笑う。ベルトルトは僅かに戸惑いの色を見せながらも、縦に首を振った。丁度よくリフトが降りてきて、乗っていた駐屯兵団の上官たちと交代で中へ乗り込む。
「先に上で待ってるから」
「うん……すぐ、行くよ」
どんどんと小さくなっていくベルトルトの頭に手を振りながら、あたしたちは壁上へ辿り着いた。何事もなく帰ってきてくれればいいのだけど、一抹の不安を危惧で片づける。
「酷くない?」
「何がだ」
固定砲台をほつれた雑巾で隅から隅まで磨き上げながら、浮かんできた考えを打ち消すようにライナーへ声をかけた。ライナーはまだピンときていなさそうで、砲弾の入った箱をそばに置いたっきり片眉をあげる。
「さっきの。流石のあたしも付いてかないよ」
「そうか?」
「その、意外みたいな顔。やめて」
あたしを何だと思っているんだ。至って真面目に注意してみると、ライナーは笑いを堪えきれずに小さく吹き出した。「悪りぃな」「悪く思ってないでしょ」「思ってるぞ、これでも」「嘘だ」「嘘じゃない」そうやって小言を言い合いながら作業を続ける。しばらくして、巫山戯るのにも疲れてきた頃、不意に顔を上げた。
「ねえ、ライナー」
「今度はなんだ」
隣の固定砲台で作業している仲間と備品の相談をしてきたライナーが、あたしの問いかけに首を傾げる。あたしは炭で真っ黒に汚れた雑巾を二つに折りたたんでから、曲げていた膝を伸ばした。ぱき、と小気味良い音が鳴るのも気にせず、一歩踏み出して備品やら入っている箱に雑巾を放り込む。
「ベルトルト、来ないね」
「腹でも壊したんだろ」
それにしたって遅すぎるような気もするけれど、ライナーはあまり気にしていないようだ。さっきから上がってくるリフトを見たりしているのだが、長身のベルトルトの姿はさっぱり見当たらない。忘れかけていた胸のざわつきが、蘇ってくる。
「何も、ないといいけど――」
耳を劈くような雷鳴。鼓膜が突き破れてしまいそうなくらいの、暴力的な音が空気を切り裂いた。反射的に耳を防御して、体が凍りつく。「ッわ!何!?」吹き荒れる突風の中で耐えながら悲鳴を漏らすと、よろけた体を手で支えられた。厚い胸板に頭をぶつけ、ぶつかってくる風に抵抗して瞼をあげる。
「やった……」
やった。やったって、何が?最初に聞こえてきたのは、確かにライナーの言葉だった。頭から小刻みに震える手を離し、腕の中から、何かを凝視しているライナーの目線を辿る。
「あ……」
いた。澱んだ灰色の蒸気に纏われた、ソイツが。五年前の、はじめてみた悪夢の元凶は想像よりもずっと、神さまのように大きい。血のような筋肉に覆われて、壁の外からトロスト区を見下ろすように立っていた。あたしを支えているライナーの腕、その熱があつい。頬を撫でる生ぬるい風も、耳元で聞こえてくる呼吸音も。全部本物。夢じゃ、ない。
「また、だ」
黒い影があたしを覆って、激痛が走った。外に出たら、血の匂いと不穏な振動しかしてこなくて。手を引かれて逃げた、そうしたら巨人が追いかけてきた。後ろから迫ってくる音が、聞こえなくなって。巨人の楽園を船で見てた。パパはあたしを探してる。どこにもいない、わたしを探してる。勝手に死んだから。あたしは逃げないと。逃げたら、また誰かを殺してしまう。あの日だ。あの子を殺した。あたしが。また、まただ。どうして、誰も願っていないのに。
「巨人だ!巨人が、入ってくる!」
悲鳴に似た叫び声でハッとして顔をあげる。超大型巨人の姿はなく、姿があったはずの場所には蒸気が立ち込めていた。その下、門にはここからでも見えるほどの大穴が残されている。快晴だった空に長細く黒煙が立ち昇っていた。全部、あの日と同じだ。
「べ、ベルトルトは!アニは……!」
真っ先に浮かんだのは、この場にいない二人のことだった。壁の破片が降り注いで、幾つもの民家が潰れてる。アニがどこで作業しているのかもわからない。探さなきゃ。衝動のまま動き出そうとして、ライナーの腕がそれを遮った。
「落ち着け、ノエル」
「は、は……はぁ……」
ライナーに諭され、引き攣っていた喉を動かす。背中を上下する手のひらに合わせ、呼吸を整えていく。空気を吸い過ぎで咽せたりしながら、何度も繰り返して、心臓の音も小さくなっていった。ライナーだって、あれを見たはずなのに。「大丈夫だ、俺がいる」恐怖の色ひとつも滲ませず、淡々とあたしに言い聞かせる。昔から、五年前から同じだ。あたしがどんなに錯乱しても、ライナーはただこうしてそばにいてくれる。
数分は、経っただろうか。やっとまともに呼吸ができて、体を撫でていた手も離れていく。最後に頭を軽く二度叩いてから、ライナーが他の仲間たちに向かって歩き出す。
「想定演習の通りになるだろうな。早く上官から指示を仰ぐぞ」
「う、うん」
そうか。作戦は始まっているんだ。口に溜まった唾を飲み込んで、汗ばんだ手で額を拭う。立体機動装置を装備した上官が壁上に現れ、一度集合せよ、との命令を下した。恐怖に慄くリフトの中で、あたしは死地に様変わりしたトロスト区を眺めることしかできなかった。
上官が解散を告げた後の広場は、あたしが乗った船とまるで同じだった。啜り泣く声とうわ言だけが響き、絶望が空間を支配している。奪還作戦への参加を告げられれば、あたしたちはそれに従うしかない。刃向かえば、反逆罪として罰されるからだ。時間稼ぎを行っていたはずの先遣隊は既に全滅。巨人はトロスト区の内側まで侵入してきているはずだ。そこへ、あたしたちは赴かなければならない。
「アニ!ベルトルトも、良かった……いた」
項垂れる人影を掻き分け、二人の背中を見つけるなり、感嘆の声をあげる。すぐそばにはマルコ、地面で蹲っているダズもいた。恐怖のあまり手をついて、嘔吐しているダズをクリスタが介抱している。悲惨な状況に立ち竦んでいたベルトルトが振り返り、「の、ノエル」痛々しそうに名前を呼んだ。ライナーも来れば良かったのに。上官に聞くことがあるとかでいなくなってしまった。アニは様子を伺うように、あたしへ視線を向けてくる。やっぱり、いなくて良かったかもしれない。この状況で、アニの心を荒立てたくはないな。その姿に怪我はみられなくて、内心そっと息を吐く。
「もう、心配したんだよ。ベルトルトのこと、一人だけ置いていっちゃったから」
「ノエル」
無事で良かった、そう続けようとしたあたしを別の声が遮った。思わぬ呼びかけに、声の主へ視線を向ける。マルコが、どこか緊張したような面持ちで立っていた。
「どうしたの?マルコ」
今朝。マルコと談笑しながらご飯を食べている時は、こんなことになるなんて思っていなかったのに。じくりと蠢く胸を押さえながら、できるだけ明るく聞き返してみる。マルコは小さく呼吸してから、瞼を開いた。薄い鳶色の瞳があたしを映す。真正面から見つめてくるマルコの視線がやけに熱を持っているようで、気恥ずかしくなってきた。揶揄ってるのかな、首を傾げたところで。
「好きだ」
心臓が大きく跳ねる。好き。って、そんな。違うよね。縋るように見つめ返した先、マルコの綺麗な目は変わらずにあたしを映していた。ベルトルトや、アニの。誰かの嘆息が、すぐ耳のそばで聞こえているみたいだ。感情の濁流が押し寄せてきて、唇が小刻みに震える。
「好きだ、ノエル」
やっと、鼓動が落ち着いて息ができたと思ったら。まただ。心臓が鷲掴みされたみたいに、引き攣って痛い。本当に現実か疑いたくなって、手を彷徨わせると、両手で包まれた。火傷しそうなくらいの熱が、あたしの手を包んでる。マルコの心音が指先から伝わってくるようだった。恥ずかしそうに目を伏せ、一呼吸おいてから視線が交まる。
「ノエル。君が、好きだ。恋人になりたいし、結婚したいと思ってる」
「け……っ?!」
結婚って、あの。マルコが、無責任に喋る人じゃないことは十分過ぎるほど知っている。だから、きっと本気だ。その言葉を飲み込んですぐ、なぜか仲睦まじく台所で並んでいる自分とマルコの姿が過った。自分で考えた癖に、顔を手で覆ってしまいたくなる。そんな、ありえない現実を目の前のマルコはあたしに求めていて、望んでる。
「あはは。こんな時に言われても、困るよね」
マルコは言葉に詰まりっぱなしのあたしをみて、自虐的に笑ってみせた。その頬は見たことないくらい真っ赤に染まっていて、少し心配になるくらいだ。あたしもきっと、同じくらい紅潮しているのだろう。羞恥も相まって、変な汗が頬に滲んでる。
「でも、それくらい本気なんだ。君を、誰にも渡したくない」
「う、……」
もう十分過ぎるくらいわかったのに、トドメとばかりに囁かれて小さく呻く。そんな煮つめた砂糖みたいなことを、さらりと言ってしまうマルコが少し怖い。体の芯が強く掴まれたみたいに苦しいまま、ただ熱くなっていく。熱暴走した体を制御しようと必死になっているあたしの前で、マルコはふーっとため息をつき、深く息を吸っていた。
「ごめん。こんなの、酷いやり方だって、分かってる……」
マルコは後味悪そうにしながら、歯切れ悪く言った。体の内側で暴走していた熱が緩やかにひいて、燻った暖かさが残る。「マルコ、」縋るような声を溢すと、マルコは寂しさの残る笑みを口元にたたえたまま、眉を下げた。あたしの手に絡まった節のある指が存在を確かめるように強くこおばって、ゆるむ。
「……返事は全て終わった後でいい」
「だから」あたしの手が引き寄せられて、マルコの胸板に触れる。顔が熱くなって引っ込めようとするも、動けなくて。手で触れた先から、心音がつたわってきているみたいだった。
「生きて……生きて。僕に伝えて欲しい」
「マルコ、も」
懇願するような瞳が、ふいをつかれたように細まる。あたしは熱をもった手のひらを握り返して、喉をつぶすようにして、願った。
「……マルコも、死なないで」
「返事を聞くまでは死ねないよ」
マルコが愛おしそうに顔を綻ばせた。もう一度だけ手にぎゅうと力がこめられて、名残惜しそうに解かれる。最後に「またね」と呟いた背中が遠くなり、慌ただしく動く雑踏に消えるまで、あたしはその場で立ち尽くしていた。
「……マルコが言ってること、理解できたの」
「た、ぶん」
何をするでもなく、マルコの背中を呆然と追っていたあたしに、アニが喋りかけてくる。幼児のような、たどたどしい単語で返すと、小さくため息をはかれた。
「まあ、見たらわかるけど……」
「そろそろ目を覚ましな」
「う、うん」
アニのお叱りは最もだ。こんな回らない頭じゃ、作戦なんかできない。切り替えないと。あたしはまだ熱冷めやらぬ顔を冷ますみたいに振る。軽く頬を叩いて活を入れれば、さっきよりも曖昧だった現実がはっきりしてきた。考えるのは、もう全部終わってからだ。
「アニ、ベルトルト。あたしの我儘、ひとつだけ聞いてくれる?」
「……うん」
「死なないでね、絶対に」
ひと呼吸おいて、アニが憂いている灰色がかった蒼をあたしに向け、口を開きかけたところで。配属された班が呼ばれた。時間だ。「またね」最期になるかもしれない、二人の姿を瞼の裏に焼き付けてから足を動かした。巨人の楽園がすぐそこで呼んでいる。