島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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第22話 代償

 壁の内側で想像していた以上に、戦場は酷い有様だった。青空を背景に蠢く巨人たちが不釣り合いで、歯を食いしばっていないとブレードを取り落としてしまいそうだ。巨人の足音に怯えながら、蹂躙されてもぬけの殻になったトロスト区を飛び回る。道端に落ちている、それ、が目に入るたび、寒気がつま先から登ってきた。立体機動で移動していると嫌でも目に入ってくる。兵服を背負った抜け殻が、全身や一部だけであちこちに転がっていた。その中に知った顔があるのを認めたくなくて、血溜まりから必死に目を逸らす。訓練兵がこんな最前列までくるはずじゃなかったのに、さっきから二本の剣を背負った兵士ばかりが打ち捨てられている。

 

「30班、そのまま前進!」

「まぁた前進か?これじゃもう殆ど最前線だぞ」

 

 「私のクリスタがいるってのに」背後から下された指令に、ユミルが舌打ち混じりの文句を吐いた。屋根に止まって動こうとしないのをクリスタが先導している。あたしはその様子をぼんやりと眺めながら、汗ばんだ手で刃を握った。あれだけ必死に詰め込んだ作戦や隊列が、まるで意味をなしてない。バカなあたしでもわかってしまうくらい、陣形は掻き乱されていた。

 

「いざとなったら、お前がクリスタの身代わりになれよ」

「テキトーなこと言ってないで、前進だろ!」

 

 頭を突かれたコニーが憤慨して「わかってんだよ。んなこと……」気乗りしなさそうにしながらもやっとユミルが動き出した。飛び出して行ったコニーにユミルとクリスタが続く、あたしもそのあとを追ってアンカーを射出した。コニー、ユミルにクリスタ。あたしの他には顔見知りの訓練兵が一人。班員を見ればわかることだけど、指揮者が誰もいない。事前に行った演習では、先輩兵士が班について先導するはずだったが、今やちぐはぐな口頭伝達と各自の判断で進んでいる。つまり、戦況は芳しくない。「前方に巨人接近!」班の先頭、コニーの報告を耳にするなり、反射で顔をあげる。ぼってりとした唇、口周りに赤い染みをつけながら、巨人が向かってきていた。大通りを占領するように、肩を揺らしながら歩く姿は、悍ましい以外の何者でもなかった。もう少し距離を詰められたら。巨人はもうあたしたちを視界にとらえている。のんびり歩いているように見えて、ギョロリとした目玉がこちらを向いていた。

 

「う……」

「っ私が囮になるから!誰か、援護して!」

 

 怯んだあたしの前で、クリスタが叫んだ。小さな背中が速度を上げ、巨人の影に真正面から突っ込んでいく。「クソっ……クリスタ!!」ユミルが悪態をついてから、その無謀な背を追っていった。その姿を見たコニーが「ちょ、お前ら!」戸惑いの声をあげながらも援護にまわる。あたしも、クリスタを追わなきゃ。どうして。トリガーにかかった指が、まるで動かない。クリスタが巨人の真横を通り過ぎ、獲物に釣られた巨人がその姿を追おうと振り返った。頸が無防備に晒される。屋根の上に降り立ったままのあたしと違って、絶好のチャンスを逃すユミルではなかった。首元に刺したアンカーを巻き付け、弱点に切りかかる。瞬きをすると、切り取られた頸が宙を舞っているところだった。ズシン、砂埃と大きな音を立てて巨人の体が地にふせる。体が思い通りになるのは、巨人が蒸気をたて始めてからだった。

 

「やったのか!?」

「そんなガキみてぇに叫ばなくたって、見りゃわかるだろ」

 

 巨人を討伐した事実に、興奮気味なコニーの前でユミルが鬱陶しそうに声を吐き出す。補助があったとはいえ、本物の巨人を討伐したなんて。あたしは何もできなかった、ただ、みていただけだ。血の気が引くような無力感が心に渦巻いてくる。同時に、ユミルへ羨望の眼差しを向けた。何の打ち合わせもしていなかったのに、二人は連携して一体の巨人を難なく倒してしまった。遠くからでもわかるくらい不安げな顔をしたクリスタが立体機動でユミルのそばに降り立つ。お互いに怪我がないか確認しているようで、ユミルが顔を顰めてなにやら言い合っている。班で安堵が滲む中、あたしはひとり。自分の手を仰いでいた。多くの人を、人類を救わなければいけないのに。どうして、動いてくれないんだろう。ノエル・ジンジャーは、こんなところで燻っている人間じゃない。

 

「ッ後方に!また巨人だ!」

「あたしが行く!」

「あっ、おま。ノエル!」

 

 静止の声を振り切って、無理やりにでもトリガーを引いた。交差した広場の中央からのそりと姿を表した巨人は、口元に恐ろしい笑みを浮かべながら向かってきている。ガスをふかし、立ち並ぶ家屋の間を縫うように飛ぶ。風と威圧感がぶち当たってくる。巨人は新しい玩具を見つけた子供のように、純粋で恐ろしい光を宿したまま、あたしへ向かってきた。唇を濡らしている赤黒い液体が、よくみえる。引き攣られた歯の間には、見たことがあるような服が挟まっていて。

 

「ゔっ!!あっ、がはッぁ……!」

 

 激痛が顔面を殴打した。乾いた音を立てて、鼻先が打ち付けられる。つんのめった足を庇う間もなく、風に乗った体が屋根を転げまわった。「バカ!」「ノエル!」どこかから、そんな悲鳴が聞こえてくる。割れた屋根の上、自分の身を守るようにして丸くなっていた体を持ち直す。擦り切れた膝から食い込んでいた破片がパラパラ落ちる。鼻の奥から垂れてきた血を、まだ軋んでいる腕の袖へ擦り付けた。周りが、影に覆われてしまったみたいに、真っ暗だ。

 

「あ……」

 

 ぎょろり、と輝く二つの目玉があたしを見つめていた。温かい吐息は頬を掠め、耐え難い死臭があたりを包み込む。その場でえずいてもいいはずなのに、体が凍りついたように動かない。真っ赤な鮮血を滴らせながら、唇が開かれる。黄ばんだ歯の隙間には、みたことのある服が絡まっていた。可愛い白のワンピース、あの子がよく着ていたお気に入りのそれ。こんなところに、あるはずないのに。

 

「なんで」

「ノエル!」

 

 呆然と見上げていた巨人の影に、一本のワイヤーが刺さった。間に合わない。大きな前歯が影をつくり、降りようとして、がくり。目と鼻の先でだらしなく開いた口が弛み、糸が切れた操り人形のように地面へ崩れ落ちた。すぐそばの道で、肉塊となった影から白煙が立ち昇る。熱風に頬を焼かれながら、あたしは酸素を取り込もうと肩を上下した。

 

「勝手に飛び出して、勝手に死にかけんじゃねえよ。バカ女」

 

 服を引き攣って痛くなるくらいに握り、惨めったらしく呼吸しているあたしを見下ろしたのはユミルだった。いつもは軽く笑んでいる口元も、余裕がなさそうに呼吸している。蒸発していく巨人の血液を袖で拭ってから、背を向けた。垂れていた鼻血を乱雑に拭う。ツンと貫くような鉄の匂いに支配されながらも、到着したクリスタを抱え込むユミルの姿から目が離せなかった。「ノエル、立てるか?」手を差し出してくれたコニーに甘えて立ち上がる。痛む足を誤魔化して、装置を持ち直した。幸いにも、破損は見られない。そのことを伝えれば、コニーがホッとしたように顔を明るくした。ホッと息を吐きつつ、あたしは恩人の影を目で追う。ユミルは自身の肩より下のクリスタに寄りかかって、なにやら言い合っている。仲間を助けるのは、特別おかしなことじゃない。だけど、あのユミルが危険を冒してまであたしを助けた。自覚があるくらい、嫌われていたはずなのに。その事実が胸の内で反響して止まなかった。どうして、とあたしが問いただす前に、前進の号令が響く。結局、あたしはただ遠くでユミルを眺めることしかできなかった。

 

 先導するクリスタに続いて、班は移動を続けていた。運良く巨人には鉢合わせることなく、このまま順調にいって市民の避難完了まで耐えて欲しい。

 

「あの屋根に、誰かいるぞ!」

 

 そう願い始めた頃、隣で飛んでいたコニーが大声をあげた。あたしが引き止める間もなく、コニーは一直線に飛んでいった。クリスタもそれに気がついて、急に単騎行動をし始めたコニーの後ろを追う。悪態をつきながらユミルも続いた。三人だけ置いて行くわけにもいかないので「どうしたんだよ、アイツらっ」同期の困惑を聞きながらも後ろ姿を追いかけるしかなかった。

 

 屋根に蹲っていたのは、錯乱したアルミンだった。先に到着していたコニーが不安げな顔で呆然としているアルミンの肩を揺らす。周囲に、同じ班だったはずのみんな。ミーナに、トーマス、エレンの姿は見当たらない。はぐれたんだろうか。でも、トーマスがいてそんなことになるわけ無い。問いかけようとして、「この役立たず!!死んじまえ!!」アルミンの叫び声に遮られた。コニーがアルミンを落ち着かせそうとするが、頭を抱えて呻く。一つの予想。肩をガクガクと尋常でないくらいに震わせたアルミンは髪をかき乱して目尻に涙を溜めた。考えたくなかったそれが、現実味を帯び始める。まさか。あたしは一歩後ろに退き、漂い始めた気配から逃げようとした。

 

「みりゃわかんだろ、全滅したんだよ」

 

 嘘だ、と叫びたかった。いつも話に混ぜてくれたミーナ、鈍臭いあたしにも優しく接してくれたトーマス、一緒に調査兵を志望した、あのエレンが。昨日まで、さっきまで隣にいたはずの人たち。横にいて、呼吸していた仲間たちが、もういない。ずっと、努力してきたのに。こんな、一瞬で死んでしまった。

 

「みんな、気が動転してるんだよ。友達が死んでいくんだもん!仕方ないよ!」

「さっすが、私のクリスタ。この作戦が終わったら結婚してくれ」

 

 膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。あたしは、何ができると思っていたのだろう。だれも、誰一人として、救えちゃいない。ノエル・ジンジャーを、ただ演じているだけだ。あの子が、この場所にいたなら。みんな、生きていたかもしれないのに。

 アルミンは瞳孔を開いたまま、その瞳から大粒の涙を流し続けている。視線の先は空に向いているようで、辿れなかった。どう言葉をかけていいかわからない。あたしが救えなかったせいで、みんな死んだ。あたしが、あの子を殺したせいで。

 

「迷惑かけた。後列と合流する」

「アルミン!」

 

 引き止める間もなく、アルミンは立体機動でいなくなってしまった。その声で弾かれたように顔を上げ、アルミンを追おうと踏み出すも、遅れてきた仲間の声に引き留められる。同じようにしていたコニーと顔を合わせ、肩を落とす。あたしには、いなくなってしまったアルミンの無事を祈ることしかできなかった。

 

 蹲ったアルミンの姿が瞼の裏から消えないうちに、黒煙の間から巨人が現れた。ぼってりとした腹を揺らして、愉しそうな笑みを浮かべている。仲間たちが連携を取り合い、巨人がいる方へアンカーを射出した。クリスタやコニー、ユミルも屋根を蹴ったところであたしも続こうとして、別の不穏な影が目に入る。二つ通りを跨いだ先、あたしたちに気づいてこちらへ来そうなものなのにそっぽを向いている。その、巨人が何かを摘み上げたところだった。考えるよりも先に、方向転換していた。容赦なく降りかかってくる風圧に歯を食いしばりながら、ふかせるだけのガスを全力で噴射する。周りの建物が混ざり合って見えなくなるくらいの速度の中で、茶色の兵服が映った。巨人の歯に仲間の頭が降りようとしている。「まって!!」無意味に叫び、巨人のうなじ目掛けてアンカーを刺す。肉を切り裂く感覚がして、真っ赤に抉れた傷跡と宙に舞う破片が目に映った。

 

「は、ッはあ、はあっ!だい、大丈夫ですか!?」

 

 すぐそばの地面に降り立って、ブレードの刃を地面に捨てた。カシャンと地面にぶつかる音を聞きながら、熱風の蒸気をかき分ける。巻き上がった鉄の匂いでえずきつつ、声を荒げた。その先から返事はない。

 

「あ、」

 

 やっと人影が浮かび上がり、蒸発していく巨人から助けようと手を伸ばす。指先にざらついた皮の感触がして、ぐらり。影が大きく揺れ、足元に転がった。名も知らぬ仲間の足は変な方へ折れ曲がり、赤い肉のまとわりついた骨が皮膚を突き破っている。首の上に本来乗っているはずの頭はなく、赤黒い中身を晒すのみだった。お前に、人が救えるわけがない。そう、嘲笑っているかのよう。無惨な亡骸だけがそこに残されていた。

 

「撤退の鐘はまだなのか?」

 

 仲間の呟きを耳が拾って、自分の手に力が籠る。先の見えない地獄を前に、班は歩をやめていた。普段は軽口ばかりのユミルも、クリスタの横にいるだけで何も言おうとしない。その沈黙が嫌に重くて、息を吐くだけで潰れてしまいそうだった。

 

「俺、アルミンを探してくる」

「コニー、でも」

 

 隊列はぐちゃぐちゃだ。どこに行ったかもわからないアルミンを探すのは、無謀が過ぎる。曲げていた膝を伸ばし、止めようと声をかけたら、コニーは意を決したような目であたしをまっすぐに見上げた。

 

「あんな状態のやつをほっとけってか?さっきは見逃したけど、やっぱ無理だ」

「私も!」

 

 コニーは言い切ると、立体機動で行ってしまった。その後ろ姿をクリスタが追いかけようとして、ユミルが横から引き留めた。それでも立体機動で飛ぼうとするクリスタに、ユミルが無情にも言い渡す。

 

「やめとけ。お前が行ったところで、巨人の餌が増えるだけだ」

 

 抵抗しようとしていたクリスタの腕が下ろされる。巨人に食い散らかされた町を嫌なほど見てしまったあたしたちにとって、それは事実に違いなかった。あたしが名乗りをあげれば、ユミルは引き止めることもしないだろうに。喉までせり上がった言葉を嚥下した。結局あたしは名乗りをあげることなく、ただガスを蒸して巨人の残飯が点々と残った町を飛び回っていた。やがて、撤退の鐘が響き渡る。歓喜の声を上げる仲間の隣、膝をついて感情の波を吐き出してしまいたかった。

 

 安全な壁内へ移動しても、胸のつっかえは取れなかった。ミーナ。トーマス。そして、エレン。まだ信じられなくて、人混みに目を向ける。次々と帰還してくる訓練兵たちの中に、どの姿もなかった。何かの間違いであって欲しいと思えればよかったのに。アルミンの様子は尋常なものじゃなかった。目の前を、負傷者が乗った馬車が通り過ぎていく。赤黒い包帯を全身に巻き付けられた集団を眺めるも、見知った顔はなく、心底安堵する。周囲では、兵団本部を巨人から奪い返した話が聞こえるばかりでライナーやアニといった名前は出てこない。知らない顔が通り過ぎていく。信用していないわけじゃない、でも。次に降りてくるリフトを目で辿ろうとして、あたしは駆け出していた。

 

「みんな、危機一髪だったんだよね。無事で良かった、本当に」

 

 まさか、補給班が任務を放棄して孤城していたとは。コニーからことの顛末を全て聞き終え、あたしはやっと心の底から呼吸ができた。アルミンの策がなければ、今頃全滅していたのだろう。感謝を伝えたくて居場所を聞いたが、返答はなかった。あとで伝えないと。お陰で、ライナーたちは五体満足のままだ。心も体も疲弊した兵士たちが軒を連ねる中で、あたしたちは次の指示を待っていた。

 

「ああ、そうだな」

 

 全員が体の欠損ひとつなく生存していると言うのに、喜びを溢れさせているのはあたしだけのようだった。三人共、みんなどこか上の空だ。ライナーはずっと顎に手を添えて考えている風だし、ベルトルトの表情はもっとぎこちない。アニなんて、抱きつこうが緩く押し返してくるだけだった。

 

「このあと。何をすればいいんだろうね。アニ」

 

 難しい顔で腕を抱えているアニの返答はない。今現在、訓練兵には待機の命令が下されていた。鎧の巨人がいつまた現れてウォール・ローゼを破壊するとも限らないのに。こんな状況では不安が広がるばかりだ。そばでは、マルコがダズを励ましていた。地獄を知ってしまったダズには、どんな言葉も通用しないようで「死ぬまで働かされるってことなんだろ!」ついに叫びをあげてしまった。横へ行ってあげようと足を踏み出し、やめた。あたしに言えることは何一つない。死地で見た。数々の死体たち、そのどれもが暖かさを失い、ただのモノへと成り下がっていた。必要な犠牲だとも思えなかった。巨人の気まぐれで殺された生贄。ただ、不運だった。哀れな死体たち。マルコでさえ、言葉を詰まらせている。地獄を知ってしまったあたしたちに、ダズの言葉を否定することはできなかった。

 重苦しい息で喉を濁す反面、マルコに声をかけるのは躊躇いもあった。今話しかけたら、腹の底にある感情をぶつけてしまいそうで、怖い。全て、終わったら。マルコは言ってくれたけれど、あたしにとってながすぎるようだった。言葉になってなくていい。想いをぶつけることができたら、マルコが答えを教えてくれるような気がした。

 木に雷が落ちてきたような音が響く。それも、すぐ近くで。まさか、超大型巨人。左右を見渡しても、それらしき影はない。その代わりに、音の聞こえた方面から黒煙が細く立ち昇っていた。

 

「……っライナー!みんな」

 

 どよめく群衆に紛れ、嫌な汗を流しながら立体機動装置のトリガーに手をかけたところで、見覚えのある影が飛び出していった。ライナーに続くようにして、アニとベルトルトも行ってしまう。上官の許可は降りていないが、こうなって仕舞えば背中を追う他なかった。満タンになったガスを思いっきり蒸して、何かに突き動かされているみたいに飛んだ三人の背中を追う。轟音の出所に気を配りながら屋根を蹴ると、不穏に揺らいでいる白い煙の前で、四人の背中が並んでいた。

 

「なに、あれ」

 

 白煙の中で巨大な影が佇んでる。目を凝らさずともわかった。真っ白な頭蓋骨と筋肉を晒した、人間の上半身みたいなそいつは、何の前触れもなく現れたみたいに、そこに居た。壁の穴はない。未完成みたいに、骨を晒したままの体。巨人と言っていいのかさえ、わからない。自分が、何をみているのか。目を強く擦っても、その幻は消えてくれなかった。

 

「どうなってんだ……これは……」

 

 呆然と呟くライナーの横で、あたしは嘘みたいな現実に怯えることしかできなかった。

 

「トロスト区奪還作戦だと!?」

  

 巨人に蹂躙され、友を失い、深い絶望を味わった。深い傷を負って血だらけになった兵士たちに降った司令は、あの地獄に舞い戻れというものだった。巨人の楽園となったシガンシナ区でまた、戦わないといけない。奪還作戦と名打てば聞こえはいいが、何の手段も伝えられない今では無謀な賭けにしか聞こえない。当然だ。あちこちで不満や恐怖が噴出し、集められた兵士たちの群れに統率は無くなり始めていた。

 

「ライナー……」

 

 ダズが大声をあげ、上官が向かっていくのを遠くから見ていた。安心を求めて縋るけれど、返事はない。ライナーはさっきからずっと怖い顔で無言を貫いている。壁が破壊される前の笑顔や言葉がなくて、それがどうしようもなくあたしの心を揺さぶった。動揺が痛いほど伝わってくるので、何か言おうとも思わない。

 煙の中にいた、醜い巨人。中から出てきたのは、見覚えのあり過ぎる麦色の金髪。骸の間から赤いマフラーも見え、二人の生存に喜びが駆け巡った。そして、その感情も凌駕する驚きがあたしを押し潰した。迎撃の命令が薔薇の紋章を背負った人影に止められるのを、夢見心地で眺めていた。その人に連れられて歩く人間は、三人。死んだと言われていた、とっくに、諦めていた。エレンだったからだ。

 

「アニ、本当に。エレンが」

「……あんたさ、見てなかった訳じゃないでしょ。それくらい、一人で考えたら」

 

 まだ信じられなくて。アニに話しかけるも、顔を見ずに人蹴りされてしまった。視界の中にいるベルトルトが、こちらの様子を見て表情を暗くする。確かに、あたしは見てしまった。考えてもわからないような、事実。あの時のアルミンは、誰が見たって憔悴しきっていた。嘘を言っているようには思えないし、そんな性格じゃないことはこの三年間で分かってる。だから、だからこそ。現実が、受け入れられなかった。

 

「注――もおおおおおく!!」

 

 思考の先は、壁上から響いた大声によって掻き消された。その覇気にびりびりと肌を痺れさせながら、顔を動かす。視線の先にいたのは、ついさっき見た人影だった。権威を表す真っ赤な襷を肩にかけたその人は、後ろ手を組んで混乱した兵士たちを見下ろしていた。

 

「エレン」

 

 すぐ隣。夕焼けがかった空を背に、あたしを悩ませていたその人がいた。欠損すら見られない、ジャケットがないだけで、朝に見た格好とまるきり同じままのエレンは、偉そうな人に引き連れられて堂々と立っていた。

 

「彼は我々が極秘に研究してきた巨人化生体実験の成功者である!」

 

 その人物が告げた真実、いや。その場凌ぎの与太話は、あたしでさえ馬鹿馬鹿しいと感じてしまうものだった。三年間、エレンと過ごしてきたあたしたちなら、尚更だ。巨人化生体実験なんか、あるはずがない。あれだけ巨人を嫌っていたエレンがその実験に合意する訳がないし、あれだけ特訓の間でどこにそんな実験をする暇があったのか。あたしだけじゃない、周りの兵士たちも突拍子もなく現れた言葉に納得がいかないようだった。ただでさえなくなり始めていた統一性は崩れ、不信感が端々から噴出する。ついに、続々と離脱する人が現れた。動かないでいるあたし達の周りで肩を並べていた人たちが、また一人、また一人と減っていく。あたしは目を伏せて、カタカタとみっともなく震える手のひらをもう一つの手で隠した。

 

「どうかここで――ここで死んでくれ!!」

 

 偉い人の演説で、兵士たちは無事に秩序を取り戻した。一度はぽっかりと空いていた隣も、青ざめた顔で歯を食いしばっている兵士によって埋まっている。顔も知らない兵士は今にも泣き出しそうな顔をしながら、話の続きを聞いていた。きっと、この人には大切な人がいて、守るために戻ってきたのだろう。壁上から投げかけられる作戦の説明を聞きながら、あたしはその人に言ってみたくなった。逃げてしまえばいいのに、と。

 

「……みんな、行かなくて。良かったの」

 

 一通りの作戦は告げられ、兵士たちはまた慌ただしく動き始めた。怯むことなく進んでいく三人の背を追いながら、耐えきれずに歩き出した背中へ声を溢す。聞こえなくたって、良かったのに。こんな時ばかり、雑踏は役に立ってくれないらしい。「何言ってんだ、ノエル」少し間を置いてから、ライナーはいつものような顔に戻って言葉を返した。

 

「司令の話、聞いてただろ?まあ、それをなくしたって兵士である以上はやるしかないがな」

「でも、」

 

 罪を免除すると聞いた時、あたしはみんなを見た。この場から、立ち去って欲しかった。だけど、三人は真っ直ぐに壁上を見たままで。そんなこと、する筈がないとわかっていても。こんな時ばかり、現実はなんの歪みもなく進んでる。三人が、マルコが、みんなが逃げてくれれば。あたしは安心できるのに。自分勝手でも、無責任でもいい。そんなの全部あたしのせいでいいから。

 

「ううん……なんでもない」

「さっきも生き残ったんだ。俺たちは生き残れる、な?」

「そ、うだね。うん……」

 

 ライナーがあたしを宥めるように優しく頭を撫でてくれる。心地よさと裏腹に、焦燥感は熱を増すばかりだった。この、温かい手のひらが。大きくて、厚い手が。今度こそ。冷たくて、力のないものに変わったら。あたしは、どうしたらいいんだろう。

 

 

 極力戦闘を避けていたからって、死地に身を置く限り、死の危険から逃れられるわけじゃない。壁に張り付いて巨人を惹きつけるだけでも、それは同じだった。アンカーの刺しが悪くて落下したり、巨人を惹きつける途中で別の巨人に潰されたり。状況は、何ひとつよくなっていなかった。耳からこびりついて離れない叫び声に、意味もなく耳を塞ぐ。きっと、動揺で何が何だかわからなくなってしまったいたのだろう。名前も知らない同期が、すぐそばで巨人の群れに落ちていった。助けようと思った時には、もう遅かった。落下した体が巨人の手に収まって、他の巨人と、揉み合いになって。それで。

 

「ゔっ……」

 

 小さな手足が引っ張られて、目が痛くなるくらいの赤が舞った。小さな手足が引っ張られ、あたしが目を瞑る間もなく。そのまま、同期は()()()()()()。前屈みになりながら、込み上げてきた吐き気に震える私の背を別の手が上下する。マルコだって辛いはずなのに、あの時の答えを知りたいはずなのに、何も言わずあたしを宥めてくれていた。何も為せていない癖に、被害者面だけは一丁前で。そんな自分が嫌で立ちあがろうするも、登ってきた胃液に膝をつくことを繰り返していた。そんなことを数回続け、マルコの手を借りながら腰を上げたところだった。

 

「失敗、したのか……」

 

 周囲の騒めきで、何が起こったのか理解した。作戦失敗の信煙弾。赤色で打ち上がったそれをあたしが視認する頃には「アルミン!どこ行くんだ!」マルコの声にも振り返らないまま、アルミンが駆け出していった後だった。その行き先は、考えなくたってわかる。エレンの元へ行ったのだ。その背中を追いかける人はいなかった。アルミンが行ったなら、大丈夫。どうにかしてくれる。絶望的な状況に追い込まれた今、あたしたちは根拠のない自信に縋る他なかった。

 

「訓練兵は四人一組になって走れ」

 

 上官に招集されたあたしたちは巨人の目を掻い潜り、トロスト区の路地裏にいた。万が一の作戦を告げる上官へ、ジャンが不満を漏らす。「我々が危険を感じた場合は、自己判断で動いても構いませんか」アニが確認をするように問う。「それでどうにかなるならな」上官の返答を土埃と破壊音が遮った。指示が出され、あたしたちは班長のジャンに続いて路地の影から飛び出した。躊躇なく伸ばされる手から逃れつつ、巨人を壁に惹きつける。アニが同じ班にいてくれるのもあってか、先ほどよりも大胆に動けた。振り下ろされる手を不恰好に転がって避けたところで、あたしに降りかかっていた巨人の頭が落ちてくる。力の入らない体を奮い立たせ、地面を這いずるようにして落ちてくる影を避ければ、砂埃をあげて巨人が倒れた。

 

「あっ、ぶなあ……」

「惹きつけるだけって、聞いてたでしょ」

 

 巨人の首元からアニが顔を覗かせ、腰が抜けたままのあたしを見下ろす。さっきからずっと、こんなのばっかりだ。あたしが鈍臭いから、うまく逃げれなくて、アニに助けられてばかりでいる。きゅうきゅうと痛い心臓を抑えながら、どうにか立ち上がった。「アニ、ありがとう」感謝を伝えようが、返事は返ってこない。また響いてきた足音に浅くなる呼吸を整えながら、屋根に向かってアンカーを射出した。

 アニと二人でおおかたの巨人を誘導してから、装置で壁を登った。コニーも戻ってきて、互いに顔を見合わせる。「ジャンは?」つい数分前まで指示を下していた班長の姿がない。同じく不審に思ったはずのコニーが、あたりを見回してからトロスト区に目を向けた。何かを追いかけている巨人、そのすぐ先には逃げ惑う小さな人間の姿がある。

 

「まさか!故障……してんのか!」

「ジャン!」

 

 「おい、ノエル!」後ろから焦ったようなコニーの声が聞こえるけれど、止まるつもりはなかった。ここで立ち止まったら、あたしはノエルでいられなくなる。崩れかけた屋根から屋根に飛び移り、巨人から逃げているジャンを追う。手に指が食い込んで痛いくらい、強く。はやく。頬に纏わりつく硝煙の匂い、鉄臭さで這い上がってくる吐き気を堪えながら。屋根に爪先が触れる。勢いで体が前に傾くのをどうにか耐え、再びアンカーを射出した。ジャンが巨人から逃れるように駆け込んだ家屋の前へ降り立つ。入り口に手をついて、なんとか呼吸を整えた。酸素が枯渇して鉄の味が滲む喉は飲み込み、徐々に近づいてくる振動で顔をあげる。ジャンはこの中にいる。人気を失った街中で、寂しく佇む階段を駆け上がった。

 床を軋ませながら辿り着いた先、食材や家具が散乱した部屋の中にジャンはいた。窓の影に背中を預けたまま、あたしの姿に目を見開く。

 

「バッ……なんで着いてきた!?離脱すれば良かっただろ!!」

 

 小声ながらも怒りを滲ませたジャンは、大きく足をついて無防備に下ろしていたあたしの手を思いっきり引っ張った。予想外の力に体は抵抗しないまま、ジャンが隠れていた影の内側にすとんと引き寄せられる。

 

「ヘタクソにはわかんねぇのかも知れねぇが……ここは袋の鼠だぞ」

「装置が、壊れたんでしょ?だったら、あたしのを使って」

 

 言いながら、汗が額を滑り落ちていく。小刻みに振動する指でベルトを外しにかかった。立体機動装置はそう簡単に用意できるものじゃない。この緊迫した状況下で修理できるようなものでも、ない。あたしはコニーの声が聞こえた時から、この光景を思い描いてここまで来た。今日一日で、あたしは誰一人として助けられてないのだ。ノエル・ジンジャーという皮をかぶっておきながら、あたしは何も。誰も。

 

「ジャンは、ここで死んでいい人じゃない」

「うるせぇ、ヘタクソ」

 

 装置を弄っている手が、掴まれた。片手で動きを止められたまま、緩んでいたベルトをきつく締め直される。ジャンはあたしの手を離し、強い意志の宿った瞳でこちらを見た。

 

「お前の施しを受けなくたって、俺は自分でどうにかする」

 

 少し間を置いてから「……大体、死んでいい奴なんかいねぇだろうが」付け加えるように言ったジャンへ、何か言おうと口を開いた時だった。地面から伝わってくる振動がより大きいものになり、あたしたちはそれきり息を潜めた。窓の外を眺めなくたってわかる。強烈な視線、探るようなそれがじっとこちらへ向けられていた。あたしは、物だ。唾が溜まろうが、埃が喉に張り付いて痛かろうが、物音を立てることは許されない。耳元で聞こえてくる心臓の音が、巨人に聞かれていないことを祈った。数十分。息すら吸わずに耐え続けて、いつから巨人が消え失せたのだろう。嫌な人影を感じなくなり、そっと息を吐いてみる。慎重に固まっていた体を動かし、もう一度新鮮な空気を肺に送った。呼吸するのに必死でいたあたしと違い、ジャンの行動は早かった。

 

「ヘタクソは離脱しろ!俺一人でどうにかする!」

「でも」

「いいから行け!」

 

 路地に飛び出したジャンはあたしの肩を押した。心残りを感じながらも、気迫に押されて屋根の上まで移動する。ジャンは岩の下で潰れている死体の装置を外そうとしているが、なかなか外れてくれない。誰か呼ばなきゃ。振り返ったところで「危ない!」大きな手の影が降ってきた。

 

「こっちだ!!」

 

 屋根の上で転がって蹲るあたしの前に、別の人影が躍り出た。巨人はまんまと囮に釣られ、あたしを素通りしていく。マルコが与えてくれた隙を見逃さず、別の建物へ移動する。ひとつ奥の通りでコニーが巨人を惹きつけているが、そのまた向こうから様子を伺っている巨人の影が目に映った。「アニ!」壁から向かってくる見慣れた金髪へ向かって、あたしは叫び声を上げた。

 

「無茶しやがって!」

 

 やっとのことで壁上に転がって、途切れた呼吸を繰り返しながら膝を地面につく。へばっているあたしの横でジャンが腹の奥から悪態をついて額を拭うと「あれを見て」アニの背が壁内を見下ろしたまま呟いた。

 

「エレン、なの……?」

 

 そこには、大岩の影でギラギラとした緑を輝かせた巨人がいた。エレンとは似ても似つかない、巨大な体。白い蒸気をあげながら全身の筋肉を揺らし、大きな岩を持ち上げて歩いていた。壁上まで伝わってくる轟音、鍾離の足音がすぐそばまで迫っってる。

 

「邪魔をさせるな!エレンを援護するんだ!」

 

 ジャンを筆頭に、みんなの壁上から飛び降りる。出遅れたあたしがそれを追おうとして、僅かに振り返ったマルコと目が合った。作戦が、終わったら。あの時の言葉が脳裏に呼び起こされる。場違いな熱が頬を覆った頃、その姿はとっくにいなくなっていた。駄目。自分の感情に振り回されるのは後でいい。やり場のない熱を振り切ってから、あたしはトロスト区に向かって飛び降りた。

 

 真っ先に見つけたジャンと合流できて正解だった。邪魔をさせるなと言ったって、あたしの腕では自分の命と引き換えにする選択しかなかっただろう。ジャンの指示通り、屋根から無防備な大通りに着地して「この、ノロマ!愚図!」ブレードを取りこぼしそうになりながら、適当な罵詈雑言を叫ぶ。エレンの方へ向かっていた巨人がゆっくりと振り返ってきて、体が硬直するのを必死に堪えた。

 

「いいぞ、ヘタクソ!」

 

 そこらに落ちている破片を避け、壁へ向かってひた走る。「はっ、はっ」所々で躓きそうになるのを耐えて、脇目も振らずに足を動かし続けた。やがて、町の端。高く聳え立った壁の前で、立ち止まる。振り返り、あたしを食らおうと駆け込んでくる巨人が見えた。「今だ!」ジャンの掛け声で空に飛び上がる。視界の端で、捕獲網に向かって突っ込む巨体がみえた。

 

「これでコイツはお陀仏だ」

「ッはあー、はあ。人使いが、荒いよ……」

「適材適所だろ。ほら、次だ」

 

 大きく伸縮する胸を抑えつつ、ジャンが差し出した手に縋って立ち上がる。間一髪逃れただけで、巨人は死んでいない。黒い棘に体を絡め取られながらも、巨人の目玉はしっかりとあたしたちの方を向いている。ある種の残忍な無邪気さを孕んだ、純粋なそれ。居心地の悪い視線を断ち切るように、さっさと行ってしまったジャンの後を追った。

 

「ノエル!」

 

 トリガーから手を外し、近くの屋根に足をつける。あたりには黒煙が立ち上るばかりで、声の主の姿は見当たらない。あたしは、幻聴でも聞いてしまったのだろうか。

 

「どうしたんだよ、急に」

「今……」

 

 ジャンが側に着地して、左右を警戒しながら近づいてくる。「今?」呟きを拾って聞き返してくるジャンに、あたしは首を振っていた。

 

「いや、なんでもない」

「何言ってんだよ、ほら!行くぞ!」

 

 呆れた口調のジャンが前方を指差す。ジャンの感情は最もだ。こんな死地のど真ん中で、エレンが岩を運んでるっていうのに、何の意味もなく突っ立っているのは愚かでしかない。アンカーを射出したジャンに続いて、あたしも駆け出す。違和感を掻き消すよう、ガスを強めに蒸した。風を切る音が、そう聞こえただけだ。息を吸って真正面を見据えると、緑の煙弾が、人類の勝利の証が、空へ打ち上がっていた。

 

 

 奪還作戦は成功に終わったけれど、勝利の代償はあまりに大きかった。気を抜いたら、胃の中身を吐き出してしまいそうな異臭。布越しでも容赦なく伝わってくる刺激臭に耐えながら、目を背けたくなるような遺体の残骸を拾う。ライナーみたいに、体を持ち上げてあげられれば良かったんだけど。あたしにそんな力はない。だから、こうして道端に転々と落ちた臓物や千切れた手足を拾って歩いた。ぬらぬらとした臓物、腸だろうか。持ち主のわからなくなったそれを、荷台にいれる。荷台は遺体が折り重なり、すっかりぎゅうぎゅうになってしまっていた。あまりの激臭に鼻を抑えながら近づいて、拾って、入れて。ただ単調な作業のはずが、確実にあたしの心をすり減らしていった。

 変な方向にひしゃげた足を荷台に入れたところで、瓦礫に埋もれた遺体を見つけた。ライナーかベルトルトに運んでもらおうと声を上げかけたが、二人は上半身と下半身が引きちぎれそうな遺体に向かっていて、手が離せそうにない。瓦礫から掘り出した体は、首がなかった。喉元から迫り上がってきた吐き気を堪える。アニと二人なら、運び出せるかもしれない。持ち上げようとした体を置いて、立ち上がる。アニはすぐ近くにいた。足元に死体が転がっているのに、動こうとしない。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

「アニ」

 

 覗き込んだ先、アニは生気のない顔で壊れたように謝り続けていた。背中をさすってあげようと手を伸ばしかけて、肩を両手で掴まれた。「アニ」動揺する頭の中で問いかけるも、答えはない。焦点の震える瞳があたしを捉え、今までより強く開かれた。

 

「ごめん、ごめん。ノエル、ごめんなさい」

 

 アニの瞳から透明な雫が流れ落ちて、ぎょっとする。指で掬い上げても。それはとめどなく流れ落ちて、あたしの手を濡らしていった。

 

「あたし……そんなに謝られるようなこと。されてないよ……?」 

「ノエル」

 

「ごめん」消え入りそうな声が、あたしを掴んで離そうとしなかった。不安定に揺れ動く瞳孔は影を落としたまま、あたしから目線を外そうとしない。手の甲を一粒の滴が沿い、落ちていく。

 

「何やってんだ、作業はまだ終わってないぞ」

「ライナー、アニが……」

 

 荷車を引いたライナーが不審そうな顔で問いかけてきて、あたしはどうすることもできずに狼狽える。あたしよりもアニと一緒にいるライナーなら、対処できるだろうか。困ったように笑ってみせると、ライナーは表情を強張らせた。

 

「どうしちゃったんだ――」 

「マルコが死んだ」 

「…………ろ、う」

 

 死、って。誰が?

 

「ア、二?」 

「マルコは死んだ」

「お前」

 

 ライナーの手から、荷車がするりと離れた。

 

「や、だな。まだ、まだ死体も見つかってないのに。なんで」

 

 そうだ、そうだよ。ずっと見てないとは、思っていたけど。作戦が終わってから探し回っても、どんなに探してもいなかったけど。死体だって見つかってないし、それに。直前まで一緒にいた。こんな状況で、そんな冗談を言うなんて、アニらしくないな。

 

「この先に、いる」

 

 アニの指を目で辿るより先に、走り出していた「おい、ノエル!」ライナーの呼び止める声がどこか他人事のように感じられて。

 

「はぁっ、はあ、はあ!ジャン!」

 

 血みどろの道をひたすらに駆け抜けて、ずっとずっと行った先。よく見慣れた茶髪が、目についた。口元に白い布を巻きつけ、道の中央に置かれた荷台へ何かを運び込んでいるところだった。「ノエル」あたしの呼びかけに反応したジャンは、やけに弱々しい声で名前を呼んだ。何か恐ろしいものを見てしまったかのように、表情は力無い。

 

「マルコ見なかった?あたし、マルコに伝えないといけないことが、……」

 

 あたしはそれを見なかったことにして、マルコの所在を問いただした。マルコの一番の親友であるジャンならどこにいるくらい、すぐ教えてくれるはずだ。なんなら、近くにいて作業しているかもしれない。試しに周りを見回してみるが、それらしき姿はなかった。持ち場から、離れているんだろうか。

 

「マルコは……」

 

 なんだろう。それ以上先を聞いてはいけないと、頭の中で警報が鳴っている。そんなわけないのに。ジャンの口を、無理矢理にでも口を塞ぎたくなる。

 

「マルコは、死んだ」

 

 でも、できなかった。

 

「う、うそだよね?だって、どこにも」

 

 ジャンまであたしを揶揄っているんだ。みんな意地悪ばっかりで困ってしまう。そうだ。ここに来るまで亡骸に目を向けてきたけれど、マルコはいなかった。アニの言葉は冗談で、あたしはそれを間に受けてしまっただけなんだ。そう、それに決まってる。

 

「……ここにいる」

「は」

 

 ジャンが首を動かした先は、荷車だった。白い布が被さったそれを、見ている。

 

「な…おい!!」

 

 そこには、透き通った穏やかな瞳の色も、優しげな笑みも、存在していなかった。剥き出しになった歯、何も映していない、真っ黒な瞳。半分に引きちぎられたような、体。煤と血で汚れた頬に乗っている雀斑だけが、唯一残されていた。

 「マルコ」返事はない。「ね、マルコ。起きてよ」乾いた唇で、呼びかけてみる。返事はない。起き上がって欲しくて、その肩に触れてみた。「ノエル!」焦るようなジャンの声が遠くから聞こえる。ジャケットから、だらりと垂れた手のひらに滑り込ませて。あれだけ暖かかったはずの指、あたしを包んでくれていた熱は残っていなかった。あるのは、不自然な角度で凍りついた指先と重たい冷たさだけ。

 

「マルコ……」

「何をやってる、訓練兵!死体から離れろ!」

 

 両手で触って、温めようとしてみる。マルコがしてくれたみたいに包んで、熱を分けようとしても、だめだった。離したら、すぐ冷えてしまって。何度やっても、効果がない。もう一度。手を伸ばそうとして、背後から止められた。マルコから強制的に引き離され、行き場のなくなった手が宙をもがく。

 

「マルコ。ねえ、マルコ、答えてよ」

「コイツ、同期が死んで。気が動転してるんです。オレが言い聞かせておきます!勘弁……してやってください」

「……次はないぞ」

 

 すぐそばで、そんな会話が聞こえてきて。マルコの体に白い布がかけられた。そんな、死体にするみたいなこと。取ってあげたいのに、体が動かない。カラカラと車輪の回る音がして、他と同じ、白い山になってしまったマルコがどんどん遠くへ行ってしまう。「マルコ!」叫んでも、マルコは降りてきてくれない。何度も、何度も呼び続けて。マルコはついに起きてくれなかった。

 

「お前、暴れんじゃねぇよ。危うく罰則喰らうとこだったぞ……」

「ジャン」

「……なんだよ」

 

 腕が解かれ、鉛のように重くなった体がそのまま地面にしゃがみ込む。喉の痛みも無視して名前を呼ぶと、疲れた声が返事をした。「どうしよう」両手で顔を覆ったら、作戦の直前にした会話の記憶が呼び起こされる。

 

「好きだ、って。死なないって、言ってたのに」

「マスク、つけろよ……病気もらうぞ」

 

 目の奥が熱くなっても、涙は溢れなかった。あれがマルコだって、信じたくない。そう思っていれば、幸せでいられたのに。あの、白い布の奥にいた人間は。指で触れた体は。確かに、マルコだった。

 

「あとで、って。言ってたのに……」

 

 話してしまったら、全部。ぶちまけてしまいそうで、怖くて。だから、しまっていたのに。言葉を交わさないで、我慢していたのに。

 

「マルコ、なんで」

 

 あとで。って、言ったから。あたしは、そうなるんだろうと思ってた。マルコは約束を破らない人だから、絶対にまた会えるだろうと思ってた。

 

「どこ行っちゃったの」

 

 轟々と燃え盛る火柱の中、薪みたいに積み上げられた死体が燃えている。火の粉が頬に降りかかって、皮膚を焼いても、払おうとは思えなかった。啜り泣く声が、どこか他人事のように感じられて。ハンナ、ミーナ、トーマス。仲間たち、マルコの体から巻き上がる炎を、ただ目に映していた。「おい……お前ら」

 

「所属兵科はどこにするか、決めたか?」

 

 バチ、火花が大きく弾けた。鉛のように重い体を動かして、声の主を見上げる。ジャンは、その背を小さく振るわせながら「オレは……」手の中に抱えた何かを強く握りしめた。体を丸めたまま、拳を額にあてる。

 

「調査兵団に、なる」

 

 今にも泣き出しそうな声で、言った。

 

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