第23話 選択
人類は歴史上初の勝利を収めて、トロスト区を奪還することに成功した。その余韻に浸るだけでいられたら、どんなに幸福だったんだろう。輝かしい栄光の影で兵士たちは働き詰めだった。休息は存在せず、血生臭い町を駆けずり周る。仲間だったものをかき集めて燃え盛る炎で全てを焼いた。夜空に溶け消えていく煙を呆然と眺め続け、前よりも空いた兵舎で死んだように眠る。そんな日々が数日間は続いた頃だろうか。朝食が終わるなり、慌てたように駆け込んできた上官が立体機動装置の検査を行うと言い出した。というのも、研究用に捕獲していた巨人が立体機動を使った兵士によって殺されたらしい。つまりは、犯人探しということだろう。ただでさえ精神と肉体共に疲弊しきっているのに、こんなことで呼び出されたら不満が出るのも理解できる。小声で話し合っている兵士たちに耳を傾けながら、あたしは胸に生まれたわずかな緊張を抑え込んだ。
「復讐にしたって、迷惑な話だよな」
あたしがその、犯人だったら。なんのために殺しただろう。みんなが、マルコが、戻ってきてくれるなら。あたしの罪を償えるのなら、いくらだってやる。巨人が狩られた今になっても、空っぽになったベッドは埋まらない。あたしが返事をする相手は、どこにもいないまま。もう何日も経ってしまった。いくら待っても、みんなは帰ってこない。当たり前だ。数日前、あたしたちは仲間の亡骸を火種にした炎で温まったのだから。
「聞いているのか?所属していた班と、名前を答えろ」
「ノエル」
側までやってきた二人組の上官に気づいたのは、アニに小声で呼びかけられてからだった。訓練兵時代に何度の癖をまたやってしまった。反省する暇もなく「最後にシャフトを交換したのはいつだ」圧のある視線に淡々と質問を投げられる。最初でやらかしてしまった分、あたしはすぐさま真実を答えた。どうにか答えてやっと、胸につかえていた緊張がほぐれる。犯人ではないのだから、こんなに怯えなくたっていいはずなのに。口に溜まった唾を飲み込む。アニが隣であたしと同じ質問を受け、答えるのを待った。「問題ない」リストを手に持った上官が顔をあげ、頷いてからコニーの方へ行く。やっと息ができたような心地で、ほっと胸を撫で下ろす。先ほどの感謝をアニに伝えようと首を動かして、ある一点で止まった。
きっと、犯人は憎しみに呑まれてしまったのだろう。そう結論づけるには、どうしてだか何か引っ掛かる。復讐心を持った衝動的な犯行にしては、計画的だ。警備を掻い潜るのに、二人以上は必要だろう、というのがアルミンの見解だった。誰にも見られず、犯行に及ぶ冷静さを持ち合わせている。もしかして、もしかしたら、犯人は復讐なんかじゃなく。恨みの他に目的があった、とか。
「そんなわけ」
自分で考えた癖に、馬鹿馬鹿しくて小さく吹き出してしまった。重大な研究対象を失ってもいい、厳罰を受ける覚悟で巨人を狩ったのだろう。あれだけの地獄で、散々巨人に蹂躙されたのだ。無抵抗に囚われている敵がのうのうと生き延びていたら、怒りを抑えきれないに違いない。
「なに」
「な、なんでもない」
足を止めたあたしにアニが怪訝そうな顔で振り返ったので、出来るだけ笑って左右に手を振ってみる。あたしはすっかり呆れた顔が逸らされた隣へ駆け寄った。盗み見たアニの表情は、苦く滲んでいる。
そうだ。復讐のため。アニがそんな情熱を持っているような人には思えない。真反対の言葉だ。この五年間見てきて、アニが兵規違反をしてまで、一時的な感情に身を任せるはずがない。エレンのような人なら兎も角、巨人の討伐に執着している様子もなかった。だから、あの凹みは見間違いなんだ。きっと、あたしも疲れてて。あの日にお揃いだとみんなで笑い合った、あの凹み。マルコの装置についてるはずのそれが、アニの装置についてるわけ、ないのに。
「アニってさ。あたしに嘘ついてること、ある?」
「……あるけど」
「あはは、まあ。うん、そうだよね」
覗き見たアニの表情が「何を言ってるんだ」と言いたげに歪んでいる。数分前の自分があまりにも馬鹿らしくなってきて、口元が緩んだ。ニヤつき出したあたしの様子でアニの顔が更に険しくなり、足早に歩き出す。もし、アニがこの事件に関わっていたとしたら冗談でもそんなこと言えないはず。だから、大丈夫。曖昧な言い訳を飲み込めば、騒ついていた心は落ち着きを取り戻していた。
「あんたは、変えないの」
「何を?」
「志望兵科」
夕焼けがかった空の下で、あたしたちは調査兵団の勧誘式に集められていた。二人で壁に背を預けながら、待ち受けている別れの時を誤魔化していると、アニがあたしの目を見ずにつぶやいた。ぎこちない明るさを含んだ会話を続けていたあたしは少しだけ口を噤んでから、首を横に振った。
「変えない」
変えられない。あたしが、ノエル・ジンジャーである限り。何を恐れているのか、小刻みに震えている拳を背後に隠す。誰も救えなかったあたしに、殺してばかりのあたしに。一体、何ができるんだろう。わからない、だけど。やらなくちゃいけない、これがあたしの贖罪だから。
「……そ」
アニはそれ以上何も言うことなく、集合の号令がなされた。壁にもたれるのをやめ、歩き出したアニの背中を静かに追う。いつものように隣で肩を並べる。何か言葉をかけてもいいはずなのに。引き留めて、別れを嘆いてもいいはずなのに。最後だ。アニだって受け止めてくれるだろう。でも、あたしの体はそうしようとしなかった。
あたしたちは壇上を見上げ、淡々と告げられる残酷な真実と希望に打ちひしがれていた。エレンの家にある、地下室。一ヶ月後の壁外遠征に、死亡率。無慈悲にも残酷な事実が降りかかってくる。選択肢のないあたしは、そのどれもを受け入れるしかない。こめかみに滲んだ汗が気持ち悪かった。
「以上だ。他の兵団の志望者は解散してくれ」
松明に照らされたそこで、調査兵団の団長と呼ばれた人が重く冷たい一言を告げる。真っ先に動き出したのは、あたしの隣にいる影だった。ずっと目に焼き付けるように見つめていた横顔が、無情にも動き出す。もう、会えなくなるわけじゃないのに。視界から消えていくアニの影を掴みたくなって、堪えた。振り返り、悲劇的な別れの言葉でも叫べたらよかった。あたしが衝動を堪えている間に、アニの姿が追えなくなる。どの足音がアニのものかわからなくなり、全てが遠ざかる頃に残されたのは、数人だけだった。
明日の集合時間や場所を共有したのちに、その場は解散となった。各自が散り散りに去っていく姿を見ながら、すぐ動くことはせずに立ち尽くしていると「ノエル、帰るぞ」ここに残るはずのなかった声があたしを呼んだ。目を瞬かせながら、あたしはどうにか足を動かして二人に並ぶ。沈黙の時間を挟んでから、かさついた唇を開いた。
「どうして、調査兵団にしたの?」
あれだけ、憲兵へ入る素振りを見せていたのに。心外にも攻めているような言葉に、一人で口を押さえる。全く、そんなつもりはない。ただ、単純に不思議だった。ライナーとベルトルトだって。トロスト区の防衛戦で巨人と戦うとはどうなることか。嫌というほど身に染みたはずだ。それなのに、今更になってどうして。
「まあ、あれだ」
曇った表情で察してくれたのか、ライナーはあたしの頭に優しく手を乗せた。すぐに言葉が出てこないのか、モゴモゴと口を動かしている。ベルトルトの方をチラリとみてみるも、眉を下げるだけだった。
「お前一人にさせるのも心配だと思ってな」
「ライナー……」
ベルトルトが何か言いたげに名前を呼ぶ。「そ、そっか」返事をしながら、上手く笑えている気がしなかった。ライナーたちが調査兵団に入るということは、つまり。一ヶ月後の壁外調査にも行かなければならない。新兵の死亡率は、約三割。さっきまで、昨日までは受け入れていた数字が恐ろしいほどに大きい。ここ数日でその割合が想像よりもずっと大きいことを知ってしまったから。
「……俺たちが信用できないか?」
「う、ううん!そんなことない」
よっぽど、浮かない顔をしていたんだろう。ライナーが怪訝そうに問いかけてくるので、暗い空気を霧散させるように口角を上げた。もう、決まったことだ。ライナーもベルトルトも、あたしよりずっと優秀で。それは誰よりもあたしがよく知っている。だから、絶対。大丈夫。あたしが心配していることなんて、何一つ起こらない。
「また一緒にいれて、嬉しいよ」
震える手を袖のうちに隠してから、ライナーにそっと笑ってみせる。欠けた体が、マルコの抜け殻が瞼の裏に焼きついて消えてくれない。それでも、曖昧な笑みを浮かべるしか選択肢はなかった。
翌日から、あたしたちは調査兵団となった。随分と古ぼけた二本の剣を脱ぎ捨て、自由の翼を背負う。おろしたてでほつれ一つなく、型のついているそれは、どうにも居心地が悪かった。一切の容赦なく、新しい知識を叩き込まれたからかもしれないけれど。
調査兵としての初めての仕事は座学だった。長距離索敵陣形と名をつけられたそれは、団長の考案した作戦らしい。巨人と戦うのではなく、いかに巨人を避けるか。作戦を教えられているあたし達からすれば簡単な話だ。けれど、巨人と戦うことが常識だったはずの調査兵団でその発想に至る人間がどのくらいいただろう。少なくとも、この陣形を考案したのが団長だけなのだから、革新的であったに違いない。まだ一度しか目にしたことのない団長の姿を思い描きながら、あたしは必死にメモをとった。訓練兵を卒業したからと言って、急に頭が良くなるわけじゃない。夜な夜な復習したり、アルミンから教えてもらいながら、全てを把握できたのは数日経ってからだった。
体に巻きつけたマントが風でたなびくのを楽しみながら、足を動かす。今日の座学は妙に早く切り上げられた。何があるのかと話していたら、ネス班長が調査兵団のマントを全員に配ってくれたのだ。深緑の色をしたそれは、布でできているはずなのに重く感じた。自分の体を囲ってボタンで留めると、妙に気が引き締まる。変なことを考えたくなくて、ライナー相手に散々はしゃいでしまった。やりすぎたかもしれない。下げていた手で、なんとはなしにマントの裾を掴む。
「オイ!」
顔を見なくても、それが誰だかわかった。一度は死んだと言われ、生存を諦めたはずのエレン。その人が、元気そうな姿で駆け寄ってきた。死んだと思われていたことが嘘みたいに、見たところなんの欠損もなく明るい顔でこちらまでやってくる。真っ先にミカサとアルミンが飛び出して、なにやら言葉を交わしているけれど、輪に加わる気はしなかった。円の外で一歩距離を置くようにしてみんなの話を聞いていた。
「マルコは死んだ」
ジャンの声がして、今すぐ耳を塞ぎたくなったのを堪えて服の袖を強く握りしめる。同時に肩を軽く引かれ、振り返った先にはライナーがいた。安心できる熱を感じて、荒くなりかけた呼吸が戻ってくる。あたしはライナーのそばに隠れて、ジャンが白身の様子でエレンの元に詰め寄り、何やら言っているのをただ眺めていた。
調査兵になったからといって、兵士は兵士。訓練地の寮とさほど変わりのない居心地のマットレスで、あたしは瞼を開いた。他の人の寝息が聞こえてくることはない。落としていた視線を持ち上げ、どこから辿ってくる物悲しさに蓋をするように気だるい体を動かした。一人分の熱をまとって、つんと冷えた床に爪先を置く。朝の澄んだ空気に、一人分の呼吸音だけが響いている。木の軋む音を静かに鳴らす必要もなくなってしまった。なぜだろう。個室を自由に歩き回れるのは、調査兵になった特権だというのに。素直に喜べるほど、あたしは謙虚でいられないようだった。窓の格子を模った光が床に伸びて、あたしの頬を優しく照らしている。唯一の良い変化は。こうして、朝日を浴びながら目を覚ませることだろうか。
習慣が身についてしまった足は、勝手に厩舎の方へと歩き出していた。彼女、あたしの愛馬とはとっくに別れを済ませたはずなのに。自嘲しながらも、歩みを止められなかった。朝焼けに照らされた兵舎から抜け出して、迷いなく足を動かし続けた先で目的の建物が目に入る。こんな朝早くの時間に厩舎で世話をしている人なんていないだろうとたかを括っていたのだが、馬が顔を並べている前には人影があった。やらかした。人と会うつもりも予想もしていなかったので、今のあたしは顔を洗って着替えただけの状態だ。この状態で人と会ってなんとも思わないほど、女っけを捨てたつもりはない。寝癖だらけの髪を意味もなく指ですいてから、あたしは足を止めた。
「おはようございます、ネス班長」
「おお!朝早いな。お前は……ジンジャー、だったか」
「はい。ネス班長は愛馬のお世話ですか?」
白いバンダナを巻いたネス班長が早朝には似合わないくらいの溌剌な笑顔をつくってから、思い出すようにして言った。あたしは相槌を返してから、ネス班長が世話をしていた馬に目を向ける。班長が立っている後ろには、初日に紹介してもらったネス班長の愛馬、シャロットとはまた違う馬がじっとこちらの様子を探っていた。
「それもあるんだが、こいつは別のやつだ」
「その子は……?」
初日の説明で、馬の世話は当番制だと言っていたはず。愛馬の世話を自分でしたいのなら納得できるが、ネス班長には溺愛している馬がもうすでにいるはずだ。訳がわからず首を傾げていると、班長は手に持っていたバケツを地面へ降ろしてから馬の鼻筋に手を伸ばした。
「こいつも新入りなんだが、やけに神経質でな。こうやって、朝一番に世話してやらねえと不機嫌になるんだ」
「の癖して、乗る奴は選ぶ。とんだじゃじゃ馬だ、全く……」班長が呆れ笑いしながら、鼻を撫でている。ネス班長の口から出た言葉はどこか聞き覚えがあった。縋るように、馬の方へもう一度だけ目を向けてみる。しつこかったのか。馬は息遣いを荒くして、班長を振り払うように顔を振った。気が変わるのが早くて、神経質。パチリ、と瞬いた瞳があたしの姿を射抜く。何から何まで見透かされているような目が、こちらを見たまま離さない。似ている。
「この子」
「どうした?」
「あ。いや……あたしが前まで乗っていた子に、似ていて……」
考えるよりも先に、声が溢れてしまったらしい。言うつもりのなかった独り言を拾われて、目を泳がせながら狼狽える。別に、なんてことはない。ただ、似ていると思っただけだ。人相手ならまだ理解されるだろうが、馬を相手にしてこんな風に言うのは奇妙な感覚だった。変に思われただろうか。恐る恐る班長の様子を伺ってみるも、班長はやけに神妙な表情をして顎に手を当てていた。
「その馬……もしかして美人な雌の老馬か?」
「し……知ってるんですか?」
「知ってるも何も、そいつは数年前までウチにいた」
入団早々に変人認定されるのは困るな、とこれからどう弁解するか悩ませたあたしに告げられたのは意外な事実だった。大きく跳ねた心臓に突き動かされて声をあげてから、彼女との記憶が浮かんでから消えていく。どうして扱い難い馬が放置されているのか、庶民の生涯年収と同等の価値があると噂される調査兵団の馬だからだ。調子がいい時の彼女はみんなが驚くほど早かった。そもそも、品種からして違う。彼女は生まれながらのサラブレッドだった。
「元々気難しい奴でな。引退するにも惜しいってんで、訓練兵団に譲渡されたんだよ」
「そうだったんですか……」
彼女が品種改良された調査兵団の馬だったなら、全てに納得がいく。相棒として対等な立場でいてきたつもりだったのに。これじゃあ、また最初の頃みたいな明確な上下ができてしまう。急に突き放されたような虚しさと湧き上がってくる興奮を抑える。班長の口ぶりからして、彼女は昔とさほど変わりがなさそうだ。
「驚くのはまだ早いぞ。こいつは、その馬の子供だからな」
「こ、子供?」
「ああ、よく似てるだろ。美人で優秀。神経質なとこもそっくりなのがアレだがな」
「この子が……」
あれだけ別れを惜しんできたのに。まさか、こんな形で再開することになるとは。驚嘆の息を吐いてから、彼女の片鱗に目を向ける。艶のある毛並み、何もせずとも気品を感じさせる、宝石のような完璧の美。もうとっくにさよならを告げたはずの、ほろ苦い寂しさが胸から染み出して、あたしを困らせた。
「お前が乗るか?」
伸ばした手を宙で彷徨わせていると、予想だにしていなかった声があたしの動きを止めた。乗るって。あたしが?すぐには理解できない。口を開けたまま間抜けな表情で固まっていても、班長は歯を見せて笑っているままだった。
「でも、この子は他の主人がい、るのでは」
「言ったろ、ほんの数ヶ月前に入ってきたばっかりで主人はまだ決まってない」
情緒に振り回されて疲れ切った心臓を宥めながら、どうにか口を開く。あらゆる考えを巡らせていたあたしに対して、班長はあっけらかんと言ってのける。「この性格だろ?乗りたがる奴がいなくてな」心底うんざりしたような面持ちで頭をかいている班長が、少しだけ過去の自分と重なっているように映った。
「いいん、ですか?」
「勿論だ。あの馬を手懐けてた奴ならなんの心配もなさそうだしな」
「あ、ありがとうございます!」
恐る恐る聞き返してみたら、帰ってきたのは力強い相槌だった。曖昧に伸ばしていた手のひらに、太くしっかりした手綱が乗せられる。想像よりもずっと重みのあるそれが、手にざらついた感触を残した。
「期待してるぞ、新兵」
「はい!」
また、一緒に走れるんだ。今度は、壁外だけど。あの頃は苦手だったはずの瞳。母親とよく似た形、同じ光を写した瞳が頼もしい。今なら、あたしは誰よりも自由に壁外を駆け回れるだろう。頬にぬめっとした感触がした。驚嘆して肩を跳ねさせると、置いてきぼりにされていた一匹が顔を出す。知らないうちにあたし達の話に耳を傾けていたらしい。彼女も自分だけ蚊帳の外にされるのが嫌いだったな。その一匹は母親と同じようにあたし達の会話に割って入ってきて、鼻を鳴らしている。不満を訴える表情がこれまたそっくりで、笑みが溢れるのを止められなかった。
調査兵団にいると、どうにも体が緊張してしまうらしい。胸の前で難しい言葉ばかりの書類を抱えながら、あたしはそう結論づけた。ついさっき班長に教えてもらったばかりの目的地の場所を脳内で復唱しながら足を動かす。どうってことないお使いだ。講義を受け終え、アルミンと意見交換をしていたら、班長があたしを呼んだ。戦々恐々しながらも話を聞けば、ハンジ分隊長という人に書類を渡して欲しいと言われ、今に至る。上官に、少しとはいえ頭を下げられて仕舞えば、引き受けるしかないだろう。目印にしていた部屋の角を曲がると、それらしき部屋の扉が見えてくる。あたしは小さく息を呑んで、心臓の音を落ち着かせた。気づいていなかったけれど、訓練兵団の時はまだ良かった。同じような年齢の人しかおらず、目上として尊敬の気遣いをしなければならないのは教官か一期上の先輩くらいだ。調査兵団は違う。調査兵団でなくても言えることだけれど、あたしも含め様々な年代の人が一つの組織に押し込まれている。中でもあたしはつい最近入団した新入りだ。そのつもりがなくても、歩いていたら目につく。人の視線が多いと、気を使ってしまうのは当然で。それが、このどうも言えない居心地の悪さを作り出しているのだろう。必要以上に自分を修飾する意味なんてないのに、周りの人が多種多様で予測できないから怖いのだ。するりと抜けかけた紙を束に押し込んで、目的の扉に辿り着いた。ハンジ分隊長。聞けばかなりの変人だとか。あたしに相手が務まるだろうか。ごくり、と嚥下した音がやけに大きく聞こえる。小さく息を吸って、ノックしようと丸めた手の甲が扉に触れた。「ああああ!!」嘆くような叫ぶような声が扉の奥から聞こえてきて、無意識に扉を押し開けていた。
「失礼します!大丈夫で、すか……」
真っ先に飛び込んできたのは壁のように高く積まれた書類の山。その間から覗く、頭を抱えた茶髪の頭だった。床に倒れているとか、苦しんでいる様子はない。ただ、涙を流しながら頭を抱えているだけだ。すっかり思考停止したあたしに、無造作な茶色の頭が机の奥から近づいてくる。
「君は……」
「な、南方訓練兵団出身。ノエル・ジンジャーです。この書類を分隊長にと、ネス班長に頼まれて……」
「ああ!巨人生体実験の資料か!」
伝えられた文面を口にしてもピンとこないあたしの前で、ハンジ分隊長は合点が言ったように目を輝かせた。やや食い気味な反応に押されつつも、抱えていた書類を伸びてきた腕にまとめて手渡す。
「捕獲した巨人が殺されたのは知っているだろう?」
「は、もちろん。存じておりますが……」
意味もなく気を張り詰めて様子を伺っていると、ハンジ分隊長が問いかけてきた。その手には、あたしには到底真似できない速度でペラペラとめくり読んでいた書類の束がある。
「本当に可愛い子達だったんだよ……だから、まだ傷が癒えなくてね……さっきのような発作が、さ」
「は、はあ……?」
変人、と言う話はどうやら本当だったらしい。あの虚な目をした巨人の一体どこにそんな要素が。今まで出会った巨人の顔を脳裏に浮かべてみるも、かわいさとは真逆の笑顔が張り付いている。揶揄っているのかと疑ったけれど、頬についている涙の跡が真実を主張している。
「はっ、君!南方訓練兵団ってことはもしかして……超大型巨人を見た?!」
「見ましたが、それが」
「どうだった!?」
「何か」と言いかけた口は伸びていた腕によって遮られた。見た目に反して、分隊長なのだから当然とも言うべきだろうか。手首を掴まれたかと思ったら、興奮気味の顔が視界いっぱいに広がっていた。
「出現時の音はどうだった?姿は?ちょっとこの紙に描いてみておくれよ!!」
「え、ええっと」
「さあ!さあ!」
あたしが狼狽えている間にもハンジ分隊長は紙を手にしたまま、詰め寄ってくる。雷鳴のような音は聞いたけれど、巨人研究を一任されている人が知らないはずもない。きっと、求めているのはそれじゃない。姿を描くにしたって、あたしは遠くから見ていただけで。朧げなシルエットしか、間近で見たサシャやエレンの方がわかるはずだ。本棚に追いやられながらどう答えるべきか考えあぐねていると、声がした。
「おい、クソメガネ……新兵相手に何やってやがる」
声の主は分隊長とあたしの間で腕を組んで佇んでいた。刃物のような鋭さと人を寄せ付けないような眼光を放っているその人は、人類最強と名高いリヴァイ兵士長だ。調査兵団の最重要人物でありながら、勧誘式ではその姿がなかった。最後に見たのは数日前、まだあたしが訓練兵でエレンに混じって呑気に壁外調査の見送りをした時だ。乗馬している姿しか見たことがなかったので想像よりも小さかったが、人の纏う空気は身長で決まるものではない。「ああ、リヴァイ!」熱を隠そうともせず、親しげに向かっていくハンジ分隊長の横で、あたしは喉に唾を押し込んだ。
「君も聞くかい?超大型を生で見た感想を!!」
「でけぇ以外に何がある」
「それだけじゃない!ノエルもリヴァイに言ってやってよ!」
「口を塞げ、クソメガネ。新兵を困らせるな」
急に呼ばれて肩を跳ねるも、リヴァイ兵士長が分隊長を宥めてくれたお陰で杞憂に終わった。あからさまに残念そうな顔をしたハンジ分隊長が「えぇ〜?」不満げな声をあげて訴えているけれど、リヴァイ兵士長は気にするそぶりも見せない。対応からしてよくある光景なのだろう。初対面だが、今までの会話でそれとなくハンジ分隊長の人柄はわかった。
「コイツの話をまともに取り合う必要はない。覚えておけ」
「はっ」
窮地から救ってくれた感謝も込め、強く胸を打つ。話で聞いていたより小さくて粗暴な物言いだが、間違いなく親切な人だ。窮地を救った恩人でもある。あたしの敬礼に向かって微かに頷いたリヴァイ兵士長に向かって、傍に退けられてきたハンジ分隊長が口を開く。
「全く、本人がいる前で酷いなあ……」
「酷いか。なら、実験の約束はどうした。エレンを使いたいと言ったのはお前だと聞いたが」
「あ……忘れてた」
「チッ、クソが……ノエルよ。コイツに用事は残ってるか?」
「い、いえ」
「ぐぇ」蛙を踏んだような声がハンジ分隊長の口から出た。リヴァイ兵士長が襟首を掴んだまま、半ば引き摺られるような形でハンジ分隊長が扉から出ていく。
「書類ありがとう!ネスによろしく!」
ひらひらと振られた手が勢いよく締まった扉によって見えなくなる。最初とは逆だ。高く詰めあげられた書類の中に取り残されてしまった。乱雑とした部屋の中で、あたしはそっと息を吐く。背負っている空気が密度を増したかのように、気怠い。肺を膨らませてから、萎ませて。やっと、重さは薄れていった。人の目線がどうとか、思ってたけど。たぶん違う。調査兵団って自由な人ばっかりだ。それぞれが確固たる意志を持ち、兵団に所属している。真似事ばかりで自分の意思を持ってはいけない自分とは、まるで真反対。心の中で自嘲しながら、厩舎へ歩を進める。新しい相棒の調子も見ておきたいし、上手くいけばネス班長とも出会えるだろう。壁外調査に向けた馬の最終調整を一任されて困ったと頭を掻いていたから。目新しい兵舎の中で、よく見慣れた道へ出る。よく行き来するから、宿舎と厩舎の場所だけは完璧に記憶している自信がある。他と言われたらさっぱりだけど。そう迷いなく歩みを進めていると、前方から迫ってくる人影が見えた。顔を認識してすぐに、左手で拳をつくり敬礼する。
「はっ、エルヴィン団長。おはようございます」
「ああ、おはよう」
返事を返されるとは考えておらず、僅かにも向けられた碧色が心臓を脅かす。エルヴィン・スミス。勧誘式であたしたちが見上げていた壇上に立っていた人物。調査兵団を束ねるリーダーであるその人が、調査兵団の兵舎にいるのは当然のはずなのに、驚嘆が尾を引いて離さない。汗ばむ拳を握り締め、視界から消えていった影にほっと息を吐く。
「……君は」
足音が止まり、微かに弛んだはずの体が引き締まる。言葉の続きを探ろうと視線を動かしたら、二つの瞳孔があたしを捉えていた。
「ウォール・ローゼ出身か?」
「い、いえ。ウォール・マリア出身ですが……」
溢れそうになった動揺を拾い集め、必死に蓋をする。まさか、いや。そんなはずはない。開きかけた唇を噛み締めて、鬱陶しいほどに過敏な心臓をぐっと押し殺す。
「そうか……すまない。知人に似ていてな」
深いため息と同じくらいの声色で言ってから、団長は誤魔化すように小さく笑って見せた。不安が杞憂に終わったと言うのに、胸はせわしなく動き続けて本来の鼓動を取り戻そうとしない。
「そ、その人は……」
頭の中でじくじくと切り裂くような痛みが広がっていく。耳元で聞こえてくる短い嘆息に心音が駆り立てられる。あたしの母親は、調査兵団だった。いや。そんなまさか。あるはずのない可能性を否定しながらも、不快感と共に登ってきた記憶の欠片が心臓を鷲掴みにして離そうとしない。
「いえ、引き留めてしまって。すみません……」
あたしは何も聞かないことを選んだ。問いただそうとしていた口を閉じてから、その場で軽く頭を下げるり「そうか」団長は特に動揺もせず言ってから、廊下の奥へ立ち去っていった。静寂に包まれた廊下で、一人立ち尽くしながら拳を握る。
調査兵団は自由を求める人間の集まりだ。あたしの母もその一人だった。調査兵団に所属していれば、あたしもいつか分かるんだろうか。夫と娘を捨ててまで得たい、何かを。立ち止まっていた靴のつま先に力を込め、くるりと背を翻す。あたしには、一生かかっても理解できないだろう。納得も、しようとは思えなかった。
ーーーー
布切れの中で瞼を開ける。硬い体がぐっと縦に伸びていく感覚に身を委ねながら、体を起こした。ふいに目を隣にやって、窓辺から差し込む光に反射した埃が舞っていた。つい数日前までは整然としていた部屋も、無作為に割り当てられたルームメイトによって乱された。反対側には古ぼけた色の壁があるだけで、期待していた人物はいない。またか。冷えた指先で視界を覆い隠す。生温い熱が伝わってきて、自分の愚かさを鼻で笑った。この五年間で、あの女は私の習慣の一部になっていたらしい。あいつ、ライナーが憲兵団に来なくて心底良かった。この光景を知られたら、神経を逆撫でする御託で説教してくるに違いない。脳裏に憎たらしいあの顔がちらついて、いやになる。ため息を吐きながら、ベッドの淵から立ち上がった。
一連の支度を終え、水気の吸ったタオル片手に部屋まで戻ってきた。使用済みのタオルを椅子にかけ、今日初めて自身の机へ目をやった。そこには、覚えのない真っ白な手紙が置かれている。例の作戦は調査兵団の壁外調査を待ってからのはずだが、ここに来て状況が変わったのか。自分の眉間に皺が寄るのを感じながら、封筒を手に取った。裏返し、差出人の名前を読み上げると顔に込めていた力が一気に緩んだ。同時に、横から出てきた腕が持っていた封筒を取り上げる。
「みすぼらしい手紙。あんた、意外とモテるんだ?」
ヒッチ・ドリス。不本意にも衣食を共にすることになった女だ。根っからの性悪だと言うことは話さなくたってわかった。憲兵団は想像以上に腐敗した組織で、こういった性格の腐った奴がごまんといる。私もその一人だ。
「まあ、どっちでもいいけど」
ヒッチは自分よがりの不愉快な笑顔で見せつけるように指先に摘んだ手紙をひらひらと振った。影が私の顔面に降ってきて、揺れている。同族だから、こいつらがどうしたら悦ぶのか知っているのに。奴らの罠に嵌ってぴくりと反応した眉を指で隠す。机の横にひっついたまま退く素振りすらないヒッチはその反応を待っていたかのように口元の笑みを深めた。しつこく揺れていた腕が止まり、手紙の封を無遠慮にこじ開ける。二つ折りの紙が引き摺り出され、ヒッチはそれを仰ぎ見た。
「ふぅーん……うわ、馬の名前つけてくれだってさ」
「返して」
「こっわーい。ただでさえ人相悪いんだから勘弁してよ」
わざと音を立てて椅子から立ち上がると、三日月型に吊り上がった口元でわざとらしい声をあげ、ヒッチが一歩後ろに下がる。差し出した手のひらに手紙は戻されず、当然のようにヒッチが握りしめたままだ。
「そうだ。私が返事書いてあげよっか」
「必要ない」
「ふぅん、そ」
一気に熱が冷めたのかのように、ヒッチの顔から表情が消え失せ、手に持っていた手紙が投げ返される。少し皺のついた一枚の紙には、懐かしさのある下手くそなノエルの字がつらつらと綴られていた。
「その子も、あんたみたいなのが知り合いで可哀想だね」
ヒッチはそう吐き捨てるなり、あっさりと去っていった。何かつまらないことでも言ったんだろうが、私にはどうでもいいことだ。ようやく部屋に静寂が戻り、下がった椅子を引き戻す。くしゃりと歪みかけている手紙を両手で広げ、連なった文字に目を落とした。どうってことはない。ヒッチが興味を失うのも納得の手紙だ。ライナーからも聞いていた作戦の件と、控えめに書かれた名付けの依頼。何度か読み返してから、引き出しを開ける。ほとんど空っぽなそこには、誰のかわからない鉛筆だけが隅に鎮座している。ノエルの手紙をそこへ並べ、代わりに鉛筆を手に取った。そうだ。ノエル・ジンジャーは悪魔で、全てを食い潰される可哀想な女だ。私には、何もできない。救うことも、赦すことも。だから。これは私の。独りよがりな懺悔だった。