壁外はもっと自由なものと思っていたが、どうにもそうじゃないらしい。結局のところ、巨人から逃れられる場所は存在し得ない。時より空に打ち上がる煙弾が、残酷にもそう告げていた。雲の濁りひとつない空から痛いくらいの光が頭を照らしてる。なんの澱みもなく、清々しいはずそれがあたしの身を焦がしていく。トロスト区が襲撃された時も、確かにこんな色だった。地獄はあたしたちの思っていたよりすぐそばにいるらしい。
思い通りに息を吸わない自身の体へ苛立ちを感じながら、怯える指先で手綱を握りしめた。新たな相棒に身を委ねて、煙弾を見逃さないよう周囲へ目を凝らすことに集中する。団長の号令と共に、壁外へ駆け出したのがまるで数時間前のことみたいだ。同じ右翼側のライナー達と別れたのはもっと前。実感と現実が交差して神経をぐちゃぐちゃに麻痺させる。実際は数十分ほどしか経っていないはずなのに。旧市街地を抜けてから、気を抜くと本能が帰還しろと訴えてくる。森のざわめきが全て敵になってしまったみたいだ。張り詰めた息を、どうにか吐き出した。
あたしがいくら願っても、現実は待ってくれない。何度目かわからない煙弾を空に放ち、陣形の動向に身を任せる。さっきから、巨人襲来の伝達ばかりで陣形の修正がされていない。なにか、変だ。手綱に込めた力で居心地の悪さを押し殺そうとしていた時だった。恐怖で機敏になった頭が、黒い煙弾を視認した。
「奇行種……!」
覚醒した頭が信号を出し、慌てた手が腰に引っ提げていた煙弾を取り出した。小刻みに揺れる指先で黒の煙弾を込め、空に打ち上げる。あたしの後続から煙弾が登っても、一息つけるはずがなかった。
問題は煙弾が打ち上がった方向だ。あたしの前列にはアルミンがいる。近くにネス班長もいるはずだ。あれだけ熟練な兵士がついていれば、大丈夫だ。「う」胃がひっくり返ったみたいな、急に襲ってきた吐き気に、口を抑える。何度言い聞かせても、どう言い訳しても不安は消えてくれなかった。だめ。索敵をしないと、あたしのせいで陣形が乱れてしまう。前屈みになった体を無理矢理にでも持ち上げて、赤が飛び込んできた。
「ひァっ。は、はんちょ……」
青々とした草原に、赤黒い塊が落ちている。手綱を震える手で引っ張り、転がっているそれの横を通り過ぎていく。無理に進路変更をした不機嫌な嘶きが、どこか遠くから聞こえてくる。立ち止まらずとも、その肉塊が誰かわかった。流れていく地面には、変な方向にひしゃげた二つの死体と真っ赤な血を吸ったバンダナ。ネス班長が自慢げに撫でていた愛馬、シャレットが寄り添うように打ち捨てられていた。
あたしは、いったい何をみていたんだ。救えない、救えるはずもない。ちっぽけな一人の悪魔が英雄の真似事をして、圧倒的な死に抗えるわけがない。自分自身で精一杯だった癖に、どうして、他人の運命まで干渉できると勘違いをしていたんだ。
乾いた唇で空気を吐き、茫然と世界を映した瞳がまた別の赤を視界に入れた。他の奴らとは違う。女体の曲線を纏った巨人が草原に膝をついている。その顔が近づいている先。誰かが、巨人の影に飲み込まれようとしていた。
「アルミン!!」
見覚えのあるブロンドが巨人の下でちらつき、あたしは悲鳴に似た叫び声をあげた。あたしが手元を制御している間にも、巨人の顔がアルミンへ近づいていく。だめ、なんで。どうして。奇行種がこんなところまで入り込んでくるなんて。手綱を思いっきり引き、全速力で駆け抜ける。あたしの静止なんか、聞き届けてくれるはずもない。アルミンらしき姿が、女型の巨人に覆われて、みえなくなる。立体機動を使ったって届かないような距離で、無惨にも影は飲み込まれた。
「いやぁ!!アルミ、」
反射的に動いた体がぎゅうと目玉を締め付ける。絶望的な気分で目を開くと、思い描いていたような鮮血は散っていなかった。ごちゃ混ぜになった心がまるで機能しなくなる。そこには、以外な現実が広がっていた。
「っアルミン!大丈夫!?けっ、怪我は!」
「あ、ノエル……大した怪我はないから平気、だよ」
膝をついたまま動かないアルミンの背にやっとのことで辿り着く。捲し立てるように声をあげると、自身の手を仰ぎ見た状態のまま、アルミンが静かにつぶやいた。アルミンはついさっき死にかけたばかりなのに、もう何かを思案しているようだ。女型はアルミンを捕食しなかった。これが単なる気まぐれか、遊びなのか。あたしには真意を推し量るような頭がないので、ただ黙ってアルミンの思考の邪魔にならないようにすることしかできない。
「それよりも……」
アルミンが、意味ありげな言葉を残して顔をあげる。その瞳は、まだそれほど遠くない場所で背中を揺らして走っている女型を映していた。「アルミン!ノエル!」名前を呼ばれた方向へ振り返ると、ライナーがこちらへ向かってきているところだった。「馬を走らせねぇと壁外じゃ生きていけねえぞ、急げ!」ライナーの声で、衝撃の余韻に浸っていた体が目を覚ます。ひとまずは、少し遠くで体を揺らしている女型の跡を追うように馬を走らせた。
「奇行種の煙弾を確認したが、あのいいケツしたやつがそれか」
「奇行種じゃない、巨人の体を纏った人間だ」
「に、人間?」
雷に打たれたような衝撃のまま、震える唇で聞き返す。「ちょっと待って。先に、煙弾を打たなきゃ」慌てた様子で懐を弄っているアルミンを茫然と眺める。それも、妙な納得感があったからだった。
「既に大損害だが、下手すりゃ全滅だ」
背後から合流したジャンが伝えたのは、吉報と真逆の話だった。出発前、あれだけいた右翼側の先輩たちが壊滅状態。巨人に捕食されている仲間たちの姿が真っ青な空に浮かんで、喉元に競り上がってくる感覚を両手で抑えた。
「っなんであんなトコに巨人がいるんだよ。奇行種か」
「あいつは、巨人の体を纏った人間、エレンと同じことができる人間だ」
血の気の引いた見窄らしい顔で何も出ない咳をしていたら、アルミンが淡々と言った。疾走する馬の足音に紛れ、誰かの息を呑む音が聞こえる。
「え、れんと同じ……?!」
「巨人を引き連れてきたのも、あいつだ」
「じ!じゃあ、超大型や鎧も人間ってこと」
「……うん、そうなるね」
アルミンは静かに頷いてみせた。脳裏に浮かぶのは、白く立ち昇る煙とそれを取り囲むように並んで怯える兵士たち。その中心で佇む、大きな影。つまり、アルミンはこう言いたいんだ。壁内人類の中に、人間のフリをした巨人が、紛れていると。
「誰かを探しているって、気がする……もしそうなら、探しているのは――もしかして、エレン」
絶句するあたしの隣で、アルミンが漠然とつぶやいてみせる。そうか。アルミンの仮説が自分の記憶にある光景を恐ろしいくらいに納得させた。女型の巨人が膝をついてまでアルミンを見下ろしていた。邪魔者を躊躇なく排除してきたはずの巨人が足を止めていたのだ。なぜか不思議だったけれど、あれが捕食でなく、確認だったとしたら。
「エレンだと?エレンなら、アイツが来た右翼側を担当しているはずだが」
「右翼側?俺の作戦企画紙では左翼後方あたりになってたぞ」
「あっ、あたしは右翼後方って書いてあった」
ジャンの不可解そうな問いに続いて、ライナーまで怪訝そうな声を出す。あり得ない齟齬に戸惑いながら、慌てて便乗した。あれだけ脳に刻み込んだのだから、いくらあたしでも間違えようがない。「僕の企画紙には右翼前方あたりにいると示されていたけど……」この場で一番記憶力の良いはずのアルミンが誰とも違う場所を口にして、不可解な謎が決定的になる。怯えから手綱を掴む力を強くしたあたしに対して、ジャンがアルミンに呼びかける。
「アルミン!今は考え事してる時間はねぇぞ。そのうち、指令班まで潰されちまう。そうなりゃ……陣形は崩壊して全滅だ」
「何が言いたい」
「つまりだな――この距離ならまだヤツの気が引けるかも知れねぇ……俺たちで、撤退までの時間を稼いだり出来る。かもしれねぇ」
聞き返したライナーに向かって、ジャンが言葉に詰まりながらも言い切った。こういってはなんだが、ジャンらしからぬ台詞に声が出なくなる。
「あいつから見れば、僕たちは文字通り虫けら扱い。叩かれるだけで潰されちゃうよ」
「はは、……そりゃあ、おっかねえなあ」
アルミンに諭されても、ジャンは顔を引き攣らせながら茶化すだけだった。どうやら、ジャンは本気らしい。大粒の、嫌な汗が頬を滑り落ちていく。ジャンが軽く俯き、自分へ戒めるようにつぶやいてから、顔を上げた。
「お、俺は。俺には今何をすべきか分かんだよ!そして、これが俺たちが選んだ仕事だ。力を貸せ!」
躊躇を取り繕ってから、ジャンが真正面から叫んだ。一拍空き、ジャンの訴えに動かされたらしいアルミンが「フードを被るんだ。深く、顔が見えないように」と深緑のフードに身を潜めながら言った。ギリ、と歯を噛み締めて心音を殺そうとする。少し首を動かせば、悠々と走る女型の背中が映る。班長たちをただの肉塊へと変えたあいつにあたしたちが対抗、できるのか。い、いや。口内に溜まった唾を嚥下する。きっと、すぐに。
「よし、ノエル。フードは被ったか」
「う、うん!」
ライナーの声でハッとしてフードを引っ張り出す。アルミンの言う通り頭が引き攣るくらい奥深くまで被ってから、ライナーの方をみた。
「危険を感じたらすぐに離脱しろ、無理はするなよ」
「……うん」
ライナーに深く頷き返す。そうだ、討伐の必要はない。やるべきは、撤退までの時間稼ぎだ。みんなを救えるかもしれない、やっとノエルらしいことができる良い機会なのだから、理由をつけて離脱しようとか逃げようとかはもってのほかだ。三人と別れ、ジャンが即席であつらえた作戦とも言えないような何か通りの位置につく。あたしはなけなしの闘志に導かれるまま、銀色に輝くブレードを引き抜いた。
ジャンの指示通りに展開して、作戦開始の合図を待つ。目の前の空気がやけに重く、酸欠になってしまいそうだ。目型から目を逸らさずに、吸って吐いてをくり返す。騒々しい胸のざわめきを抑えようと、ゆっくり瞬きをして。空にピンと張った銀色の光が輝いた。これまで真正面を向いて走っていた巨人が、目にも追えない速度で体を翻す。ジャンの方向だ。「は」愕然と開いた口から空気の抜ける音がした。数秒もしないうちに。ばきゃ、と何かが叩き潰された。ちらりと覗くブロンドの髪が深緑の外套から反射する。アルミンと馬の体が不自然に宙を舞っていた。ほんの数秒、目を離しただけなのに。名前も呼べないまま、その姿がゆっくりと地面に叩きつけられていく。
「だ、だめ!!」
このままじゃ、やられる。全身を襲ってきた熱に突き動かされるがままに、馬の背中を蹴った。トリガーを強く引いて、ガスを全力で噴射する。女型の足の裏。筋肉の詰まったその場所に目掛けて、突風の中で葉を食いしばる。赤い体がすぐそこまで近づき、世界が湾曲した。
「ノエル!!」
誰かの呼びかけでぐちゃぐちゃに振り回された脳みそが覚醒する。重くて、今にも閉じてしまいそうな瞼を持ち上げた。濃厚な鉄の匂いが鼻につく。形態のないどろりとした液体が鼻腔から垂れていくのがわかった。あれ。それを拭おうとして、ぼやけた世界が正常を取り戻していく。
「あ……」
そいつと、目が合った。あおくて、ギラついている。野生動物の残虐さを煮詰めたような瞳が、あたしをみていた。それしか聞こえなくなってしまったかのように、激しくなる自分の心臓だけが響いてる。
何故、だろう。巨人はあたしを覗き込んだまま、逸らそうとしない。生存本能とは違う、不快な汗が頬をつたっていく。真っ黒に開いた瞳孔が、何かを吟味するように開き、私の姿を映し出している。
なぜ、あたしは。頬まで亀裂の入った口が、粘ついた唾液と共に開かれる。抵抗のできない体の足先が、歪にひび割れた唇の上についた。目に痛いくらいの赤が、あたしを食いちぎろうと待っている。
「ノエル!!しっかりしろ!!」
薄灰色のブロンド、冷めたような碧色の瞳。なんで、見覚えがあるんだろう。
「……あ、……に?」
青い瞳孔が、大きく開いた。
「ジャン!死に急ぎ野郎の仇を取ってくれ!」
アルミンの唸るような声が静寂を切り裂いた。麻痺していた感覚が取り戻され、世界が鮮明になる。体の自由だけはまだ取り戻せず、意味なく体をバタつかせた。何の意味もない、体が余計に揺れただけだ。「右翼側で本当に死に急いでしまった、死に急ぎ野郎の仇だ!」アルミンが何を思っているのか知らないが、巨人は動きを止めている。不可解にも、その言葉をじっと聞き逃さないでいるかのように。身を捩り、抵抗しても巨人はワイヤーを掴んだ手を離そうとしない。短く息を吐き出してから、あたしは真上を見上げた。「こいつの足の裏にこびりついているのを見た!」巨人の手が摘んでいるのはアンカーだ。大急ぎで立体機動装置を外しにかかる。おぼつかない手つきである程度緩めれば、重力に従ってぬるりと体から抜けていく。勢いに引っ張られたまま、地面と激突したつま先から貫くような痛みが走る。まだ高さがなくて幸いだった。足を抑えて痛みに顔を顰めていると、手放されたワイヤーが上から降ってくる。蛇のようにしなりながら落ちてきた銀の鞭が腿を裂き、手の甲をえぐった。
「い゙!ぅ」
ぱっくりと割れて赤身をみせる手を抑え、顔をあげる。大きな瞳が、手の影が迫ってきていた。片手にあるブレードを持ち上げようとして、別の影が飛び込んでくる。太陽の光にあてられ、ワイヤーがチラつく。
「ライナー!」
女型はアルミンに気を取られ、ライナーは背後を取っている。これなら。女型の頸が切り取られる未来が瞼の裏に浮かんで、ライナーの体は手に覆い潰された。
「え、っ。え?」
「ゔ、がはッ!」
ライナーの苦しそうな表情がみえる。抵抗しようとする手足が、私に伸ばされて。親指で奥に押し込まれ、みえなくなった。目が見えなくなったかのように、頭が真っ白になる。「あ、ぁ……あ」唯一、手に残っていたブレードを巨人に向かって突き立てようとして、巨人の指が血飛沫をあげた。
「ノエル!離脱だ!」
呼びかけられて、やっと体が動くようになった。あたりに散らばっている立体機動装置を抱えてから、立ち上がる。アルミンを抱えたライナーが自分の足で立っている姿へ安堵をぶつけてしまいたいのを堪えて、背中を追った。背後から掴まれないように女型を視界に捉え、警戒しながら必死に駆ける。結局。女型はあたしたちから突然興味を失ったかのように、手のひらを見つめたまま動こうとしなかった。
「はい、お願い」
その後も女型の巨人が追ってくることはなく、あたしたちは程遠くない木の日陰で馬が戻ってくるのを待つことになった。
肌を薄寒い外気の元へ晒す。うねるように落ちてきたワイヤーは兵服を裂いて、一直線の赤いみみず腫れを作っていた。このままでは処置もできないので腰巻きで下着を隠しながら、ズボンを膝まで下ろすとライナーが素っ頓狂な声をあげる。
「っうお……年頃の娘がそう気安く肌を出すもんじゃねぇだろ」
「なにその言い方、おじさんみたい」
「俺はまだ17だ」
ライナーが念を押すように言ってから、するすると足に包帯を滑らせていく。さっきまで、片手の痛みと闘いながら巻こうと、一人で苦戦していたのが嘘みたいに楽だ。処置は数秒で終わり、なぜか焦っているライナーに捲し立てられ、半分脱いでいたズボンを引き戻す。
「二人残していかなきゃならねえようだ」
破損なく取れてくれた立体機動装置を身につけていると、包帯を巻き終えたライナーが口笛を鳴らしているジャンに向かって言った。調査兵団の馬は口笛で戻ってくるように躾けられているはずが、あたしの愛馬を含めて、ライナー以外の馬が帰ってこないのだ。あの子に何かあったのか、新たな不安を押し隠す。一匹に対して乗れるのはどう頑張っても二人が限界。あたし以外に一人、残らないといけない。三人の誰かが。それか、あたしがそこらを走り回って他の兵士と合流するか。一体には草原が広がっている。巨人と出会って仕舞えば、無抵抗に食べられるだろうが、このまま四人潰れるよりマシだ。「あたしが、」口を開こうとして、救済の女神がやってきた。
あたしたちは馬を保護していたクリスタと出会うことができた。間一髪、壁外で孤立無援にならなくて済んだのだ。馬を連れたクリスタの姿に後光が差していたのは、たぶん幻じゃない。あたしたちの無事に涙潤ませて喜ぶクリスタを拝んでからも、陣営は撤退の兆しを見せなかった。それどころか、何も起きていないかのように緑の煙弾が打ち上がっている。疑問を感じながらも指示通りの煙弾を打ち上げ続けていたら、遠目からでもわかるような緑が近づいてきた。
「総員、抜刀して待機!」
与えられた指示は陣形が一部壊滅状態でも変わらなかった進路より、不可解だった。頭の中で配られた作戦企画紙を思い起こす。ウォール・マリア奪還に向けた経路開拓及び外壁調査と。確かにそう書いてあったはずだ。徹夜してまで一言一句頭に叩き込んだのだから、間違いない。
「う、わ」
新しく走ってきた巨人が木の根元でひしめく群れに突っ込み、幹が揺れる。片手で木に手をつきながら、なんとなくアルミンの横顔を眺めてみた。頭を強く打ったのだから安静にしたほうがいいんだろうが、アルミンなら今の状況が把握できているのかもしれない。さっき、何やらジャンとも話をしていたようだし。真剣な横顔に恐る恐る口を開こうとして、アルミンがあたしに目を向けるほうが早かった。「ねえ、ノエル……」
「さっきの戦いで、何か気づいたことは……なかった?」
「え」
ズキ、脳みそを抉るような痛みがはしって、女型の顔が蘇ってくる。薄灰色の髪、冷めたような目つき。既視感の正体に、さっきまでのあたしが辿り着いていたはずだ。あれ、なんだっけ。軽く記憶を辿っても、抜け落ちてしまったかのように思い出せない。
「きぃあああぁぁぁ――!!」
劈くような悲鳴があたりに響き渡った。鼓膜を突き破るような轟音で、耳を塞いでいたのにも関わらず、頭がくらりと揺れる。生理的な涙を目尻に溜めながら、左右を見回す。おんなじ様な瞳をしたアルミンと視線が交わって、それはすぐ地面へ向けられた。
「な、なに。今の音……」
地面が揺れている。さっきまでの群がりようが嘘みたいに、巨人が森の奥へと向かい始めた。唖然とするあたしたちの前で、上官が巨人たちの元に割って入る。いつもならすぐさま目の色を変えて飛びついてくるはずが、嘘みたいに通り抜けていく。どうして。あたしが考える間もなく、巨人が雪崩れ込んでくる。さっきの叫び声へ呼応するかのように、次から次へと巨人が奥へ走っていってしまう。
「総員、戦闘開始!!」
未知の動きをする巨人に驚愕で口を塞げないでいると意識の外で上官が叫んだ。その声に押され、あたしも巨人に向かってアンカーを刺した。全速力を出して巨人のそばまで向かう。ガスを贅沢につかってやっと辿り着いた先で無垢瞳と視線が交わう。さっき通り見向きもしない。何かお目当ての物があるみたいに、森の奥を見つめたまま、体を揺らしている。襲ってすらこない巨人の頸を屠るのは、恐ろしく簡単だ。問題はその量にある。前のめりで倒れた巨人の背に足をつけながら、こちらに走ってくる新たな巨人たちへブレードを構えた。
蒸気で視界が不明瞭な中、木の間を飛び回る。刃こぼれしたブレードを首筋に突き立てられれば、巨人が土埃を立てながら落ちていく。別の方向からやってきた巨人の頸を切り込み、その足で背後の腱を削ぐ。森の奥深くへ走っていく巨人の背中に歯噛みしながらも、それで精一杯だった。
全身を覆い焼き尽くすような熱蒸気の中、撤退命令が下された。終わったんだ。自分がぜえぜえと息を吐く音を聞きながら、使い物にならなくなった刃を地面が落ちる。同期の歓喜を聞きながら、あたしは一人でぼんやりと首をかしげていた。女型の巨人。あいつは、どうなったんだろう。あの深い森の奥底で、何が起こっていたのか。
結果が伝えられることはなく、あたしたちは釈然としない気持ちを抱えたまま、馬に跨るのだった。
帰還した調査兵団を待っていたのは、歓迎と程遠いものだった。罵倒や怒号が飛び交う中で、腐った野菜のようなものまで地面に落ちている。数多の猛者を失い、酷く惨殺された遺体を回収してきたあたしたちの精神は限界えているのだろう。もしくは、感覚が麻痺しているのか。どちらにしろ、騒ぎ立てる観衆に反論する兵士は誰一人としていない。
外套からはみ出た白い包帯。まだ少しよれているだけのそれを、俯きながら眺めた。違和感に目を擦ってみる。さっき。最後の休憩で、あたしは誰とも分からない片腕を布に包んだ。荷馬車を見る限り、それも巨人から追い付かれないために捨ててきたらしい。水で何度も洗ったはずたが、血がついているように感じて仕方ない。まだ腕は新鮮で、突き破った骨から血が滴り落ちていた。水筒の水を全て使って洗ったはずなのに、手が血で汚れているような錯覚に陥る。巻いている包帯に染み込んでしまったみたいに。
「この――!」
頬を冷たいものが滑り落ち、包帯に染みをつくる。赤の果汁がじわり、と滲んで白を汚していく。投げられた方向に首を動かせば、真に迫った表情の中年女性が仇にするような目であたしを睨みつけていた。腐敗したような酸っぱい臭いを発している頬の野菜を剥がして、地面に落とす。そのまま歩き出そうとして、再び頬が熱くなる。
「私の息子を返して!!」
憎悪を煮詰めたような瞳。懐かしいくらいのそれに、笑いが込み上げてくる。「……何、笑ってるのよ」こんなあたしでも、誰かを救って。壁外で殉職した誇り高い兵士に、あの子の代わりに。なれるんだと思ってた。思い込んでいた。
「何も、変わってない」
「は……?」
あたしは今日も、他人の命を奪って生き延びた。あたしより、何倍の尊い命が散っていった。ノエル・ジンジャーの身代わりになったのだ。人を救うはずのノエルが、他人の命で救われていいはずないのに。
分かんないよ、ノエル。あなたらしく振る舞って、あたしに出来る努力は全てやった。それでも、あたしは偽物だ。どうしたら、あなたの代わりになれるの。どうしたら、赦されるの。
「こ、この……悪魔!」
騒めきから解放されて、さっきよりも広くなった道を歩いていた。体が重くて仕方ないので、自分の部屋に入ったらそのまま寝てしまうだろう。せめて、水浴びくらいはしないと。忘れないように自分の頭の中で呟いていたら、視界の隅に見覚えのある肩が入ってきた。
「さっき、何やら揉めてたが……大丈夫か?」
「ううん、気にしないで。平気」
「そう、か」
ライナーが心配そうに眉を下げるので、首を振って口角をあげる。深く聞き返してこなかったことに内心ほっとして、視線を戻す。夕焼けに沈みかけている兵舎がもうすぐだ。