カタ、不動を貫いていたルークが前へ出される。攻めの一手に、ベルトルトの表情がより険しくなった。あたしも一緒に考えてみるけれど、さっぱりわからない。開拓地や訓練地にチェスなんかなかったはずだけど、二人は熟練者みたいに睨み合っている。故郷でよくやってたんだろうか。そばにいるポーンで取れそうだけど、ベルトルトがそうしないところを見るに悪手なんだろう。頭脳戦を見ていたこっちの頭が痛くなってきて、あたしは頬杖をやめた。脱力して机に身を預ければ、ちょうどいい冷たさで気持ちよく頬を冷やしてくれる。窓の格子から望める空は今日も晴天。こうも明るいと何かを隠していそうな気がしてきてしまう。差し込んでくる光に目を細めてから、首を背けた。
壁外調査から、もう数日が経つ。それなのに、壁外で見た景色は生々しく記憶に刻まれたままだ。壁外で追った傷も塞がらないうちに、新兵へ命令が下された。それは、ウォール・ローゼ南区の施設で私服待機をしていろというもの。期間も告げられず、大した娯楽もない。数時間前この建物に押し込まれたあたしたちは、早くも暇に忙殺されようとしていた。
「チェックメイト」
「うわ、ライナー。どうするの?」
項垂れて腕の隙間から様子を伺っていたら、ベルトルトが快心の一撃を放った。あたしでは到底思い付かないような一手である。
「お前ならどうする」
逆に聞き返されてしまい、言葉に詰まる。逃げようにもライナーが真っ直ぐに見てくるので、あたしはのろりと体を持ち上げてチェス盤を上から眺めた。
「……この、ナイトを前に」
「おいおい、それじゃ自分から詰みに行ってるようなもんだろ……」
「だって、馬好きなんだもん」
考え抜いた案を一蹴りされ、むっとして頬を膨らます。そう、馬が好きだからナイトを選んだのであって。決して、心からこの一手がいいと思っていたのではない。
「関係ないだろ」
「何も聞こえません」
「だってよ、どう思うベルトルト」
もうほっといてくれればいいのに。耳まで塞いで全力でそっぽを向いてやる。全身で距離をとりながらも、頼みの綱であるベルトルトの一言を拾うため、方耳だけは覆っている指の隙間を残しておく。
「ナイトは……ちょっと」
あんまりじゃないだろうか。そもそも、頭脳戦にあたしを引きづり出してきたライナーが悪い。ことの発端を睨んだら、もう盤に向かって次の一手を考えているらしかった。カタ、カタ、交互に鳴る音を聞きながら突っ伏してうたた寝を試みる。もうチェスなんか真っ平だ。ほぼ不貞寝に近いそれをして、やっと睡魔が回ってきた頃だ。
「おかしいと思わねぇか」
ライナーの声で微睡から引き上げられる。「くぁ……」あくびを噛み殺しながら上体を起こすと、席を立つライナーの背中が見えた。目尻に溜まった雫を指先で拭う。
「ここは前線でもねえ、壁の内側だぜ。何と戦うってんだ」
ライナーが窓辺から戻ってきて、隣に腰を下ろす。入団してすぐ壁外調査だったから気を利かせて休暇でもくれたのかと思っていたけれど、確かに言われてみれば妙だ。この施設に入った時から、朝に道案内をしてくれた先輩兵士だって武装していた。リヴァイ兵士長に次ぐ実力者だと呼び声の高いミケ分隊長の姿だってあったし、護衛にしては手厚すぎる。護衛するような脅威だって、存在しない。だとしたら、一体何から。
「うーん……」
「足音みたいな地鳴りが聞こえます!」
頭を抱えていたら、サシャが切羽詰まったような顔でそう訴えた。サシャの聴覚は頼りになるけれど、そんな足音が聞こえるはずもない。懐疑的な視線を向けるあたしたちに「本当です!確かに足音が」サシャが負けじと声を張ったところだ。窓辺から上官が顔を出し、巨人の襲来を告げた。
「直ちに馬に乗り、付近の集落や民家を回って避難させなさい。いいね?」
その問いかけに返事をできる人はいなかった。「壁が壊されたってことなのか」さっきまで纏わりついていた睡魔はとうに消え、目眩のするような恐怖が足元から這い上がってくる。ふらついて、前にいたライナーの服の裾を掴む。ライナーからさっきまでの表情は消え、額に汗を滲ませていた。
あたしたちはすぐさま早馬に乗り換え、地面を駆けていた。とり急ぎの作戦と班分けを頭に入れながら、気を抜いたら落馬してしまいそうなほど震えている体を保とうと拳に爪を立てた。「南に、俺の村があります……」抑揚なくつぶやくコニーをミケ分隊長は班長に指名する。後からライナーも班に加わることを表明し、心臓が痛くなった。コニーの言う通り、南には大勢の巨人がいるはず。できれば、回避して欲しいのに。あたしの考えも知らずに、ベルトルトまで賛同する。
「コニー。あたしも南に行く」
「お前まで……」
「危険なとこほど人手が必要でしょ」
突如として速度を上げた巨人たちをミケ分隊長が足止めしている間に、班はそれぞれの方向へ離散した。南班はコニーの指示に従って集落や民家を巡り歩いた。荒い呼吸をし始めた馬に申し訳なさを感じながらも、背を蹴って漏れなく尋ねて回る。南側だから既に到達していたのか、空き家ばかりだった。無事に避難してくれたことを祈りながら、最後の村に向かう。走り出してすぐコニーが全速力で抜けていってしまう。「コニー!下がれ」ライナーはそんなコニーを止めようと叫ぶけれど、全く聞こえている様子はない。そんな調子で走り続け、やっと見えてきた集落へコニーが真っ先に突っ込んでいく。ライナーがその後ろを追いかけていくので、並走するベルトルトと顔を見合わせてから、あたしも一緒になって駆け出した。
「あ……」
そこに広がっていたのは、話に聞いていたような村と正反対の光景だった。人の気配はなく、所々の民家は破られて、コニーが涙を流しながら呆然と見つめる先には奇怪な体系の巨人だけ。そこには、変わり果てた故郷があった。
「俺の故郷はもう、どこにもなくなっちまった」
「くっ……」
ライナーが無言でコニーの肩を掴む。あたしは、なんと口にすればいいかわからなかった。なんの前触れもなく、帰る場所が奪われたのだ。想像を絶するだろう心の痛みに、あたしは俯くだけで、どう寄り添うべきかわからなかった。
「全員逃げたってことだ。家族も、村の人も」
「そうか、そうですよね……!」
ここにくるまで血痕は見当たらなかったが、明らかに住居が破壊されている痕跡があったはず。コニーが縋るように声を出すけれど、あたしはどうも腑に落ちなかった。巨人が、誰もいない民家に興味を示すだろうか。
「これより、破壊箇所を特定しにいく」
考えに浸る時間は残されていなかった。そこらの木材で作った松明をベルトルトに手渡し、コニーの故郷から背を向ける。荒れ果てた故郷には、仰向けに寝そべった巨人だけがひとり残されたのだった。
「はあ、はあ、はあ」
どっぷりと全身に浸かった暗闇の中で、松明の光だけを頼りに歩いていた。巨人の顔がいつ飛び出してくるかわからない。そんな恐れで打ち震えながら前に進み続け、目の前の闇すら信じられなくなった頃。ついに壁の穴は見つからなかった。巨人が出現した以上ありえないが、穴を見落としたとも思えない。再確認するにも、朝から走り続けたあたしたちの体力は底を尽きていた。落胆する一行へ、月明かりが差し込んだ。差し合わせたみたいに、塔のような建物が浮かび上がる。運命に導かれるまま、あたしたちはその城で休息を取る運びとなった。
ウドガルド城と呼称されていたらしいそこは、想像していたよりも快適だった。運良く盗品が備蓄されていたのだ。まだ人の気配が冷めていない焚き火を囲んで、その場には重たい空気が漂っていた。コニーとサシャでさえ、黙り込んでいる。あたしが何か気の利いたことでも言えたらよかったのに。自分へ悪態をつきながら、配られた布の上で膝を抱きしめた。
穴のない壁、血痕のない荒れた村。答えが出そうにない謎で頭をぐるぐると回す。こう言うのは、アルミンとかマルコが得意なのに。心臓の空いた部分を思い出して、寂しくなる。普段こんなに使わない脳みそをフル回転させて吐き気さえ覚えたところで。
「コニー。お前の母ちゃん、巨人だったのかよ!」
ユミルが大口を開けて笑い出した。ちょっと珍しいくらいの大爆笑だ。背をのけぞらせて、しきりに笑ったユミルは「うるせえ!ブス!もう寝ろ!」コニーの怒りから出た一言で鎮火させられた。
何かの生き物みたいな風の音が塔に反響する。隙間風も捲し立てるように鳴いていて、どうにも瞼が下がらない。疲労は限界を迎えているはずだが、目を閉じても壁の穴とコニーの故郷ばかり過ぎって睡眠を邪魔してくる。巨人が壁を越えられるわけもない。なんらかの奇跡が起こって巨人が生まれた、とか。としても、どうやって。意味がわからない。
「寝ないのか」
諦めて与えられた毛布から体を起こすと、ライナーが蝋燭を手にしたまま、小声で話しかけてきた。下から見上げると、普段使っていない部分の筋肉が小さく悲鳴をあげた。
「寝れなくて。どこ行くの?」
「ユミルのとこだ、お前もくるか」
「行く」
どうせここで横になっていても、安眠は得られない。間髪入れずに返事をして、差し出された手のひらを掴んだ。そのまま引っ張り上げられ、勢い余ったのをライナーが受け止めてくれた。
「なんだよ、ライナー。夜這いか?驚いたな。女のほうに興味があるとは思えなかったが」
「ああ、お前も男のほうに興味があるようには見えんな」
「はっ。お前はあと、そこにいるヤツだろ」
半開きになっている木製の扉を押すと、箱の前に座り込んだユミルがこちらへ振り向いた。ライナーからあたしへと視線を滑らせてから、そう言って鼻で笑ってみせる。
「どういう意味だ」
「さあ、自分に聞けよ」
ユミルは再び置いてある箱に目を向けた。盗品を物色しているらしい。倉庫内にはそれなりの数の箱が積まれていて、手短な箱はすべてユミルが漁った後のようだ。中途半端に開けられた箱が残されている。
「コニーの村の件だが……お前わざとはぐらかしたよな。できればその調子で続けてほしい」
「あいつが家族のことで余計な心配しねぇように」ライナーに言われてやっと、さっきまでのユミルの態度に納得がいった。あの場では不自然なくらいのふざけぶりは、コニーに深く考えさせないため。「さあ、なんのことだ」ユミルは淡々ととぼけてみせるが、きっと事実だろう。あたしがアニも喧嘩していた時も寝不足を咎めてくれていたし、ユミルは優しいのだ。クリスタが主張している通り。
「こりゃいけそうだ……ニシンは好みじゃないが」
「他にもあるか。見せてくれ」
ユミルに見習って箱を物色してみるが、食料になりそうなものは何一つ出てこない。ライナーたちの会話を横目に、積まれている箱をずらして蓋を開ける。奥まで手を入れて漁ってみるけれど、缶詰めひとつも見当たらない。見たことのない文字のよくわからない包みに布やお酒ばっかりだ。適当に突っ込んだ指先をざらついた感覚がなでる。そのまま指で引っ張りあげると、鞘のようなものが出てきた。料理用の包丁だろうか。それにしては上質な皮を使っている。これも盗賊の戦利品なのだろう。埃ひとつ被っていない蓋を元の位置に戻したところで「何だ。この文字は……俺には読めない」ライナーの愕然とした声が聞こえてきた。
「ニシンって書いてあるのか――お前、よく……この文字が読めたな」
向かい合った二人の顔を、蝋燭の明かりだけが照らしている。箱に手をついて立ち上がり、ライナーが手に持っている缶詰を覗き込もうとして「全員起きろ!屋上に来てくれ!すぐにだ!!」差し迫った声が塔の中で反響した。
「なんで」
足に力を入れて、膝をつきそうになるのを堪える。屋上に召集されたあたしたちの元に広がっていたのは、巨人の楽園だった。人間を巨人から匿ってくれるはずの月夜を浴びながら、無数の影が塔に向かって悠々と近づいてくる。抗いようのない絶望が現実を飲み込もうとしていた。
「巨人が塔に入ってきてる!急いで中に入ってバリケードを作って防いで!」
上官たちが月の光で煌めく刃と共にの巨人の群れに飛び込んでいってすぐ、一人の影が屋上に舞い戻ってきた。リーネさんは差し迫った表情で「屋内では立体機動が使い物にならない。防げなかった時は、最悪……この屋上まで逃げてきて」と告げる。こんなにあっさり。恐怖で萎縮した心臓が、激しく鼓動している。屋上まで追い詰められたら、あたしたちに逃げ場は残されていない。妄想が現実味を帯びて、あたしの喉元を撫でる。
「生きているうちに最善を尽くせ!いいね?!」
「了解!」
他のみんなの返事が聞こえ、呼吸と心音のみの世界から目を覚ます。横にいたライナーが真っ先に走り出して、その背中を慌てて追いかけた。危ないくらいの勢いで駆け降りていくライナーを、ベルトルトと一緒になって引き止める。
「ライナー!ねえ、待って!」
「待てよ、ライナー!待つんだ!」
二人で大声をあげるが、ライナーにはまるで聞こえていないようだった。階段を下がった先で巨人と鉢合わせてしまうかもしれないのに。ライナーならその可能性を十分すぎるくらい承知しているはずだ。いくら止めようと、振り返る素振りすら見せずに下の階へと降りていく。
「クソ、このまんま降りてっても無駄だ。なんか武器になりそうなもんを探すぞ!」
「さっきの倉庫!あそこならきっと何かあるはず!」
階段を数段飛ばしながら降り切って、踊り場から繋がる通路へ走り出す。複数の扉から記憶に残っているものを押し開けた。雑に積まれた箱とさっきまでライナーが手にしていた缶詰が落ちている。あたしは目当ての箱の前に膝をつき、乱暴に蓋を開けた。一番上に置かれていたそれを手に取り、革の包みから中身を引き抜く。銀色の光が手の中で鈍く輝いた。それを手に持ったまま、膝を伸ばす。
「ここだああ!!何でもいいからもってこい!!」
どこからか、ライナーの雄叫びが空気を震わせる。その声が耳に入って、体が勝手に動いていた。燃えるような熱に操られているかのように、声の聞こえてきた方向を辿る。下層へ続く階段まで辿り着き、全身が凍りつく。そこには半壊の扉から身を乗り出す巨人と、必死に抵抗している二人の姿が見えた。
「ライナー!ベルトルト!」
「ノエル、そこどいてくれ!」
包丁を両手で握り締めたまま、駆け出そうとして肩を強く引っ張られる。私がいた場所に巨大な大砲がセットされ「ウオラァっ!!」ユミルが思いっきりその背を蹴り上げた。大砲は階段をなぞるように落ちていって、そのまま扉へ突っ込んだ。肉と骨の潰れるような音がして、あたりが静寂に包まれる。
間一髪のところで危機を乗り越え、どこか呆然とした気持ちで立っていた。大砲と木の残骸から巨人が這い出てくる様子はない。そこには不気味なくらいの静けさで、誰のともわからない荒々しい呼吸音だけが響いている。
「どうする?こんなナイフしかねえけど、うなじ削いでみるか……?」
「い、一応。包丁もあるけど」
知らないうちに固く握り締めていたようだ。赤く跡のついた手の上でコニーの眼下に差し出してみる。うなじを削ぐのだとしたら、刃先が長い分有効なはずだ。
「やめとけ。掴まれただけでも重症だ」
「と、とりあえず。上の階まで避難しよう!」
ライナーに諭されて、腕を下ろした。クリスタが声を上げ、そばにあった松明を手に取って階段を登っていく。ユミルもそれに続いた。ベルトルトは近くの箱を探ってから行くようで、何か手伝えることはないかと、足を踏み出す。
「コニー!」
クリスタの悲鳴で振り返る。そこには、何かに齧り付く巨人と苦悶の表情を浮かべたライナーがいた。「あ」カラン、と緩んだ手から包丁が抜けた。ライナー。目の前の光景が現実じゃないみたいで、ふらりと足が前によろめく。ぱき。ライナーの骨が軋んだような音が鮮明に聞こえた。
「ッうおおおおお!!」
ライナーが雄叫びを上げて、覆い被さっていた巨人の体が宙に浮く。真っ赤な鮮血を地面に滴らせながら、ライナーが一歩づつ階段を上がってく。「ライナー、まさか……そいつごと飛び降りる気か?!」コニーの声で、硬直していた体が熱を持った。踏み違えそうになりながら、階段を駆け上がる。
「これしかねえだろ!!」
「駄目!そんなの絶対、絶対に駄目!」
窓辺に踏み出した体へ飛びついて、腕を巻く。引きちぎれそうなくらい腕を伸ばして、前で指を強く絡める。
「っ、離せ!ノエル、お前も巻き込まれる!」
「離さない!」
ライナーが怒鳴るけれど、あたしのことなんかどうでも良かった。何があっても、このてを話すつもりはない。ライナーが犠牲になるなんて、絶対に。何があっても認めないから。全体重をかけて、ライナーの体を塔の中に引き戻そうとするけれど、びくともしない。そんなあたしを嘲笑うみたいに巨人が眺めてる。
「ノエル……!」
「待て!」
ライナーが痺れを切らしたようにあたしを呼んで、コニーが制止した。ナイフを取り出し、巨人の顎へと滑り込ませる。ぶちぶちと筋肉がたたれ、巨人の顎が外れた。「今だ!」すかさず腕を引き抜いて、ライナーに体を引かれるがまま距離を取る。くるりと身を翻そうした巨人はユミルの重い蹴りによって外へ放り出された。
ユミルが最後のつっかえ棒を扉に噛ませた。棒の根本を蹴り、十分な強度があることを確認してからみんなと顔を見合わせた。巨人が登って来ないうちに唯一の出入り口を塞ぐことができ、ほっと肩の力が抜けた。一息つくにはあまりに早計だけれど、巨人がもう入ってこないと言うだけで一先ずは十分だ。
「腕の具合は……」
「巨人に襲われたにしちゃあ、マシなもんだろ」
ライナーは軽く言ってみせるが、それで片付けてしまうにはあまりに痛々しい。さっきまで血を垂れ流していた箇所は青紫に腫れ、傷口が裂けて赤身がのぞいている。
「ライナー」
胸の内から込み上げてきた衝動に身を任せて、両腕を開いた。この場には合わない口笛なんかも聞こえた。思いっきり飛びつきたいのを堪えながら、ライナーの胸の内に体をすべらせる。ライナーが息を呑む下で、あたしは胸板に耳をくっつけた。倉庫で隠れた時と同じ鼓動が静かに時を刻んでいる。少しばかり早いようなそれは、途切れることなく響いている。ずっと苦しかった肺がやっと呼吸を受け入れて、鼻腔からライナーの臭いがした。
「……どうしたんだよ、ノエル」
ライナーは、ここにいる。じわ、と目の奥から滲んできた感情をライナーの胸板に発散する。なんであんな危ないことをしたのか、問いただしたいのを堪えた。ライナーは正しい人だから、自己犠牲を一切の迷いなく遂げられるのだ。本来はあたしがするべきことを、ライナーが代わってくれている。あたしのように偽りではないから、なんの迷いもないしあんなことができるのだ。
それが羨ましい反面、恐ろしくてたまらない。ライナーを失ったら、ベルトルトを、アニを弔ったら、あたしは呼吸の仕方を忘れてしまうだろう。それも、変わりきれなかった自分のせいで。
「ほんとに、無事でよかった」
「……ノエル」
「二人とも、治療に使えそうなもの持ってきたよ!」
最後にライナーの顔を目に映し、倉庫から治療に使えそうなものを取ってこよう。思い立ち上がったところで、腕に何かを抱えているクリスタが上の階から降りてきた。ライナーの隣を開けて、クリスタに譲る。自分のスカートを破ってまで治療に専念しているクリスタを眺めながら、壁にもたれた。
「こんな汚い布しかなくて……ごめん」
「ああ……」
なんとなくライナーの考えそうなことが頭に浮かんできて、呆れと微かな安心感が滲んでくる。一時期は本当にどうなるかと思ったけれど、無事で良かった。本当に。あのまま落ちていたら、その先は考えたくもない。
「戦士、って。なんのこと?」
「昔のライナーは、戦士だった」ベルトルトの言葉を小耳に挟んで口にすると、ベルトルトは少し遅れて「……うん、そうだ」妙に歯切れの悪い返事を返した。まだ動揺が残っているのだろうか。巨人に囲まれている状況に置かれれば、流石のベルトルトも動揺しているのだろう。
「じゃあ……ベルトルトと、アニも?」
「……ああ」
「ねえ、それってさ――」
岩の砕けるような音が塔を震撼させる。天井から石の破片が辺りに散らばって、振動の余韻を訴える。目の前のベルトルトと顔を見合わせてから、全員で轟音の発生源である屋上へ急いだ。脳が訴えている危険信号に反して、上へと登っていく。階段からやっとのことで抜け出した先。上官が真っ直ぐに並べられた足の前で膝をついていた。抉られたように半壊した屋上で、ついさっきまで呼吸していた二人の体が不自然な体で転がっている。手に冷たい石の感触がした。自分の体でないみたいに力が入らず、立つことさえままならない。「巨人、多数接近!」上官たちの死に悲しむ間もなく、森から巨人たちが向かってくる。逃げ場の絶たれた孤城で、あたしは言葉を失うことしかできない。月明かりはその青白さを絶えず発し続けて、取り残されたあたしたちを笑ってる。
「ぐおおおおお」
壁上に佇む獣の巨人が、あたしたちを嘲笑うかのように不気味な雄叫びをあげる。先の見えない暗闇が全てを飲み込もうとしていた。
――――
ストヘス区での攻防を終え、巨人襲来の伝達を受けた調査兵団はウドガルド城にほど近いエルミハ区まで辿り着いていた。慌ただしく主発の準備をしている兵舎で、エレンはハンジから告げられた言葉に息を呑んだ。裏切り者であるアニ・レオンハートには同郷がいた、その名をライナー・ブラウンとベルトルト・フーバー。
「これだけで何か決まるってわけじゃないけど……一応ね。訓練兵時代の三人の関係性が知りたい。どう思う?」
「アニがその二人と親しくしていた印象はありませんが……」
「が?」
語尾を澱ませたアルミンに、ハンジは鋭い眼光を細めて追求する。何かを呑み込むような間を置いてから、アルミンは再び口を開いた。
「ノエル。ノエル・ジンジャーという子が、その三人と仲が良かったんです。ノエルを含めた四人でなら、たまに食事をとっていました」
「ノエル……ああ、あの子か」
ハンジは数週間前の記憶を呼び起こして、相槌を打った。確か、自室まで書類を運んできてくれたはずだ。真面目で大人しそうな顔をしていて、超大型巨人についての受け答えも怪しいところはなかった。新兵が入団してくる時も、特段優秀だとかそういった噂とは聞いていない。
「……おかしいな。ノエル・ジンジャーはシガンシナ区出身と記されているんだが」
「開拓地が同じだったそうです。そこで、一緒に過ごしてきたと……」
「なるほど」
エレンは、目の前で交わされている言葉の意味がわからなかった。アニと同郷でなかったんなら、ノエルは潔白でいいだろ。アルミンの言う通り、アニを始めとした三人の橋繋ぎをしていたのは間違いなくノエルだ。けれど、すぐアニの機嫌を損ねて制裁を加えられているノエルがそんな、器用なことをできるわけがない。
「ノエル・ジンジャーとアニ・レオンハートの関係性は?」
「あの二人は、同期の中で一番仲が良かったです。常に二人でいました」
「私はあまり覚えていませんが……そう思います」
「ちょ、ちょっと待てよ」
頷く二人を前にして、エレンはついに声を荒げた。ミカサは兎も角、アルミンはノエルとそれなりに仲良くやっていたはずだ。それなのに、どうしてわざわざ容疑者候補に加える必要があるのか。エレンにはさっぱり理解できなかった。
「ハンジさん。ノエルは最初から調査兵団を志望するようなヤツで……疑う必要はないと思います」
「同感です。ノエルは何も知らずに……利用、されていた可能性が高いかと……」
「そうか……」
ハンジは顎に手を添えたまま、小さく首を縦に振った。ひとまずはノエルを容疑から外すことができ、エレンは内心ほっとする。まだ疑いの晴れない二人についても言及しようと、エレンは続けて口を開いた。
――――
「ああ、やられた……」
コニーがつぶやく。あたしは塔のへりから目を逸らしたくなるような光景を、何もできずに眺めていた。巨人の群れに囲まれた先輩が、新しい人形のように取りあわれ、血飛沫が舞う。叫ぶ声にも構わず、生きた体に歯が立てられる。悲鳴が聞こえる。先輩は、まだ生きてる。なのに、体は動かない。許しをこう声が、助けを。救いを求める声がする。
「やめてください、ごめんなさい許してください」
あたしは、動かない。
「誰か、誰か!たす、助け、ッいあああああ!!」
求められているのに、なにもできない。食卓の魚のように、先輩たちが端から食べられていく。
「ぁ、あたし、は」
"偽物"だから。あたしが、殺したから。死んでいく。みんな、死んでいく。
先輩の半身に巨人が齧り付いた。足も腕もなくなった体が、鮮血に濡れる。抵抗が止まり、痙攣してから無になった。
「殺した……」
かくんと膝が折れる。地面に体を打ちつけていたはずのところを、熱の持った手のひらに止められた。あたしの背を支えたライナーは顔を歪ませながら、遠くを見ていた。きっと、その先には獣の巨人がいた壁上。元凶である巨人の面影を目に映している。感謝するべきなのに、こんな時ばかり口内が渇ききっていた。先輩たちはみんな、食われてしまった。残されたのは二体の遺体と壊れた立体機動装置。丸腰のあたし達だけ。覆られない真っ暗闇な道筋に、絶句することしかできない。苦しさの中で呼吸して、ふと動かした先にライナーとベルトルトの姿が映る。このまま、塔が崩れるのを待つだけなら。なんの贖罪もなせず、悪魔のまま死んでいくのだとしたら。そんなの。
「コニー、ナイフを貸してくれ」
バラバラと外壁の崩れる音の中、顔をあげる。「何に使うんだよ、そんなの……」ユミルに手渡されたナイフが朝焼けの光を反射した。いつの間にか夜は開け、朝日が暗闇を塗り替えていく。
「おい、ユミル。何をするつもりだ」
「さあな、自分でよくわからん」
塔の淵へと近づいていくユミルの背に向かって、ライナーが呼びかける。ユミルは振り返ることなく答え、足を止めない。その手にはナイフが握られているままだ。ユミルは塔の淵までたどり着くと振り返って、クリスタを真正面から見据えた。
「お前、胸張って生きろよ」
瞬きをした頃には、ユミルの姿は塔の外に消えていた。「ユミル!!」クリスタがその影を追いかける。その先で、眩しいくらいの光と雷が落ちた。容赦のない突風が顔面にぶち当たり、不自然な光で目が霞む。その発生源には歪な体をした巨人がいた。塔の周りに絡みつく巨人を食いちぎって回ってる。巨人になれるのはエレンだけじゃなかった。頭だけはすんなりと目の前の光景を理解するけれど、なにもかも信じられない。ただ、ユミルの手によって葬られる巨人たちを眺める。どうして、ユミルが。なんで、そんなことを黙っていたんだろう。今の今まで。
「あ、」
足元の均衡が崩れ、塔の下を見下ろしていたクリスタの体が前に押し出される。あたしが反応する前に、ライナーの腕がその足を掴んだ。「い、痛!ライナー、足!」クリスタが痛みを訴え、間を開けてからライナーの手が離される。あのライナーも、動揺を隠しきれていない。
「クリスタ、お前は知っていたのか。ユミルが……巨人だったって」
「……知らなかった。いつも、近くにいたのに」
ライナーの問いに、クリスタは声を震わせながら答えた。「こんな、こんなことって……」苦しく吐き出された言葉に、あたしはなんの声もかけられなかった。ずっと隣で寄り添ってきたクリスタの失望は、あたしが軽率に同情していいものじゃない。
「正体を明かし、兵団に貢献することもできたはず……でもそうしなかったのは、それをできなかったから……なのか」
「できないって、どうして」
ライナーが独り言のように呟き、あたしもそれに追従する。あのユミルが他人に協力しなさそうなのは抜きにしろ、こんな重大な秘密を隠し通さなければならなかった理由。
「一体、ユミルの目的はなんなんだ」
きっと、あたしたちにはわからない。
「あっ!」
巨人を次々と蹴散らしてきたユミルの足が掴まれる。塔に捕まった体が、下から伸びてきた手によって引っ張られる。手をかけている壁が崩れかけて、ユミルは急に手を離した。その体は巨人の群れに落ちていき、他の巨人たちがそれに手を伸ばす。
「な、なんだ……まさか、塔が崩れること気にしてるのか?」
「そうだよ。巨人の力を、自分一人で逃げるために使うこともできたはず……なのに、そうしないのは――私たちを命懸けで守ろうとしてるから」
ユミルは巨人に囲まれて、伸びてきた腕に体を掴まれている。必死に抵抗しているが、四方八方にいる巨人がそれを許さない。振り払ってさっさと森へ行けば、簡単に逃げられるだろう。だけど、ユミルはそれをしない。クリスタの言う通り、ユミルはあたしたちを守るために戦っている。あたしが確信を得ている間にもユミルは段々と巨人に自由を奪われていく。髪にまで手をかけられ、身動きを封じされている。別の巨人がさらに近づいてきているのに、ユミルは動けない。
ただその光景を眺めることしかできないでいると、クリスタの背が動き出した。塔の端、へりに大きく足を上げて立ち上がる。
「死ぬな、ユミル!こんなとこで死ぬな!」
不安定な足場に構わず、クリスタは叫び続けた。コニーが足を抱き込んで抑えるが、全く構わずかぶりをあげる。普段からは想像できなかったような言葉遣いで訴えるクリスタを、ただ息を呑んで見つめることしかできなかった。
「こんな塔を守って死ぬくらいなら、もうこんなもん、ぶっ壊せ――!!」
巨人と硬直状態だったユミルが塔のレンガを投げつける。巨人たちから抜け出してすぐ壁面に飛びつく背中が見えた。視界が一段階下に落ち、足元が緩やかに曲がっていく。
「ひっ、落ちる!」
「お、おい。あいつ、本当に壊しやがった」
妙な浮遊感に全身が粟立ち、反射的に両側の二人を腕で引く。景色が斜めに傾いたまま、土埃が視野に登ってくる。来るべき衝撃に備え、ぐっと歯を食いしばったところで、影に覆われた。
「イキタカ、ツカアレ」
ユミルの髪の毛に死ぬ気でしがみついて、砂塵の中で転がった。地面に体が打ち付けられ、頬が痛む。明滅する視界の中、吸い込んだ砂利の味を「げほっげほ」地面に吐き出した。打ち捨てられた布屑みたいな状態から、軋む体を持ち上げる。視界の端から手が伸びてくる。その主はベルトルトで、目立った傷のない姿に胸を撫で下ろす。手を借りて立ち上がると、静けさが広がっていた。
「っあ……」
それを切り裂くように、パラパラと石の崩れる物音がした。崩れた塔の残骸から、のそりと巨人が顔を出す。「おい、ブス!早くとどめさせよ!」コニーが捲し立てて、じっとしていたユミルが動き出す。一体目の巨人にとどめを指した背後から、別の巨人に髪を掴まれた。ユミルの体が容赦なく地面に叩きつけられる。それが合図だったかのように、巨人たちが姿を現した。力無く倒れたユミルに群がり、好きなところに歯を立てる。白い蒸気の中で血が噴き出して、目玉のようなものが宙を舞った。
「ああ……そんな、くっ!」
クリスタが真っ先に駆け出していく。コニーが静止するけれど、一切構わずに飛び出していった。その背中をコニーが追いかけて、一度顔を見合わせてから、あたしたちも続いた。
「クリスタ!危ない!」
瓦礫の影から出てきた巨人を視認して、すぐに声を荒げる。巨人が飛び出して、クリスタへ腕を伸ばす。足を痛いくらいに動かし、前へ押し進める。
「逃げて!」
今度こそ、間に合わない。本能がそう告げたところで、巨人のうなじから赤が舞った。巨人を刈り取った影は近くの岩場に降り立つ。
「あとは、私たちに任せて」
その背中には、自由の翼がたなびいていた。
――――
ぽた、頭にあたった雨粒の感覚で顔をあげる朝までの色が嘘みたいに空が濁っている。絶体絶命の危機を乗り越えたと言うのに、まだ何か起こるとでも言いたげな天気だ。うんざりして、空から目を逸らす。軋む音が止んで、壁の上がみえる。安堵からくる疲労に身を任せていたら、頂上までついていたようだ。エレンに引き上げてもらっているライナーの隣で、あたしも壁の縁に手をかけた。
「ああ、イッテぇ……」
やっとのことで壁上に辿り着き、座り込んでいるライナーの隣で腰を下ろす。未だ吊り下げられたままの腕を覗き込もうとして、ライナーが心底痛そうに顔を顰めた。窮地を脱して、緩んでいた気が引き締まる。ライナーは怪我人だ。一刻も早く医者のところへ連れて行って、治療を受ける必要がある。
「代えの包帯がないか聞いてくるよ」
「いや、いい。そばにいてくれ」
すくりと立ち上がったあたしを、ライナーが呼び止める。つい先ほど変えたばかりだけれど、もしかしたら傷口が開いてしてまったのかもしれない。より清潔なものへ取り替えるに越したことはないだろうと思ったのだけど、ライナーはそれでも構わないようだ。疑問を残しながらも、ライナーに言われた通り膝を折った。
「大丈夫か、ライナー?」
「大丈夫じゃねえな。巨人に腕を噛み砕かれたんだ……本当に、まいった」
エレンが座り込んでいるライナーに向かって問いかける。ライナーは自分の顔に手を当て、深く息を吐きながらつぶやいた。ぽつ、ぽつ、と言葉を区切り、こめかみに汗を滲ませている。ここまで追い詰められている姿を見るのは初めてで、目を瞬かせてしまう。
「もう、ダメかと……」
「ライナー」
名前を呼んでもライナーの瞳がこちらに向けられることはない。あたしと違って、ライナーは今日だけで何度も死にかけた。どれだけの感情に苛まれ、どれだけの疲労が襲っているのか。手をとって熱を分けようにも、肝心の手は包帯に包まれたままだ。ガタイの良い体も今だけは小さく見えて、胸が苦しくなった。
「お前ほど強くてもそうなっちまうんだな」
「何言ってんだ。こんなのもう2回目だぞ。なあ、アルミン」
「え?」
下から上がってくるアルミンを引き上げながら言ったエレンの言葉に、ライナーが声をあげた。壁に手をついたアルミンも、唐突に呼ばれた自分の名前へ首を傾げている。私も何がなんだかわからず、ライナーの続きを待った。
「一度は巨人の手の中にすっぽり収まっちまったこともあるんだ」
「ああ……あの時……」
女型の手に、ライナーが捕まった瞬間。世界が全て止まったみたいだった。今日もそうだ。ライナーが窓から外に出ると言い出して、あたしがどれだけ取り乱したか。思い出したくなかった記憶に、苦々しい味が染み出してくる。これだけのことが立て続けに起こって、誰も失わなかったのは奇跡に近い。この奇跡がいつまで続くのか、考えるだけで嫌になる。
「既にもう2回も死にかけた……このペースじゃあの世まであっという間だ」
ライナーが自分に向かって言いながら、拳をつくって額に手をあてる。やっぱり、二人は憲兵団に行くべきだった。あたしが、あたしのために調査兵団なんか選んだから、ライナーたちを巻き込んだ。正義感と行動力のあるライナーが調査兵団に入ったらどうなるのか、考えたらわかることだったのに。「自分で選んだ道だが……兵士をやるってのはどうも……心より先に体が削られるみてぇだ」ライナーが苦し気に声を吐く。謝りたくて、でも、喉が言葉を通さない。
「まあ、壁を塞がねえことにはしんどいだのと言ってる暇もねえが……」
「ああ、お前二人の故郷も遠退いちまうばかりだからな」
「あっ……」
息を呑む音が聞こえて、目を動かす。ベルトルトの方へ向くと、視線が交わった。深緑の色をした瞳があたしたちを見下ろしている。いつもの変わらないはずなのに。なぜだろう。妙な輝きに、心がざわついた。
「何とかここで踏みとどまらねぇと」
「そうだよ、ライナー。故郷だ!帰ろう!」
今まで静観していたベルトルトが急に大きく手を広げて、一歩前に踏み出す。あたしに、ライナーに向かって声を張り上げた。「もう帰れるじゃないか」違和感のある光を瞳に灯しながら、あたしたちの前に膝をつく。
「今まで苦労してきたことに比べれば、あと少しのことだよ」
一区切りつけて、ベルトルトがあたしに視線を移す。あたしを目にするなり、少しだけ眉を下げてから、そのままの調子で続けた。
「……ノエルだって、ここにいるじゃないか。 一緒に……帰ると決めたんだろ」
「そうか……あともう一息のところまで来ているんだったな……」
「は?何言ってんだ、お前ら」
二人の目が向けられ、何がなんだかわからずに一人で狼狽する。だって、アニから聞いた話では故郷はもっと遠くで。何があと一息なんだろう。二人とも疲れてしまったのだろうか。疑問を口にしようとして「全員、集まれ!」号令によって遮られてしまった。
「壁に穴がないのなら仕方ない……一旦、トロスト区で待機しよう」
先遣隊の報告は、昨夜の結果と変わらなかった。やはり、壁の穴は空いていない。壁上で吹いている風が生ぬるく頬を撫で去っていく。わからないことだらけだ。まるで現実が真実をあたしたちから遠ざけているかのように、不穏な出来事ばかりが降り積もっていく。
「え……ライナー?」
釈然としない空気に息を詰まらせながら、一足遅れて歩き出したところで腕を引かれた。振り返った先にはライナーとベルトルトがいて、名前を呼んでも反応がない。固く握られた手が、離れる素振りもない。なんだろう。ずっと漂っていた雰囲気が、変貌しているような。
「エレン。ちょっといいか、話があるんだが」
あたしには何も告げないまま、ライナーがエレンを引き止めた。「なんだよ」振り返ったエレンにライナーが近づいて、腕を取られたままのあたしもそれにつられる。ベルトルトに目で助けを求めてみるが、表情も変えずに黙ったままだ。
「俺たちは5年前、壁を破壊して人類への攻撃を始めた」
ライナーは落ち着きを取り戻していたようで、淡々とエレンに言葉を告げる。
「俺が鎧の巨人で、こいつが超大型巨人ってやつだ」
「は……?何言ってんだ、お前」
「あはは、ライナー。こんな時にそんな冗談面白くないよ、ねえ、ベルトル……」
「な……」
ライナーが変な冗談を言うから、エレンが固まってしまった。ものの見事に滑ったライナーがおかしくて、ベルトルトに目を向ける。
「何を言ってるんだ、ライナー」
ベルトルトの表情はあたしが期待しているものと違っていた。そんなに酷い冗談だっただろうか。愕然とした表情のベルトルトはそう言って、ライナーの腕を引いた。その腕に掴まれているあたしの体も一緒に引っ張られて「え?」訳もわからず息を吐く。
「俺たちの目的は、この人類すべてに消えてもらうことだったんだ。だが、その必要は無くなった」
三人の間に挟まれて、ひとつの。ひとつの可能性が芽吹く。馬鹿みたいな仮説だ。絶対に、あるはずのないこと。
「エレン……お前が一緒に来てくれるなら、俺たちはもう壁を壊したりしなくていいんだ。わかるだろ」
「は?」
なんで。指が震えているんだろう。壁外にいる訳でもないのに。ガクガクと小刻みに揺れている自分の手が鬱陶しくて、上から思いっきりに押し込もうとする。「は……」視界に映された光景に、息を吐く。使おうとした片手も、同じように震撼していた。何かをあたしへ訴えてきているかのように。
「イヤ待て、全然意味わかんねぇぞ!」
「だから、俺たちと一緒に来てくれって言ってんだよ」
二人が話している横で「はぁ、はぁ、はぁ」酸素を求める魚のように口を開閉する。どうして、こうでもしないと呼吸ができないの。何もないはずなのに、おかしいところなんて。何も。段々とまともに動きすらしてくれない体が嫌になってくる。こんな不具合ばかりの体、捨ててしまいたい。
「急な話ですまんが、今からだ」
「今から!?どこにいくんだよ?」
「そりゃ言えん……だが、まあ。俺たちの故郷ってやつだな」
頭を締め付けるような痛みの中で、二つの単語が耳に残った。故郷。ライナーたちの。エレンも着いて来ることになったんだろうか。アニが了承するようには思えないけれど。あたしが一緒に行くと伝えた時だって、話を打ち切って夜まで話してくれなかったのに。
「で、どうなんだよ。エレン、悪い話じゃないだろ。ひとまず危機が去るんだからな」
「うーん、どうだろうな……」
エレンなら良いってことなんだろうか。なんだか、少し嫉妬してしまう。だから、さっきから汗が止まらないのだろうか。じわりと滲んだ汗が、頬を伝って地面に落ちていく。その伝う感覚が気持ち悪くて仕方ないのに。さっきから、ずっとそんな調子だ。「おーい、いくよー!」遠くから聞こえるアルミンの声に、答える余裕すらない。原因不明の不調に頭を悩ませていると、腕を組んだまま空を見上げていたエレンが、ライナーの肩へ手を伸ばした。
「お前さあ、疲れてんだよ」
そうか。エレンの言葉に、あたしまで腑に落ちてしまう。ライナーも。きっと、あたしの体も疲れているんだ。さっきのタイミングで、知らずの間に疲労が頂点まで達してしまっていたのだろう。何をしても指は震えたままで、汗は止まらない。心臓がこれ以上ないくらい煩くて仕方がないけれど、疲れからきた不調なら話がつく。
「なあ、ベルトルト。こうなってもおかしくないくらい、大変だったんだろ?」
「あっあ、……あぁ、ライナーは、疲れているんだ!」
「大体な。お前が人類を殺しまくった鎧の巨人なら、なんでそんな相談を俺がされなきゃなんねぇんだ」
エレンが疲労で錯乱しているライナーに向かって、呆れたように告げる。ライナーがここまで混乱するなんて。腕の治療だけじゃ足りない、ハンジ分隊長に言って、しばらくの休暇を申請した方が良さそうだ。
「そんなこと言われて、俺が「はい行きます」って頷く訳がないだろ」
エレンが言い切ると、あたしたちの間には風の音だけが残された。締め付けるような頭の痛みに耐えきれなくなって、痛む箇所に片手を持っていく。休んではいられないのに、あたしまで休暇を申請しなきゃいけなくなりそうだ。
「そうか、その通りだよな……何を考えているんだ、俺は」
ライナーに掴まれている部分が、ぎゅうと強く締め付けられる。痛いくらいに力が込められ、苦しげにつぶやいているライナーを見上げた。視線が重なると、ライナーの眉間の皺が強くなる。
「……本当におかしくなっちまったのか」
「とにかく街に行くぞ」
薄気味悪い沈黙が流れて「そうか」ライナーの背に光が差し込んできた。異常なほどに揺れる瞳が、黄昏の瞳があたしの姿を映している。
「きっと、ここに長く居すぎてしまったんだな……バカなヤツらに囲まれて3年も暮らしたせいだ」
聞きたくない。何にも、おかしいところなんてないはずなのに。自分の耳を今すぐにでも、塞いでやりたい。誰かが、頭の中でそうしろと叫んでる。なぜか、腕は固まったまま。まるで、動かし方を忘れてしまったみたいに。
「俺たちはガキで……何一つ知らなかったんだよ」
「あ……」
ライナーの目に、透明な雫が溜まっている。溢れそうになっているそれを拭おうとしても、体は言うことを聞かない。それどころか、何か訴えるように心臓の音ばかりを鳴らしている。
「こんな奴らがいるなんて知らずにいれば……俺は……こんな半端なクソ野郎にならずに済んだのに」
自分の腕に加わっていた力が解かれた。ライナーの手から離された腕が、雲の隙間から差し込んできた光に照らされる。目で見てもわかるくらい赤く染まっていて。なんだか、あたしまで泣き出しそうになった。
「もう俺には、何が正しいことなのかわからん」
あたしの腕を掴んでいた手を、ライナーが自分の首にかけられた包帯へ伸ばす。まだ直ってないのに、外そうとしている。それを止めようと、やっと体が前に一歩踏み出した。咎めるための声も出そうとして。
「ただ、俺のすべきことは自分の行った選択や行いに対し」
蒸気を纏った腕が、そこにあった。
「――戦士として、最後まで責任を果たすことだ」
違和感。さっきから意識のどこかで居続けたそれが、すとんと胸に着地する。同時に、つま先から全身へ痺れるような寒気が上ってきた。
「な、なんで……」
頭も全部すりつぶされてしまったみたいな感覚がして、自分がいつ呼吸しているかもわからない。幻覚だったらいいのに。頬へ当たってくる蒸気は、確かに熱を持っていた。
「ライナー、やるんだな?今、ここで!!」
「ああ、勝負は今。ここで決める!!」
ライナーがエレンの方へ踏み出して、銀色が光に反射した。
「っ!!だめぇッ!!」
あたしの叫びも届かず、回転した刃がライナーを貫いた。目に痛いくらいの赤がライナーの体から吹き出して、伸ばしたあたしの手を汚す。
「うッ……あ!」
「ぁ、いや……」
地面に何かが落ちる。あたしを撫でてくれていた手が、何度も励ましてくれた手が。ライナーの、大きな手のひらが。真っ二つに切り裂かれ、その断面を見せながらぼとりと落ちた。もう片方の腕には折れた刃が突き刺さり、血を滴らさせている。
「ライナー!ベル、」
あたしが顔を動かした先で、ベルトルトが地面に転がっていた。 「エレン、逃げて!!!!」刃を振り翳したミカサの体が、ライナーによって突き飛ばされる。ベルトルトは血を垂れ流しながら両手で必死に首を押さえ、ごほごほと血に溺れたような呻きを発していた。衝動のまま駆け寄ろうとして、ベルトルトがその場で膝をつく。
「ベルトルト!」
金色の光が目に刺さる。びりびりとその場を照らす色に、あたしはその場に崩れ落ちた。
「待って」
地面に落ちた染みで、頬を濡らす雫の存在がわかった。手をついて、縋り付くように二人の方へと伸ばして。あたしの声は届くことなく、雷鳴が落ちた。
体を押し除けるほどの突風で、そのまま座っていることもできずに吹き飛ばされる。地面を何度も転げてから、浮遊感が体を包んだ。ふっと飛ばされそうな意識を、擦りむけた頬の痛みが引き戻す。空を何度も踠いて、赤い手のひらが視界に飛び込んできた。
「あ、」
大きな手のひらが体を包む。目も開けられないような風の中で、同じように捕まっているエレンが見えた。鎧の巨人が顔を近づけてきて、その歪な口を上下に開く。
「ノエル!!」
最後に聞こえたのは、あたしの名前を叫ぶエレンの声だった。