あれは、いつのことだっけ。そう、あれは。悪夢をみた夜にベルトルトと会った翌朝。安定の味を保ったスープで喉を潤しながら、朝食をとっていた時だ。あたしは何の気なしに昨晩の出来事をアニへ話していた。特に相槌も返されないけれど、聞いてくれていると勝手に解釈して、前のめりで口を動かす。気が緩んでしまうほど、いつもの光景だ。
「裏切り者がどうこうとか言ってんだけど、アニ。何か心当たりない?」
笑っちゃうくらいに綺麗だった夜空の光景や、夜分の外出は見回りが殆どないというお得情報を話終えて、あたしはそこに辿り着いた。言うなり、今まで視線すらこちらへ向けてくれていなかったアニの瞳が動いた。
「は……あんた、本当にそう言われたの」
「え、う、うん」
思っていた以上の剣幕で問いただされ、温度差にぽかんとしながら頷く。何か不味いことでも言ってしまったんだろうか。怖くなって、持っていたスープの器を机に戻す。
「ベルトルトは、なんて」
「た、大切な人が裏切り者だったらどうする、とか」
「はあ……」
あたしが言ってすぐに、アニが深いため息をつく。心底うんざりしたような色をちらつかせたまま、目を伏せた。あたしが何かやらかしてしまったような気分で、どことなく気まずさを感じながら食べかけのパンを掴んだ。
「それで、あんたは」
「え?」
ぼそぼそと一人でパンを齧っていたら、アニに呼ばれた。乾ききっているそれをなけなしの唾液で咀嚼して、水で流し込む。
「あんたは、なんて答えたの」
アニはあたしを真正面に見つめて、答えを待っている。「あ……」昨夜の記憶がなくなったわけじゃない。むしろ、自分の答えは最初から知っていた。それなのに、すぐには返せない。声の出し方を忘れてしまったかのように、言葉が停滞している。
「あたしは……」
真っ暗に澱んだ意識の中にいた。なだらかな心地よさに身を任せていたら、何かが耳朶に触れた。夜空よりも暗い世界で、揺蕩いながら響いてくる呼びかけを探る。
「ノ、……」
前に、後ろに、見えない手を差し出して黒をかき分ける。ぼやけていた声の最初が微かに耳を掠めたようで、あたしはその方向へと進み出した。
「ノ、エ……」
もう少し。ひたすらにもがいて、音の方へと急ぐ。今自分がどこにいるのか。方向感覚も麻痺をしているけれど、構いやしない。声に導かれるまま、暗闇の中を彷徨う。
「ノエル!」
「ライナー……?」
「起きたか……よかった」
ゆるりと気怠さの中で瞼を持ち上げる。開いた視界の間からは目に痛いくらいの緑が飛び込んできた。漠然と眺めていたら、やっとぼやけていた視界が回復してくる。怠い体に鞭を打って、首をあげた。そこには、呼び声の主が鼻の先がつきそうなくらい近くでこちらを覗き込んでいる。
「お前が目覚めなかったら、どうしようかと……」
「う、うん?」
明確になった景色の中で、ライナーの腰についた立体機動装置をみつける。私服の上になんて、珍しい。規則では安全上の理由で、制服の着用を義務付けられているからだ。実際、この規則を怠った兵士が重大な怪我を負った事例もある。ライナーは、こんなに堂々と規則破りをする人だったっけ。
ぼーっとした頭を動かして、あたしと別の枝の上で座り込んでいる影を見つけた。ベルトルトだ。ライナーと同じく、私服のまま装置を着用している。その側には、一つの立体機動装置が転がっていた。
「すまん、手荒な真似をした……お前を連れて行ってやるにはあれしかなかったんだ」
「連れて……、」
停滞した体で上から落ちてくる木漏れ日に目を細め、ライナーの言葉を反芻しようとした。全身の血の気が引いて、混濁した記憶が目を覚ますまでは。幹を指が引っ掻き、本能が体を退け反らせる。確かに切り落とされたライナーの腕は、あれが夢だったみたいに元通りだ。何も言わずこちらを見ているベルトルトの首も、傷ひとつない。ライナーの血を浴びた手も、綺麗なままだ。
「あ、」
青紫に変色した自分の腕だけが、真実を映していた。
「跡が取れねぇよな……本当に悪かった。まだ、痛むか?」
「う、ううん……」
確認するために広げた腕を、ライナーが眉を下げながらそっと手に取った。指の腹で確認するように肌を撫でられ、どうすることもできずに首を振る。見た目こそ大袈裟になってしまっているが、痛みはしなかった。それよりも、ずっと重要なことが脳裏に過ぎって仕方ない。
「ハッ、ここまで来て恋人ごっこか?見せつけられるこっちの身にもなれよ」
ライナーに腕を取られたまま、声のした方向へ目を向ける。あたしより下には、二つの人影があった。仰向けに転がったまま、目を覚ます様子のないエレンとあたしたちを茶化したユミルだ。二人とも、体のどこかが欠けていて、骨と肉の詰まった断面から蒸気をあげていた。エレンなんか、両腕すら切り離されていて、すぐに治る予兆は見せない。ただ血の匂いが混じった煙をあげ続けている。
「恋人?何言ってんだ。俺のせいで跡がついてんだから当然だろ」
愕然と目を見開くあたしの隣で、ライナーはいつもの調子のまま話し続けている。ぶわ、襲ってくる悪寒があたしの指に込めた力を奪っていった。へなりと力を失った体が、木の幹にもたれかかる。「何か冷やすもんでもあれば良かったんだが……」跡の前でぶつくさと何か思い悩んでいるライナーの顔は、日常と、何ら変わりがない。むしろ、毎日が幸せだった訓練兵時代に戻ったような錯覚にさえ陥る。ああ。幻想に浸れていたら、楽だっただろうに。開く口を、止められない。
「ふたりは……」
「なんだ?」
「巨人、だったの……?」
向けられていた黄昏の瞳が、きゅうと小さく縮まった。腕に添えられていた手は離れ、そのまま、ライナーの顔の前に持っていかれる。ライナーの体が目で見てもわかるくらい小刻みに揺れて、何度も息を取り込むように肩を上下させた。
「ね、ねえ。べ、ベルトルトも、答えてよ」
重く落ちてくるライナーの影から首を動かして、懇願するようにか細く言った。ずっと足を抱えたまま、顔を埋めていたベルトルトがあたしに反応した。久しぶりに見たような気のするベルトルトは、酷く傷ついたような顔をしていた。
「ノエル、僕は……僕たちは……」
「まだ濁すつもりかよ。言ってやればいいだろ?僕たちはお前らの故郷を破滅させた巨人です、ってな」
「ユミル!」
「なんだよ、事実を言っただけだ」
ユミルの言葉が無慈悲に心臓へ突き刺さる。ベルトルトが声を荒げている姿が、どこか霞んで見えた。壁の破壊。全ての始まりは、二人からだったんだ。
「お前も、こんな状況で勘違いできるほど馬鹿なのか。聞いたって何も変わらねぇだろ」
「それとも、実は気づいてたのか?」くぐもって聞こえていた声が、唐突に鮮明さを取り戻す。降り積もっていた違和感の正体に、近づくなと心臓が警鐘を鳴らしている。一つの言葉が記憶の奥に押し込んでいたそれを引っ張り出して、真実を剥き出しにした。
ライナーはたまに、何かを隠そうとする。聞き慣れないような単語を言っては、アニに咎められていた。三人の間だけで伝わるのがなんだか仲間外れのようだったから、あたしも真似て見たら三人は凄い剣幕になってた。アニはもう言うなと釘を刺して、ライナーの足を踏んでいた。
ベルトルトはよく、あたしに謝ってくる。なんの前触れもなく、溜まった膿を吐き出したいみたいに。あまりに真剣だから、あたしも茶化すことができなかった。何を気にしているのか問いただしたら、曖昧に笑われて、また謝られたっけ。
「アニも、なの……?」
「ぉ、まえ、なんで」
空気を吸うことすらままならない口で声を出したら、俯いていたライナーの瞳と視線が交わる。そんな反応されたら、当たってるみたいじゃないか。いや、答えなんて知らなくてもわかってた。奥底に閉じ込めていた記憶の蓋が開き、全て思い出させてくれる。
女型の巨人に捉えられ、宙吊りのまま喰われかけた時。見間違えるはずがない、あの。灰色がかった碧色の瞳。あたしが大好きだった、アニの目の色。恐怖の中で、あたしの脳みそは正解を割り出していた。名前を呼んだ瞬間、自分の中にあるアニの面影と女型の巨人の姿が合致した。それでもなお、忘れそうとしていたのは、もう一つの違和感が現実になってしまうから。
「マルコは……アニが、みんなが、殺したの……?」
立体機動装置の検査で、アニが差し出したのはマルコのもの。確か、ジャンは立体機動装置も付けずに死んでいたのだと言っていた。立体機動装置は何かの衝撃で外れるほど脆くないことは身をもって知っている。訓練で何度地面に転がろうが外れなかった。死体のそばになかったのなら、誰かが奪ったとしか考えられない。できるのは、知性なき巨人ではない、知性を持った人間だ。
――ノエルは理解して呑み込むのが上手なんだよ。
いつかの、マルコの声が脳内でこだまする。笑ってしまいそうだ。いつもはなんの役にも立たない頭が、こんな時ばかりよく回る。ただの馬鹿でいられたら、幸せだったのに。当時のあたしには理解できなかったけれど、マルコの分析は当たっていた。だって、ほら。あたしが止める間もないうちに、残酷な真実を告げてくる。マルコには悪いけれど、やっぱり否定していたかった。
そしたら。あなたを殺した犯人が、世界で一番大切な人たちだって、知らずにいれたのに。
「ノエル、いい加減にしろ」
「っあ、……」
肩を力強く押さえつけられて、口端からくぐもった息が漏れる。木の幹がすぐ後ろにあり、身じろぎひとつままならない。目線を枝の外へと向ければ、巨人が地面に集まってきていた。視界を戻せば、眉間に深い皺を寄せたライナーがあたしを見下ろしている。あたしの体に覆い被さったライナーは、嫌なほど見知っているのに、まるで違う人のようだった。
「俺たちが裏切り者だと知って、何がしたい?立体機動装置すら付けてない、お前に……何ができる」
ライナーが何かに取り憑かれたように、あたしへ問いただす。「ライナー」側からベルトルトの咎めるような声がするけれど、肩に込められた力が緩む様子はない。
「じゃあ、なんで……なんで、ライナーは。ベルトルトは……あたしを連れてきたの」
微かに滲んできた痛みへ顔を歪ませながら、胸の内をぶちまける。三人の目的がエレンだということはわかってる。この場にユミルもいるとすれば、巨人の力を持っている人が目標なのだろう。この場にいる全員が巨人の力を持つ中、あたしは異質でしかない。自分の正体は、自分がよくわかってる。巨人の力なんて持っているはずもない、ただのちっぽけな人間だ。人を殺すことしかできない、人間だ。いつの間にか溢れ出した衝動が、ぼろぼろと雫を落として頬を濡らした。みんなと違って、あたしは特別じゃない。それが、情けなくて、恥ずかしくて、消えてしまいたい。
「あたし、何も。できないよ、最初からずっと」
あたしは何も変われなかった。訓練兵の頃に抱いていた都合の良い幻は、虚像に終わった。それどころか、何人も巻き込んだ。あたしが生きているだけで、他の人の命を奪ってしまうのだと、早く気づくべきだった。開拓地で、おじさんの自殺に加担したあの時から。あの子の代わりになると誓ったのに。あの子が生きていたら、こんな最悪は起こっていなかったのだろう。こんな風に、ノエル・ジンジャーが嘆くこともなかったのだろう。
あたしには二人が何を求めているのか、わからない。人質すら、なる価値もない。そんな、あたしをなんで。不思議でたまらなかった。だって。
「ライナーが、一番よく知ってるでしょ……?」
「は……」
ライナーの微かな呼吸音が鼓膜を掠める。出来損ないの世話を焼いてくれたのは、ライナーだ。訴えるような瞳で問いかけてみるも、ライナーは僅かに口を開いたまま、動かない。妙に生温い風が頬を撫でて、時は流れていることを教えてくれる。返答を待っていると、ライナーの体が再び異常なまでに震え出した。荒い呼吸と共にあたしの肩を押さえていた手が力無く落ち、木の幹に突き立てていた指に絡む。火傷しそうなくらいの熱が、あたしの手のひらを包んだ。片手をとられたまま、背に腕が回る。抵抗する間もなく。こつりと胸板に頭があたり、視界が闇に覆われる。肌に滲んだ汗の匂いがした。
「ノエル」
今までの認識が捻じ曲がって消えていく。ライナーは正義感の強くて、危険な役回りを真っ先に引き受けるほど勇敢で、良くも悪くもその行動を成せるほどの力を備えてる。仲間内で兄貴分と慕われるほど、頼りになる人で。あたしの認識は、みんなと代わりないはずだ。
「ノエル……」
目の前にいるライナーはまるで、真逆だ。迷子になった子供のように、あたしを呼んでいる。触れている体の厚みを感じられなければ、違う誰かに呼ばれているのではないかと錯覚してしまいそうだった。
「ゆるしてくれ」
掠れた音が、すぐそばで響く。息遣いひとつに掻き消されてしまいそうなほどの、悲痛な叫びが耳を焦がした。
「ゆるしてくれ、俺は。俺たちは、お前を利用していたんだ」
背に添えられた手があたしの体を押し付ける。ライナーの服に、あたしの涙が染み込んで色を変えた。否応なしに響いている心臓の鼓動は、最早誰のものかもわからない。壊れてしまったみたいに、なり続けている。
「ずっと、お前に死んで欲しいと思っていた。俺たちが、楽になるために……」
殺してくれれば、良かったのに。そうしたら、もっと犠牲者が少なかったかもしれない。それを、受け入れなかったのはあたしなのだろう。あたしが死んでいたら、ライナーはこんな風に怯えず済んだのだろうか。
「こんなことを、お前に言って良いはずがない。わかってる、わかってるんだ……だが、俺は……」
手に包まれた指をほんの少し動かしただけで、圧が増す。代わりとでもいいたげに、背中へ添えられた手の力が緩んだ。あたしは、ゆっくりと顔をもたげて腕の間から顔を出す。
「俺たちは地獄に堕ちる、だから。せめて、お前に……」
涙の膜の向こうで、震える瞳と目が合った。途切れた続きを待っていたら、黄昏が潤む。はくりと言葉を探るように開閉していた唇が、その表情を悲痛に歪ませながら叫んだ。
「お前にッ、ゆるされたい……!!」
ライナーがぐちゃぐちゃになった顔面を晒したまま縋り付いてくる。片手にあった熱は解け、腰が引かれた。一緒に溶けてしまいそうなくらい体を寄せて、ライナーの涙が頬に落ちてくる。あたしの五感はライナーに支配されてしまった。音も、匂いも、見るものも、全てがライナーを映してる。
「ノエル。約束をしたよな……」
約束。記憶の中で一度しかしたことのないそれに、あの日の厩舎が呼び起こされる。今思えば、あまりにも愚かで軽率なそれ。泣き出しそうなライナーに指を絡め、おまじないまでつけたりした。あたしはただ嬉しくて、アニとベルトルトにも約束を持ちかけた。あの時はどうして二人がライナーと同じようにしてくれないのか、不思議で仕方がなかったけれど。今なら分かる。約束は二人だけのものになって、果たされようとしている。
「俺たちの"故郷"に着いてきてくれれば、お前が、側にいてくれれば……俺は、救われるんだ」
ライナーがあたしに頭を擦り寄せる。いつも見上げてばかりだったから、変な気分だ。兵舎で使われている石鹸の匂いが、妙に不釣り合いだった。
「頼む……俺を、救ってくれ」
ねえ、ノエル。あたしは誰も救えなかったよ。それどころか、何人もの犠牲の上で呼吸をしてる。だけど、やっとあなたらしいことができる。深く息を吸い込んで、あたしはいつもみたいに微笑んでみせた。
「いいよ、ライナー」
あたしにも救える人がいたんだ。人類には遠く及ばないけど、あたしが救える最初の一人。偶然、人類の敵だったとしても、心優しいあなたならきっとこうするだろう。だから、何も間違ってない。他の仲間たち、殺された人々の顔が浮かぶのを心の奥底に押し込もうとして。
――ノエル。君が、好きだ。恋人になりたいし、結婚したいと思ってる。
マルコを殺したのはライナーたちだ。直前まで一緒にいた仲間を。あんなに信頼しあっていた人間を、物言わぬ肉塊に変えたのは。荷車に積まれた布の色が蘇ってくる。血生臭く変貌した町の跡、道に打ち捨てられた人の一部。小綺麗な布に包まれた、熱を失った体。マルコたちが焚き火に組まれて燃え上がり、人が焼ける臭いを教えてくれた。知りたくもなかった、それを。あたしは運が良かっただけで、あの炎の一部になっていたかもしれない。そのきっかけを作ったのは、きっと。目の前にいる。
――生きて……生きて。僕に伝えて欲しい。
あたしが伝えられなかったのも。
「ゆるすよ」
一度吐き出して仕舞えば、簡単だった。何を考えようと、あたしに選択肢は残されていない。あたしがノエルであり続ける限りは、ずっとそうだ。最初からわかっている癖に、どうして体は言うことを聞かないのだろう。
「約束、したもんね」
地に落ちていた自分の腕をあげ、ライナーの背中に伸ばす。今度は思った通りに動いてくれた。もう片方で頭を撫でれば、短く切り揃えられた髪が指の間を通っていく。
調査兵団には帰れない。壁内に、あたしの居場所はなくなった。あたしはライナーたちの故郷がどんなところなのか、何も知らない。ライナーがいるなら、そこがあたしの居場所だ。故郷に行くと、そばにいると、約束したから。
「一緒に、地獄に堕ちよう」
「あぁ」
そっと囁けば、胸の内であたしを見上げるライナーの目元が緩んだ。これが本当に贖罪と言えるのか、わからない。私という悪魔が一人にならないために、人類を裏切っただけなのかもしれない。でも、それで良かった。罪の余韻が解けて消えるまで、あたしたちはずっと。ずっとそばにいる。
「……嘘吐き」
ユミルがそう吐き捨てるのを、どこか意識の外で聞いていた。