島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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第29話 沈落

 

 硬い床で蹲りながら、眠たげな目を擦る。起きがけの体を蝕む痛みには、未だ慣れそうにない。暗い船内の天井を見上げて、小さく開いた窓から外を見ると、朝日が差し込んできていた。水上を進む代償は相変わらずで、気を抜いたら吐いてしまいそうだ。昨日から食事を与えられていないので、出そうにも出すものがないのだけど。胃の中に直接手を突っ込まれ、ぐちゃぐちゃに掻き回されているような感覚は起きている間ずっと続いている。どうにか眠りにつけば、誤魔化せるのに。太陽を浴びてしまった体は覚醒してしまって、少しの眠気も感じなかった。ずっと後ろ手を縛られた状態で、無理をした筋肉が悲鳴を上げ始めている。完全に舐めていた。壁内にある川と違って、海は果てしなく広がっている。まともに船に乗ったことのない自分が、海を渡る間を耐え切れるはずもなかった。「ぅ、う……」ガンガンなり始めてきた頭痛に、身を縮こませたまま呻いている時だ。掠れた視野に光が伸びてくる。そのまま辿ると、靴先が目に飛び込んできた。

 

「ら、ライナー。おはよう」

 

 仰向けになった体を腹筋だけでどうにか起こして、緩く笑ってみせる。昨日別れたばかりなのに、久しく会っていなかったみたいだ。あたしの現状を目にするなり、ライナーがこちらの視線に合わせるように膝を折った。

 

「すまん、ノエル。待遇ばっかりは、俺にどうこうできるもんじゃねぇからな……体は痛くないか?」

「平気だよ。ライナーが来てくれたから」

 

 鉄格子を握っているライナーの手に自分の分も重ね合わせたいけれど、縛られたままで伸ばせない。代わりに額をあずければ、冷えた手の甲が熱を溶かした。そうしているだけで、さっきまでの不調が嘘みたいになくなってる。

 

「あ、わ。ごめ。あたし、臭い、かも……」

 

 心地よさに惹かれたまま頬を擦り寄せかけて、理性が引き戻す。散々汗をかいて来たのに、もう何日も水浴びをしていない。そのことに気がついたのは昨日の夜。毛布代わりにでもしようかと服を脱いだ時だった。兵補行進を丸一日をした時と同じような、尋常じゃない人間の臭いが籠っていた。

 

「そうか?……むしろ、いい匂いだと思うんだが。癖になるって、やつか?」

「……なんか、変態くさいよ」

「お、お前が言ったんだろ……!」

 

 臭いからと言っているのに、遠慮なくクンクンと鼻を動かしたライナーがつぶやく。デリカシーのなさは変わらずだ。半目になりながら言えば、ライナーが薄暗い中でもわかるくらいに頬を赤らませる。

 

「見張りはいなかったの?」

「扉の前にな。ユミルに聞きたいことがあると言って来たんだ」

「私を密会のダシにするなんて、やってくれるな」

 

 こんなところで話してていいんだろうか、一抹の不安を滲ませていると、ユミルが茶化すような口調で横から口を挟んできた。さっき見た時はまだ目を瞑っていたはずだが、あたしたちの小声に起こされてしまったのだろう。

 

「ごめん、ユミル。起きちゃった?」

「は、こんなとこで寝るもクソもねぇよ。お前らがコソコソ話してやがるから気になっただけだ」

 

 恐る恐るした問いかけをユミルは鼻で笑ってみせた。手足の一本すら動けないユミルにとっては最も過ぎる反応だ。配慮不足を胸の内で自戒する。

 

「そいつを心配する前に、私の現状をどうにかしてくれねぇか?痒いとこがあっても掻けなくて不便極まりないんだが」

「悪いが無理だ。万が一巨人化でもされたら、船ごと沈む」

 

 鎖の擦れる音を鳴らしながら言ったユミルに対して、ライナーが重く突き返す。不満もわかるが、ライナー側たちから見ればユミルは脅威以外の何者でもない。塔の上でユミルがナイフを要求したように、自傷行為が引き金となるなら、こう用心深くなる理由も納得だ。

 

「ははッ、そうなったら傑作だな。四人分の力が海の藻屑か」

 

 その割に口輪をされていないのは、自ら体を明け渡したユミルへの慈悲なのだろうか。よく回る口から発される声は平穏だった日々となんら変わりない。

 

「やっぱり、あのジークって人が……?」

 

 ケラケラと笑うユミルの横で、あたしはそう声を潜めた。巨人をけしかけ、戦っていた上官たちを殺した獣の巨人。茶色の体毛に覆われた獣のような見た目からは想像がつかないが、目ぼしい人物は他にいなさそうだった。

 

「ああ、ジーク戦士長は獣の保有者だ」

 

 ライナーの返答で、疑いが確信に変わる。やはり、そうだ。只者じゃないことはすぐにわかった。あの人が先輩たちを恐怖の底に沈めて食い殺させたんだ。

 対峙したジークは明らかに異質だった。あの人なら、あの夜の惨劇を引き起こすのに躊躇いすらしないだろう。温度の感じられない、あの視線に晒される感覚を思い出すだけで血の気が引いてくる。

 

「あの時に何かされッ、」

「ううん。ただ、質問されただけ」

 

 ライナーが焦ったようによく確かめるので、あたしはすぐに首を振る。すると、鉄格子にかかっていたライナーの拳が緩んだ。エレンの父親が座標と関係するのか。ライナーを問いただそうとして、やめた。その場にいた人を全員追い出してわざわざ聞かれないようにした話を、あたしが掘り返してきたと知られたら何をされるかわからない。

 

「そう言えば、ベルトルトは?」

「寝たままだ。力の反動抜きにしても……疲れたんだろ」

 

 中途半端に開いた唇を誤魔化すようにして、また別の問いを口に出す。ライナーは目線を落とし、杞憂の色を浮かべた。四肢を奪われたエレンが巨人化できなかったように、巨人の力は本人の体と強く結びついているようだ。ベルトルトが超大型巨人なら、一回の巨人化でかなりの体力を消耗するのだろう。

 

「ライナーは平気なの?」

「ああ。体力には自信があるからな」

 

 無理をさせているのでは、と不安を過らせるあたしにライナーが笑みを浮かべて否定した。いつもの表情に、ほっと息を吐く。ライナーは無茶しがちだから、鵜呑みにはできないけれど。今はそれだけで充分だ。

 

「アニ。アニは……大丈夫なのかな」

 

 ライナー、ベルトルトときたら、アニを意識せざる終えない。つぶやいて、見つめていたライナーの瞳がかすかに揺れた。昨日の話が本当なら、アニは兵団に捕えられていることになる。あのアニがそう易々と捕まるはずはないけれど、激闘の末に負けてしまったのだとしたら。

 何が起こっていようと。必ずだ。あたしは、アニに会わないといけない。

 

「心配するな。俺たちで絶対に助け出す」

 

 間から入れ込まれた手があたしの肩を引き寄せる。あたしが何を思おうと、今はただライナーたちに任せるしかない。冷えた鉄格子に額をつけ、あたしは静かに頷いた。

 

「明日には俺たちの故郷……マーレに着いてるだろう」

 

 肩を抱いていた腕が降りてきて、腰に手をかける。眼前にはあたしと同じように鼻先を格子にくっつけたままのライナーがいた。マーレ。ライナーの影の中で、言葉を反芻する。ライナーたちの故郷。聞き馴染みのない響きが新鮮で、恐ろしさはなかった。

 

「着いたら、俺は。お前のとこにはいてやれなくなる」

 

 「必ずだ」手が強張ったかと思えば、ぐっと胸の中に囲われる。黄昏の瞳がすぐそばにあって、互いの吐息が耳元に触れていた。

 

「必ず、迎えにいく」

 

 数時間前と同じように、ライナーは喋り続けた。違うのは、あたしたちを遮る鉄とライナーの震えていないことだけだった。いつの間にか着替えていたらしい服から、嗅ぎ慣れない洗剤の香りもしてくる。

 

「全て終わったら――ずっと俺の」

「そばにいて欲しい。でしょ?わかってるよ」

 

 確認しなくたっていいはずなのに、何を不安がっているんだろう。揺れ動くライナーの瞳を捕まえて、笑ってみせる。ここ最近、ライナーの新しい一面を発見してばかりだ。良いことばかりではないけれど、それでよかった。

 

「あたし、待ってるね」

 

 その体格に似合わないほど目元を綻ばせて、ライナーがより一層力を込めてきた。もう一生離さないとでも言いたげに、強く抱きしめられる。「痛いよ」あたしが声をあげても「すまん」ライナーは悪びれる様子もなく、むしろ嬉しそうにつぶやいた。

 

 名残惜しそうなライナーを見送ってから、平坦な時間が過ぎていった。あたしやユミルが再び外へ連れ出されることもなく、ついに食事を配膳されることもなかった。あたしが吐き気に耐えきれず、上着にくるまって寝ようとする。それをすかさずユミルが妨害してきたり、し返そうとしたら先に寝られてしまったりして時間は簡単に流れていった。備え付けられた窓が夕日から夜空に切り替わる。

 どこまで行こうが変わりのない空を眺めていたら、二度めの朝が来た。船が一段大きな揺れと共に静止する。到着の余韻を味わう間もなく、武装した兵士たちが部屋に雪崩れ込んできた。抵抗する気はないので素直に腕を預けると、そのまま外へ連れ出された。

 

 外の世界は、奇妙な景色をしていた。海で香った時のような、塩っぽい空気。鉄塊のような船が何個も停泊している。壁内の貨物輸送船より、何倍も大きいものばかりだ。建物の風合いひとつが自分たちの異質さを際立たせている。あたしたちを連行している人たちと同じ制服を着た人が、忙しそうに作業していた。

 息を呑んで立ち止まっていたら、背に硬いものがあたる。あたしは慌てて、足を動かし始めた。前でユミルの茶髪が揺れている。あたしよりも多くの兵に囲まれたユミルは、あたしと違ってどんどん先へ進んでいく。見慣れた背中を必死に追いかけた。そばにはライナーも、ベルトルトもいない。船に向かって振り返りたくなる衝動を飲み込んでから、あたしはユミルの後に続いた。

 何人もの兵士がついている姿は、よほど珍しかったらしい。通行人の視線を一身に浴びると、まるで珍獣になったような気分だった。好奇の目に晒されながらも歩き続け、どことなく兵舎を思い出せさるような建物に辿り着く。こっちは資金が潤沢にあるようだ。兵団本部と似たような建物が立ち並んでいる姿は、圧巻だった。

 ほんの少し目を奪われてから、ユミルの後を追おうとして「お前はこっちだ」前に立ち塞がれた。あまりにも唐突なそれに、一人狼狽える。あたしとユミルでは、立場がまるで違う。いつかこうなるだろうとは思っていた、けれど。

 茫然と宙を辿った末に、人の間からユミルへ視線を投げかけた。あたしを止めた男の声で、首だけ振り返ったユミルと目が合う。かまされた口輪のせいで、別れの言葉さえ口にできない。

 ユミルの眼光が僅かに縮んで、「早く行け」兵士があたしの背に銃を突きつけて急かす。去り際のユミルの表情は、布に遮られてほとんど見えず終いだった。それでも、確かに笑っていたような気がした。

 

 

「お前らが悪魔だなんだと騒ぐから期待して見れば……お前らと何も変わらんじゃないか」

 

 別れすら告げられずに押し込まれた建物は、やはり兵団本部と似たようなつくりをしていた。孤独を噛み締める隙もない。似ているだけで右も左もわからない廊下を言われるがままに歩き続けた。やっとのことで二枚の重厚そうな扉にたどり着く。兵士が先にノックをし、返事が返すなりあたしの腕を強引に引っ張る。入ってすぐに、甘ったるい香水の匂いが鼻腔を刺激した。そこはいつかに訪れた、ハンジ分隊長の部屋と似ていた。深みのある色をした本棚、細かな装飾で飾られた豪勢な応接椅子。高く積まれた書類だけが存在せず、代わりとでも言うように位の高そうな服を着た男が窓の前にある椅子で太々しく座っていた。男は机越しにあたしの顔を見下ろしてから愉快そうに笑う。

 

「鎧が独断で判断したんだったか」

 

「はっ、そう聞いております」兵士の返答へ大袈裟なくらいのため息をついた男は毛先が巻いた口髭を弄りながら、ゆったりとした動作で立ち上がる。

 

「たかがエルディア人の分際で……名誉マーレ人などと地位を与えるからつけ上がるのだ。継承先を早く決めるべきだな」

 

 鎧。ライナーのことだ。継承って何を。わからないのに、問いただす勇気はない。なぜだろう。じっとりした嫌な汗が背中を流れていく。そんなあたしの前で男は足を止める。懐を弄って、底がグシャリと変形している箱を取り出した。男が唇に煙草を食むとそばの兵士が火をつける。咽せるような香水と苦々しい煙が部屋に充満すしていった。容赦なく振りかけられ「ゲホ、ゲホッ」体が拒絶するようにその場で咳き込む。品定めするような視線が体を這い回り、足元から熱を奪っていく。

 

「まあいい、取調室に連れて行け」

 

 なんとも気色の悪い沈黙のあと、男が言った。「ハッ!」兵士の敬礼が背後からして、束ねられた腕を掴まれる。膝の痺れもお構いなしに立たされ、半ば引き摺られるみたいに歩き出した。兵士が敬礼をしながら扉を閉める。その奥から突き刺さる男の視線は扉が完全に閉まるまで、あたしから離れようとしなかった。

 そうか、思えば。この時から歯車は狂い始めていた。ただあたしは、着実に壊れていく音を耳にしながら何をする術も力も持っていなかった。

 

 次に連れて来られたのは、真っ暗な岩で塗り固められた地下だった。同じ敷地内とは思えないほど随分と質素で寂れたそこに、わけもなく胸がざわつく。やがて扉が立ち並ぶだけの空間へ連れて来られた。その一つに押し込まれ、椅子に座らせられる。錆びついたランタンが中央に鎮座し、その向こう側にはまた別の兵士が座った。

 

「名前は」

「……ノエル。ノエル・ジンジャーです」

 

 把握している兵士の数、または個人の情報。所属年数が一桁も言っていないあたしが伝えられる情報は微々たるものだったが、尋問官は淡々と文字を書き連ねていく。聞かれたのは兵団組織のことだけでなかった。

 壁内人類の生活、信仰、食事に渡るまで。答えているあたしが何を書いているのか気になるほど、黄ばんだ紙が厚みを増していく。ついにはあたしの出生や人間関係にまで遡り、尋問は語る言葉を失うほど徹底的に続いた。何時間喋ったのかわからなくなってきた頃。酷使されて乾き切った喉のまま、地下へと連れて行かれた。鉄格子が立ち並び、その中で何かが蠢いている。目を凝らすと、それはヒトの形をしていた。

 

「いつ来ても不気味だな」

「巨人爆弾にされた奴はいつもこんなだぞ」

「ま、パラディ島の制圧が始まったら、コイツらともおさらばだ」

 

 人間が家畜のように扱われている光景を前にして、兵士たちは単なる与太話のように言葉を交わしている。薄暗い石造りの空間で、二人の声が反響していた。これだけの人間がいるというのに、不気味な沈黙がその場を支配している。壁についた明かりで微かに照らされた顔は、皆同じだった。歯を食い縛ったまま、虚な表情でピクリともしない。まるで、死人のように。

 

 悪いものでも遠ざけるかのように、一番奥まった牢の前まで辿り着くと、兵士が牢屋の鍵を開ける。ギイ、と鉄が軋む音を聞く間もなく、背を蹴り飛ばされた。「ゔ、」ボロ雑巾のように投げ捨てられて、額を打つ。じわじわ広がろうとする痛みを、体に重くのしかかった疲労が有耶無耶にする。やっとだ。ライナーたちと、ユミルと別れて、一体どれぐらいの時が経ったのだろう。鉄格子の影がついた子窓の光は、夕暮れを映していた。

 

「拘束しなくていいのか?コイツは島の悪魔なんだろ」

「俺もそう思うんだがな、グロス曹長の指示だ」

「あぁ、成程。コイツも運が悪いな……」

 

 微睡に意識を絡み取られ、硬く冷えた床に頬をつけたまま瞼を閉じようとする。長かった一日を終わらせようとして、狭まった視界に靴先が映った。

 兵士たちの敬礼が遠くで聞こえ、眠気をまとった首をもたげようとした。

 

「あ゙が、っ!?」

 

 朧げだった意識が強引に引き戻され、視界が赤く染まった。なんで。粘ついた液体がかまされた布に染みていく。見開いた目の先で、さっきの男が立っていた。曹長と呼ばれていた、男だ。

 

「は、!お゙ッ……ぎ!!」

 

 混濁する頭に重い一撃が加わった、脳みそがぐわんぐわんと揺れている。チラつく視界の中で抵抗しようと伸ばした手が床に打ち付けられた。容赦のない扱いに眉を顰める隙もなく、厚い靴底が踏みつける。「あ゙!」ギチリ。骨が軋み、その場で体をばたつかせた。転がったあたしの前に、影が落ちる。贅肉をつけた、髭面の男。

 男が何かを手で指示すると、別の人影がそばに来た。地面を這い逃げようとして、腕を絡め取られる。衝撃の余韻で大きく震えながら上下する肩が引かれ、前屈みの状態で固定された。頭の後ろにあった縛り目が抜け、唾液を含んだ布は地面に落ちる。久しぶりに与えられた自由な口を大きく開けた。

 

「ぜんぶ!あたしは全部話しました!」

 

 座標、エレンの情報も、全て。荒い呼吸の中で問いかける。踏まれていた部分が痛痒く、空気に触れて燃え上がる。あたしは捕虜として、素直に情報を提供したはずだ。こんな、拷問紛いのこと。する必要ない。なのに。男は下品な笑みを浮かべたまま、近づいてくる。

 

「話した?大した価値もない戯言を喚いただけだろ」

「は、」

 

 もはや、人としても扱っていないような言い方に、短く息を吐く。男の手があたしの髪の毛を掴み、引っ張り上げた。頭の上でブチブチと繊維が千切れていく。

 

「何百年も世界を脅かしてきた癖に、あの程度で許されるとでも思ったのか」

「脅かす?だれが、あたしたちが?」

「ハッ……」

 

 あたしたちは与えられた壁の中で暮らしていただけだ。自由を求めて巨人と戦っていた、だけ。意味のわからないことを喋る男に、鉄臭さの混じった声を吐き出す。男は何かおかしいことでも言われたみたいに小さく笑い飛ばして「ゔ!」頬が熱くなった。歯を食いしばって痛みに耐える。

 

「は、っ、は……」

「当たり前だろ。お前たちが存在する限り、平和は訪れん」

 

 緩んだ口元から嘆息が漏れた。湾曲する視界の中で、男は何かに取り憑かれたように煙草臭い息を吐き続けている。あたしたちの存在が、平和を奪っている?聞き返してやりたいのに、唇は震えるだけで声を乗せない。

 

「その当事者であるお前が、まともに呼吸していいわけないだろ」

 

 真っ黒な靴底が降ってきた。ぐぢゅ、と果実が潰れるような音が鼓膜を支配する。何度も与えられる感覚の間で、必死に酸素を取り込んだ。嗚咽と悲鳴が被さって、溺れそうになりながら空へ喘ぎ続けた。

 

「ぁ……」

 

 牢屋の鍵が閉まったのは、いつだっけ。惚けた視界の先に、月が映ってる。壊れた人形みたいに四肢を投げ出して、月光を浴びていた。

 僅かな呼吸ひとつで、体がバラバラになりそうだ。今にも張り裂けそうな肺を上下して、体が生きさせようとする。錆びた鉄を舐めさせられているか、喉奥に突っ込まれているみたいだ。だくだくと鼻から流れているそれを拭う気力なんかない。

 

「ら、いな……」

 

 あたし。あなたのことを、いつまで待っていられるんだろう。

 

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