島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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第31話 残夢

 周りに広がっている見慣れない景色で、すぐにあの女の記憶の中にいると分かった。視界は固定されているかのように動かせず、ただ目の前の光景を眺めることしかできない。二本の剣が重なったような紋章を背負った連中が横に並んで、古ぼけた木箱を運んでいた。真ん中には兄貴面をしたドベが大きな樽を背負っていて、その前を例の悪魔と金髪の女が肩を並べて歩いている。時折、例の悪魔が振り返ってちらりと心配そうな目線を寄越す。どうやら、大荷物を運んでいるドベが気になるようだった。「は」思わず、嘲笑が漏れる。女に心配されてるなんて、情けねえ。

 

「私のクリスタに下劣な視線を向けてんじゃねえよ」

「な、なんだ。ユミル、俺はそんなつもりじゃ……」

 

 過去の記憶に囲まれながら滑稽な男の背を追っていると、よく見知った茶髪が割り込んできた。数週間前に鎖で繋がれていた女。最初で最後の顔を合わせでは想像もつかないような、生き生きとした顔でドベに話しかけている。

 

「ん?ああ、アレを見てたのか。アレならいっくらでも見ていいぜ」

 

 最初は唸るような声を出していた女だったが、ドベの視線を辿るなりいい笑顔に戻った。どうやら、前を歩いている悪魔の背中に夢中だったらしい。「アレ、じゃなくてノエルだ」女の指摘に、ムカつくくらいの澄まし顔が僅かに歪む。否定しないあたり、事実のようだ。誤魔化すことしかできないドベの姿に溜飲を下げる。コイツ、女のケツを追っかけてたのかよ。興味本位で、盗み見られていたらしい悪魔の尻に目を向ける。身につけた腰巻きが歩くたびにその形を浮き上がらせるが、丸くて張りがあるくらいで大した魅力は感じられない。つまり、完全にアイツの趣味か。知りたくもなかった事実に、背筋がぞくぞくと震撼した。

 

「……そんな名前だったかもな」

「お前にノエルがなんかしたか?」

「ああ、常にな」

 

 女はやけにあの悪魔を嫌っているようだった。前は大して気にも止めていなかった。単にあの悪魔が気に食わないのだと、そう考えていた。実際に接触した今は――違う。俺もこの女に全くの同意見だ。

 

「アイツが大好きなお前にも、わかりやすく言えば……気に食わねえ」

 

 あの悪魔。ノエル・ジンジャーを夢見がちな女だと思っていた。ドベに騙されたばっかりに、仲間も故郷も捨てちまった哀れな女。愛とか恋とかいう、一瞬の気の迷いで帰れないところまで来てしまった奴だと。だが、違った。その正体は得体の知れない、何かだ。

 

「もっと言い方があるだろ」

「違わねぇよ。それとも、なんだ?大好きじゃなくて恋人の方が良かったか」

「……ノエルは妹分だ」

 

 この時からドベの思いは一方通行だったらしい。自覚してんのか、してねぇのか。誤魔化すように呟いたドベを「はあ?……へえ。そうかい」女が口笛でも吹くように茶化した。

 

「じゃあ、お前は妹に劣情を抱いてる変態ってことか」

「っそんな言い方はないだろ」

「だって、お前の言い分じゃそうなるぜ」

 

 言い訳を捲られて、焦燥感を滲ませているドベが兄貴を演じていなかった頃のアイツに重なる。自分の首を自分で締め、偽りを剥がされそうになっているドベは愉快以外の何者でもなかった。

 

「本当はヤることヤっちまってるんじゃねえのか?」

「揶揄うのはやめろ」

 

 嫌な笑みを浮かべて距離を詰めてきた女を、ドベが鬱陶しそうに肩で阻む。女の言い分は最もなんだろうが、無自覚でケツを追っかけてる意気地なしのことだ。何もできやしていないんだろう。

 

「可哀想に、生殺しかよ。当の本人は別の男に尻尾振ってるし、なぁ?」

 

 「あいつにはガタイがいい母親とでも思われてんじゃねえのか」女が顎で示した先に、女と別の背が歩いていた。さっきまでいたはずの金髪はどっかにいっちまったらしい。ドベたちが着ている制服を身に纏った黒髪の男で、親しげな様子だ。賑やかな笑い声なんかも聞こえてくる。談笑が盛り上がっているからか、荷物を運ぶドベを心配するのも忘れているらしい。

 

「心底同情するぜ、ライナー」

 

 蚊帳の外で遊ぶだけ遊んだ女が、わざとらしく眉を顰めてドベの肩に手を置く。図星なのか、ドベは何も返せない様子だ。男として、憐憫の念が胸を掠めないでもなかった。

 

 地下牢へ続く階段は、未だに蝋燭で照らされている。ランタンでも使った方が良さそうだが、こんな小規模の施設では古い習慣が残っているらしい。巨人爆弾を留めておくだけの場所には、これで十分ということだ。最後の一段を降りきると、前回同様看守の姿はなかった。それもそうだろう、この牢にはただ震えているだけの巨人爆弾になる予定者とちっぽけな悪魔の女しか存在していないからだ。監視するだけ無駄だと思ってしまうのも理解できる。床に音を立てながら、不気味な同胞の横を行く。臭いものを遠ざけるような、奥ばった場所で足を止めた。

 

「……ポルコ?」

 

 そういや、コイツに呼び方を訂正させるのを忘れていた。呼ばれ慣れていないせいで気が散るが、仕方ねぇ。今さら変えさせたところで、この女の性格だと余計な詮索をされそうだ。

 

「来て、くれたの?」

「まだ、生きてるの――」

 

「か、」青白いそれを視認してすぐ、喉がつっかえる。月明かりが差し込む牢の端で蹲っていた影は、目に痛いほどの白い肌を一糸まとわず曝け出していた。

 

「待って。ポルコ、行か、ないで」

「……なんだよ、俺は悪魔の醜い体なんて見たくないんだが」

 

 牢とは真反対の方向へと翻した俺の背に、悪魔の声が縋りついてくる。俺は足を止めてから、適当な言葉を吐き捨てた。僅かながら目に映った滑らかな鎖骨、肋の浮き始めた腹、ドベの期待通りだった尻が、目に焼きついている。何故か。心臓が、ガキみてぇに騒いでる。女の体を初めて見たわけでもねぇのに。

 

「そこの、服、とってくれたら隠すから」

「自分で取ればいいだろ」

「全然。体が、動かなくて」

 

 こいつは島の悪魔で、言うことを聞いてやる義理は少しもない。むしろ、このまま放置して死んでもらった方がありがたいはずだ。頭では完全にそう結論がついているはずが、自分の足先は立ち去ろうとしなかった。

 

「……ほらよ」

「ありがとう」

 

 視線を地面に落としたまま、鉄格子の近くでボロ雑巾のように落ちていたそれを、女の方へ投げてやる。静かな地下牢で、微かな布切れ音が響いた。何故だか落ち着かないそれを聞き過ごしてから「いいよ」悪魔の返事で顔をあげる。女の姿は大して変わっていなかった。上半身こそ薄いシャツで覆われていたが、その下から伸びしている足はまだら模様の痣を晒したままだ。

 

「ポルコは、優しいね」

「たった二回会っただけで、よくわかるな」

 

 人間がするような格好だとは思えんが、悪魔は満足しているようだった。前回同様、どこから出てきたのかもわからない感想を突き返してやれば、何度か大袈裟に咳き込んでから女が続ける。

 

「うん、わかる。だって、他の人たちはあたしをびしょ濡れのまま放置だもん」

 

 つくづく、運のない女だ。ドベに騙され、辿り着いた先は悪名高い曹長の管轄下。無意味な拷問を受け続け、死にかけている癖に。コイツの目を見る限り、まだ叶うはずもない幻想を信じているらしい。

 

「ゴボゴボ言ってた」

「……何がだ」

 

 悪魔がなんの前触れもなく呟いた。だらしなく不気味な笑みを貼り付けていた口が、固まる。視線が不自然にどこか虚を探ってから、床へ落ちた。「あたしの声だよ」妙に芯のくった声が答える。

 

「……ずっと、……息ができなくて……それ、で」

 

 「それが、面白いんだって……」どうやら、この悪魔は直前まで水攻めに合っていたらしい。例の曹長の趣味も来るとこまで来ているようだ。組織の中でも過激な治安当局から飛ばされてきただけのことはある。

 

「……ポルコ、も。ポルコは、面白いと思う?」

 

 無抵抗のまま水を押し込まれると、喋るのも一苦労になるらしい。他国で拷問を受けていた同志から聞いた話だ。喉に尋常じゃない負荷をかけられたせいで、焼けつくような痛みに襲われる。この女が痛みを感じなくなるまでぶっ壊れちまったのか、虚勢を張っているのかはわからない。どっちにしろ、俺には関係のない話だ。

 

「……グロス曹長の崇高な趣味は、エルディア人に理解できるもんじゃねぇだろ」

「そっか」

 

 「っけ、ほ。げほッ」鼻を啜ってから、悪魔はその場で激しく咽せた。陰気臭い静寂に包まれている地下牢で、悪魔の咳だけが反響している。他の牢には同胞が詰め込まれてるはずだが、不気味な静けさだけが残ったままだ。

 

「今日は……なんで来てくれたの?もう来ないと思ってた」

「お前が"また"とか言ってから、毎晩お前らの記憶を見させられて迷惑してる。どうにかしろ」

「えぇ……」

 

 適当な理由を取り繕おって理不尽に言い返すと、女は困ったように眉を下げた。子供でもまだマシな言い訳をするだろうが、真実を吐くよりはいい。なんで来たか?訓練を終えてから、自然と足がこの場所にたどり着いていた。それだけだ。自分の体のことなのに、なんでこんなとこに来ちまったのかもわからねえ。そんな体たらくを、島の悪魔に知られるわけにはいかなかった。

 

「だから、そんなに疲れてるの?」 

「顎の試運転をしてただけだ」

 

 この軍港へ来た目的がそれだ。いつもの上官様にしては慎重な判断だが、継承直後におっ死んで全てがパアになるのを危惧する頭くらいはあるらしい。

 今日はパラディ島制圧のために待機しているエルディア人戦士隊と演習だった。実践的なのは大歓迎だが、不明瞭な指示のせいで危うく同胞を殺しかけた。演習一つまともに企画できないのか、エルディア人の命がいくらでも湧いて出てくると思っているのか。力の調整をするために加減しなければならないとは、可笑しな話だ。

 

「大変なんだね。力を持つのも」

「13年間お預けを食らうよりは、こんなん大したもんじゃねぇ」

「お預け?」

 

 文字通り、箱入りの悪魔にはそんなことすら伝わらないらしい。わざわざ教えてやる理由はないので、俺は唇を閉ざしたまま、反応を待った。女は特に傷ついた様子も見せず、傾げていた首を戻す。骨ばった足に指をかけたまま、思い返すように言った。

 

「さっきの」

「なんだ」

「ずっと同じ夢を見てるって、やつ。あたし、解決できないかも。ごめん」

 

 ぎゅうと体を丸めた女が、髪の隙間から覗かせた視線を床に落とす。いきなり話しかけてきたかと思ったら、最初の話を間に受けて考えていたらしい。しおらしくなった女は「あたしもずっと、悪夢を見てたから」と続けた。

 

「……なんの、夢だよ」

「あたしの親友が、巨人に食われてる夢」

 

 すとん、と合点がいったような心地になる。そうか、コイツは始祖奪還作戦に巻き込まれていたらしい。ここまでくると、その運の無さに呆れすら覚えてくる。各国から非人道的だと批判され、敵国に多数の心身喪失者を出す程の攻撃を経験してもなお、こんなに脳天気でいられるのか。もしくは、真逆。とっくにぶっ壊れちまってんのか。

 

「あたしはただ横で見てるんだ、親友が……ぐちゃぐちゃになって口の中に詰め込まれていくのを」

 

 女が何もない空間に向かって、そう溢す。空っぽの人形みたいな瞳はその僅かな間だけだった。次にこちらへ顔を向けた時には元の薄っぺらい笑みを貼り付けていた。

 

「……お前は、俺たちが憎くないのか」

 

 じっと目を合わせていられなくなり、片足を擦るように下げると、単純な疑問が口に出ていた。女は何を言われてんのかわかんねぇみたいな顔で、ひとつ瞬きをする。

 

「お前の親友とやらを巨人に食わせることにしたのは俺たちだ。ベルトルトやドベなんて、壁を破壊した張本人だろ」

 

 記憶を見せられた時から、顔をつき合わせた時から。不思議で仕方なかった。行動原理が、自身のそれとは全く違う。島の悪魔なのだから理解できなくて当然だが、この不気味とも言える違和感を放っておくほどの余裕はなかった。

 

「壁内人類からしたら、ライナーたちは……憎むべき相手で。それこそ、悪魔だと思っているだろうね」

 

 「壁内は、窮屈だけど……楽しいところだったから」女が自分はそこに属していないみたいな、達観した言い方で答えた。

 

「……お前は、思ってないみたいな言い草だな」

「あたしは……何も知らない哀れな被害者じゃいられなかった」

 

 そこを指摘してやると、女は視線を落として青っ白い膝を手繰り寄せる。ひと息間を空けてから、そっと酷く重たい声を出した。

 

「あたしが憎む相手は、この世でただ一人だけ。それでいいよ」

 

 言い聞かせるみたいに言った女は、思い出したみたいに俺の方へ向き、だらしなく微笑んでみせる。記憶で何度も見せられた、アホっぽい笑い方だ。何かを隠そうとしているような、下手な誤魔化し方。

 

「何したんだ、お前」

「言えない。ポルコに嫌われたくないから」

 

 容赦なく突っ込んでやると、女は俺の問いを真正面から突っぱねた。取ってつけたような言い訳でも、カッと込み上げた熱を抑えるのに十分だったらしい。弱々しい姿を曝け出す女に免じて、話題を変えてやる。

 

「島の悪魔は元から嫌いだ」

「そうなの?」

「なんで、嬉しそうなんだよ」

 

 この女、目の前で一蹴りされたにも関わらず笑ってやがる。前任者の奴はマゾがなんだとかでコイツのことを弄ってたが、もしかして本当なのか。そういえば、やたらとアニに手を挙げられていた姿も覚えている。昔は一匹狼で何を考えてるかわかんねぇような奴だったのに、コイツの前では随分と感情を曝け出してたな。

 

「好きの反対は無関心らしいよ。嫌いなら、一歩前進かなって」

「んだよ、それ……」

 

 何を言うかと思えば、女は屁理屈を並べただけだった。マゾだかどうだかと言う前に、やっぱりコイツは頭がお花畑な馬鹿らしい。気が抜けて、乾いた笑いが漏れる。何を勘違いしているのか、女がゆるりと目元を緩めた。弾かれるように顔を上げ、牢の前から立ち去ろうとすると、再び声が降ってくる。

 

「またね」

 

 鼓膜にこびりついたそれが、その数日後も地下牢に足を向ける羽目になった原因であることは間違いない。

 

「ポルコには、お兄ちゃんがいたの?」

「なんで知ってんだよ」

 

 また別の帰り。女の元へ足を運んでやった回数が、片手で収まらなくなった頃だ。向かいの鉄格子に背を預け、腕を組みながら意味もねえ一方的な会話を聞き流していると、女がそう言ってきた。

 

「自分で言ってたじゃん、兄貴の真似事。とかって」

「チッ……だから何だ」

 

 ぼけーっとしてるかと思ったら、意外にめざといところもあるらしい。隠してたわけでもねぇが、この女に一方的に知られているのは気に食わなかった。

 

「お兄さんは何してるの?」

「もういねぇよ」

 

 質問ばかりする子供のように聞いてくる女へ、そう冷たく突っぱねてやる。俺が言い切るなり、さっきまでのお喋りが嘘のような沈黙が訪れた。どんな顔をしてやがるのか、確認しようと首を動かす。

 

「……なんで。お前がそんな顔するんだ」

「だ、だって……」

 

 女が剥げた指先を膝の上でせわしなく動かしてから、肩を落とした。瞳の半分を覆い隠す前髪から、痛々しいものに向けるような視線が覗いてくる。どうにも居心地が悪くなって、そのまま背を翻す。「……またね」必ず投げかけてくるそれに、返事はしない。地上へ上がる階段を、強く蹴りながら駆け上がった。

 やっと変な笑い方をやめたと思ったらこれだ。監禁され、無意味な暴力を受け続けているお前の方が、何倍も惨めったらしい癖に。

 

「まだ、……生きてんのか」

 

 この女と会ってから、一ヶ月ほどが経とうとしていた。月明かりに照らされてる物体を視認するなり、馴染みの言葉を口にする。別に知りたくもなかったことだが、体が転がっている位置で女の具合が大体わかるようになってきた。俺がくるのを待っているかのように鉄格子へ寄りかかっている時は、余裕がある。端の方で蹲っているのはイマイチで、今みたいに床で倒れてるのは死にかけだ。

 

「……生き、てるよ」

 

 相当こっ酷くやられたらしい。四肢を投げ出し、天井を見上げた状態のまま、女が力なく言った。その声は聞くに耐えないほど掠れていて、発するだけで喉を痛めそうだ。

 

「ら……、を……」

「なんだよ」

 

 人型をしていなかったら、靴底で踏まれた死にかけの虫と勘違いしていただろう。膝を立てようとしているようだが、床を滑って上手くいってない。指先に込める力すら残っていないのか。意識が曖昧で気づかないらしく、女は肌の擦れる音を何度も何度も繰り返している。

 

「ライナー、は。まだ、帰らないの」

「……知らん」

 

 しゅる、と何度目かわからない音がなって、女の足が伸ばされた。同じ動作を続けるのはやめたらしい。止んだ代わりに、今度は途切れ途切れの荒い息遣いが際立って聞こえてくる。

 

「きょ、は…なんか。鉄臭いね……」

 

 俺が何も言わないうちに女が、ぽつりぽつりと短く区切りながら話し始める。譫言とそう変わらない、一方通行な長げかけに答えてやるほどの優しさを、俺は持ち合わせていなかった。

 

「鼻水、止まんない」

 

 言葉の切れ目で、ズル、と女が鼻を啜る。女の鼻から垂れているのは赤黒い血だ。自分のことすらまともに把握できなくなったらしい。それを拭うことはしないまま、垂れてくるのを放っておいている。

 

「風邪ひいたら、ど、なるのかな」

「このまま死んだら……骨くらいは拾ってやるよ」

 

 風邪を引く前におっ死んでそうな女へ向かって、声を溢す。「はは」面白く感じるようなことは何ひとつ言ってねぇはずだが、薄っぺらい笑い声が返ってきた。使い込んだ箒の毛先と変わらないような髪を地面に擦り付けながら、女は首を動かした。

 

「なつかし、な……それ」

「は?」

 

 擦り傷や打撲痕の絶えない頬を細長い月光が照らしている。苦々しく歪んでいた女の口元が、ゆっくりと弧を描いていく。

 

「骨。拾ってね、それで。燃え尽きて、灰にもならないくらい。燃やしてよ」

 

 女は泣きそうな顔をしながら、笑っていた。真っ暗なだけの天井に、よろよろと細い腕を伸ばす。女の顎から伝った赤黒い液体が、床に落ちていく。

 

「あたしに、は。それが。相応しいから」

「……お前が死んだらな」

「叶えて、くれるんだ」

 

 糸を切られたように、女の腕が力なく下される。その動作だけでも堪えたらしく、女は大袈裟なくらいの深呼吸をした。

 

「やっぱり。優しいね、ポルコは」

「……やめろ。悪魔に言われても、気色わりぃんだよ」

 

 助けも、同情もしないで、ただ傍観している奴がこの女にとっては優しく映るのか。そのまま口にしようとして、開きかけた唇を閉じた。これだけ痛めつけられてもドベを待っている物分かりの悪い女だ。言ったところで、コイツはふざけた冗談をやめないだろう。女の呻きがするだけの、気味悪い沈黙が再び戻ってくる。俺は女から視線を断ち切り、歩き出した。女のか細い声が苦しげな咳に遮られる。

 死にかけの女を放っておいて、立ち去る人間のどこが。優しんだよ。

 

「ガリアード、顎の調整は本日付けで終わりだ」

「今日で、……ですか」

 

 全身に絡みつく繊維を断ち、頸から這い出ようとしていると、マガト隊長はそう告げた。急な話だ。顎の結晶化した口が前と同じくらい機能するか試していない。これまでの演習で、問題がないと判断されたのか。怪訝そうにしていたのを察したのだろう。マガト隊長が、顎から発される蒸気をかき分けながら頷く。

 

「ああ、そうだ。どうも中東の連中がきな臭い。一度本部に移動するぞ」

 

 マーレという国は敵が多い。中でも、国境を挟んだ先にある中東とは冷戦が続いている。きな臭いとなれば、巨人の力が動いたことを誰かが漏らしたとしか考えられない。始祖の奪還が急がれてはいるものの、船が出て既に二ヶ月経っていながらなんの吉報も無しだ。

 

「お前には……島の作戦が終わるまで奴等に睨みを効かせて貰わんといけんからな」

「了解です。マガト隊長」

 

 俺がもっと早く継承していれば、もっと早くケリをつけてやったのに。心の中で悪態をつきながら、特にドベの野郎に向かって重点的に言ってやって、隊長に言葉を返す。最初から期待などしていなかった。何年間も潜入して、島の悪魔一匹しか連れ帰られなかったドベのことだ。ジーク戦士長とピークがついていると言えど、足を引っ張ってやがるんだろう。このまま、パラディ島作戦の成功を待つのは愚行だ。それもどうやら、マガト隊長しか気づいていないようだが。

 静かに蒸気をあげ続ける屍の上から降りると、マガト隊長が煙草を取り出しているところだった。ジャケットに忍ばせてあるライターを指先で引っ張り出し、火をつける。

 

「……最近、ここの地下牢に入り浸っているようだな」

 

 薄灰色の煙が吹き出されて、巨人から発せられる蒸気と混ざり合う。大人の嗜みだとかで吸ってみたこともあるが、肺が腐っているような感覚がして、好みではなかった。ツンと苦い匂いが口に滲んきたところで「は……」やっと言葉を理解した。

 

「パラディ島の悪魔、か」

 

 心臓を掴まれたように、体が冷えていく。突如として異常をきたし始めた体で、頭だけは随分と冴えていた。

 

「ブラウンが捕縛してきたと聞いている。気になるか」

「俺、は」

 

 マガト隊長の鋭い双眼に貫かれ、声が詰まる。露出した内臓を弄られているかのように、取り繕おうにも言葉が出てこない。口内に広がった苦々しい味が、額に汗を垂らす。

 

「念願の顎を、継承させたくはないだろう。不審な行動は控えろ、ガリアード」

「申し訳、ありません」

 

 黒く濁ったものを吐き出すように、頭を下げた。腰を曲げたままの状態でいると、軽く肩を叩かれる。そうしてから、俺は顔を上げて歩き出した。注意で終わったことに安堵しながら、少し先を歩く隊長の背を追った。どうにも居心地の悪い感覚に唇を噛む。長い眠りから覚めたようだった。島の悪魔相手に、気でも迷っていたのか。隊長の言う通りだ。苦水を啜ってやっと手に入れた念願の力。それをわざわざ危険に晒すような真似を、したのか。エルディア人の密会を放っておくほど、軍の人間たちが無関心でないと知っていながら。何をやっていたんだ。島の悪魔を目の前にして、動揺してたのか。もくしは、記憶の影響か。わからねぇ。あの女、兄貴の記憶はみせねぇ癖に、余計なもんばかり流しやがった。

 ただの気まぐれだった。疲れていた。そう言い訳をつけて、忘れちまえばいいのに。役立たずの脳みそが、思い通りに動かない。「またね、」と飽きもせずに呪いをかけやがった女の顔がちらつく。胸に燻った名前もわからないそれを、唾と共に押し込んだ。

 

 次にあの島の悪魔を思い出したのは、それから何日も経った後だった。戦士長も、ピークもいねえ、空っぽな会議室で中東への対応を話し合っていた時だ。ノックもそこそこに飛び入ってきた兵士が、顔を真っ青にしながら報告する。「――軍港が奇襲を受けました!」聞き馴染みのある基地の名前に。俺は。




ライナーは尻野郎なのでどっちの尻もみてます
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