どこかから漂ってくる美味しそうな香り。冷えた風が二つの影を揺らしていた。
戴冠式から二ヶ月。シガンシナ区奪還作戦を目前に控えたエレンらは、女王が新設した孤児院の手伝いに来ていた。一仕事終えたエレンとアルミンは次々と流れ去っていく雲を見上げながら取り留めもない雑談を交わしていた。
「何やってんだ、あれ」
アルミンの話に耳を傾けていたエレンが、急に遠くを指差した。その先には風にマフラーを煽られながら、木箱のようなものを運んでいるミカサと子供の姿。
「馬に蹴られそうだったところを助けたら、懐かれちゃったんだって」
「ふぅん」
ミカサは構って欲しげな子供に一切目もくれず、歩いていく。子供が気の毒そうに見えるが、荷物を運んでいるのだ。立ち止まった方が危険だろう。どこか見覚えのある光景を、エレンが目を細めながら眺めていると、アルミンが口を開いた。
「なんか……思い出すな」
「何をだよ」
「ほら、……ノエルもあんな感じでアニにあしらわれてたから」
僅かに言い淀んでから、アルミンは続けた。ミカサと子供が、対人格闘でアニに散々あしらわれていたノエルの姿に重なる。一段重く沈んだ胸を抱えたまま、エレンが声を吐き出した。
「……裏切り者のことなんか考えてどうすんだよ」
夜遅くまでやった特訓、夢を誓い合った洞窟。共に乗り越えた適正試験。過去の記憶が、鮮明に蘇っては消えていく。最後はいつも同じだった。いつも呑気そうだった顔を別人のように歪め、肩を振るわせながら叫ぶノエルの姿。ライナーの手に導かれたまま腰を落とし、ぽつりと謝る声。
「……いや、僕は……」
低く呟いたエレンに、アルミンは顔を伏せて下ろしていた両手を緩く組んだ。その間から覗いている手の甲へ視線を落としながら、声を落とす。
「ノエルのしたことは……確かに、間違いなく人類への反逆行為だよ」
あの混戦状態で連れ去られた一般兵を気にかけるほどの余裕はなかった。帰還命令が出された後も助けに走ろうとしていたジャンを、止めたのはアルミンだ。その途中で巨人に襲われ、ジャンはそのまま気を失ってしまったけれど。目覚めたジャンが歯噛みしながら地面を叩き、アルミンは目を伏せるしなかった。どうにもできなかったと、自身に言い聞かせていた最中にエレンが語った真相。ほっとしたような、何とも言えない衝撃の余韻が、今だに尾を引いている。
「でも、思うんだ。ノエルには……選択肢がなかったんじゃないかって」
ライナーたちとノエルの関係が、ただの幼馴染で片付けられないのは分かっていた。あのアニが、ノエルのそばにいる時だけは雰囲気が柔らかくなっていたし、ライナーなんか、少し異常なくらいノエルの世話を焼いていたからだ。無口なベルトルトも、ノエルといる間だけは楽しそうに喋っていた。ノエルもそんな三人に囲まれて、幸せそうだった。
「ノエルの居場所は、あの三人のところだった。きっと、その逆も……そうだったんだと思う」
底抜けに優しく、心配なくらい大きな器を持ってるノエルのことだ。壁内に侵入してきた三人も受け入れた。自分が蹂躙した相手に受け入れられて、三人は戸惑ったはずだ。同時に、心地いいとも。
「エレンは。僕とミカサが、裏切り者だったら……どうした?」
「はあ?お前らは違うだろ」
「そ、そう。そうだけど、……」
実直に返してくるエレンへ、アルミンは困ったように眉を下げて声を濁らせた。自分は幸運だった。エレンは巨人の力を持っていたけれど、人類の味方だったのだから。もし、今までのが全部嘘で、大切な人たちが人類の敵だったと言われたら。自分の居場所がなくなってしまうのだとしたら。自分は、人類と。どちらを選んでいたのだろう。
「アルミン」
俯いたまま、動かなくなったアルミンの肩をエレンが叩いた。その勢いのまま、アルミンは顔を上げてエレンの横顔を目に映す。
「アイツは……裏切り者で。俺たちの敵だ。それでいいだろ」
何があろうと、ノエルはエレンの手を取らずに、ライナーたちを選んだ。俺たちや故郷、人類よりも、クソ野郎の手を取った。どうしてそんなことができるのか。エレンは理解できないし、したくもなかった。
「僕、思うんだ」
眉間に皺を寄せるエレンを前に、アルミンは目を逸らし、夕焼け色に染まりつつある空を仰いだ。
「僕たちは、ノエルのこと……何も知らなかったんじゃないかって」
――ッエレンに何がわかるの!なにも、なにも知らない癖に……!!
アルミンの声といつかの叫びが反響する。寄りかかっていた柵から腰を上げようとしていたエレンの体は不自然に固まった。あんな顔もするなんて想像できなかった。ノエルはアホっぽい顔でヘラヘラしてる奴だったからだ。
俺たちがそういう、ノエルのうわべしか見てやらなかったせいで、アイツの選択肢を奪ったのか。故郷を奪った仇と知ってもなお、俺たちを選ばなかったのは、代わりになれないと思われたから。居場所と孤独で板挟みにされて、あんな馬鹿な決断をするしかなかった。
エレンは腕を下げたまま、その場で掌を硬く握り締めた。爪が肉に突き刺さろうとお構いなしに、強く。
いや、それでも――やっぱり、アイツが悪い。ノエルは自分たちよりも、何の罪もない人々を瓦礫で押し潰し、巨人に食わせた元凶を選んだ。理由なんかあろうがなかろうがどうでもいい。アイツは俺たちと、人類を裏切った。それが事実だ。
もし、ノエルが立ち塞がるのなら、理由くらいは問いただしてやってもいい。ただ、何を言われようとノエルには報いを受けてもらう。それが友人として、調査兵団を共に志した仲間として、やってやれることだ。
「……今頃、何してるんだろう」
決意を固めるエレンの隣、差し込んできた光にアルミンは目を窄めた。空には、雲が絶え間なく流れていく。ノエルもどこかで、同じ空を見ているのだろうか。その先に少しでも幸せがあるのなら、アルミンはそう願うのを捨てきれなかった。
――――
どこかから漂ってくる鉄の匂い。暗く湿った場所で地に伏せて、ただひたすら孤独に耐える。ごく僅かな外の世界に、思いを馳せる余裕はなかった。
最初は、不思議で仕方なかった。周りに囚われている人影が確かに存在しているはずなのに、ここを支配しているのは、恐ろしいくらいの静けさ。他人と喋っていた方が気も狂わずに、この地獄を乗り越えられるかもしれないのに。ずっと来てくれていたポルコはある日を境にいなくなってしまった。その安否を知る術なはないが、ポルコの存在は知らないところで大きなものになっていたらしい。寂しさを堪えきれなくなったあたしは、暗闇にいる人影へ話しかけてみた。結果は、どう声を投げかけようと同じだった。あたしが島の悪魔だから話してくれないんじゃない。自分の存在すら消し去りたいかのように、沈黙を守り続ける。人間としての尊厳を捨て去って、ただの置物に成ろうとする人たちの気持ちが、理解できなかった。
「ほら、ちゃんと捕まえておけよ」
「はい」
後ろからあたしを拘束していた腕が、背中をトンと押す。浴びせ続けられた暴力で従順になった体は、簡単にその場で手をついた。
でも、今ならわかる。ここじゃあ、あたしたちは音の鳴る玩具だ。泣いたり、騒いだり、人間の真似事をする度にコイツらを喜ばせてしまう。どんなに助けを乞おうが、外に届くことはない。無意味だ。どうせ嫌でも叫ぶことになるのだから、この男たちがいない間くらいは唇を噛み締めていた方がいい。この現実から逃避したところで、何も変わらないのだから。
「は、はぁ……は、はぁ゙……」
差し出された工具を前に、何かを察した体が震え始める。明滅する視界の中に、強張った片方の手首が男によって固定されている様子が映り込んだ。もはや恒例となりつつある悍ましい銀色の道具と、指先に一枚だけ残された白い爪。あたしに残された最後の一枚。これを残したくて、許しを乞おうが、どんなに喚こうが、意味はない。できるのは、ただだらしなく口を開けて迫り来る痛みに備えることだけ。瞬きもしないうちに、指先へ力が加わった。全身を駆け回るような激痛、粘りついた赤い繊維が「ぁ、」ブチブチと剥がされていく。こちらへ見せつけるみたいに、ゆっくりと。新しく空気に晒された中身が空気に触れて、ビクビク脈打っている。熱い。喉が、全身が焼け焦げてしまいそうだ。体を折れそうなくらい丸め込んで、食いしばった口元から涎がこぼれた。まだ、半分だ。血を滴らせている取れかけのそれが、不自然に浮いていた。「ッはぁ゙、はぁ……!」込められている力が僅かに緩んだ隙に、みっともなく空気を求めて喘ぐ。唾液の絡まった喉で必死に酸素を取り込もうと、口を動かす。そうして、整いかけた呼吸を乱したのは劈くような激痛だった。
「ひぎ、!」
予想外の痛みに、悲鳴を漏らしながら崩れ落ちる。顔が床に打ち付けられ、鈍器で殴られたみたいな衝撃が頭蓋骨に響く。あの男の笑い声が、遠くで反響して聞こえてきた。額をつけたまま、痺れるような痛みに合わせて体を脈動させる。陸に打ち上げられた魚のようにびくびくと震えた。そのまま地面へ溶けてしまえたらどんなに楽だっただろう。ギチリと、骨が軋む。冷たい靴底が頭にあたり、頭皮を抉るみたいに擦り付けられる。少しも身動きの取れない状態のまま、甘苦いような煙が鼻腔を登ってきて、その場でえずいた。固定された視界の中で、どうにか上を見上げると優雅に煙草を嗜んでいる男の姿が映る。あたしの頬を床で擦ることは忘れずに、歪んだ笑みを浮かべたまま、不自然な香りの煙を吐き出す。一仕事終えたような雰囲気を醸し出す男に、動悸がおさまっていく。
調教された体は事の終わり、というものを感じ取れるようになっていた。補助役をしていた男の影が、私の背後から前に移る。もはや慣れ始めた気色の悪い好奇心の元に晒されつつ、どこかで安堵する。頭を踏みつけていた足が離れていき、微かに呼吸した。やっと今日を終えられる。生温い鈍痛を叫び続ける指先から、力を抜いて目を閉じようとした時だった。髪を掴まれたと思ったら、上に引っ張り上げられる。目の鼻の先には、吸いかけの煙草を片手で挟んだ男。そのギョロリとついた目玉が、あたしの一挙手一投足をも逃さないとばかりに動いてる。男は脂肪がまとわりついた頬を、大きく歪めてから口を開いた。
「お前の処分が決まった――絞首刑だ」
「…………え、」
自分の声が、遠くの方で聞こえてくる。わからない。この男は。一体、なにを。
「始祖の奪還が成功すれば、パラディ島浄化作戦が始まる。島の悪魔であるお前の死刑と同時にな」
さむい。さっきまで熱を上げていた体が、恐ろしいくらいに冷えている。なんで、わからない。
「これによって我がマーレ国は巨人の力の掌握を他国に示し、島の悪魔共から世界を救った英雄となるのだ」
男は、悍ましいこと高らかに言ってのけた。カクカクと震え出した視界の中で、幼い頃の、強烈に焼きついた記憶のかけらが蘇ってくる。あれは、市場に出かけた、その帰りがけだった。吊るされていたのは、一時期巷を騒がせていた泥棒とその家族。あれだけの騒ぎを起こしておきながら、全員の体はあばら骨が浮き出るほどに痩せていた。体を繋ぐ首が不自然なくらいに伸ばされていて、投げられた石にぶつかって揺れる。その下は酷く汚れ、悪臭が立ち込めていた。見せ物みたいに吊るされたそれは、虚な目をしてあたしを見てた。そう、だ。次はお前だと、言いたげに。あたしを。
「穢れた民族の末裔であるお前が、我が国の役に立てるのだ。もう少し喜べないのか?」
群衆の中で揺れる自分の姿が脳裏に過ぎり、喉から込み上げてきた感覚で口を抑える。あたしも、ああなるの。だらしなく舌を溢した、締められたあとの家畜みたいに。吊るされる。
「な、ん、……で」
ライナーは、迎えにくるって。違う。全てを望んでいたわけじゃない。船の上でしたように、鉄格子越しでも良かった。ただ、あたしは、ライナーのそばにいられれば。誰かの救いになるなら、それで。「チッ」忌々しげな男の舌打ちがどこかで鳴った。
「牢を汚すなと言っただろ?これじゃあ、堪え性のない犬畜生じゃないか」
一枚壁を隔てたような男の嘲笑で、下腹部に滲んでいる生温い液体の存在に気がついた。冷たい太ももを伝うそれが、布に染みていく熱が、気持ち悪くて、逃げ出したいのに。動かない。体が、バラバラに引きちぎられたみたいで、蠢いてる。
「は、はぁッ、は、はあ゙、ッ、あ、ぁ……あ゙!?」
全身に燃え上がるような激痛が走った。ただ、腹を蹴られただけなのに。「ぃ、!」そんなの、何度もやられてきた癖して、体が正直に反応する。今までのが嘘みたい。厚底が鼻先を捻じ曲げ、どろどろした血を垂れ流す。「ぎ、あ!」手で覆う前に、掴まれて。晒された顔面へ、再び影が降ってくる。「あ゙が、」苦しい。喉を思いっきり締め付けられてるようで、鉄の味ばかりして、息が吸えない。ぐわんと揺らめいている視界に、また。血濡れた拳が降ってきた。
「むかえ、……」
呼吸ひとつで、肺が張り裂けそうだ。悲鳴すらあげられなくなったあたしが、人の形をしただけの肉袋になって、何時間経ったのだろう。そのまま、夢であれと願いながら目を覚ました先は、やはり狭い檻の中だった。
「む、かぇ、に……」
細い光の筋が、天上を映し出していた。眩しいくらいのそれに、縋りつきたくて腕を伸ばそうとする。でも、駄目だった。死体みたいに凍りついた腕は、ぴくりとも動こうとしない。さっきまで激しく動いていた脳は嫌なくらいに敏感で、埃が落ちてくる感覚にさえ拾ってくる。
「迎えに、」
白い光を遮る縦長の影が、処刑台から吊るされる縄のように揺れていた。「あ」痛みを誤魔化すように動いていた唇を、半開きにしたまま置いてきぼりにする。
迎え。ライナーが迎えにきたら、始祖奪還作戦が成功したら。あたしは。名前も、人も、知らない土地で惨めな最期を晒すことになる。太い縄を首に巻かれて、好奇と憎悪の視線を向けられながら。逃げることはできずに、そのまま。現実に残った体は人々の悪意の元で傷つき、気の済むまま蹂躙される。中身のない屍となっても、血を滴らせていた、あの泥棒の体のように。
「や、……」
あたしが、吊るされる。何の意味もなく、他の誰も知らないところで、ひっそりと。それが、ノエルの。あたしの、終わり?そんなの。
「やだ……」
いやだ。だって、あたしは今まで、何のために。全てを捨てて、やっとノエルに成れると思った。誰でもいい、誰かの救いになれるなら、何だってよかったはず。それが、こんなところで。ただ、最期を待つだけなんて。
「ライナー。かえって、こないで」
指の隙間から、無意識にこぼれた。待ってるから、と。ライナーに囁いたはずの口で、拒絶する。
「ッ……っう、ゔ…ふっゔ!!」
腕は簡単に動いた。手のひらで顔を覆って、息すら漏れないように押し殺す。指の隙間から嗚咽が漏れ出るけれど、気にする余裕はなかった。
「ゔ、ぅッ、……!ふ、ッゔ、ぅう、……ゔゔゔ!!」
止められない悪魔の嘆きを、必死に黙らせた。引き攣っている喉奥へぐちゃぐちゃに詰め込んで、蓋をする。
「う……」
あの子を巨人に食わせた悪魔には、笑ってしまうほど相応しい死に方。あの子と、あの子が救うはずだった命を奪った代償として罪を受け入れ、静かにその時を待つべきだ。それが、孤独で。どんなに意味のないものだったとしても。ずっと、数年前から言い聞かせてきた。その時が、来たのだ。
「で、も」
――死にたくない。
痛みのない体で散歩がしたい、どこまでも広がる空が見たい、美味しいご飯を食べながら、無駄話をずっとしていたい。息を、していたい。
「エレン。ジャン、みんなッ……みんな、ぁ…!」
堰を切ったように、いるはずのない名前を叫ぶ。誰でもいい。エレンを取り戻しに来ていた時のように、誰か。この地獄から、連れ出してよ。あたし、このままじゃ、殺される。見せ物みたいに、殺される。
「だれか!!だれかぁッ、ねえ。たすけて……!!」
頬を冷えた雫が、流れてく。返事はない。いくら熱を上げて叫ぼうと、裂けそうな喉を動かそうと、なにも帰ってこない。そこにあるのは、無害な静寂だけだ。
「たすけて、ノエル」
ただ、死を待つことしかできないあたしを。愚かな悪魔を、救って。