島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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第33話 本性

 

 あれは、確か。トロスト区襲撃想定訓練に参加した時だ。トーマス班に配属されたあたしは、トロスト区に設置されている兵舎から訓練で使う備品を運び出していた。幸運にも、ライナー、アニ、ベルトルトと。いつもの三人組が揃っていた。重いものは力のある人たちに任せ、アニと並びながら木箱を運んでた。しばらくして、最後の班員であるフロックが忘れ物をしたと言い出したのだ。何かは忘れてしまったけれど、それは訓練に欠かせないものだった。引き返すにも、目的地はすぐそこで。どうしたものかと肩を落としたトーマスに向かって、あたしは手を上げた。みんなは荷物を持っているのだから、あたしが取りに行けばいい。そう告げてから、大して重量もない備品をライナーに任せる。やたら心配性なライナーを説得し、班長の了解も得て、あたしは兵舎に駆け出した。身軽な体で足を動かし続けていれば、兵舎へ辿り着くのはすぐだった。お目当ての物を抱えて兵舎を飛び出し、帰りも普段じゃ使わないような路地に飛び込んだ。みんなには言えないが、幼い頃に過ごしたトロスト区の地理くらいは把握している。危険だからと、パパには怒られてしまっていたけれど。訓練の開始に間に合うかの瀬戸際では、使ったっていいはずだ。案の定、その安易な考えが通りすがったガラの悪い男たちに絡まれる結果となった。

 

「お前は本格的に用済みらしいからな。息さえあれば何をしてもいいだろ」

 

 ぼんやり浮かんだ視界の先で、いつもの男が髭を蓄えた口を動かしている。あの男たちも、今みたいな臭い息を撒き散らして話しかけてきた。どうやら、税金泥棒と名高い兵団組織に不満を持っているらしかった。もしくは、手頃な獲物でも探していたのか。「なあ?」そうだ。あたしはこうやって、鳥肌が立つような手つきで顎を掴まれた。やめてください、とか。下からの態度で頼み込んでみたりもしたけれど、その男たちも離してはくれなかった。壁に押し付けられて、興奮した犬みたいな息遣いを吹き付けられながら、ベルトの下に指を入れられた。それが骨盤を一周して、あたしが不愉快な感覚にゾワゾワと震えていたら、そのまま下着ごと服をたくし上げられる。下卑た口笛が鳴って、自分の上半身は好奇の視線の元に晒されていた。三人いた男たちの中の一人だけ、やけに興奮していたが、他の二人は不健康な幼児のような体つきに興が削がれたようだった。倒れたまま腹を蹴られて、備品が床に散らばる。今思えば、それほどの痛みでもなかったが、その時のあたしにとっては永遠とも思える激痛だった。何度か遊ばれたら、男は満足したようで。一人、手も出さずにいた男へ譲った。地面を這いつくばいながら、逃げようとして、足首を掴まれた。仰向けにされ、獲物を前にした獣みたいに瞳をギラつかせている男が、あたしの体を弄ってくる。嫌な予感に大きく開けた口も塞がれて、諦めに目を閉じようとした。

 荒々しい呼吸のまま、胸に指を伸ばしてきた男は後ろから投げかけられた声に静止する。助けに現れた英雄ってほどの声量ではなかったが、その一言の効果は絶大だった。路地の間から、その長身をのそりと表したベルトルトは、まさか見つけるとは思わなかったみたいな不安顔をしながらも、臆せずに歩いてきた。男たちは突然現れた長身の兵士に、少しばかり威圧されているようだった。男の中の一人がそれでも逃げずに拳を鳴らしてきたところで、前のめりになって倒れた。代の大人、それも男が、突然倒れ伏す光景はもう見ることもないだろう。瞬きをしたら、全てが終わっていて、地面には男たちが散らばっていた。軽々と男たちをいなしたアニは軽く手をはらい、あたしはその小柄な背に抱きつこうとした。以外にも蹴りやらは降って来ず、胸を押し返されただけだった。本当に助かったと二人へ感謝を告げていたら、あとからライナーも合流して散々怒られた。中々帰ってこないので、トロスト区出身のトーマスが中心となって探してくれていたらしい。色々と危なかったこと、迷惑をかけてしまったことは理解していた。表面上はライナーの小言に反省しているように見せながら、胸の内では喜びが優っていた。三人が、助けに来てくれた。それだけが妙に嬉しくて、それを見抜いたアニに皮肉を言われちゃったりもした。本来なら、自分が助けに行く立場であるはずなのに、そんな矛盾は少しも気にならなかった。

 

「ん……?いつもの奴はどうした?」

 

 鉄製の台車がキイキイと悲鳴みたいな音を鳴らしながら入ってきて、幸せだった記憶に浸っていたあたしを現実に引き戻す。あの頃は、本当に良かった。どんなにヘマをしても、助けてくれる仲間たちがいて。あたしは、安易な偽善を振り撒きながら、その背中を追いかけるだけで良かった。

 

「さ、昨晩から姿が見えず……隊長には報告済みです」

「また脱走か。全く……エルディア人の分際で余計な手間をかけさせおって」

 

 自分がどんなに支えられているのか、理解などしていなかった。みんなが何とかしてくれていたから、ずっと偽物を演じられていた。誰かに助けてもらわないと、何にも出来なかった癖に。どうして一人で、他人を救えると思っていたのだろう。

 男が舌打ちをしてから、台車の上に乗っている工具を手に取った。爪を剥ぐときの道具とよく似てはいるが、形状が違っている。持ち手の先には上向きに曲げられた刃が付いていて、指くらいは簡単に切り落とせそうだ。「あなたは、……」腫れぼったい瞼を持ち上げて、声を吐き出す。

 

「何で……こんなことをするの?」

「何で?何でって……そりゃあ、面白いからだろ」

 

 男は少しばかり言い淀んで、赤ん坊みたいな無垢の瞳で答えた。まるで、それが当たり前かのように。自分が今まで何をしてきたのか、自覚すらできていないようだった。

 

「お前らみたいな化け物が、人間みたくぎゃあぎゃあ喚いてるのが面白いんだよ」

 

 狂い切ったことを理路整然と喋る男に、場違いな安堵が広がってくる。抵抗できない人間を殴りつけ、無意味に爪を剥がす行為が、正当な理由によるものだったら。あたしは、おかしくなっていただろう。

 

「ああ、でもそうだ……これは俺の、復讐なのかもしれないな」

 

 手首を拘束する気持ちの悪い人肌に肩を震わせていると、男は思い出したように呟いた。あまり良い響きとは言えないそれに、寒気が足元から這い上がってくる。

 

「十年以上前だ。俺の父は反逆者共を楽園送りにするため船に乗り……そのまま帰ってこなかった」

 

 男が口髭を弄りながら、片手に持った工具を手持ち無沙汰に揺らす。その視線は不自然に宙を写したまま、口を動かし続けていた。

 

「数ヶ月後に調査船が出されたが、戻ってきたのは骨だけ……結局。あの時、何が起こったのかは謎のままだ」

 

 「ただ、一つだけわかることがある」男は指を動かすのをやめ、澱んだ色の瞳をグルリとこちらへ向かって動かす。一歩前に足を出して、体を近づけてきた。ここ数ヶ月で、痛みを刷り込まれた体が大袈裟なくらい反応する。男は肩を跳ねさせたあたしを前に、歪んだ笑みを浮かべた。

 

「俺の父親は、島の悪魔(お前たち)に殺された。だから、これは真っ当な報復なのだよ」

「知らない」

 

 無意識のうちに、乾いた唇から声が漏れていた。「あ?」男が間抜け面のまま、口を開けている。今から訂正したって、されることは変わらない。数分後には、何本かの指が床で転がっていることだろう。それなら、何を言おうが同じだ。近々死刑になるのなら、尚更。今までは悲鳴以外の声を上げることなんてなかったからだろう。男の微かな動揺が瞳から伝わってきて、いい気味だと思った。止められない体の震えはそのままに、ずっと腹の底で抱えていたものを吐き捨てる。

 

「知るわけない。あたしたちはただ、壁の中で暮らしてただけ、」

 

 あたしも、みんなも。世界がこんなに広かったことすら知らされず、与えられる平穏を享受していた。狭い鳥籠の中で、何も知らずに暮らしていただけなのに。

 

「あなたの父親なんか、殺してない」

 

 ありもしない罪を着せられて憎まれる理由なんて一つもない。こいつらは罪だの復讐だのと謳って、意味のない理論を被せ、己の欲求を満そうとしている。

 

「あれだけ言ってもまだ分からんか……」

 

 男は大袈裟なくらいのため息をしてから「よし、体を抑えとけ」空いている方の手で、背後にいる男へ指示した。警鐘を鳴らす体が、意識の外で無意味にばたついてる。それを生温い熱の感覚が、肩を上から強く押さえつけた。何かを期待してたわけじゃない。ただ、この男相手に声を上げたことはなかったから。芯から凍りつくような冷たさが、悪寒と共に登ってくきた。でも、何の意味もなかった。この男は、何も聞いてない。周りの人たちと同じ、ただの木偶だ。「はァ、は、は……!!」視界が点滅して、誰かの呼吸がすぐそばから聞こえる。指を挟んだ刃が、降りて。それで。

 

「ぁ、」

 

 天井が、落ちてきた。 

 

「なんで……あたし、」

 

 真上に、ぽっかりと開いた穴があって、絶え間ない光が全身に降り注いでいる。目が眩みそうだけど、離せなかった。いつもの小窓より何倍も大きいそこから、空が広がっていた。さっきまでの耳鳴りが静かにおさまっていく。その代わりに、緩やかな鼓動が、自分の小さな息遣いが、息を吹き返したみたいに響いていた。

 

「何が……」

 

 最後に映ったのは、土砂のようなものが真上から崩れてくる光景。再び瞼を開けた時には、肺を押しつぶすような重圧と暗闇だけだった。その隙間から一筋の光を求めて這い出た結果、ここにいる。周囲を見渡すも、すっかり土砂で押しつぶされていた。他には、自分が出てきた瓦礫の穴と、仰向けに転がった人間の体。男の指示を受け、あたしを拘束していた男だ。前後ろにいた体が、人間の壁となってあたしの体を守ってくれたらしい。背後からまともに衝撃を喰らった男の体はぴくりとも動かず、擦り傷をついた頬の上にある瞼は力無く閉じられている。

 

「は、」

 

 何が起きたのか、何が起こっているのか。何も、分からない。曖昧に垂らしていた腕で自分の体を引き寄せた。現実の熱がじわ、とつたわってくる。頬を撫でる新鮮な空気。ほのかに混じった硝煙の匂い。ついに気が狂った末の夢にしては、鮮明だ。

 

「いき、てる……」

 

 何も、分からないけれど。そんなことはどうでもよかった。体を丸め、手のひらへ痛いくらいに力を込める。欠けている指が一つもなくて、臭い息を吐く男もいない。ずっと流れていた沈黙は破られた。あたしを阻んでいた檻の半分は瓦礫に埋もれ、その先から自由の光が差し込んでいる。熱くなった目頭から、頬を雫が撫で落ちていく。

 

「あたし、生きてる……」 

「おいッ……!!」

 

 どこかでつぶやいて、ずり落ちそうな服を抱き寄せたまま空を仰いだ。伸び切った前髪の隙間から、眩さに目を細める。はくり、と息をしようとして「おい!!」唸るような怒鳴り声に遮られた。

 

「え……?」

 

 声の主は最後の記憶より一段と薄汚れ、口元を強く歪めていた。折り重なった崩落の跡、あたしが出てきたのと同じ場所から上半身だけを出している。地面に両腕をついて這いつくばっているが、そこから出てくる様子はない。

 

「クソ、早くここから助けろ!!」

 

 男が苦痛に顔をしかめながら、叫んで唾を飛ばす。下半身が埋もれて、動けないようだ。打ち上げられた魚みたいに体をばたつかせながら、助けを求めている。その姿は奇しくも――あの日。壁を破壊された日のあたしと同じだった。

 

「あ……」

「聞こえているんだろ!?さっさとしないか!!」

 

 半開きになった口で、無意味な音を落とす。その背を、男の声が急かした。「何をしてる!」脳が一呼吸つく間も与えられないまま、何度も叫ばれる。「助けろと言っているだろ!!」痺れを切らしたのか、拳で地面を叩く。 

 助ける、そうだ。助けなくちゃいけない。あたしは、ノエル・ジンジャーだから。あの子ならきっと、こんな男でさえも許すはずで。すぐさま、男を引き上げて助け出す。あの日、あたしにしてくれたみたいに。

 

「そうだ」

 

 眼前まで移動してきたあたしに、男は目を輝かせた。頭から一筋の赤い線を垂らしながら、獰猛な動物を前にしているような相槌をする。

 

「よし……早くそこの瓦礫をどけ――ッ」 

 

 男の声が中途半端に途切れた。困惑に濡れた瞳があたしを映して、縮んでいく。振り上げられた石片が、男の頭にぶつかり、めり込んだ。片手をついたまま、勢いがつくと真っ赤な飛沫が噴き出た。

  

「うぎっ!!」

 

 自分に降りかかるそれを止めようと空に伸ばされた手を、振り払う。足を掴まれようが、止まらない。同じ場所に向かって、何度も。固く遮ってくる感覚は、三回ほどでぐしゃりと崩れた。柔らかくなったそこへ、攻め立てる。

 

「ぐ、あ……」

 

 真っ赤な液体から、肉片がこぼれ落ちた。だらしなく開いた男の口元が泡を吹いている。もう、ほとんど動いていない。時折、体がびくんと震え、小さな呻きを漏らす。すぐ、岩片が振り翳された。水っぽい音がして、中身の一部がまた溢れ落ちる。悍ましい鳴き声が聞こえなくなるまで、腕を動かし続けて。それで。

 

「はーッ、はーッ、はーッ……」

 

 もう、自分の息しか残っていなかった。

 

「っは……」

 

 むわりと立ち昇る鉄臭い匂い。助けを求めていた男は一言も発さず、潰れた頭から血を流している。男の頭を半分だけぐちゃぐちゃに変形させた凶器が、緩んだ手のひらから離れた。真っ赤に濡れたそれは、光に反射して、てらてらと輝いてる。

 

「なん、で……」

 

 救いに来たはずなのに、なんでまた。殺してるんだろ。ノエルなら救いの手を差し伸べると知っていた癖に。どうして。

 

「……ああ」

 

 無駄だったからだ。あたしは、罪を償おうとなんかしてなかった。ずっと、生きたかったんだ。あの子を犠牲にしながらも、この世界で息をしていい理由が欲しかった。あたしは、自分の本性から目を背けて、都合良く生き延びたかった。だから、他の人間を自分のために殺せた。誰が何のために死のうと、平気でいられた。

 

「ははっ……!」

 

 なんて、馬鹿馬鹿しいんだろ。あれだけ贖罪だとか言っておきながら、全部生きるための言い訳だった。仲間を、友を、自分を騙して、利用して、結局。あの日から何も変わってない。今、ここにいるのは。どうしようもない人殺しの屑だ。

 

「あははっ、……あは」

 

 人類を救う?心からそう思っていた時があっただろうか。きっと、なかった。悪魔であるあたしは、さっさと死にでもした方が人類のためになる。その結論から目を背け続けたのは、死にたくなかっただけ。

 だから、あたしは。叶えもしない夢を抱いた哀れな生き物になりたかった。みんなに助けてもらいたかった。そのためなら、あの子を騙り、媚を売って、偽りの救済さえ口にできた。

 

「あく、ま……」

 

 あまりにも陰鬱で出来が悪い話だ。喜劇にもならない。今にも千切れてしまいそうな腹でひとしきり笑っていると。ぽつり。自分以外の呟きが耳に入ってきた。体が反応して、首を動かす。

 

「この、悪魔め……!」

 

 憎々しげに吐き出された恨言が脳髄を揺らす。さっきまで地面で眠っていた男が、中途半端に上半身だけを起こして、床に手をついていた。まだ、死んでいなかったらしい。薄汚れたあたしを、見開かれた畏怖混じりの瞳が見つめてくる。顎から、まだ新鮮な雫が滴り落ちて地面を汚す。「ひ、」肩を大袈裟に跳ねさせた男が、その場で後ずさろうとする。あたしはある一点を注視しながら、男に向かって体を動かした。これ以上、波を荒立てないよう。ゆっくり、慎重に近づこうとして、壁に追い詰められた男がカチャリと音を立てた背中の物体に気づいた。背負っていた銃に手をかけた男の元へ、半ば転げるような形で飛び込む「クソ、離せ!」沸騰した体の熱に突き動かされるまま、抱き込むようにして銃を抱える。カクカクと銃口を震わせながら抵抗する男の顎に額をぶつけてやった。「ゔッ」男はくぐもった声を上げ、力が弱くなる。痛がっている男から銃を絡め取り、引き金に指をかける。「や、やめ」男の目が見開かれ、顔を必死に左右で振った。

 

「は、はぁ、は、は……」

 

 あたしの正体を知ってしまった気の毒な男は、もういない。生気のない瞳を仰向けにしたまま、口は命乞いをしてきた形で固まってる。救うのにはあれだけ苦労したのに、自分のために殺すとなるとこんなにも簡単で楽だ。

 

「……行かなきゃ」

 

 呟いて、額からだくだくと赤黒いものを流し続けている死体に、手をかける。血で汚れる前に、手早く死体から軍服を剥がした。返り血を拭いながら少しばかり大きめなそれへ腕を通し、見よう見まねでベルトを巻く。男がずっとつけていた腕章も引っ剥がし、兵士に擬態する。あたしの指を切り落とした後に使う予定だったであろうひしゃげた救急箱から、包帯を拝借して手のひらを覆った。

 ぽっかり空いた真上の穴からは、爆発音しか聞こえてこないが、さっきの銃声で、誰が見にくるともわからない。ぱら、と天井から土くれが落ちてくる。ここも、そう長くは持たないだろう。座ったまま、ズボンに足を通して、ブーツを履いた。壁に手をついたまま、前屈みになり、ゆっくりと足底を踏み締めて立ち上がる。少しよろけるが、支障ない。今日は、体が自分じゃないみたいによく動いた。床に落ちていた銃も背負ってから、空に向かって歩き出す。崩れ落ちた瓦礫の山は、あたしを歓待するように階段上に積み重なって、余計な力をかけずに登ることができた。

 最後の一段を蹴って、地上に顔を出す。ぱらぱらと、何処かから火の粉が舞ってきた。黒煙が立ち昇り、空に吸い込まれていく様子は、五年前。あの日の景色と同じ。

 

「きれい……」

 

 これから、何をすればいいのか。どこへ向かえばいいのかすら、わからないけれど。何を目指せばいいのか、は恐ろしいくらいに理解できた。

 あたしは、生きる。この残酷な世界で、生き延びてみせる。その代わりに。友を、居場所を、心を、何を犠牲にしてでも。だって、最初からそうだった。

 あの日に全てが始まった。巨人に追われながら、生きたいと願った時から。手を離して、あの子を終わらせた時から。ずっと。あたしは、島の――悪魔だった。

 

 

 

 

 

 

――――――

 

 

 

 

 

 

「ノエル・ジンジャーは五年前に死んでいる」

 

 何枚かの羊皮紙を机に広げたまま、ハンジは開口一番にそう告げた。「は、」誰かの愕然とした吐息が静寂で滲む。

 シガンシナ区奪還作戦を目前に控えた調査兵団の兵舎。ヒストリアを除くリヴァイ班の全員が、とある一室に集められていた。一体何を告げられるのか。上官に昇格か、などと軽口をたたいていた数分前の空気はすっかり霧散している。全員がそれぞれ驚嘆の色を見せる中で、中心にいたエレンは前のめりになって机に手をついた。

 

「ど、どういうことですか!アイツが、死……?」

「彼女が連れ去られて……や、エレンの話を考慮するなら。ライナー君たちと駆け落ちしてからだ」

 

 エレンの動揺を目の前で浴びながらも、ハンジは冷静だった。数ヶ月前に行ったエレンへの聞き取りを思い返しながら、口を動かし続ける。あの時点ではまだ良かった。話を聞く限り、ノエル・ジンジャーという兵士はライナーたちの裏切りに巻き込まれただけの平凡な人物だったからだ。

 

「念の為……身辺調査を行ったんだが、驚くべき結果が返ってきた」

 

 ノエル・ジンジャーは誰がどう見ても無害な兵士だったが、調査を欠かす理由にはならない。ただでさえ情報不足な戦いだ。ライナーたちに繋がる手がかりは少しでも得たい。大した期待もせずに思い出した依頼は、予想外の収穫を持って返ってきた。収穫、と言っていいのかはわからない。謎だらけの現状に、また別の新たな種が芽吹いてしまったのだから。

 

「これを見てくれ」

 

 ハンジが、一番前のエレンに紙を手渡す。衝動のまま、腕をつくことをやめたエレンは渡された紙に視線を走らせた。その紙は、戸籍謄本の写しらしかった。左上にはノエル・ジンジャーと名前がつけられていて、簡単な出生と性別、年齢が書かれている。3行ほどしかない記述のあと、最後の段に付け足された一文。「は」エレンの瞳は、そこで釘付けになった。

 

「俺にも貸せ」

 

 震えるだけでいつまで経っても手放さないエレンに痺れを切らし、ジャンが紙を取り上げた。くたりと曲がった紙を正してから、声を出さずに読み上げる。そして、エレンと同じ位置で瞳を見開いたまま、凍りついたように動かなくなった。隣に肩を並べているミカサは、不安げな様子でエレンを見つめる。

 

「ノエル・ジンジャーは、両親によって死亡届が出されてる。死亡日は五年前の、あの日だ」

 

 ハンジが、机の上に広げた別の羊皮紙を人差し指で指し示した。比較的真新しいその紙には、見慣れた名前と筆跡が羅列されている。

 

「これが入団時の申告だよ」

 

 紙に添えられた指先が、ある一列をなぞる。ライナーやベルトルト、アニの名前に続いて記された文字には、シガンシナ区出身。ノエル・ジンジャー。と確かに書き込まれている。

 

「と、まあ。こんな感じなんだが……同期である君たちは、何か知らないかい?」

「待って、ください。ハンジさん……何かの間違いじゃ」

 

 容赦なく突きつけられる事実を、ジャンは耐えきれずに静止した。五月蝿いくらい鳴っている心臓を押さえつけながら、手に持っていた羊皮紙を横から覗き込んでいたコニーに押し付ける。並んでいるアルミンとエレンの間へ割って入り、机の上に提示された紙を凝視した。本人の不器用さが文字にまで表れているような、右上がりで下手くそな文字。俺が記号みたいだと揶揄ったら、マルコは可愛いだろとかフォローしてやがった、丸っこい字。

 

「同姓同名の、別人では……ないんですか?」

「出来る限り調べたが……今の所、シガンシナ区のノエル・ジンジャーはこの一人だけだったよ」

「そう、ですか……」

 

 残された可能性を挙げたアルミンに対して、ハンジが首を左右に振った。その線さえないのであれば、もう。真実を受け入れるしかなくなる。アルミンは歯切れの悪く返事して、何かが重くのしかかってくる肩を落とした。

 

「あ、あの。ハンジさん……俺、よく分からないんですが……ノエルが死んでたってことは、その」

「身元を偽装していたんだ。ヒストリアと同じくね」

 

 渡された紙から顔を上げたコニーは、一目見てわかるほどに表情を青白く変えていた。言葉を途切れさせながら、勢いのまま喋ろうとするコニーへ、ハンジが淡々と答える。

 

「なんで、そんなことを。ノエルが……」

「それが、わからないんだ」

 

 息を詰まらせたコニーに代わり、サシャが独り言みたいにつぶやく。ハンジもそれに同調して、机に肘をつけたまま、指を組んだ。

 彼女が何かを隠したがっていたのは事実だろう。不思議なのは、ヒストリアがしていたように架空の人物を作り上げず、実在していた人間の名前を選んだことだ。今のように、調査されたらすぐに見破られるような名前をわざわざ使う理由が謎だ。シガンシナ区のノエル・ジンジャー、という称号に固執しているようにさえ思える。

 手の甲に額をあててから、ハンジは一息ついた。一度きりの顔合わせでは、ただの素朴な少女にしか見えなかったが、つくづく人は見かけによらないらしい。こうなると、彼女が人類を裏切った理由も、ただの色恋沙汰では済まなそうだ。

 

「なら、……ヘタクソは。アイツは……一体、誰なんですか」

 

 ハンジにも、誰に向けるでもなく、溢れ出した言葉が答えられることはない。置き去りにされたまま、空気に溶けていく。

 

「全く……君たちの代は、問題児ばっかりだね」

 

 ハンジが諦めたように笑うのを、その場にいた全員は見ていることしかできなかった。

 




可哀想()な島の悪魔とはやっとお別れです
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