島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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【注意】恋愛?要素・捏造妄想強めです。自衛お願いします。


第34話 再会

 

 商人の声かけが飛び交う中で、行く当てもなく足を動かす。出かけるには絶好の天気と市場の開催が重なって、レベリオ収容区のとある一角は賑わいを見せていた。いつもは屋台の影から呼び止めてくる知り合いも、今日は忙しそうに接客をしている。

 我が故郷はいつ帰っても変わらないままだ。限られた敷地内に立ち並ぶ住居も、その周りを外界から隔てる壁も。ガキの頃から、何一つ変わらない。長居して巡りたいところだが、そう呑気なことも言ってられなかった。中東連合との戦争が激化し始めているせいで、レベリオに帰って来れる期間も回数も減ってきている。海上戦が主な戦場となっている戦況のまま、陸軍が手を出せる範囲でなくなれば話は別なのだろうが。いや、質より量で攻めることしか脳のない海軍に任せるのは不安要素が多過ぎる。

 再び戦争のことばかり考え始めている頭を、緩く握った拳で叩く。息抜きのつもりで出てきたというのに、少しでも間が開くとすぐこれだ。無理矢理にでも視線を動かすと、いつもの屋台に物珍しい食い物が並んでいた。帰りがけでも寄って、訓練に励んでいるガビのご褒美にしてやるか。鬱屈とした空気を変えようと、懐へ手を入れる。

 

「あ」

 

 背格好こそ似ていたが、その横顔は求めていたものではなかった。ふいに上げた腕で何も掴まず、その場に降ろす。こんな、都合よく再会できるはずがない。頭では自覚しているつもりが、体はそれよりも先に動いてしまうようだ。心を落ち着かせてから改めて目を向けてみれば、歩いているのは他人の空似とも言えないような人影だった。疲れてんのか、それほどまでに脳があいつを渇望しているのか。おそらく、両方だろう。

 一年半前。俺は始祖奪還作戦の失敗という結果を抱えながら、本国へ戻ってきた。始祖を奪還するどころか、ベルトルトもアニも島に置き去りにして、ただ一人だけ生き残って帰ってきた。昏睡状態から目を覚ました俺の元に、唯一残されていたもの。それはノエルと交わした約束だった。

 すぐさま所在を問いただしたが、ノエルの囚われていた軍港とその本部は荒地となっていた。俺たちがいない間に、主力巨人の不在に勘づいた中東連中の海上奇襲があったらしい。パラディ島制圧作戦のために集められていたエルディア人戦士隊で返り討ちにできたのは良かったが、その基地に囚われていた島の悪魔のことなどは誰も気にしていなかった。

 生存は絶望的だ。わかってる。俺の知らぬ間に運ばれた残骸の、死体の山に、ノエルの体が積み重なっている光景を何度も夢に見た。実際、そうなった可能性が高いのだろう。ノエルを監禁していた本部は、地下牢まで抜け落ちたという話だった。そんな情報まで掴んでいるのにも関わらず、今もこうして幻影を探し求めている。ただの女と約束に踊らされている俺は他者から見れば、滑稽に映るのだろう。だが、そんなことはどうでも良かった。

 分かっているからだ。ノエルが、俺を置いて死ぬはずない。まだ、どこかで。迎えを待っている。俺を、待っている。あいつとはそう、約束を交わしたのだから。

 

 無意識のうち、顔に添えていた手のひらを離す。広くなった視野の中に、仲睦まじそうな男女二人組が映り込んだ。めぼしい屋台へ指を向けながら、二人だけの空間で楽しそうに言葉を交わしている。髪の色も、背の高さも、何もかも似ていないはずが、その影がいつかの自分とノエルの姿と重なった。

 訓練兵時代、ああやって二人で町に降りたこともあった。元はベルトルトを含めた三人で行く予定だったが、風邪で来れなくなり、運良くノエルを独占できることになったのだ。迷子になるとかいう子供染みた言い訳で、手を繋いだりもした。前を歩いている二人も同じだ。控えめに手を絡めたまま、談笑を続けている。名も知らぬ二人は、側から見れば恋人のようだ。あの時の俺たちもそう思われていたのだろうか。今さらになって、微かな恥と優越感が腹の底で混ざり合う。今度は、ノエルも連れてきてやろう。回りくどい言い訳はせずに手を繋いで、レベリオを。俺の故郷を案内してやる。俺の任期を終えるまでに、必ずだ。

 腰の横で垂らした拳に決意を込めてから顔をあげると、肩に小さな衝撃が走った。

 

「あ、すみません」

 

 気づかない間に、俺は足を止めていたらしい。ぶつかってしまった相手の女が、肩の向こうで申し訳なさそうに謝ってくる。市場のど真ん中で立ち止まっていたのは俺の方だ。自分とは別の腕を引きながら、眉を下げている女に向かって、一言だけ。口を開きかけたところで。その腕の先、俯いている人物が目に入った。喉元まで競り上がっていた声は消え、代わりに心臓の鼓動がけたたましく鳴り始める。

 

「ノエル、」

 

 その声に、人影は顔をゆっくりと持ち上げる。伸びた髪の隙間から、追い求めていた瞳が覗く。そして、ようやく、俺を映した。

 

――――

 

 真っ白とは言い切れないような、黄ばんだ壁紙。ところどころ禿げている、古寂びた床。無機質さを漂わせる狭い部屋、その端に置かれていのは簡易的な机だった。ノートを広げるだけで目一杯の小さな卓上で、肘をついていた。足の揃っていない机がガタガタと揺れるが、一点に体重をかけて落ち着かせる。頬杖をついていない方の手で、目の前のノートを捲った。上から下にかけて綴られているのは、こっち側の文字だ。真っ黒に埋め尽くされたそれが、何頁にも渡って続いている。内容は、担当医から渡された文庫本の冒頭。この書き取りと日記を、もう一年半も続けてる。今日は相当進んだ方だ。気を抜くとすぐ、文字ではなく、記号に見えてきてしまうから。

 グッと天井に伸びをしていたら、何かを殴るような音が断続的に聞こえ始めた。おそらく、お隣さんの発作だろう。大して気に留めず腕を下ろし、埃が乗った窓枠の向こうに目を据える。窓辺すぐに植えられている木が風に煽られ、枝先の葉っぱを揺らしていた。差し込んでくる太陽の光が、影に合わせてチラチラと輝いている。穏やかな時の流れと隣からの音がちょうどいい雑音になって眠気を誘う。それを断る理由はないので、頭から机に突っ伏した。物の冷たさが頬を溶かしていく。すん、と鼻を動かせば、羊皮紙とは違う。端正な匂い。こっちでは、何もかもが新しい。

 軽いうたた寝でもしようかと、半分まで閉じた瞼は部屋の扉を叩く音で引き上げられた。

 

「書き取りは順調ですか?」

「いえ、……まだ半分です」

 

 入ってきたのは、担当の看護師だった。隣から書きかけのノートを覗き込まれ、肩をすくめる。自分ではよくやった方だと思うが、医者から提示されている目標にはまだ程遠い。

 

「大丈夫ですよ。記憶がなくなってしまったんですから、ゆっくりで」

「はい」

 

 あの地獄から逃げ出して、もう一年半も経つ。あの穴から這い出してから、あたしは着込んだ制服で戦士に紛れ込んだ。混戦状態の戦場で、生き残った戦士を騙るのは恐ろしいくらい簡単だった。自分でも驚くほどの演技力で、ただガクガク震えて使えない奴のフリをして。次の日には他の心神喪失者と列車に詰め込まれていた。

 目の前で仲間たちが生き埋めになったショックで記憶障害を起こした。これが、あたしに下された的外れで都合の良い診断結果。生きるための常套句だった。

 

「怪我もすっかり直りましたね」

 

 当然。診察では明らかな拷問痕を怪しまれもしたが、素直にグロス曹長の元で働いていたと答えてみせた。軍関係者でない者にもその悪名が知れ渡っているらしく、同情の視線を向けられるだけでそれ以上何かを言われることはなかった。

 

「はい、お陰様で」

 

 この国は、使い物にならなくなった人間には優しいらしい。一度壊れてしまった道具はまとめて病院に押し込んだら、経過観察も何もすることなく、放置してくれる。肉壁にすらならない穢れた血への興味がないだけなのだろうけれど。それでいい。そのお陰で、あたしは一年半怠惰な生活を続けられているのだ。

 

「文字、読めるようにはなりました?」

「簡単なものなら。書くのは……苦手です」

 

 あたしがこっちについて何も知らなかったのも、記憶障害を騙るのはもってこいだった。お陰でわざわざ偽らなくても新鮮な反応ができたし、文字の習得というだけで入院期間を引き延ばせている。

 

「たまには、外に出てみませんか?」

「……外、ですか」

 

 静かな沈黙が流れたのちに、看護師がこちらを伺い見た。その音を反芻しながら、窓辺に目を向ける。木々の間から覗いているのは、嫌味なくらいの青色だ。

 

「ええ。今日は月一の市場がやってる日なんですよ」

「収容区の中に?」

「はい、私が付き添いますから」

 

 ただ部屋にいるだけで何の改善もみられない患者へ、痺れを切らしたのだろうか。看護師は乗り気のようだった。何の対価もなしに世話を焼かれている身だ。肩に手を添えられて仕舞えば、頷く他なかった。

 

「すごい人ですね。何か食べますか?」

「お腹、空いてないので」

 

 連れ出されたのは、どこか懐かしいような雑踏の中だった。商人の呼び込みや交渉する人々の声に紛れて、看護師と連れ添いながら歩く。母に連れられる子供のような形、それも薄汚れた服と看護服であれば、注目されるのは当然だった。

 

「とか言って、今日の朝食も残していたでしょう?ちゃんと食べないと」

「すみません」

 

 早く帰りたい。焦る気持ちを飲み込んで、本物の母親みたいな小言に悄然と謝罪する。病院で出される食事は、食糧危機に悩まされていた壁内人類から見れば、豪華なものだった。味も多く、量もある。肉こそ入っていなかったけれど、サシャがいたら涎ものに違いない。あたしも嬉々として腹に詰め込みたいところだったが、二ヶ月の独房生活を経た胃はその思いに応えられなかった。一年半してやっと、主食を食べられるくらいだ。そのせいもあってか。これだけ色とりどりな食べ物に囲まれても、食指が全く動かない。

 周りの景色から目を伏せて、安全で穏やかな自室を脳裏に思い浮かべる。帰ったら、書き取りだけ済ませて寝てしまおう。日記には、この市場の様子でも書けば納得してくれるだろう。一人で帰宅してからの計画を立てていると「あ、すみません」看護師の体が視界の端でよろめいた。腕を引かれてるあたしも一緒になってふらつく。よれたコートの端がみえた。こんな道のど真ん中で突っ立っているなんて、邪魔になるとわからないのだろうか。どんな顔をしているのか、一目見てやろうと首を動かしかけて。

 

「ノエル」

 

 いるはずないの声が、した。

 

「……ず、っと……お前を探してた」

 

 最後の記憶より一回り大きくなった背が、こちらに一歩近づいてくる。ズリ、自分の靴が地面と擦れる音がして、体が伸ばされる手から退こうと動く。

 

「え?」

 

 訳もわからない、と言った様子で息を漏らす哀れな部外者の看護師が、やけに鮮明だった。目を白黒させる看護師の前で、ライナーがあたしへ距離を詰めてくる。ライナーの長い腕は変わらずだった。後退しようとしたあたしの背があっという間につかまって、ハグでもしそうな勢いで引き寄せられる。

 

「やっと、やっとだ。やっと、見つけた……」

 

 いやでも目を合わせるしかなくなり、あたしは観念したように一度は伏せた視線をあげた。そこには、ライナーがいた。あたしに額をすり寄せながら、一人で何やら言っている。

 ライナーはまるで、別人のようだった。健康的だった頃と比べれば、頬が病人みたいに痩せこけていて、生え始めの無精髭までたくわえている。目元に落ちる影のような隈が色濃く浮き出ていて、あれだけ筋肉ゴリラだと揶揄されていたガタイも萎んでみえた。最後の記憶から、それほど月日は経っていないはずなのに。すっかり老け込んでいるようだった。

 

「ノエル」

 

 でも。黄金の瞳だけは、何も変わってない。確かにライナーだと確信できる色が、あたしを映したまま柔らかく歪められる。硬く握り締められた腕が、存在を確かめるように体を滑った。もう片方の手が肩へ乗せられて、胸板の方へ引き込もうとする。それを、あたしは手で遮った。「あ」ライナーの吐息が、耳元で聞こえてくる。あの日から変わったのは、きっと。あたしの方だ。

 

「誰ですか」

 

 押し返して、体に掛けられた腕を冷たく引き離すと、ライナーの瞳孔が困惑に揺れる。「なんで、」訴えてくる声を聞かなかったことにして、いつもの被害者面で看護師の手に絡んだ。

 

「あたし……こんな人、知りません」

「は……?何言ってんだ、ノエル」

 

 わけのわからない言葉をぶつけられたライナーは呆然とつぶやく。その姿に申し訳なさを感じつつも、この場から去ろうとする体を止めようとはしなかった。久しぶりに生きたまま、再会できたのだ。本来なら目一杯に喜ぶのだろうが、最後に別れた時から状況はすっかり様変わりしてしまった。

 

「ライナーだ。ライナー・ブラウン。わかるだろ……?」

 

 顔面を青白く染めたライナーが弱々しく問いかけてくる。あたしは無言で首を振ると、探るように伸ばされていた腕が徐々に落ちていく。このまま、振り切って歩き出して仕舞えば。今度はあたしが看護師の体を引きずろうとして、動かせなかった。

 

「あなたは、ジンジャーさんのお知り合いですか?」

「っああ、そうだ」

 

 看護師の口を塞ぐべきだった。塞いでいれば、ただの勘違いで誤魔化せたかもしれないのに。ライナーが前のめりに返事をして、看護師が全ての事情を話し出す。健常者にしか許されない会話に挟まれ、ついに何の言葉も発せなくなる。記憶障害。もう一生誰とも合わないつもりで吐いた嘘が、今になってこんなに苦しい。

 

「ジンジャーさんは重度の記憶障害を患っています」

「ああ、そうか……」

 

 ライナーが微かな喜びを滲ませて、チラリとこちらへ視線を向けてくる。あたしは記憶を無くした人間らしく、目を逸らした。「一度、病院に来ていただけませんか」「今からでも」やっと歩き出した時には、ライナーの腕に引かれていた。振り払って逃げ出せれば良かったのに。あたしは手を取られたまま、平穏な日常が崩壊していく音を聞いていることしかできなかった。

 

「身元引受人の手続きに必要な書類、持ってきますね」

「はい、ありがとうございます」

 

 そう言って看護師は席を立った。部屋に引きこもってばかりだったから、目の上のたんこぶにでもなっていたのだろうか。記憶障害でとち狂ってるあたしが口を挟む間もなく、ライナーがあたしの引受人となることで話が進んでいった。ぱたりと扉が閉められて、部屋にはあたしとライナーだけが残される。今まで、看板の文字をなぞるだけだった応接間の中には簡素な机とそれを囲うように置かれたソファがあった。その片方についさっきまで看護師が座り、もう片方にはあたしとライナーの二人が腰掛けている。二人分の体重でソファは深く沈み込んでいた。その毛羽だった生地を指の腹でなぞっていると、自分の手の甲に節張った指が伸びてきた。

 

「なあ、ノエル。覚えているんだろ?」

 

 来た。いつかされると身構えていた質問に、動きを止める。ライナーなら、大人しく引き下がらないと分かっていた。

 

「さっきは取り乱してすまなかった……お前が、俺を忘れてるわけないよな」

 

 ライナーが小さく謝罪して、自分へ言い聞かせるみたいにつぶやく。あたしのより一回り太い指が、熱を持った指が控えめに肌をなぞった。さっきの看護師から、ノエル・ジンジャーという人物の経歴を聞いて、確信に変わったはずだ。あたしの平凡な脳みそで捻り出した嘘なんて、頭もいいライナーにはすぐに看破されてしまうのだろう。

 

「ライナー、おかえり」

 

 どうにか知らぬ顔を突き通せるかと思っていたが、ここまできたら完敗だ。ずっと下に向いていた首をもたげ、改めてライナーの方へ動かす。「ノエル……!」顔は見れなかった。分厚くて重い物体が、胸に飛び込んできたからだった。

 

「ッはぁ。はあ、……はあ」

 

 背中がグッと力強く引かれた。上から覆い被さるように抱き寄せられ、ライナーの顔はすっかり伸びきった髪の毛に埋もれた。その体制のまま、ライナーが大きく息を吸う。のしかかっている胸が膨らんで、萎む。同時に回されている腕の力が強くなって、緩んだ。それが何度か繰り返されているのを、眺めていた。ライナーの呼吸が治った頃を見計らって、口を開く。

 

「……長かったね」 

「悪かった……迎えに来るのが遅くなっちまって」

 

 ライナーが今にも消えそうな声で返事をして、髪の毛に埋めていた顔を離した。正面から瞳が交わる。やっぱり、それだけは何も変わってない。先ほどよりも落ち着いているその色を映しながら、顎に触れた熱へ目を落とす。腰を抱いていない方の手が、あたしの顎に滑って存在を確認するよう、輪郭を撫でた。

 

「この一年半。ずっと、お前を……探してた」

「うん……」

 

 回されていた力が徐々に失われて、体の間に少しだけ隙間ができる。弱々しく言いながらも、あたしに回っている腕は離されない。

 

「恋人、なんて言うから。びっくりしちゃったよ」

「あ、いや……それは、」

 

 関係性を知りたがった看護師に対して、ライナーは少しも動揺も見せずにそう言い切っていた。血縁でもない若い男女二人が知り合いである理由を正当化するには一番妥当な回答だが、もっと他になかったんだろうか。恋人と言われた看護師から向けられる、生暖かい視線が鬱陶しい。

 

「これから一緒に暮らすだろ。そしておいた方が、都合がいいと思って、な……」

「一緒に、暮らす」

「ああ、そういう約束だろ」

 

 ライナーが当然だ、とでも言うように頷き、あたしの前髪を軽く撫でた。自分でやりながら、その様子を愛おしげに眺めて、目元を緩ませている。

 

「母さんや叔父さんには、俺がうまく説明する。でもまあ、元々大家族なんだ。お前一人くらい受け入れてくれるさ」

「ライナー」

「なんだ?」

「ごめん」

 

 頭を撫で付けていた手が止まる。縮んだ瞳孔を間近に映しながら、目を逸らした。卑怯なあたしには、その続きを見届けることができない。

 

「あたし、行けない」

 

 再び密着しそうになっていたライナーの胸へ手をついて、軽く押し返す。さっきまでの圧が嘘みたいに軽かった。

 

「……ライナーと別れて、色々あったんだ。本物の孤独と、地獄を見て……ただ、静かに生きたいと思った」

 

 激痛、反響する悲鳴、あの男の悍ましい笑い声。他の何よりも美しかった、救いの光。あの、暗い船室で最後の別れを交わしてから。あたしは変わってしまった。ライナーもそうだ。いつの日にか聞いた雑談の一部。超大型巨人と女型は帰ってこなかったらしい、と話していた。ずっと無事を祈っていたわけでもないくせに、その日のあたしはベッドに転がったまま動けなかった。

 あたしもライナーも、全てを失って。孤独で。ここにいる。

 

「ここは、良いところなんだ。みんな、どこか欠けているから……罪も、何も、考えずに。ただ、息をしてられる」

 

 この場所は、普通の人じゃ入れない。いるのは、残酷な世界に耐えきれなかった人たち。脳を侵されて、奪われ、何かに蝕まれて。それでもまだ呼吸している抜け殻。全員がどこか欠けているから、他の人がどうだとか気にする意識すらなく、隣人が島の悪魔だと勘付くこともない。なにより。訓練兵として、夢を騙っていた時のように。被害者に紛れてする呼吸はしやすかった。

 

「……ずっと、ここにいるつもりなのか」

「できる限りはね。追い出されたら、酒場のお手伝いでもしようかな」

 

 やっとライナーの声が返ってきて、隠れて安堵する。無計画な将来像と「そうなったら、ライナーも飲みにきてよ」心にもないことを口にして、笑みを作った。

 

「今まで……気にかけてくれてありがとう」

 

 膝の上で転がっている手をとり、自分の両手で包む。ライナーの手のひらはカサついていて、あたしのより一回り大きい。両手で挟んだまま、少しだけ持ち上げ、握手するみたいに上下へ振った。

 ライナーはずっと恩人だった。死にかけのあたしを連れ出して、あたしにさせてくれた。友達で、大切な人で。ノエル・ジンジャーに一番、利用されていた。だから。

 

「ライナーは、もう。あたしに付き合わなくていいよ」

 

 あたしを父親の代わりに撫でてくれた手。つい頼ってしまいたくなるような、分厚い手のひら。あたしをずっと引っ張ってくれた指。大好きだったそれから、惜しむように離れようとして。 

 

「駄目だ」

 

 解こうとした手が、引き止められた。思わぬ力に、顔をあげる。その先で、はくり。耳元に、息を呑む音がした。

 

「付いてこないなら、お前を島の悪魔だと告発する」

「え?」

 

 自分の声だけが、やけに鮮明だった。

 

「島の悪魔が収容区に潜伏していたとなれば……大問題だ。お前は裁判にかけられ、秘密裏に処理される。軍の汚点であるお前の存在が公になることを恐れ、処刑は迅速に行われるだろう」 

 

 島の悪魔、潜伏、汚点、処刑。捲し立てられた暴力的な音は、あたしの震えを奪うのに十分だった。両肩を上から押しつけられ、逃げ出せなくなる。「ぁ、」やっと出たのは、声にも満たないような。ただの吐息。心臓が痛いくらいに締め付けてきている中で、それが限界だった。

 

「ノエル」

 

 呼びかけられているのに、喉が声を発さない。誰に向かって、返事をすれば良いかわからなかった。なんで、とか。どうして、とか。言いたいことは山ほどあって。頭の中を永遠と駆け巡っているのに。何の、一言も発せない。

 だって、ライナーは。あたしなんかいなくたって、生きていけるはずだった。

 

「俺に、そんなことをさせないでくれ」

 

 言い出したのは自分なのに。苦しげな顔が耳元で懇願する。一緒に手繰り寄せられて、肩を抑えつけていた圧が腰のあたりで止まった。引かれた重力のまま、強張った体が落ちていく。

 

「やっと会えたんだ。お前を軍に売るなんて……したくない」 

「らい、な」 

「わかってる、俺がお前をずっと迎えに行ってやれなかったから……すまない。俺のせいだ……」

 

 肩にずしり、と重みが伝わってくる。段々とこちらへ滑って、あたしの頬がやつれた頬骨にあたった。「は」恐ろしいほどの熱がつたわり、唇から悲鳴みたいなものが溢れる。目の前の男はそれに被せて、悲痛そうな眉をつくった。

 

「酷い目に合ってたんだろ?こんな、痩せちまって……」

 

 服の上からあばらを摩られ、全身に戦慄が走った。前なら、気にも留めなかった動作。戯れでやっていたようなそれが、今となっては恐ろしい。まるで、知らない人間に触れられているかのようだった。

 

「ノエル。今度こそ、絶対だ」

 

 意思なくもたれかかっているあたしを、ライナーは一際強く抱き締める。ぎちり、と骨が軋んでも、声を上げようとは思わなかった。

 

「約束通り……ずっとずっと俺の、そばにいてくれ」

 

 いつから、歯車は狂い出していたのだろう。こんなことになると知っていれば、約束なんてしなかったのに。

  

「おまたせしまし……」

 

 二人だけの空間は、扉の隙間から顔を出した人物によって破られた。途端に自分を囲っていた檻が解けて、ライナーが行儀よく姿勢を正す。

 

「す、すみません」

「うふふ、いいんですよ。一年半ぶりの再会なんですから」

 

 看護師が微笑ましいものでも見たように目元を吊り上げる。違う、声を上げたいのに。助けを求められる人は、どこにもいなかった。

 

「ジンジャーさんもここから出たら、名誉マーレ人に?」

「籍を入れたら……そのうちは」

 

 ライナーが照れ臭そうに頬を掻いて答える姿が、遠くの方で朧げに映ってる。「まあ」看護師が目を見開いて、綻んだ口元のまま視線を向けてきた。

 

「ほんと……迎えにきてくれて、よかったですね」

 

 私物はほとんどなかった。手続きはあれよあれよという間に進み、患者であるあたしが声をあげる余地はなかった。まだ何が起こっているのか理解できないうち、例の日記だけ持たされて病院の前に立っていた。

 

「ノエル、こっちだ」

 

 ライナーがあたしの肩を軽く引いて、呼びかけてくる。足が地面に縫い付けられたようで、動かせない。きっと、体が拒否しているんだろう。そしたら、垂れていた手を取られた。つんのめって、転けそうになるのを、ライナーが支える。昔なら、すぐ感謝を告げていたのに、乾き切った喉は何の言葉も発さなかった。受け止められたことを嬉しそうにしているライナーが、改めて手のひらを握り直してくる。上から覆っていただけの指が、あたしの指の間に入ってきて、絡んだ。存在を確かめるように握られれば、逃げ場はない。まるで、本物の恋人がするようなそれに、眩暈がした。

 半ば引き摺られる形で歩かされ、ふとした曲がり角で振り返る。知らない人、知らない路地、知らない町。あたしの、かつての居場所は、もうどこにもなかった。

 

「母さん、紹介したい人がいる」

 

 ライナーの面影を宿したその人は、突然現れた女を不審そうに見つめた。灯りも少ない部屋の中で、悶々とした沈黙が流れる。あたしが気まずく視線を落とすのにも、その人が何か言いたげに口を開こうとするのも構わずに、ライナーは言葉を続けた。

 

「ノエル・ジンジャー。近い将来――俺の妻になる人だ」

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