第35話 日常
暖かな熱で瞼を上げた。眩しいほどのそれに目を細めて、まだ見慣れない天井が映る。頬へあたる息遣いにみじろぎしてギシ、とベッドが軋んだ。ライナーの家に連れ込まれてから、数週間経つ。病院での怠惰な生活。平坦ながら穏やかな日常は激変してしまった。纏わりついてくる眠気と、また別の倦怠感とで重く沈む体を動かす。ベッドから転げ落ちないよう、慎重に上半身を起こした。少し足先を逸らせただけで、ベッドのフレームがあたる。その隣で上掛けの間から伸びた太い両足が、あたしの片足を挟んでいた。ずっと感じていた圧の正体はこれか。あくびを噛み殺して、重なっている足の間から自分の足を引き抜く。
毎度こうも暑苦しい朝を迎えなければいけないのは、この狭苦しいベッドのせいだ。ライナーすら入り切ってなかったのだから、あたしが快適に眠れるはずもない。無相応なのはわかるはずなのに、ライナーを含めたこの家の人間は気にならないらしかった。そのお陰で、互いが肩やら胸に顔を埋めて寝る羽目になっている。緩く両腕を持ち上げ、ライナーの腕の中で閉じ込められて凝り固まった筋肉を伸ばす。
「ライナー」
今、何時なんだろ。差し込んでくる朝日にじわりと汗をかきながら、ひとまずは隣の塊に声をかける。
「ぐ、…」
「おはよう」
太陽の光を浴びながらも、瞼を固く閉じたままでいるライナーに顔を向ける。浮き出た骨の凹みをなぞり、痩せこけた頬をペチペチと軽く叩いてみた。
「起きて」
「ノエル……」
ライナーの口端から、寝言のようなものが零れ落ちる。耳は聞こえているのだろうか。それにしては返事が朧げだ。声も若干掠れ気味だし、あたしが意識を飛ばした後も続けてたんだろうか。シーツに染み付いている匂いと粘度のある液体が太ももを滑り落ちていく感覚で、大抵は理解できるけれど。
「ライナー?朝だよ」
「……まだ」
「だめ。ご飯作らないと」
もしかしたら、もう出来てるかもしれない。そうなったら何と言われるのか。想像が膨らまない内にこのベッドから抜け出したいが、ライナーの腕が邪魔で動けない。それもこれも、昨晩のライナーのせいだ。安心し切って和やかに眠りこけている頭をぐちゃぐちゃに掻き回してやりたいけれど、それすらも面倒だった。
「行かないで、くれ……」
ベッドから降りようとしたら、ぐっと引き止められる。寝ぼけた状態でどこから力が出ているのか、伸びてきた両腕があたしの腰を掴んで、ベッドの上に引き戻した。今、昨晩着込んだはずの寝巻きはライナーによってあたりに散らばっている。つまり、昨晩でもう十分すぎるくらい感じた胸の厚みとその下のものが直接触れるわけで。
「っもう。だめって、ば!」
近づいた胸板を遠慮なく押し返す。上半身が上掛けからはみ出ているからか、ライナーの肌は熱を持っていなかった。諦めの悪い腕が抵抗してくるが、寝ぼけて力の入っていないそれを退かすのはそう難しいことじゃない。
「うっ、」
冷たい床の上で尻餅をつく。離れたいがあまりに、ベッドから滑り落ちてしまった。ほんと、朝から何をやってるんだろ。虚空を見上げたくなるのを堪えて、立ち上がった。こうなることを予測して、用意しておいたタオルでベタついた体を念入りに拭う。本当なら使いたくなかったんだけど。ここへ来てからは嫌な勘ばかりよく当たる。腹やら胸やらに飛び散っていた汚れを拭き終え、あたしはとっ散らかっていた衣服を拾い歩いた。
「ライナー、先行ってるからね」
ドアノブに手をかけながら言うも、ベッドの上の塊は動かない。増えてしまった洗い物を抱え直して、部屋から出た。
「おはようございます。カリナさん」
「随分、遅いのね」
台所で立っている影に声を投げかけるも、挨拶は返ってこなかった。当然の反応だ。朝食はあたしの担当になっているのだから。じろり、と責めるような目線に当てられ、あたしは申し訳なさそうに眉を歪める。
「すみません。朝ごはんは」
「もう食べたわ」
「あなたたちの分はそこに」いつも食事をとっている机の上には、水瓶と大皿の料理が鎮座していた。こうなって仕舞えば、カリナの言葉に甘えるほかないだろう。引き続き向けられている視線は気づかないふりをして、感謝を告げる。
「ありがとうございます。作らせてしまって……」
「いいのよ」
席について、そばにある小皿へ自分の分を取り分ける。正直なところ、食欲は全く湧いていない。病院にいた時よりも食が細くなってきているが、気持ち多めに料理を移した。「ほら、」鉄製のフォークを口に運ぼうとして、カリナが思い出したような声を上げる。
「ライナーもそろそろ戦地に戻らないといけないでしょう?ちゃんとした料理で英気を養っておかないと」
フォークの先に刺さった料理を押し込むと、舌を焼くような塩辛さが口内を支配した。咽せそうになるのを手で隠しつつ、次々と料理を詰め込んでく。何とか咀嚼して、水で一気に流し込んだ。こっち側の食べ物は、島の悪魔からしたら味付けが濃すぎる。食糧不足に悩んでいない証拠とも言えるが、こちらからすれば食べ難くて仕方ない。その上、あたしは病院食上がりだ。体が順応するには、もう少しかかるだろう。
「洗い物と洗濯はあたしがやるので」
「あらそう?」
強烈な味をどうにか胃に詰め込み、水で喉を潤す。味が残ったままの口でそう提案すると、カリナは意外そうに聞き返してきた。
「昨日はうちの息子が遅くまで付き合わせてたみたいだけど……」
含みのある言い方をしたまま、カリナがこちらへ顔を向けてくる。こうやって、他人に真意を探らせるのは親子共通らしい。
「……腰は痛めてないので、平気です」
どうして、あたしが言葉を選ばなければならないのか。言いながら、黒いものが胸に溜まっていく。そもそも、普通の母親は息子の営みにまで言及してくるものなんだろうか。母親がいなかったあたしに、分かりそうもない。
「そう、なら良かったわ」
何が良いのだろう。そう言って口角を上げるカリナに合わせ、あたしも微笑んでみせる。本気でこちらを気にかけてくれているなら、連日盛ってるライナーへ一言や二言、釘を刺してくれればいいのに。食べ終わった食器を手に持って、あたしは椅子から立ち上がった。
「ガビ」
屋上で干していた洗濯物を引き摺るようにして持ち帰り、いつもの食卓で畳んでいると、廊下の方から音がした。あからさまに距離を取ろうとする気配は、この家に一人しかいない。
「朝ごはんは?」
「もう食べた」
手に持っていたシャツを重ねて、廊下の方を窺い見る。やはり、立っていたのはガビだった。跳ねた髪を、きっちりと結い上げている。あたしも中々やるな。最近、視界外から体を触られるからだろうか。
「そっか。カリナさんの手料理は美味しかった?」
「うん。あんたのと違って、薄味じゃないから」
あたしがこちらの料理を塩っぽいと思うのなら、その逆の然りだ。毎朝、入れすぎなくらい調味料を振りかけているのだが、それでも足りないらしい。
「それなら、良かった」
さっきまで会話との温度差に風邪を引きそうだった。含ませるような言い方ばかりのカリナと違って、ガビは敵意を隠さず、真正面からぶつけてくる。言葉が強いが、こっちの方がまだましだ。所詮は子供だし、上手く躱す必要もない。
「なんで、ライナーはあんたを選んだの」
「わからないなぁ。ライナーに聞いてみたら?」
ライナーを慕うガビからしたら、不愉快極まりないのだろう。何の前触れもなく、現れたライナーの女が我が物顔で家に居座っているんだから。
「聞いた。そしたら、ノエルだからだって」
ライナーが何を言ったのかと思えば、何の返答にもなっていない。あまりに期待外れで、作業途中の手が止まる。今も寝こけているであろう姿が浮かんできて、自分の口元がひくりと引き攣った。
「どうせ、これが欲しいんでしょ。戦士候補生になれなかったあんたには、縁のないものだから」
ライナーが捏造した経歴によると、あたしは戦士候補生を目指していたらしい。幼い頃に高め合った二人が数年ぶりに再会し、恋人となった。両親が流行病で急死して心を病み、いく宛のなくなったあたしを、ライナーが保護したのだと。
架空の物語を信じきっているガビが言葉を吐くと同時に、腕章を強調してみせた。黄色に染まっているそれは、あたしの腕に巻かれているのとは違うものだ。昨晩のライナーも、俺が名誉マーレ人にしてやる、とか言っていたっけ。しつこいくらいに囁いてきたライナーの体温を思い出して、表情が強張りそうになるのを堪えた。
「違うよ、ガビ。あたしはね」
「絶対に、認めない」
波を荒立てないように吐き出した、最大限の優しげな声色は遮られてしまった。ガビが人馴れしてない野良猫のように全身で威嚇してくる。
「あんたみたいなパッとしない女が、ライナーと結婚するなんて。私、絶対に認めないから……!」
勢いよく駆け出したガビの背中を引き止める術はなかった。嵐がさったような静けさに一人残されて、肩を落とす。ただでさえ狭い肩身が、知らぬ間に圧迫されつつある。この狭い家の中で、あたしの居場所は殆ど存在していないのに。唯一の味方も、もう直ぐ戦地へと戻るらしいし、そうなれば。不安要素しか残っていない未来に、頭が痛み出す。誰のものかも分からない下着を畳みながら、遠くを眺めるしかなかった。
「遅かったね」
「ああ、よく眠れた」
リビングの机に桶を置いて、汲んできた水で食器を洗っていると、廊下からライナーが姿を見せた。よれたワイシャツに着替えて、僅かに寝癖のついた頭を掻いている。
「母さんは?」
「お隣さんのところ」
辺りを見回すライナーへ向かって、あたしは淡々と言葉を返した。ガビはとっくに戦士隊の訓練へ行ってしまって、叔父さん達も仕事だ。家には居候しているあたしとカリナだけが残ったが、それも少しの間だけだった。二人きりでは堪えるのだろう。カリナはすぐに外へ出てしまった。こちらとしても、ありがたいのでなるべく長く暇を潰していて欲しいところだが、こうなってくるとまた別の問題が浮上する。
「ノエル」
その問題は、直ぐ起こった。何か思案するような間を置いて、腰あたりを骨張った指が滑ってくる。ライナーが鼻につくような甘えた声で名前を呼んで、首筋が生暖かい吐息で震える。さっさと外へ出てくれればいいのに。生憎も今日は数少ない休息日らしい。
「どうしたの」
最初こそ驚いていたが、こうも短期間で何度もやられると人間慣れるものだ。何が楽しいのか。ライナーは肩から流した髪の毛に顔を埋めて、すんすんと犬みたいに鼻まで動かしている。このまま呼びかけも無視してしまいたいが、そこはグッと堪えて聞き返した。
「……髪が、伸びたな」
「切ってないから」
体を這ってない方の手が頭の裏を撫で付けてくる。数年前ならただ乱暴にかき混ぜていただけの指は、やけに慎重な手つきをしていた。
「切ろうかな」
「いや、このままでいいだろ」
兵士の時は立体機動の邪魔になるので定期的に整えていたが、それもすっかりやらなくなってしまった。そろそろ手入れをするべきだろうか。ふと頭に浮かんだことを声に出すと、言い出しっぺのライナーは控えめにそれを拒んできた。何も言わず、放置していたライナーの指先が内側へ入り込んできて、引き止めるように髪の毛を梳かしてくる。
「なんで?」
「よく似合ってる。もう少し伸ばしたら丁度いいんじゃないか」
今回伝えたかった本心はそこらしい。口に溜まったため息を噛み殺し、皿の汚れを強めに擦る。直接言えばいいのに、気を遣っているつもりなのだろうか。ライナーが求めたことを、あたしが拒否できるわけない。
「じゃあ、そうする」
「そうか」
表情を見なくとも、背後にいるライナーが喜びを滲ませるのがわかった。心なしか、押し付けられている体もより密着している。背にあたっている硬い胸が、鬱陶しいくらい上下していた。
「この家には、馴染めたか?」
「……うん」
嘘だ。何の前触れもなく現れた不審な女を、数週間そこらで受け入れてくれるはずがなかった。碌な仕事もせず、家事だけで家内に割り込んでるとなれば、尚更だ。何が不安なのかライナーから働くなと言われているし、男に頼り切りの駄目女と成り下がっている。そのせいか、叔父さんたちとは碌に話したこともない。義務的な会話くらい交わしているけれど、それきりだ。そんな事情を飲み込んだ薄っぺらな相槌でも、ライナーは満足してくれたようだった。あたしの腰を撫で付けていた指が止まる。
「そうか……良かった。しばらく、帰って来れなさそうだからな」
「いつまで、あっちにいるの?」
「わからん。数ヶ月で済めばいいんだが……」
背後から伸びてきた両腕が脇の下から、前に回される。これでは、身動きが取れない。「ライナー」洗剤がついたままのお皿を持ちながら、咎めるように名前を呼んでみるも、体を寄せてくるばかりで離れない。
「お前が、もし。また……いなくなっていたら、俺は」
訓練兵の頃よりか一回り小さくなったとは言え、自分の体格を理解していないのだろうか。容赦なくのしかかってくる体が、肺を押し潰さんばかりに圧迫してる。
「大丈夫。あたし、ここにいるから」
本当なら、ライナーの懸念通り消えてしまいたいけれど、この狭い収容区へ足を踏み出したところで、身を潜める場所もなければ、他に行く宛もない。あたしの居場所は、この家の中と、ライナーがいるところだけ。
「ああ。必ず、帰ってくる……」
荒い鼻息が首筋をくすぐる。擽ったくなって身を捩るも、鼻筋はこつこつ当たってきて離れない。柔らかい唇が触れ、何度も短いキスを落としている。わざとらしいその音を間近で聴かされながら、振り払うことはしなかった。
「ねえ」
その状態で何枚か皿を洗い終え、布巾の上に重ねていく。滴り落ちた水滴をエプロンの裾に染み込ませてから、あたしはふう、とため息を吐く。
「お尻、あたってる」
さっきからずっと当てられているものを指摘すると、触れている体があからさまにびくついた。自分が半目になっているのを感じながら、緩んできたエプロンの紐を摘んで、きつく締め直す。その布擦れ音に反応するよう、ライナーの腰が僅かに揺れる。
「す、すまん。わざとじゃ……」
「嘘」
振り返らずに作った蝶々結びから手を離して、ライナーの言い訳を看破してみせる。溢れそうになるため息を飲み込んで、水を張った桶に手を入れた。泡を含ませたスポンジで、汚れをこそぎ落としてく。その片手間で、問い詰めることにした。
「まだ、昼間だよ?」
「わかってる!したいって、わけじゃないんだが。その」
「ここ、リビング」
「く……」
反省するような嘆声を漏らしながらも、あたしの体に絡みついた腕が離される様子はない。むしろ、あてがわれてるものは大きくなっている。真っ昼間から共用部分で。この背徳的な場面が、ライナーとしてはクるのだろうか。カリナがいつ帰ってくるか分からないし、あたしからすれば冷や汗ものでしかない。
「ほんと、昔から。すけべなんだから」
洗いかけの食器から指を離した。その場で振り返って、あたしの唐突な行動に驚いている顔、顎を掴む。泡も水も滴らせたままなのは、些細な反抗心からだ。
「っんぐ」
ライナーの小さな呻きはあたしの口で塞がれた。瞠目した黄金の瞳に、腹の底で微かな優越感が広がっていく。自分より高い位置にある顔を引き寄せ、かさついた唇を割るように舌先でなぞってみせた。前のめりになった体を急かすと、すぐさま口が開かれる。分厚い熱が勢いよく入り、滑り込んだ舌を受け止めて絡みつく。「ふ、」教え込まれた呼吸を実践しながら、お互いの唾液を混ぜ合う。自らが発している下品な音を耳にしたまま、こちらを征服しようとしてくる熱から逃げる。舌先で上顎を突いてやれば「ゔ」ライナーは苦しげな目元をつくって、口端から一筋の涎を垂らした。それが顎を支えた自分の手につたってくるのも構わず、目の前の唇を貪る。仕返しとばかりに進行してきた舌を押し返して、裏から順に嬲って、後退しかけたところを捕まえた。腰を手繰り寄せたライナーの手が、私の体をぎゅうと自分の方へ引き込む。すっかり蕩けた表情で、されるがままに口内を蹂躙されてるライナーが、また別の熱を押し付けてくる。あたしの腹を抉るように立ち上がった膨らみは、緩やかに擦れてる。ぐ、ぐ、と下腹部を突き上げるような動きを始めたところで、あたしはぐずぐずに解れた口を離した。顎を支えていた手も離して、溶け合いそうなほどに密着していた体を突き放す。
「ッは、は、……ど、うしたんだ。突然」
一目で見てわかるくらい紅潮した頬の上、ライナーは目元を生理的な涙で潤ませながら息も絶え絶えといった様子でつぶやく。あたしは空中に垂れていく銀の糸を指で切ってから、濃厚に混ざり合った唾液を喉奥へ嚥下した。
「なぁに、その顔。したがってたの、ライナーでしょ」
求めていた癖に、ライナーは呆然としたままだ。肩で息をしている姿が可笑しくて鼻で笑ってしまった。まだ余韻に浸ってるライナーの汚れた口元を、エプロンの裾で拭ってやる。何に反応したのか。定まらないライナーの瞳が情欲の色でもの惜しそうに揺れるけれど、その下で打ち震えているものには触れてあげない。
「洗い物、終わらせたいから。今はこれでおしまいね」
自分の指を滑らせれば、体にしがみついていたライナーの手は呆気なく離れた。キスだけに留める作戦は成功したらしい。汚れた食器を沈めた桶へ向き直り、放置された泡だらけの皿に手を伸ばす。
「わかった……」
自分より二歳も年上で、髭まで生やしている男にしては、やたらとか細い鳴き声だった。
その夜、あたしはブラウン家の一員として食卓に肩を並べていた。仕事や何の取り留めもない世話話。あたしは入り込める隙のない会話に口を閉ざしながら、水を飲んで食べ物を胃に落としていた。
「今日の射撃も的に全部当たったの!!明日はもっと距離を離すんだって!」
「すごいわね、ガビ」
「きっとお前なら銃の名手になれるな」
この家族は子供が殺しの技術を学んでいくのが嬉しいようだった。他の生き物を殺すために作られた武器の名手となったところで、得られるのは人殺しの称号だけだと言うのに。
「ライナーは候補生の時、何が得意だったの?」
「一番は……長距離走だな」
「やっぱりそうなんだ!忍耐力がないと鎧の巨人は務まらないもんね」
「ああ」
強烈な料理の味を水で洗い流しながら、二人の会話をどこか白けた目で眺める。脳裏に浮かんだのは昼間の光景。その忍耐力を戦場だけじゃなく、もっと別のところでも発揮してくれないんだろうか。
「ノエルは?」
ライナーに向けられていた顔が、あたしを見た。思わぬところで名前を呼ばれ、咽せそうになるのを喉奥で留めた。
「ごめん。候補生に選ばれなかったんだから、得意なことなんてないよね」
「こら。そんな言い方はないだろう」
子供染みた嫌味を父親が咎めるも、ガビは探るような目つきを変えないままだ。本当なら、候補生にもなれなかったあんたにライナーは相応しくない、とでも言いたいのだろう。薄ら笑いを浮かべ、受け流そうと口を開きかけ。「いや」声を上げたライナーによって遮られた。
「ノエルは馬術が得意だった」
「馬術?……そんな訓練、なかったけど」
ガビが不審そうに眉を歪める。そんな様子を前にして家族たちも訝しげな表情を向けてきた。ひやりと嫌な汗が背中をつたう。余計な助け舟を出してくれたライナーに湧き上がるものを押さえながら、ゆったりと笑んでみせる。
「……昔はあったんだ」
「へえ……じゃあ。あんたの訓練は無駄だったってこと?」
「そうだよ」
あの、血反吐を吐いて過ごした三年間。どうせ何もかも捨てることになるなら、この家で主婦の真似事をすることになるなら意味なんてなかった。間髪入れずに大きく頷いてみせると、ガビは押し黙ってしまう。肯定されるとは思わなかったんだろう。気まずい沈黙をそのまま放置していたら、「ガビ、明日の訓練は何するの?」すぐさま取り留めもない話へと取って代わられたのだった。
ベッドの上で腰掛けて、窓の外を目に映す。外はすっかり夜闇に覆われ、四角く取り付けられた枠からぽつぽつと灯りをこぼすのみになっていた。これがレベリオ収容区の夜だ。訓練地とも、兵舎とも違う光景。居心地の悪さを抱えながら、息を吐く。今日もどうにか切り抜けた。このまま四肢を投げ出してねっ転びたい。そんな乱暴をこのベッドが耐え切れるはずもないので、やらないけれど。取り替えたシーツを意味なくなぞっていると、ベッドが重く沈み込んだ。
「ノエル、昼間の続きが……したいん、だが」
おずおずと投げかけられた方へ、顔を向ける。ここへ来てからは、二人で共に寝床へ入るのがお決まりとなっていた。ライナーが言い出したのだが、それだけなら大した不満はない。むしろ、殆どそうならないことが悩みだった。
「……忘れてなかったんだ」
「忘れられるわけないだろ……」
ため息混じりに吐き出すと、ライナーは言いながら目を逸らす。脳裏には昼間の光景でも過っているんだろうか。綺麗さっぱり忘れてくれていた方がありがたかったのに。
「したいから、覚えてたんじゃなくて?」
「ま、……まあ。それも……なくは……」
一歩踏み込めば、ライナーが歯切れの悪い返事をする。こうなる可能性を考えたら、あの時の対応は悪手だったかもしれない。すっかり安眠につこうとしていた意識を遮られ、まどろっこしさに神経が逆撫でされる。
「この、すけべ」
「それなんだが……お前も、同じじゃないか?」
「は?」
もはや、ほぼ文句となったそれを吐き捨てたら、予想外のところから切り返された。意味のわからない返答に、取り繕おうのも忘れて反応する。
「あんな風に求められて、我慢できる男なんか……そう、いないだろ」
「......ふぅん」
目を泳がせながら言ったライナーの前で、短く息を洩らす。ライナーには昼間のあたしが、家事の最中に耐え切れず誘ってきた彼女、のように見えていたらしい。無事に演じ切れていることを喜ぶべき、なのだろうか。違う気がする。
「それで?あたしを痴女にして。ライナーは何をして欲しいの?」
「いや。そ、そんなつもりは」
わざと語気を強めて言うと、ライナーは傷ついたような顔をつくった。最初から正直に求めてきていたら、こんなことにはならないだろうに。ライナーの不器用さへ同情しながら、指摘はしなかった。
「そう、よかった。じゃあ、あたし寝るね」
狼狽えているライナーから視線を外して、さっさと横になる。柔らか過ぎて意味のない枕に頭を預け、はみ出そうな足を折り曲げた。洗濯しておいたブランケットに手を伸ばそうとして、覆い被さってきた影に遮られる。
「何?」
「すまなかった……俺のことは、どう呼んでくれてもいい。だから……その、キスだけ」
最初から、そのつもりの癖に。そう吐き捨てたくなるのを飲み込んで、男を見上げる。何を躊躇しているのか、もじもじと求めてくる姿は図体と似合ってなかった。その体が段々と前のめりになって、圧をかけてくる。抜け出す余力も、誤魔化す方便も残ってない。諦めて頷き返せば、分かりやすく目元が綻んだ。
「ノエルっ……」
その言葉を刻むように、ライナーの顔が降りてきた。柔らかい唇が、全て丸め込もうと蓋をしてくる。こうなったら、どうしようない。逃げられないように頭を固定してくる手のひらも、背をなぞる指も受け入れて、体の力を抜いた。
「ん、ん……は、」
好きにやらせていると、溢れてくる吐息が熱っぽさを帯びてくる。ちろちろと強請るような舌が唇にあたり、頬を上気させたライナーが何か言いたげな目を向けてきた。抵抗する気も失せてきて、自分のを差し出せば、待ち望んでいたみたいに絡んでくる。同時にライナーの手が下半身まで降りてきて、寝巻きを容赦なくたくしあげた。外気にさらされた肌が粟立ち、そこを指がなぞるように滑り落ちていく。欲を向けられ慣れてない体が意志と関係なく跳ねて、ライナーが愛おしげに目を細める。
灼けるような息づかいと共に、唇が離れた。粘ついた涎が、顎をつたい落ちていく。「ッまだ、……」あたしの口内を好きに蹂躙し終えたライナーは、肩で息をしながらつぶやいた。体を這っていた指が、足の付け根まで降りてきた。指の腹が布地と肌の境目を行ったり来たりして、鬱陶しい。眉を顰めたところで、飢えに濡れた瞳は離されないままだ。
「……おいで」
言い切るよりも早く。緩く浮かべた手のひらが、上からベッドに縫い付けられ、ぎゅうときつく握られる。着たばかりの服が脱がされていくのを、どこか達観した目で眺めていた。
これが、あたしの新しい生活。求められるがままに体を預け、望まれた役割を演じる。ここでの上手い生き延び方だ。どこかから湧き上がる居心地の悪さを掻き消すように、ライナーの顎を引いた。