島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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【注意】恋愛?要素・R-15程度の性描写が含まれます。軽めの無理矢理・嘔吐表現もあります。自衛お願いします。


第37話 偏愛

 

 数ヶ月前なら、周りの喧騒に紛れて一人きりで歩いていた道。足元に伸びる影は、二人分に増えている。今日もいつも通り、訓練帰りのファルコを捕まえて中身のない雑談をしていた。最近洗い物のやり過ぎで手が荒れたとか、長距離走ですっ転んで笑われたとか、お互いに何の落ちもない会話を交わす。あたしは頷きながら、たまに先輩面で助言したりして。味方不在の日常は、新たに得た支えのお陰でどうにかやり過ごせつつあった。家の中では相変わらず孤独だったが、外に出ればファルコがいる。ファルコと話している時は、あらゆるしがらみから解放されているかのようだった。義務的な言葉しか交わさないライナーの叔父たちと、明らかに距離を取られている他の親族。カリナ以外の人間とはまともに話せていないが、あたしにはそれで充分だった。

 

「いいもの持ってきたよ」

 

 おはようございます、と挨拶しても目を逸らされてしまった今朝の光景。脳裏に浮かんだそれを心中に押し込んでから、あたしはとある包みを取り出した。ファルコの視線があたしの指先を不思議そうに辿る。

 

「それは……?」

「じゃん、パイ」

 

 布の結び目を解くと、小麦色の焼き色がついたパイが現れた。卵黄で塗られた生地が光を艶々と反射して、焼きたての香りを漂わせている。痛みかけの果物を見つけたので、家事の合間に作ってみたのだ。あまりにも上手く出来たので、調子に乗ってホールごと持ってきてしまった。

 

「どうぞ、召し上がれ」

「っいただきます」

 

 ずっしりと伝わってくる重みを両手で支えているうちに、一切れ取ってもらう。切れ端を味見した時は美味しく食べられたが、こっちの人間であるファルコがどうかはわからない。パイの先端が小気味良い音と共に齧られ、欠片がポロポロと落ちる。ファルコは服についたその屑をはらいつつ、味わうように口を動かしている。こう圧をかけるのも良くないだろうに、じっと咀嚼し終えるのを待っていた。

 

「すっごく、美味しいです!」

「ほ、ほんと?良かった」

「本当ですよ!こんな美味しいパイ、久しぶりに食べました」

 

 パイを飲み込んだらしいファルコが、叫ぶように言った。ここまで絶賛されるとは予想しておらず、自分で聞いた癖して狼狽する。こうも素直に褒められると、頬が熱くなってきた。

 

「良かったら、これ全部持って帰って」

「こ、こんなに……いいんですか?」

 

 赤ら顔を隠すようにして、ファルコに持っていた包みを突きつける。見上げてくるファルコの視線から逃れるように、意味もなく遠くを見た。酔っ払いで有名なおじさんが、また露店のおばさんに怒られている。

 

「いいの。家族と食べてよ」

「ありがとうございます。いつも……貰ってばかりですみません」

「ううん。ずっと家事してばっかりじゃ、飽きちゃうから」

 

 怪訝そうにしているファルコの頭へ、優しく手をのせた。ライナーよりも柔らかい髪の毛に指を通して、何往復かしてから手を離す。

 

「ノエルさん……」

「いやだった?」

「いやでは、ないですけど……」

 

 大人しく頭を預けていたのに、ファルコがもごもごと何か言っている。念のため聞き返しても、それとなく濁されてしまう。どうにもファルコは頭を撫でられるのが恥ずかしいようだった。最初こそ嫌がっているのかと危惧したが、どうも違うらしい。他の子より大人びている分、今更される子供扱いがむず痒いのだろう。それを知っていながらやるのは、ファルコへのささやかな仕返しでもあった。

 

「あ、そういえば……もうすぐ戦士隊が帰還するって、聞きました?」

「あぁ……そうらしいね」

 

 仄かに上気した耳が元の色に戻った頃、ファルコは思い出したかのようにつぶやいた。目新しい情報ではない。どこで仕入れてきたのか、カリナから伝えられていたからだ。 

 

「あまり、嬉しくないんですか?」

 

 念願の恋人と再会できる立場としては、相槌が素っ気なさ過ぎたのだろう。ファルコが窺い見るようにして、あたしへ顔を向けてきた。正直、どちらでもない。いてくれれば、多少過ごし易くなるが、ライナーの相手をする必要がでてくる。いなければ、体は楽だけど、今の息苦しさで生活しなきゃいけない。どっちにしろ、同じようなものだ。不条理な現状に打ちひしがれながら、悟られないよう話を続けた。

 

「そりゃあ……一度も会えないまま、4ヶ月ぶりってなったら不安にもなるよ」

 

 「あたしに興味なくなっちゃってないかなー、とか。色々」わざと視線を落とし、声色までひと段落暗くしてみせる。むしろ、どこかで良い人でも作ってくれれば良いんだけど。

 

「ほら、あたし。こんなだし……」

 

 渇いた笑みを溢しつつ、自虐的に肩をすくめてみせる。度々、不思議でたまらなくなる。あたしのどこがそんなに良いのか。クリスタのように特別可愛いなんて言われたことはなく、ついでに胸も育たなかった。いつまで経っても不健康な体つきのままなのに、ライナーはそれでも良いらしい。

 

「こんな、って。ノエルさんは魅力的な女性ですよ!」

「え」

「ブラウンさんも分かっているはずです!」

 

 予想外の返答に、嘆声を漏らす。強く跳ねた心臓を胸の上から押さえつけて、俯いた。耳がツンと熱っぽくなるのを、髪で覆い隠そうとする。あたし、今日は何かしてしまったんだろうか。

 

「どうしました?」

「い、や……ありがとう」

 

 様子のおかしいあたしに、ファルコが首を傾げたまま、聞き返してくる。これで、無自覚なんだから末恐ろしい。子供相手にまんまと揺さぶられた心を抑え込み、感謝の言葉を返した。

 

「まあ、兎も角……ファルコは恋人に寂しい思いさせちゃダメだよ」

「こ、恋人なんて。俺には……できないです」

 

 虚を突かれた部分はどうにか飲み込み、先輩面で助言してみせる。気遣いのできるファルコなら、こんな心配もいらないのだろうけれど。子供らしく視線を彷徨わせているファルコへ、あたしは調子良く言った。

 

「どうかな?あたしがもうちょっと若かったら立候補してたのに」

「そ、そんなの、ブラウンさんに悪いですよ」 

「さあ?4ヶ月間、手紙の一通も寄越さないほうが悪い」

 

 そうだ。通っている屋台のおばさんは、従軍している子供からの手紙を読むのが楽しみだと言っていた。今のところ、あたしの元へそういう気遣いが届いたことはない。別に欲しいって訳じゃないが、よく考えると酷い話だ。ライナーはあたしをここに縛りつけているのに、何の音沙汰もなしに放置してる。空いた期間で浮気に走っても何らおかしくない。

 

「ノエルさんって、意外に……」

「なに?」

「い、いえ!」

 

 帰ってきたら、暇つぶしに問い詰めてやろうか。微かな反撃の糸口を探っていると、ファルコがつぶやく。含みのあるような音に聞き返してみたものの、すぐ首を振られてしまった。

 

 あの後も何てことはない雑談を繰り返して、今の住処に戻ってきた。ギシギシと軋む埃っぽい階段を一段ずつ上がっていき、ひび割れた壁を辿っていると一枚の扉の前に辿り着く。持たされた鍵を使い、あたしは古びた扉を潜り抜けた。廊下を突き進み、開けたリビングに出る。そこには、一人で椅子に腰掛けているカリナの姿があった。隣人とのお喋りは早めに切り上げてきたらしい。その姿を目に入れるなり「帰りました」と一言付け加える。一瞥もされないが、慣れたことだ。買い出しの荷物を机へと下ろす。転がりそうになる野菜を抑え、夕飯はどうしようかと考えかけた時だった。「ノエルさん」静かに本を読んでいたはずの青い瞳がこちらに向く。

 

「明日の出迎え、あなたは行くの?」

 

 有無を言わさないような問いかけに、あたしは声を詰まらせる。帰ってくるライナーを誰が迎えに出るか。朝の食卓でも交わされていた話だ。一番に行きたがったのはガビだったが、戦士候補生の訓練と被っているらしい。嘆くガビを父親が宥めていた。結局、仕事の都合とかでカリナだけが赴くことになっていたはずだ。

 

「あたしは、……」

 

 ライナー以外の戦士隊にはあまり接触したくない。特に、獣の巨人だ。顔が割れていることも理由だが、そうでなくとも会いたくなかった。今でも思い起こせる。あの、冷え切った眼差し。硝子越しですら隠し通せていない、異質さを。考えてみれば、あんな人間を信用している時点でライナーたちの可笑しさに気づくべきだったんだ。今更で、遅すぎるけれど。

 

「私の代わりに、行ってくれないかしら」

「カリナさんの、ですか?」

 

 思わぬ返答に、伏せかけていた顔をあげた。視線が交わるなり、皺の刻み込まれた目元が悲痛げに歪む。首がゆっくりと縦に揺れて、カリナは口を開いた。

 

「そう。昨日から腰の痛みが取れなくて……ライナーもお嫁さんに迎えられた方が嬉しいと思うの」

「カリナさん、あたしはまだ……」

 

 突拍子のない話についていけないまま、気の早い呼び方へ声を濁す。外では否定するのも諦めるほど呼ばれてきたが、カリナから言われるのは初めてだ。

 

「あと。その呼び方も、遠慮せずに変えなさい。私たちは家族になるんだから……他人行儀じゃ寂しいわ」 

「……はい、お義母さん。ありがとうございます」

 

 あたしを置いてきぼりにして、カリナは一方的に話し続けた。求められているものが会話ではないことに、早く気がつくべきだった。全て吐き終えてたカリナが、じっと催促するような目を向けてきて、あたしは望み通りの返事をする。満足そうに微笑んだカリナの前で、乾いた笑みをつくるしかなかった。

 

「ライナー」

 

 その翌日。あたしは布を顎下で結び、人相を充分覆い隠せる格好で群衆に紛れていた。雪崩れ込んできた戦士たちが感動の再会劇を繰り広げている横。目を細めずとも向かってくる人間が誰かわかった。

 

「ノエル……!」

 

 草臥れたワイシャツに色褪せたコート、左腕に下げられた赤い腕章。ライナーは見送った時と変わらない姿でそこにいた。早まった歩みが、一歩踏み出したあたしの眼前で止まる。

 

「来てくれたのか」

「うん。おかえり」

 

 ライナーがほっと息を吐くように呟いて、あたしは微笑んでみせる。本当は来る予定じゃなかったけれど、真実は伝えなかった。言い切るなり、ライナーが手を伸ばしてくる。存在を確かめるような手つきであたしの輪郭をなぞってから、胸の内に軽く引き寄せた。

 

「良かった……」

 

 重苦しい吐息が耳にかかって、擽ったい。キスの一つでもされるかと身構えていたから、このしおらしさは予想外だった。夜には窒息しそうなくらい唇を重ねてくるのに。人前では理性が働くらしかった。軽く胸板を叩くと、いつものくっつきようが嘘のように剥がれた。

 

「あ、……」

 

 解かれた腕の中から顔を上げようとして、その先に映り込んだ人間の背。二人の男女と言葉を交わしている人影が、心臓を揺らした。

 

「あの、人」

 

 ライナーと同じマーレの戦士なのだから、いることは分かっていたはずだ。見つからないようにしなければならないことも。それでも、その影から目が離せなかった。頭に被せた布を深く被り直しながら、問うような声を出す。

 

「ガリアードが、どうかしたか?」

 

 ライナーの返答で、疑いは確信へと変わった。あの地獄で、あたしを人間として扱ってくれた唯一の人。ポルコ・ガリアード。赤い腕章を身につけ、新緑の上着を羽織っていた。牢の中から見ていた姿と一寸の違いもない。至って元気そうな様子で、そこにいる。死んでしまったのか、と気を落としていたのが馬鹿らしいほどに。ポルコは気が狂いそうな現実を僅かに繋ぎ止めてくれた恩人だ。感謝の一つでも告げたいところだけれど、牢に入っていない島の悪魔を見て、ポルコが何を思うかわからない。これからも、会うことはないだろう。

 

「別に。男前だなって、思っただけ」

「な、」 

「……なんてね」

 

 暫しの沈黙を経てから、あたしが考え込んでいる間ずっと鬱陶しく見つめてきた男へそう返す。戯れのつもりだったのに、効果は絶大だったらしい。ライナーの浮かない面持ちが晴れることはなく、歩き出してもポルコの方をチラチラと見ていた。

 

「心配になっちゃった?」

「そりゃあ、なるだろ……他の男をそんな風に言われたら」

 

 発言を撤回しても、ライナーは気が晴れないようだ。うろうろと目を泳がせながら、歯切れ悪くつぶやいた。子供染みた嫉妬に呆れる気持ちを抑えつつ、人差し指で頬をつつく。

 

「ライナーも、男前だと思ってるよ」

「も、ってなんだ」

「カッコいいよってこと」

「そ、うじゃないだろ……」

 

 ライナーと一緒に帰宅して、その晩はちょっとしたお祝い事のようだった。特にガビなんかはすごいはしゃぎようで、食事中も喋りっぱなしだ。あたしは家族から引っ張りだこのライナーを眺めながら、食事を胃の中へ詰め込んでいた。

 叔父さんたちも他の家族も部屋に戻り、食卓にはあたしとカリナ、ライナーだけが残っていた。戦果がどうとか、ガビの成績がどうとか。親子同士にしては素っ気ない会話を耳にしながら、あたしは積まれた夕飯の洗い物を淡々と洗う。

 

「ノエルさん。仕事は……まだできそうにないのかしら」

 

 何を思ったのか。カリナが唐突にあたしを呼んだ。こんな急に話しかけてくる時なんて、碌なもんじゃない。半ば押し付けられたような昨晩の記憶を浮かべながら、まだ半分しか綺麗になっていない皿から指を離す。

 

「母さん。ノエルは退院したばかりなんだ。もう少し休ませてやらねぇと」

「そうかい?ずっと一人で留守番させておくのも……身重なら話は違うのだけど」

 

 どう答えようかと悩んでいた頭は、ライナーによって遮られた。もう何ヶ月も経ったのだから、心配などしなくてもいいはずなのに。あたしですら無理があると思うライナーの理屈で、カリナが納得するはずなかった。嫌味に限りなく近い相槌をされ、「あ、はは」なけなしの愛想でどうにか耐える。

 

「……二人は、もうそういう話をしたのかしら」

 

 浅い笑みを貼り付けつつ、次の皿を水の中へ潜らせようとした。カリナの口から発された一言が、その指の動きを止める。

 

「いや、ねえ……向かいのお宅に住んでる若夫婦、子供が産まれたらしいの」

 

 単なる雑談の話始めみたく喋り始めたカリナの前で、指の間から擦り抜けた皿が桶にがつんとあたる。いつか言われるのではないかと怯えていた話題が、現実のものとなってしまった。じわりと背中に気味の悪い汗を垂らしながら、遮ることはできない。

 

「ライナー。あなたの任期も少ないんだから、早く孫の顔を見せて頂戴ね」

「……ああ。わかってる」

 

 静かに頷いたライナーが、じっとあたしの方へ目を向けた。その瞳が何を考えているのか知りたくなくて、すぐさま顔を伏せる。水の中でちゃぷちゃぷと浮かんでいる皿を眺めながら、頭の中で独りごちる。変な気を、起こしていないといいのだけど。

 

「……なあ、さっきの」

 

 そんな杞憂が現実のものとなったのは、洗い物をしてすぐ後のこと。明かりを失った部屋で、ベッドに腰掛けたライナーが言った。

 

「母さんの話……お前は、どう思った」

 

 長旅明けだからと水浴びにいったライナーを律儀に待っていたのが悪手だった。最初の取り決めなんか忘れ、さっさと眠りについて仕舞えば良かったのに。耳元で大きく鳴り始めた脈動を聞きながら「……さっきのって?」あたしは何も分かっていない振りをした。

 

「ねえ。ライナー」

 

 ライナーが再び何か発するより前に、あたしは口を開いた。不穏な空気を掻き消すよう、場違いなほど明るく呼びかける。じっと何かを思案しているような表情を向けてくるライナーへ、あたしはにこりと微笑んだ。

 

「いっぱい戦って疲れたでしょ。ほら、早く寝よう?」

 

 ライナーの乱れた前髪を軽くはらって、ベッドの空いた空間を軽く叩いた。放置されていた手を上から覆う。水浴びをしてきたからか、手の甲は薄寒かった。指も自分から絡めて、そのままぐっと急かすように引いてみせる。殆ど力の入っていない体がされるがままにずれ、あたしは自由が効く方の手をライナーの体に這わせた。

 

「前みたいに、抱っこしてあげようか。ライナー、好きだもんね」

 

 服の上からでも筋張っていて筋肉質な背中を、手のひらで何回も上下した。太もも同士があたるほど距離を詰めて、ライナーの体を自分の胸の内に引き寄せようとする。ライナーはあたしの胸に思いっきり顔を埋めて、ただ撫でられたがっていた。母親の真似事のようなそれがあたしは好きではなかったけれど、ライナーの意識をあの話題から反らせればなんでも良かった。

 

「これじゃあ、昔と逆だけど……」

「ノエル」

 

 冗談めいた笑みをつくろうとして、抱き寄せていた腕を掴まれる。ずっと地面に落ちていた瞳がこちらを向く。「ら」あたしが何か言うよりも先に、ライナーの口が動いた。

 

「俺は、……お前との子供が、欲しい」

「ぁ」

 

 力の抜けた手が、強く握り返される。さっきまではなかったはずの温もり、じっとりと汗ばんだ手のひらに息を呑む間もなかった。引き摺られるまま、ベッドへ沈み込む。仄かに香り付いた石鹸の匂いで、視界がねじれてく。

 

「分かってる」

 

 鎮まり切った部屋に、ライナーの消え入りそうな声が響く。やっとのことで吐き出したみたいな、掠れ切ったそれ。人を押し倒しているにしては、あまりに弱々しくて、場違いだった。

 

「大勢殺してきた俺に、こんなことを望む権利は……」

 

 そこまで、分かっているんだったら。今すぐにでも退いてくれればいい。喉元まで昇ってきたそれを、口にすることはできない。自身へ刻み込むよう、深くつぶやいたライナーは、それでもあたしの前から体を退かさなかった。むしろ、顔を擦り寄せてきて、鼻先がくっつきそうなほど近くで止まる。

 

「全部、俺が悪いんだ。これからのことも、俺のせいにしてくれていい」

 

 落ちてくる影の中で、弱々しく震えていた瞳から透明な雫が落ちた。あたしの頬で弾けて、顎先に流れてく。それを目で追うことはライナーの顔に遮られて、できなかった。

 

「だから、」

 

 ライナーが唇を開き、体から僅かに残っていた熱さえ引いていく。やだ、いやだ。聞きたくない。耳を塞ごうとして、できなかった。

 

「子作りしよう、ノエル」

 

 涙でぐちゃぐちゃに乱れ切った顔とは、まるで釣り合ってない。死刑宣告のような響きが、脳を揺らした。「ぁ、」衣擦れが、やけに大きく聞こえてくる。本能が体を動かしていた。シーツに爪を立て、ベッドから転げようとして、真上から縫い止められる。

 

「俺の子を、……産んでくれ」

 

 影が落ちてきた。下向きだった顎をとられ、唇がぢゅう、とわざとらしい音を立てて吸い付いてくる。嫌でも視線が混じり合い、色づいた瞳の前に晒される。ライナーの、潤んだ膜から雫が溢れていく。なんで、こんなことになったんだっけ。興奮した犬のような息遣いが、とっくに慣れたはずのそれが。心臓の鼓動を掻き立てる。鼻を摘んでやりたいのに。シーツへ埋められた両腕は、動かない。兵士の頃から、何もかも敵わなかった。敵わないから、憧れて、尊敬してたのに。

 

「ッは……」

 

 ライナーが、上から閉じ込めるみたいに口を塞いでる。控えめに割り込んできた舌が口内を好きなように嬲り、鼻につくような吐息が洩らしている。急に唇を離され、その間に糸が垂れた。開口したまま、涎を垂れ流すあたしに対して、ライナーの喉仏がゆっくりと上下する。

 あの頃、みんなの兄貴分だったライナーの面影は何一つ残ってない。あたしが好きだったライナーなら、こんな。独りよがりで、無責任なことはしなかった。しないはずだった。

 

「ノエル」

 

 過去に縋ろうとしたあたしをライナーが現実へ引き戻す。顔が擦り寄ってきて、そのまま額を合わせられる。生温い人肌がじんわりと侵食してきたかと思えば、また別の熱が腹から這い上がってきていた。「ぁ、」喉奥から嘆きみたいなものを出せば、ライナーはその熱を誤魔化すみたいに、口付けてくる。引き止めるような短いキスをしながら、ライナーの目元から途切れることのない涙が流れ落ちていく。歓喜か、罪に耐え切れていないのか。きっと、両方なのだろう。あたしたちは、欲を前にするとあまりにも弱い。

 

「俺を、許さないでくれ」

「い、……ぁ」

 

 お腹の、臍より下。女にしか存在しない臓器が入ったそこを、無骨な手のひらが摩った。あたしのより一回り大きくて、太い指。手を合わせて笑い合ったそれが、何度も何度も薄い皮膚を撫でている。昔の粗暴な手つきは、どこへ行ってしまったのか。宝物の埃でもはらっているようだった。

 

「許さなくて、いい」

 

 誰からもされたことのなかった動作で、触られるたびに体がくう、と曲がる。そんなあたしの耳元、ライナーは許しを乞うていた。無作為に伸ばされた顎髭が、頬をちくりとした感覚を伝えてくる。

 答えはしなかった。こちらを孕ませようと息づいている男の前で、そんな余裕は残っていなかった。ライナーも求めていなかったのだろう。言ってすぐ、肌着の中に指を滑り込ませてきた。「ひ、」自分の口からあがったのは、快感でもなんでもない。ただの悲鳴だった。こんなの、何度も経験してきたのに。初めてされた時、ライナーに教え込まれる前に戻ってしまったようだった。

 

「ら、いなー」

 

 全身を震撼する衝動に逆らって、どうにか呼び声を吐き出した。自由になった片腕もあげ、ライナーの頬に触れる。あたしの下腹部に向けられていた視線が持ち上がり、じっと沈黙した。涙の跡をつけた顔が、あたしを映す。そばで波打つ鼓動に耳を侵されながら、待った。悪かった、と一言つぶやいて離れてくれるだけでいい。黄金の瞳が揺らいで、また新たな一筋の跡をつくる。

 その様子に、強張っていた体の力が抜けた。そうだよ、ライナー。こんなの何の意味もない。ただ罪を重ねるだけ。重苦しい熱の中で、言えるはずのない本音を呟く。「ら」また名前を呼ぼうとして、降ってきた影に呑み込まれた。違う。ぐちゅ、ぐちゅ、と。離す度に角度を変えられ、唇の隙間から下品な音が漏れる。あたしは、なにを期待していたんだろう。ライナーの頬に添えていた手が、汗ばんだ指にすっかり絡み取られ、握られていた。ごりゅ、と股の間へ硬いものが食い込んでくる。暴力的な摩擦。服の上からでも。それが何をしたがっているのかは理解できた。腰を引こうが、逃げられない。散々わかりきってることなのに、体は諦めきれてなかった。密着してくる体を意味もなく押し続ける。頬につたっていく冷たい感覚が、誰のものかわからなくなって。今度こそ、なんの言葉も発せなかった。

 

――――

 

 遠くから聞こえてくる、鳥の囀りで目を覚ました。昨晩の出来事と比べたら、あまりにも優雅な目覚めだ。夢だったらよかったのに。それを許さないとでも言いたげに、信じられないほどの怠さが全身に纏わりついている。しまいには、昨晩のものが入ったままだった。隣のライナーは、固く瞼を閉じて身じろぎひとつしない。「は、ッ」掠れ切った息を肺から押し出して、どうにか一人で処理する。どろりと一緒に這い出てきたものは自分の手で押さえ、脱ぎ捨てられていた下着で蓋をした。

 一回だけでは止まらず、謝りながらせっついてくる男を受け入れて、何時間経ったんだろう。窓から見える空は早朝の白み方をしていて、それだけが救いだった。壁を支えに、何もないところで躓きながら扉へ進んだ。あたしが全身の痛みに耐えながら辿り着いたのは、薄暗い洗面所だった。幸運にも、どの家族とも会わずに済んだ。短く呼吸してから扉を施錠し、洗面台に手をかける。鏡には、目元を真っ赤に腫れ上がらせた無様な女の姿があった。

 

「ゔ……」

 

 下着ごと履いたズボンを脱ぐと、濃厚な雄の匂いがした。下着では蓋をしきれなかったらしい。ズボンの股座にできた滲みを睨みながら、床に敷いた洗濯前のタオルの上で膝をつく。自分の手を仰いでから、意を決してそこに突っ込んだ。折り曲げ、必死になって掻き出す。垂れてこなくなるまで、歯を食いしばって指を動かし続けた。内臓が収縮する動きと共に、出されたのものが外へ流れてく。なんで。あたしは裸で四つん這いになって、こんな惨めなことをしているんだろう。

 

「ぅぇ、う」

  

 冷静になった頭がそう言って、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。ずっと背負ってきた怠さに引きづられるまま、床へ崩れ落ちる。毛羽だったタオルと、染み込んだ冷たい液体が触れた。「ひ、」反射的に体が跳ね、仰向けに転がる。埃舞う天井を見上げながら、軽くえずいた。吐いても、意味がない。注がれたのは、別の場所なんだから。頭ではわかっているのに、止められなかった。胃の中から迫り上がってきたものが、背を湾曲させる。洗面台に手をつく気力は残っておらず、その場で中身を吐き出した。

 ライナーは本気だ。目一杯使われたところがまだ痛んでいて、嫌でも理解させられる。都合よく利用してきた女という性を、ここまで恨むことになるとは思ってもみなかった。しつこく主張してくるそこを、軽く握った拳で殴った。こんな物があるせいだ。このままじゃ、本当に孕ませられる。あたしという悪魔の血を継いだ人間が、もう一人増えてしまう。悪夢みたいな現実。ろくに罪も償ってすらいない、加害者たちの間に出来た子供。そんな、悪魔の子はいらない。誰も愛さない。

 早く、早く。別の居場所を見つけないと。ファルコじゃ、無理だ。相談できる訳がない。もっと大人で、それなりに力を持っている人間。できれば、ライナーに好感を抱いていない人がいい。欲しいのは、あたしだけの味方。優しくて、いい人を。

 

「ぁ」

 

 胃液で焦がされた口から、粘ついた液を垂れ流したまま、固まる。浮かんだのは、ライナーを出迎えた時の光景。人混みで、両親と思わしき人に労われる背中。鉄格子越しでしか、見たことのなかった横顔。そうだ。あたしには、まだ――

 

「あ?」 

 

 人混みを掻き分け、やっとのことで服の裾を掴む。久しく会っていなかったその人は、何も変わっていなかった。急に引き止められた体がそう声を出しながら、ゆっくりとこちらへ振り向く。

 

「ッな、……おま、え」 

「まだ、生きてたよ」

 

 大きく見開かれた瞳に、いつも掛けられていた言葉を吐く。あの夢が、呪いが、まだ続いているなら。じわりと滲んだ汗を誤魔化すように笑みをつくった。

 

「ポルコ」

 

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