数ヶ月振りでも変わらずに迎えてくれる故郷の姿を眺め、街頭を颯爽と駆け抜けていくガキの背を見送る。夕暮れに差し掛かったレベリオ収容区で、俺は帰路についていた。ジャケットのポッケに手を突っ込んだまま、前へ前へと進んでいく。そんな中、頭に浮かぶのは直前までの会議の光景だ。
中東連合を相手取った戦争は、もう二年間続いている。俺を含めた四体の巨人の力があっていながらだ。その内の一人が使い物にならないドベだったとしても、数年前ではマーレがここまで手こずらされるなど考えられない。さっさと主力基地を落としていけば良いものを、そう進まないのには原因があった。半島の制海権をとるためにうだうだとやっている海軍がことあるごとに口を挟んでくるのだ。大した戦果もあげねぇ癖して、面の皮だけは厚い。飄々とした顔で陸軍の作戦会議にも口を出してきやがる。自分らの都合の良いことばかり言うあの横顔、上官でなければ殴っていたところだ。湧き上がってきた苛立ちを、爪先にあたった小石で発散する。蹴られた石が数歩先まで転がって止まった。海軍。そうだ。アイツらの見回りがザルだったせいで、軍港の奇襲まで起こった。制圧作戦のために待機していたエルディア人部隊が激戦の遂取り戻したが、本部はペシャンコだ。中にいたやつはそれで殆ど死んだらしい。あの、地下にいた女も。
見窄らしい哀れな女の姿が、嫌でも脳裏に過ぎる。額がじわじわと重くなり、頭に手を添えた。ドベが連れてきた島の悪魔。俺に呪いだけかけて死にやがった女は、まだ夢に出てきていた。忘れかけた頃に現れて、ドベや他の悪魔どもに囲まれてアホ面で笑ってやがる。俺へ見せつけるかのように。
悪夢だと、そう片付けて仕舞えば良いんだろう。割り切って、夢の中でも目を閉ざせばいい。悪魔どもの顔を見る必要も、兄貴面気取ってるドベも見なくて済む。それなのに、俺の頭はそれを許さなかった。夢と記憶の境目で、アイツは笑ってやがる。俺に優しいと呟いたその顔で、気の抜けた微笑みをドベに向けていた。故郷を捨てさせ、お前を地獄に突き落とした挙句、出来もしない約束を取り付けた相手に向かってだ。その胸糞悪りぃ光景をいくら眺めていようと、馬鹿みたいに真っ直ぐな目が。笑みが、あの時のように俺を映すことはない。当然だ。俺が視ているのはただの記憶。アイツはもう夢の中にしか存在しない幻影で、穢れた島の悪魔。だから、ソイツの姿を目で映した時。夢を見ているのだと、そう思った。
「ポルコ」
現実だと気がついたのは、女の瞳が俺を映していたからだった。町の喧騒と切り離され、時が止まったように思える空間の中で、真正面から俺を捉えている瞳孔が、確かに息づいていた。
「お、まえ、なんで」
「そんな顔して、やだなぁ。折角の再会なのに」
驚嘆の余韻が言葉を詰まらせる。間違いなく軍港は潰されて、アイツは牢に詰め込まれていた。脱走の気概なんて無くなるくらいズタボロにされて、いつも転がっていたはずだ。何も発さない口を閉開したまま、女の姿に目を落とす。伸びた髪を一括りにまとめ、知らない服を身に纏った女は、俺の反応を前にして笑った。
「ほら。生きてるでしょ」
女が手を伸ばし、下ろされていた俺の腕を掴んだ。「なっ、」唐突な動きに何もできないでいると、自分の手に熱が纏わりついてきた。生きている人間の生温いそれが、じわじわと体を侵食してくる。
「ね、」
全て見透かしたような瞳が、緩く細められる。その色には、俺の影が映り込んでいた。心のどこかで待ち望んでいたそれに、背筋がぞくりと震える。
「……来い」
熱に浮かされる自分を断つよう、やっとのことで声を吐き出す。このまま、されるがままでいるのは癪だ。何の整理もついていない頭で、重ねられた女の手を強く握り返す。今までは触れることのできなかった実体。すべやかな細い指に動悸を覚える自分へ舌打ちをして、半ば無理やり歩き出した。
大通りから外れ、細い路地に入り込む。乱暴に連れてきたにも関わらず、女は驚くことなく、引かれるがまま従順についてきた。抵抗もしなければ、声もあげねぇ。その様子にどうしようもない苛立ちを覚えながら、適当な場所で足を止める。
「艦隊二隻に奇襲されて、あの港の本部は吹っ飛んだはずだろ」
掴んでいた手を乱暴に離し、余熱を誤魔化すように腕を組んだ。細い路地の壁に背を預け、思い起こすのは、会議室に飛び込んできた報告。変えようのない現実。溜まっていた唾を喉奥に押し込んでから顔を上げる。
「お前、どうやって生き残った」
眉間に皺を寄せて睨みつけるように問いかけたが、女は涼しい顔を少しも崩さない。むしろ、どこか楽しそうに口角をあげ、隣で俺と同じく壁へもたれた。
「色々、あったんだ。会えたんだし、経緯なんてどうでもいいでしょ?」
「それは俺が決めることだ」
そう小首を傾げてみせた女に被せてやれば、笑みをつくっていた口元は続きを喋ることなく固まった。余裕げな表情を少しばかり崩せて、腹の底で微かな優越感が顔を見せる。
「何を思って近づいてきたのかしらねぇが……俺はいつでもお前を島の悪魔だって突き出せる」
今すぐそうするつもりはないが、女の笑みを剥がすことには成功したらしい。さっきから真っ直ぐにこちらを見つめていた目が伏せられ、影を落としている。
「質問には素直に答えた方が、賢明だと思うがな」
勢いのまま言い切って、今度はこちらから女を見やった。その表情には、真一文字に引結ばれた口元だけが残っている。沈黙がその場を支配して、俺は女の横顔を眺めた。軽く探しても、打撲痕や擦り傷のひとつない。それが当たり前だというのにやたら新鮮だった。頬の肉もつき、うっすらと健康的な赤みもある。いつも血を垂れ流していた唇は、本来の色を取り戻していた。あの牢よりか、マシな生活をできているらしい。
「……あの襲撃で、あたし以外のみんな死んだよ。瓦礫に、潰された」
じっと何かを考えている様子だった女が、やっとのことで口を開いた。長く考え込んだにしては、捻りのない言い訳だった。
「ハッ、お前だけ、都合良く生き残ったってことか?」
「そう、だから今。ここにいる」
作り話とでも疑いたくなるような話を、鼻で笑い飛ばしてやったが、女は静かに頷くだけだ。脅し文句を使ってまで引き出したには、あまりにも呆気ない真実。肩透かしを食らったまま、漏れ出る声を噛み殺せなかった。
「んだよ……それ」
胸の奥から、怒りとは違う何かが湧き上がってくる。失望や喜びとも違うそれに喉を焼かれながら、痛み出した額に手をやった。こうして、起きている間にも鮮明に思い描けるほど頭に焼きついている夢の記憶。
「俺は、お前が死んだと思って……」
溢そうとした言葉を途切れさせ、どうしようもなく熱を上げ続ける頭を手で掻き乱す。感情を露わにして、みっともなく見られようが、どうでもよかった。俺は、この女を。島の悪魔を憐れんでいた。ドベに騙され、叶いもしない約束を見続けた末、何も残せず死んでしまったお前を。それなのに、生き延びていたって?一人で同情していた俺が馬鹿みてぇじゃねぇか。
「ポルコはさ」
俯いていたら、顔にあてた手の隙間から女が覗き込んできた。前まではこっちが眺めている側だったはずが、逆の立場になったような感覚に陥る。
「なんで、あたしが危険を冒してまであなたに会いに来たか。わかる?」
壁にもたれるのを止めた女は、前に立って問いかけてきた。俺と会ったらどうなるか考えられないほどの馬鹿ではないらしい。が、何だろうと馬鹿であることに変わり無いだろう。ノコノコと出てきた島の悪魔を、戦士である俺が見逃すまでの理由がない。こいつからしたら崖っぷちのはずだが、目の前の女はおかしいくらい冷静だった。
「……さあな。穢れた悪魔の頭なんて分かり、」
「ポルコ。あなたが、好きだから」
女は俺の言葉を遮った。音が脳に届いて飲み込まれるより先に、声が溢れる。
「は、?」
何を、言ってんだ。こいつ。咄嗟にあげた視線が交わるも、冗談めいたものはなかった。自分の息遣いが耳に入って、顔を覆っていた手がするりと落ちる。
「知ってたと思うけど……あたしは、あの牢屋で遊ばれてた」
短い息しか出せずにいる俺の前で、女は思い出すように言った。耳元で激しく脈打つ鼓動とは別に、嫌でも浮かび上がるのは、打ち捨てられた布屑みたいになっている女の姿。何の意味もない拷問の数々は、間違いなく曹長の趣味のためだけに行われていた。
「殴られながら、お前は人間じゃないんだって何度も言われて……言わされたりもしたっけ」
その延長線上でやらされていそうなことに、驚きはしなかった。エルディア人を毛嫌いしていたアイツならやりそうなことだ。どこか冷静な頭がそう呟く傍らで、顔は焦げつきそうなほどの熱を上げ続けている。
「知らなかった……あたしたちがエルディア人なんて呼ばれ方をしていることも、島の悪魔だって恐れられていることも」
女が宙に向けていた視線をゆっくりと下ろし、地面をなぞりながら言った。俺だって、知らなかった。記憶さえなければ、知ろうともしなかっただろう。島の悪魔が、どんな奴らかなんて。お前がどんな風に笑うかなんて。さっきの戯言に、今こうして振り回されるようなことも。
「それで、悲鳴を上げるだけの肉塊になってた時に……あなたが来てくれた」
地面を辿っていた目線が、遮るものが無くなった視界の中に入り込んでくる。女は俺の方を見据たまま、少しも逸らそうとしない。
「嬉しかった」
僅かな間を開けて、丸い瞳が歪んだ。心の底から喜びを滲ませたような、蕩けた笑みが俺に向けられていた。夢でも、ドベにもしていなかったようなそれ。胸の奥底がツンと冷えたかと思うと、全身に焼けこげそうなほどの熱が回っていく。
「ほんの少しだったけど、まともに息ができて……あなたと話している瞬間だけは、人間でいられた」
「……おい、」
「あたしを痛ぶってた奴も、眺めてた奴も、みんな死んで。待つ場所を失って……気づいたの」
ずっとうるさく鳴り続けている胸の鼓動を、服の上から握り潰す。これ以上喋らせんのは危険だ。頭では理解していても、出せたのは控えめな静止のみだった。聞こえていて無視しているのか、もはや聞こえてすらいねぇのか。女は止まることなく喋り続けた。
「あたしが一番いて欲しい時に、側にいてくれたのはあなただった」
「ライナーじゃなくて、ポルコ。あなただよ」付け加えるようにして、女が言った。ただでさえ、壊れちまったみてぇな鼓動をし続けている胸が、どこかで高鳴る。
「だから、あたしは……あなたを探すためにここまで来た」
「俺を、」
女が緩く微笑んで、首を縦に振った。夢でうんざりするほど見てきた笑み。それは、ドベでも、他の誰でもなく、俺を映している。
「そう。ずっと……ポルコに会いたくて、お礼を言いたかった」
「でも」女は不自然に口を閉じて、物言いたげな面持ちでこちらを眺める。口元に浮かんでいた微笑が解かれていって、力無いものへと変わっていった。
「ライナーに見つかったから……すぐには行けなくなっちゃって」
「は?……どういうことだ」
どうして、そこでドベの名前が出るんだよ。心地よく脳内に入ってきていた音に雑音が混じり、息を吐いた。眉を下げた女を、そのまま問いただす。再び沈黙を交えたのちに、何の前触れもなく、女は自分の服に手をかけた。「おい」急に、気でも触れちまったのか。突飛な行動をし出した女へ、手を伸ばそうとして。手際の良く外されたボタンから、曝け出された中身が目に飛び込んできた。
「脅されてるの。従わなかったら、あたしは島の悪魔だって軍に告発される……」
前と同じ、病人みてぇな白い肌。妙な色香を感じさせるようなそれの一部分。浅く筋張った鎖骨の上あたりに、前には無かったものがあった。青白いそこに散らされた無数の跡。何重にも重なってつけられているそれは、明確な所有の印だった。愛情として片付けるには、気持ち悪りぃくらいの数と色。女はこの異常を誤魔化すかのように薄ら笑いを浮かべたままだが、何一つ隠し通せていない。島の悪魔に、とか。こんな女に、とか言う気すら湧いてこねぇ。呆れ笑いさえも出来ずに、口元がただ引き攣っていく。
執拗なくらいの跡を残して牽制するのは、自信のなさを自ら露呈しているようだった。自己満のつもりでやってるようなそれが、腐った性根を見せつけている。気色の悪い執着の仕方はドベらしいといえばドベらしく、明らかに異常でもあった。好きなだけの女に、ここまでの跡を残すだろうか。愛の証だとか、そんな臭い台詞が言いたいわけじゃねぇ。そんなもんはとっくに超えて、もうほとんどグロテスクな鬱血痕となっているそれを説明つけるには、別の言葉がないと無理だ。あのドベは本気で正しいと思ってんのだろうか。いや、考えるまでもねぇ。彼奴は昔から思い上がる馬鹿野郎で、この女の性格じゃ付け上がらせるのも無理はない。
もし、この女が誰のものであるか示したいのなら、大成功だ。悍ましいとさえ言える跡を見せつけられれば、大抵の奴は手を引くだろう。だが、女自身にわからせるためなら、大失敗だった。現にこうして、女はドベの元を抜け出している。それで、あいつしか見ていなかったはずの無防備な首筋を、俺だけに晒した。ごくりと、溜まった唾を嚥下する。途端。登ってきていた熱も脈動も収まり、女の顔が明瞭に映った。無数の跡を貼り付けたままの肌へ、透明の滴が落ちる。
「あたしは信じる人を間違えた……ライナーなんて、頼るべきじゃなかった」
女は下手くそな笑みをつくったまま、両目からぼろぼろと大粒の涙を溢していた。なにが、決壊のきっかけになったかは分からない。こいつの境遇を鑑みれば、その発端はどこにでもあった。
「泣いてんじゃ、ねぇよ」
乾き切った喉からようやく出せたのは、そんな一言だけだった。あれだけの拷問を受けながら、涙一つ溢していなかった女が、泣いている。ただでさえ、女が泣いてるとこは苦手だってのに、残念ながら止まりそうもなけりゃ、止めるような術も持っていない。
「ポルコ。あたしなんかと、……話してくれて、ありがとう。あなただけが、ずっと……やさしかった」
女が壁に手をついたかと思ったら、膝からゆっくりと崩れ落ちていく。その場にしゃがみ込んだ女は、潤みきった瞳で俺を見上げた。
まただ。また、こいつはそうやってすぐ、人を優しいとか言うのか。そんなんだからドベに騙されて、牢から出た後も良いように使われているのだろう。瀕死の女を見捨てて立ち去ったのは俺で、何も言わず消え去ったのも俺だ。今、お前を悪魔だと告発しようとしているのも俺なのに、それでも。こいつは優しいなんてふざけたことを抜かしてる。
女は呟いた唇の形のまま、俺の返答を待っていた。目尻からつたう一筋の線が、途切れることなく続いてる。
「涙、拭けよ」
あの日から、呪いは解かれなかった。どれだけ距離を取ろうが、忘れようとしようが、憐れもうが、同じ。今だってそうだ。おそらく、こいつに出逢っちまった時から。俺が記憶に導かれて、こいつのところまで足を運んだ時から。
「……連れて、いかないの?」
「さあな」
女の、大きく見開かれた目元が確かめるように問うてくる。俺はそれを鼻で笑ってやって、女とおんなじように膝を折った。
「泣いてる女には優しくしろって兄貴が口うるさかったからな……」
ほとんど意味なんかないが、手の甲で顔を汚している涙を拭ってやる。昔から、こう言うのは兄貴の担当だった。俺はなるべく関わりたくねぇから側で見てばっかりだったが、兄貴は口煩く言ってきたっけか。戦士隊の奴等にそんな女がいなかったから、そんな話も無用の産物となったが。兄貴の姿を呼び起こして、見様見真似で目線を合わせた。自分でやりながら、女との距離が近くなって息が詰まる。涙で乱れきった顔面は、胸をざわつかせる原因でありながら、どこか惹かれるものがあった。牢獄ではずっと余裕そうな顔ばかり見せられていたからだろうか。「駄目だよ」女が呟き、表情に向かっていた意識を引き戻される。
「あたしは、穢れた民族の末裔。このまま、見逃したら……ポルコだって」
「数年前に死んだ島の悪魔なんかのことなんぞ。わざわざ掘り起こしでもしなきゃ、誰も覚えちゃいねぇよ」
この期に及んで俺の心配をしてくる女に、そう吐き捨てた。励ますような言い草になっちまったが、実際そうなのだろう。マーレが本気で悪魔を捜索したいのなら、そんなことはもうとっくにやっていて、こいつが呑気に此処で泣いてられるはずがない。
「でも、ライナーは。いいの」
「島の悪魔に騙されていた。そう答えられれば……処分されるのはお前一人だけだろうな」
腹立たしいことこの上ないが、軍に媚を売るのが得意な奴のことだ。島の悪魔の主張など無に介して、都合よく言い訳されるのがオチだろう。
「その上、アイツは戦士隊副長の候補として名を挙げられているときた。告発したところで……逆に怪しまれんのは俺だ」
「そっか、そう。だよね」
女はこく、こくと頷いたっきり俯いた。その薄い背中を丸めたまま、どこかを見ているらしかった。
「これで……お前が今すぐ縛首になる心配は無くなっただろ」
表情は影になって伺えないが、きらりと光る粒が今だに女の頬を濡らしている。伏せがちになった睫毛の影から、淡々と流れ続けていた。その様子を目の前で見ているのがどうにも耐えきれなくなり、腰を上げる。
「……泣きやめよ」
「ごめん、」
ぶっきらぼうに放った俺へ被せて、女が掠れきった声を出した。上から見下ろす女の姿は、しゃがんでいる時よりも随分と小さく見えた。深いため息のようなそれを口にしてから、女は首を動かす。
「あたしも、やめたいのに。なんでだろ、止まんない……」
女の手が目元を擦るが、濡れた顔面を掻き回すばかりで、何の意味もなしてない。緩く作った握り拳の間から、熱の登った頬を晒して不器用に微笑んだ。
「あたしは、今日。死ぬつもりで来たの」
「……ああ」
「あなたに引導を渡されるなら、それでいいって。そう納得したつもりだったけど……」
壁に手をついて、女は曲げていた膝を伸ばした。再び同じ高さで目線が交わり、幕の張った瞳が何か眩しいものでも見たように窄められる。
「でも、違った」
「ポルコ」女の呼び声が耳に入るのと、飛び込んでくる影を視認するのはほぼ同時だった。ふわりと香る清潔な石鹸の匂いが鼻腔をくすぐる。「なっ、お、オイ!」格好の悪りぃ声を取り繕おう間もなく、やっと。女が自分に抱きついてきたのだと分かった。柔らかい四肢が押し付けられ、伸ばされた腕は脇の下から背中側に回されている。
「ッは、はな」
「ポルコが、好きだよ。大好き」
せ、と。混乱する頭の中で出そうとした声は、耳元で呟かれた女の囁きに飲み込まれた。大人しくしていたはずの動悸がまた鳴り出し、汗を滲ませる。やけに研ぎ澄まされた感覚が、しなやかに絡みついている女の体と耳朶に降りかかる吐息さえ拾って鬱陶しい。
「きっと、ポルコは。あたしが待ってたから、迎えにきてくれたんだよね」
「な、んだよ、それ」
「……わかんない。あたしの、思い込みかも」
女が俺の肩に顔を埋めたまま、小さく首を振った。それきり、風が路地を吹き抜けていく。隙間なく密着した体から、誰のかもわからなくなった心臓の音だけが響いていた。
「ねえ、キスしたいな」
「は、……ァッ?!」
顔を動かした女が、挨拶でもするような軽々しさでとんでもないことを口にする。本当に、俺のことが好きなんだとしたら当然なのかも知れねぇが、あまりにも唐突過ぎた。目の前の女を剥がそうとして、強く力も込められずにその場で狼狽する。俺を引き寄せている腕は、簡単に解けそうなナリをしていながら、以外にも力が込められていた。
「俺はまだ何も言ってねぇだろッ」
「でも。したいの、だめ?やっぱり、気色悪い?」
肩を掴んでいるのに、女は首を傾げたまま聞き返してくる。涙の跡がついた頬が仄かに上気していて、少し開かれた唇が俺の返事を待っていた。幼さを滲ませるような顔つきはどこにいっちまったのか。そこらで歩いてて誘ってくる娼婦と同じような。もしくはそれ以上の艶っぽさを一丁前に出してくる女へ、怒鳴る気は湧かなかった。
「……気色悪くは、ねぇけど」
「そう?じゃあ、」
「馬鹿野郎」
俺の返しを肯定と捉えたのか。ずい、と近づいてきた額を軽く押し返す。指の隙間から覗いた目が驚いたように丸くなった。
「恋人でもねぇ男と簡単にすんな」
「あ、……そう。そうだよね、ごめん」
至極当たり前のことなはずだが、女はすぐに頷こうとしなかった。一度瞬きをしてから、一拍置いてぽつりと謝ってくる。急にしおらしくなった女へ、どうにもできない歯痒さを覚えながら、肩を押して体を引き離す。ついさっきまでそれなりの力で纏わりついていた体は、簡単に離れた。
しばらくお互いに何も言わず、ただ面を合わせていると「また、会いたい」と女が言った。羨望の眼差しを向けられ、拒むのも面倒になってきて頷けば、女はすぐに顔を明るくさせる。ライナーの婚約者になって主婦の真似事をしているだとか、今言うようなことじゃねぇ爆弾を幾つも落としてから、あっという間にもう一度約束を取り付けられちまった。こんな間男紛いのこと、俺には損しかねぇのに。
「ねえ、ポルコ」
女が早く帰らないと怪しまれるとかで、今日のところは解散となった。路地から抜け出すために一歩踏み出したところで、女が後ろから呼びかけてくる。
「なんだ」
「あたしを生かしてくれて、ありがとう」
大袈裟過ぎる響きに、返事はしなかった。俺はただ、戦争中の軍に余計な問題を持ち込みたくなかっただけだ。顔も見ずに足を早めれば、聞こえてくる女の足音もそれに続く。居心地の良いそれを聞きながら、大通りへ向かう。
「ありがとう、ポルコ」
だから、その言葉を口にした女がどんな表情を浮かべていたのかなんて、気にしようともしなかった。